2月
11日,
2016年
“風習”《襍感・/・点描‘16-10》
年間予定表を見ていたら「祝日」が、随分と増えたって気がした。
「祭日」「祝祭日」とか云われるが、単に休日を意味してるのだろう?
かつては祝日に国旗を掲げたものである。昨今は殆ど見かけなくなった。
皇室祭祀令が廃止されるまでは、皇室で儀式や祭典を行う日を「祭日」と言った。
「国民の祝日に関する法律」が制定され、「祝日」だけの表現に変わり、
表記的に「祭日」が無くなったと思う人は少ないだろう、気にも留めない。
今は、祝日以外に国の定めた休日に「振替休日」と「国民の休日」がある。
年間を通して見ると休日が、とても増えた・・・良いのか悪いのか!?!
伝統的慣例の正月休み等、色々な伝統行事が全国各地で見られる。
だが各地で古くから行われてきた風習が、消えつつあるように感じる。
その一方、催事的に異国から入ってきたものが、増えている。
経済効果はあるだろうが、日本古来よりの庶民文化が脇に押しやられたと感じる。
節分も終わり久しぶりに身近の「森」を散歩した。野の草花は、未だ眠っていた。
林床は、綺麗に下草刈りされ殺風景だった。管理され過ぎているやに映る。
「森」の中に移築保存された古民家(農家)の入り口柱に面白い竹竿を見た。
旧暦の12月8日と2月8日は、「事始め、事納め」とする風習が各地であった。
「事」とは、コトノカミという神様を意味している。
神様を祀る日を「事八日(ことようか)」と呼び、12月8日と2月8日に神事が行われてた。
コトノカミは地域によって色々と特色があり地域の生活環境と密接に関係している。
年を司る「年神様」とする地域では、12月8日が「事始め」で2月8日が「事納め」、
農業の神「田の神様」とする地域では、12月8日は「事納め」で2月8日が「事始め」であった。
ここ「森」をはじめとする周辺地域は、かつては殆どが農家であったようだ。
農作物の豊穣や無病息災を祈願する風習、「お事汁」と呼ばれる味噌汁を食べる風習もあった。
「従弟煮(いとこに)」とか「六質汁(むしつじる)」とも呼ばれている。
具材は様々、ダイコン、ニンジン、ゴボウ、サトイモ、アズキ、コンニャクの6種類が具材。
土から取れるものなら何でも良いとされ、事八日の日をつつしみをもって過ごす日とされていた。
画像のように目籠(めかご:目を粗く編んだ、物を入れる竹籠のこと)を軒先に吊るす慣わしもあった。
目籠は神様が訪れるための目印となるように吊るした、と資料にある。
また、一つ目小僧などの妖怪が、沢山の目をもつ籠に驚いて逃げ出すようにとの魔除けでもあった。
無病息災を祈願する現れで、邪気が妖怪として表される民話に通じる。
すべてのものに神霊が宿っていると信じていた往古の日本人、物を大切に扱う心を生みだした!!
節分にして然り!!
事八日の呼び方も色々あったようだ。「ヨウカゾウ」「ヨウカゾー」「ヨウカドー」「師走八日」等。
神奈川県内で云われる妖怪は、一つ目小僧がほとんどで妖怪撃退法なる言い伝えも残っている。
事八日の晩には空を一つ目小僧が通って家人に危害を加えるので、籠通しを屋根の上に置いて警戒した。
子供には連れて行かれぬよう「今日は一つ目小僧が来るから早く寝るように」といって早く寝かせた。
家に災難をもたらす悪霊が通るので、前日の夜に籾(もみ)をとおす大きな目のトオシ、
あるいはクズキカゴを一つ、庇(ひさし)や屋根の上にのせたり、竹竿の先に掛けておいたという。
事八日に現れる妖怪と伝わる「一つ目小僧」の他に「ミカリ婆さん」という妖怪の名前もあったと言われている。
このミカリ婆さんという妖怪も「一つ目小僧」と同じく一つ目の妖怪。
ケチとも食いしん坊ともいわれており、火を咥(くわ)えてやってきて、火事を起こすこともあるとか。
撃退方法も「一つ目小僧」と同じく、目の多い籠を竿先や屋根、玄関に掲げるほか、
小麦や庭に落ちこぼれた米などで団子を作って出入り口に刺していたという話も。
又、呼び名も地域によって、「メカリ婆さん」「メカーリバーサン」などと呼ばれていたとあった。
「消えゆく風習」、現代社会になじまないか?? 否、そうでもないって思うのだ。
各家や地域で語り継がれ「厄や、災いを寄せ付けない」催事的な要素ではなくどの家も真面目に真剣に行っていた。
医療が今ほど進んでいない時代、家主や子どもが亡くなれば家の繁栄にも影を落とす。
疫病が蔓延すれば、村ごと消滅する可能性も十分にあり得た。季節的に流行りやすい時期でもある。
その災いを妖怪に例え、妖怪よけの行事を行うことで災いを遠ざけることであった。
現代社会にその風習は、ほとんど見られない。それを知る者すら少くなった。
便利になった生活が、当たり前の時代、催事に浮き足立ち、風習や慣わしを重んじることが少なくなった。
伝承的民俗行事を消してはいけない、せめて教え示し継がれることを望むのである。
昔の暮らしの中に、現代社会に喰う心の病に光明をもたらすかも知れない。
目の前に広がる光景。新たに葺き替えられた茅葺屋根と竹竿・籠に教えられる事が、あった。
「大和市泉の森・民家園 2016/2/07」
1月
30日,
2016年
“成人のお祝い!?!”《襍観・/・点描‘16-6》
今年も又、成人を祝って(肖ってか!!)寒中神輿が開催された。
それにしても“神輿女子”!!壮観だった。
大人達(睦仲間)の想いは、いかばかりかっていつも思う。
大人社会、政治の社会は、何とも不可思議!?!
あの甘利氏が・・・!
脇が甘かった。。。 それにしても週刊誌の存在??
身近な新成人に送りたい言葉「反観合一」。
真摯におもって止まない。
「藤沢市片瀬東浜 2016/01/17」
1月
29日,
2016年
“おねだり!?!”《襍観・/・点描‘16-5》
浜辺には色々な人や犬達が思い思いに散歩している。
元気なワンちゃん、一寸寒そうな人。
微笑ましい光景、何をおねだりしてるのだろう。。!
「藤沢市片瀬西浜」
1月
24日,
2016年
“初日の出、日の入り”《襍色・/・点描‘16-1》
日の出、日の入り時の辺り天空の色合い。
昔拝んだ色を見たくて海岸を散歩してるのだが・・・。
絶妙な一瞬を再見できていない。
また来年に期待して。。。!
「鎌倉市稲村ガ崎・鵠沼海岸」
1月
18日,
2016年
“新年ことはじめ!?!駅伝・観戦”《襍感・/・凡声‘16-1》
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
正月は、駅伝観戦??で始まるのが近年の過ごし方。
元旦のニューイヤー駅伝(全日本実業団対抗駅伝競走大会)は、
日本を代表する長距離選手を見れる年頭の実業団オールスター戦!!
同時に社名宣伝、看板効果も大きい。
続く2・3日には、東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)が開催される。
こちらは、関東ローカルのみの大学で競う大学駅伝、学生組織が主宰している。
駅伝は、日本で生まれた独自の競技方法、ユニークな競技ではないか。
団体競技、襷リレーという「和」的感覚。走者は、重責だが選ばれし戦士。
でも箱根駅伝って毎回と言ってよい程に悲惨なことが起こる。
今年も気温が高めだったためか、脱水症てき症状も見られたが・・・。
その度に、駅伝有害論が出てくるが事象的評論家が好き勝手を言ってほしくない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
昨年の正月、ブログルで「駅伝」について色々と記した。
拝借画像だが、箱根駅伝の往路5区、青山学院大学の選手の追い抜き場面。
その時の追いつかれた駒沢大学の選手、抜かれただけでは無く、
ゴール間近かで低体温症になりフラフラ朦朧と、それでもゴール出来た。
この駒大の選手《馬場翔太(現4年生)君》あれから1年間、如何に過ごして来たか?
ちょっと気になっていた。大学生という前途ある若者でもある。
更に選手層が厚い駒大だ。埋没してないとよろしいが。。。!気になるところであった。
* * * * *
今年の箱根駅伝、事前出走一覧に「馬場」の名前がない。補欠登録だ。
厳格な駒大監督の目に止まらなかったか、今年は!?! それとも作戦か??
各大学の選手層は、程々にあつい。本番選手に選ばれるのも大変な事だ。
リベンジの山上りか?と思ったのだが、今年はダメ!!選手層は厚い駒大だから。
ところが、復路の選手変更発表を見て驚いた。8区にエントリーされている。
8区は、復路の重要な区間、そこを任された。実際に観戦に行かねば、と出かけた。
沿道では、一瞬で選手は走り去って行く。テレビ観戦の方が選手の表情はわかる。
だが実観戦の臨場感は、やはりいいですね。。。!馬場君の表情すこぶる良かった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
競走と言うことからして勝ち負け、代表に選ばれる、等々は致し方無い。
だが駅伝は、「和」団体競技だ。そして学生には、学年ということもある。
駒大の馬場君、4年生で学生最後の駅伝だ。この1年間、苦しんできたことだろう。
過去に色々とアクシデントに見舞われた競技者を傍観してきて思いは複雑だった。
今回の馬場君、快調に走ってる。その姿からは昨年のことは微塵も感じられない。
一駅伝フアンとして、よくぞ復調した、と思わず“馬場君いいぞ”と叫んでいた。
爽やかに観戦出来た。沿道の整理・警備をしている方々のご尽力には頭が下がる。
今年は、勝負どころの遊行寺坂では無く今少し戸塚中継所に近いところで観戦。
観戦場所のすぐ後ろに警備に携わ白バイ隊が待機してるところであった。
そんな光景をながめながら昔を思うと色々と。
古く運営監理車・監督伴走車が自衛隊のジープ・自衛隊員が協力してた時代がある。
我が母校は、久しく箱根駅伝に出ていない。
ライバル??W大としんがりを争っていた^^)懐かしい。防衛大学校もでていた。
今年の箱根駅伝観戦は、昔を思い出させてくれた楽しい観戦だった。
1月10日、産経ウエブサイトの【スポーツCatchUp】を見て感動した(下記全文)。
《葛藤、感謝、使命感…駒大・馬場翔大 山の「失速」から1年、挑んだ最後の箱根駅伝》
1年前の悪夢をぬぐい去ってみせた。1月2、3日に行われた第92回東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)で、
駒大の馬場翔太(4年)は8区を2位の好走でチームの総合3位に貢献した。
前回は山上りの5区で低体温症に陥って失速。首位に立っていたチームは往路4位、総合2位にとどまり、
一時は陸上競技をやめることまで考えた。「本当に山あり谷あり。すごくいろんなことを学んだ箱根だった」。
特別な思いで臨んだ大学最後の駅伝は、納得のいくレースとなった。「自分らしい走りはできたかなと思う」。
往復217.1キロの終着点となる東京・大手町。
総合3位でゴールした10区の中村佳樹(3年)をチームメートとともに出迎えた馬場は、すがすがしい表情を見せた。
任されたのは終盤に難所の遊行寺坂が控える海沿いの8区(21.4キロ)。補欠からの当日エントリーだったが、
駒大としては予定通りの起用で、馬場は目標タイムを1時間4分50秒に設定していた。
ただアクセルを早く踏み込みすぎて失速した前回の反省と、1月とは思えない気温上昇を考慮し
「遊行寺坂が始まってからが勝負」と冷静に判断。前半はペースを抑え、最終的に1時間5分22秒で走りきった。
区間賞の下田裕太(青学大2年)には1分1秒及ばず、チーム順位も上げられなかったが、
実力者の柳利幸(早大4年)らを抑えて堂々の区間2位。
ふらつきながら懸命に足を運び、ゴール直後に倒れ込んだ前回とは一転、9区の二岡康平(4年)に笑顔でたすきを渡した。
「欲を言えば区間賞を取りたかったし、10区に渡るときに(総合優勝した)青学大の背中が見えるくらいにはしたかった」。
それでも「沿道から『駒沢』だけじゃなく『馬場』って名前も呼んでいただいて。
すごく幸せを感じたし、この1年、支えてくれた方々にお礼を言いたい」と感謝を口にした。
気になることがあった。昨年12月11日の練習公開日、馬場は「5区を走りたい気持ちはある。
ただ、5区でなくてもリベンジはできる」と慎重に言葉を選んでいた。
雪辱に燃える馬場の気持ちをくんだ大八木弘明監督は、走る区間の選択権まで与えていた。
「8区を走ることになった経緯を教えてください」。そう尋ねると、馬場のつぶらな瞳から涙があふれてきた。
「最後の年、もちろん5区を走りたい気持ちはあった。自分にとっては『箱根=5区』」。
2年で初めて走った際には、区間3位の1時間19分54秒をたたき出した実績もある。
だが昨年11月に行われた山道を使っての適性テストで満足な結果が残せず、
大八木監督が与えた2度目のチャンスでも記録は伸びなかった。
「5区を走りたい気持ちと、チームに迷惑をかけちゃいけない気持ちで揺れた。
最後はチームの役に立ちたいと思い、自分から『8区に』と監督に言いにいった。すごくつらい決断だった」。
苦悩と葛藤に直面した日々は、まだ鮮明な記憶として残っていた。一方で馬場はこうも言った。
「8区に回って間違いではなかったと思う。監督、コーチ、メンバー、マネジャー…。
支えてくれたすべての人にありがとうと言いたい」。重い決断を知ったチームメートは彼に寄り添った。
マラソン元日本記録保持者で、今年度からチームに加わったOBの藤田敦史コーチは、
気分転換に8区の下見へと連れ出してくれた。
何より大きな支えになったのが家族の存在だ。3人きょうだいの末っ子。
女手一つで育てあげた母親の文子さんを過去2回の山道では見つけられなかったが、
今回は母親が沿道で掲げた「翔大」の横断幕がはっきりと目に飛び込んできた。
「1人で3人を育てるのがどれだけ大変だったか…。でもほかの子と同じように習い事もさせてくれたし、
何不自由なく生活させてくれた」。
昼間に事務の仕事をこなし、夕食をつくってからパートに出かける母親の姿に「倒れるんじゃないか」
と心配したことも1度や2度ではない。ただ姉を通じて「インターハイとか、大会の応援で、いい観光をさせてもらった」と、
母親が自分の走りを励みにしていたことも聞かされた。
前回の箱根駅伝の翌日には、駒大の最寄り駅で見送った馬場に「諦めずに走り切ったことを誇りに思うよ」
と告げて列車に乗り込む母親の姿があった。心に穴が空いた状態で実家に連れて帰れば、競技から離れてしまうかもしれない-。
地元・岡山にあえて帰省させなかった文子さんの親心を、馬場は少し時間がたってから感じ取った。
同じ22歳の男子大学生の多くがそうであるように、母親に頻繁に電話したりはしない。
それでも感謝の思いを伝えようと、数年前にはAIの名曲「ママヘ」のCDにメッセージを付けて贈ったこともある。
大学卒業後、NTT西日本に入社して競技を続けられることが決まると、
「これから親孝行していけるな」と喜びをかみしめた。
「あきらめない姿勢を後輩に伝えたかった」という最後の箱根駅伝。
子供の頃、テレビで見た箱根のランナーに憧れた記憶から
「今度は自分が小さい子に夢を与える番」という気持ちもあった。
「人生のターニングポイント」。厳しさも喜びも与えてくれた「天下の険」の思い出を胸にしまい、
実業団での新たな陸上競技人生をスタートさせる。(奥村信哉)
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
上記の記事を読んでいて、大学、否、学生・生徒競走者の現実が見えてくる。
指導者も選手たちも互いに学び成長するのだと感じ入る。
ただ単に、燃え尽き症候群などと、言ってほしくないほしくないのである。
今は、陸上長距離界の指導者だが、現役時代は、日本期待の星だった瀬古利彦氏。
大学生時代、恩師中村清監督が彼らを激励するのに、母校の校歌を歌って居られた。
テレビ完全生中継などなかったラジオ時代の話だ。
今は、テレビ完全生中継されることが、良くも悪くも選手に影響している。
大会当日・前日の各選手は、すこしばかりの体調不良報告などしないだろう。
心情的には理解できる。全国生中継されるのだから。
しかしながら、駅伝が、日本のマラソン界をダメにした等と暴言を履くのを許せない。
駅伝の効用は、地道だが徐々にでている。東京オリンピックには、センターポールを賑わしてほしい。
「横浜市戸塚区俣野にて」
1月
1日,
2016年
年頭のご挨拶m(._.)m。
今年は申年です。
三猿=見猿・聞か猿・言わ猿、
その真逆を行こうぞ、今年は^^)。
扨、さて、ブログで何を考えよう。
昨年戦後70年を以って日本に変化を見る。
其の続きを今年は考えよう!!
花と猫とイヌとの対話の中に何かを見つけたい。
色々・・ワイワイガヤガヤ、と。
本年もよろしくお願い申し上げます。
12月
31日,
2015年
“憂国の志(士)”《襍感・/・凡声》
2015年が終わろうとしている。今年は、国政で大きな変更があった。
「戦争法案」とマスコミは騒いだが、「戦争抑止法案」と考えたい。
自衛隊に関し、現憲法の不備、改正を迫った御仁が半世紀近く前にいた。
『三島由紀夫さんが予言した「からっぽの極東の一経済大国」』
作家・三島由紀夫が、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で凄絶な事件を起こす。
自衛隊駐屯地で割腹、自決してから45年を数える。
事件の4カ月前に産経新聞に寄稿した三島由紀夫。
「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、
中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と警告した。
財務官僚に限らない。経済の指導層は政官民を問わず、三島の遺言と向き合うべきだ。
(現産経新聞特別記者・田村秀男、記事)
《今の日本経済を傍観すると当にそうである・・・と思う(私観)》。
1970(昭和45)年11月25日・・午前12時前後・・三島由紀夫さん没。
日本を代表する作家であった三島由紀夫氏、「楯の会」と称する民間防衛組織を創設。
最も信頼ある会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入、自衛隊員に喚起を迫ったのである。
あの事件から45年をもつ。現在の日本の姿を真摯に再考すべき時ではなかろうか。
今年は、日本国憲法に於いて、第9条に関連して重大、且つ重要な解釈変更があった。
三島由紀夫の暴挙とされているが、自衛隊の中では、三島の遺志を尊重してると映る。
『魂の叫び』三島の思いが自衛隊員に大きな影響を与えていると思える。
〈深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威〉
「くたかけ」は暁を告げる鶏の雅語。「公威」は三島の本名、平岡公威。
(三島らが体験入隊した滝ケ原駐屯地内に、三島の揮毫を彫り込んだ歌碑が建っている)
** 以下に三島由紀夫の遺した文面を表す。真摯に読み返して、現在を思いたい。是非はともかく **
三島由紀夫の遺書全文 「夢は、楯の会全員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現すること」
楯の会会員たりし諸君へ
諸君の中には創立当初から終始一貫行動を共にしてくれた者も、僅々九ケ月の附合の若い五期生もゐる。しかし私の気持としては、経歴の深浅にかかはらず、一身同体の同志として、年齢の差を超えて、同じ理想に邁進してきたつもりである。たびたび、諸君の志をきびしい言葉でためしたやうに、小生の脳裡にある夢は、楯の会全員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現することであつた。それこそ小生の人生最大の夢であつた。日本を日本の真姿に返すために、楯の会はその總力を結集して事に当るべきであつた。
このために、諸君はよく激しい訓練に文句も言はずに耐へてくれた。今時の青年で、諸君のやうに、純粋な目標を据ゑて、肉体的辛苦に耐へ抜いた者が、他にあらうとは思はれない。革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真價は全国民の目前に証明される筈であつた。
しかるに、時利あらず、われわれが、われわれの思想のために、全員あげて行動する機会は失はれた。日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。
このやむかたない痛憤を、少数者の行動を以て代表しようとしたとき、犠牲を最小限に止めるためには、諸君に何も知らせぬ、といふ方法しか残されてゐなかつた。私は決して諸君を裏切つたのではない。楯の会はここに終り、解散したが、成長する諸君の未来に、この少数者の理想が少しでも結実してゆくことを信ぜずして、どうしてこのやうな行動がとれたであらうか? そこをよく考へてほしい。
日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。
私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。
ふたたびここに、労苦を共にしてきた諸君の高潔な志に敬意を表し、かつ盡きぬ感謝を捧げる。
天皇陛下万歳!
楯の会々長 三島由紀夫
昭和四十五年十一月
(原文のママ。三島森田事務所刊の『「楯の会」のこと』より)
三島由紀夫の命令書
小賀正義君
君は予の慫慂(しょうよう)により死を決して今回の行動に参加し、参加に際しては予の命令に絶対服従を誓つた。よつてここに命令する。君の任務は同志古賀浩靖君とともに人質を護送し、これを安全に引き渡したるのち、いさぎよく縛に就き、楯の会の精神を堂々と法廷において陳述することである。
今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭(な)かしむる凛烈(りんれつ)の行為である。
三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ。
しかし、ひとたび同志たる上はたとひ生死相隔たるともその志に於いて変りはない。むしろ死は易く生は難い。敢(あ)へて命じて君を難苦の生に残すは予としても忍び難いが、今や楯の会の精神が正しく伝はるか否かは君らの双肩にある。あらゆる苦難に耐へ、忍び難きを忍び、決して挫(くじ)けることなく、初一念を貫いて、皇国日本の再建に邁進(まいしん)せよ。
楯の会隊長 三島由紀夫
昭和四十五年十一月
小賀正義君
(三島由紀夫全集より)
三島由紀夫と行動を共にした楯の会会員の証言集(裁判での発言や上申書) 「日本人の魂を取り戻す」
■小賀正義
「いまの世の中を見たとき、薄っぺらなことばかり多い。真実を語ることができるのは、自分の生命をかけた行動しかない。先生からこのような話を聞く以前から、自分でもこう考えていた。憲法は占領軍が英文で起草した原案を押しつけたもので、欺瞞と偽善にみち、屈辱以外のなにものでもない。戦後の泰平が生んだ矛盾点である自衛隊に生命をぶつけることによって、戦後体制を終わらせ、日本人の魂を取戻すことができるのではないかと考え、行動した。しかし、社会的、政治的に効果があるとは思わなかった。三島先生も『多くの人は理解できないだろうが、いま犬死にがいちばん必要だということを見せつけてやりたい』と話されていた。われわれは軍国主義者ではない。永遠に続くべき日本の天皇の地位を守るために、日本人の意地を見せたのだ」
「(略)行政権の主体はそれのみでは存在し得ず、常に祭祀国家の長としての天皇に支えられて存在し、天皇より統治を委譲されるという形をとってきたのであります。それは、皇統連綿として続いてきた天皇が民族と文化の原資に関わり、日本を真に代表し得るものであり、天皇においてのみ歴史と文化と伝統の連続性、統一性を保障し、吾々の根源をそこに見出すことができるからであります。このように天皇は歴史によって共に証明され、また歴史、文化、伝統は天皇によって断絶することなく伝えられ、継承されてきたのであります。日本を守るとは、最終的に天皇を守らねばならないのだと考えるのです。(中略)一般に戦争は悪であるから自衛隊のない日本にしようとする考えがありますが、武力で紛争を解決しようとするのは決して上策とはいえないし、だれも好んで戦争を欲する者はいないでしょうけれど、欲すると欲せざるとにかかわらず、現実に戦争が起こっているのです。これを無視して、戦争がないのが理想だからといって、これに備えないのは自己放棄以外のなにものでもないと思います。(中略)最後に、吾々5人は全て栄辱を共にすることを誓ったのでありますから、罪についてはどんな罪でも、三島先生や森田大兄の分も責任をとりたいと考えていますし、介錯は武士道の「形」でありますが、古賀大兄についても罪だとされるのなら、当然分かちたいと考えています」
「ぼくらの言うクーデターは、一般のと違う。一般のは武力で政権を奪取することだが、ぼくらのは、政権を奪取してもあとは自衛隊に任せる。ただ責任はとる。ぼくらの行動は最終的な行動で生命をかけることだった」
小川正洋
「日本が、日本を否定している現憲法を否定することが、日本が日本を取返すことだと思う。われわれは三島先生についていけばよいと考えた。みずからの手で国を守るのは当然であり、決して軍国主義ではない。気違い扱いされることもわかっていたが、日本の文化、伝統を守るためには、こうしなければならないと信じ、国を守ることができる喜びで、今回の行動に出た」
「体験入隊で自衛隊が戦力であり、隊員はガラス鉢の金魚のように隊にいると元気ですばらしいが、外に出ると小さくなってしまうのがわかった。これは口で言わなくても、憲法が保障していないからだと思った」
「(三島に生きよと言われたとき)生きのびたくない、できることなら一緒に死にたいと思った。だから思いとどまったというより、命令どおり動いたということです」
「(略)三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。日本をこよなく愛している本当の日本人に違いないと思い、三島先生こそ信頼し尊敬できるおかただ、先生についていけば必ず日本のために働けるときがくるだろうと考えました。(中略)天皇を文化概念の象徴としてとらえ、侵されてゆく日本を守るためには、後に続く者を信じて行動しなければならなかったのです。自分がいまここで、日本を守らねば駄目だという使命感。それが日本人としての信義であり、誠であり、真心だと信じました。私達が行動したからといって、自衛隊が蹶起するとは考えませんでしたし、世の中が急に変わることもあろうはずがありませんが、それでもやらねばならなかったのです。天皇に対する恋は永遠の片恋です。それを承知で恋するのが忠義と信じました。私を行動させたものが何であるかを一言で説明するなら、天皇への恋心と申上げる以外にありません」
古賀(現荒地)浩靖
「戦後、日本は経済大国になり、物質的には繁栄した反面、精神的には退廃しているのではないかと思う。思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。(中略)このような状態から日本の文化、伝統、歴史を守るために、肉体と行動、言葉と観念の一致を進めなければならないという信念から今度の行為に出た。この状況をつくりだしている悪の根源は、憲法であると思う。現憲法はマッカーサーのサーベルの下でつくられたもので、サンフランシスコ条約で形式的に独立したとき、無効宣言をすべきであった。戦後二十五年たった日本人の精神と魂を目ざめさせようと思い、生命をかけることが楯の会の任務であると信じ、今度の行動に出た」
「防衛は基本的な国の問題であり、国土を保障しているのは軍事力しかない。国家、領土といったものは外国の軍事力を借りても守れるかもしれないが、その国の歴史、伝統、文化は、外国の軍事力では守ることができない。建軍の本義をふまえた国軍でなければならない自衛隊が、憲法九条を守っているうちは、これはできない。日本人の魂が失われつつあるので…」
「自分はあの現場で、物質的なものは何ひとつ要求していない。日本人として持つべき魂の復活を訴えたかったのだ。外国のクーデターや革命ではない。そんな権力的な私心は持っていなかった。責任は死であがなおうとした」
「われわれは一心同体だから、だれが介錯してもいいと、あの当時は思っていた。森田さんは『生き残っても死んでも、あの世で魂はひとつになるんだ』と言っていた。武士の儀式である切腹を手伝い、介錯するのは武士であり、礼儀だと思った。人間が自分の考えを通すため、死に赴こうとするとき、苦しみもなく介錯するのが武士だ」
「総監、けがをされたかた、ご家族には終生の責任を感じている。申しわけないと思っている。おたずねしてお詫びしたいとは思うが、判決が終わってからにしたい。なぜなら裁判中にお詫びをするということは、刑の減軽や弁解にとられることもあるだろうから」
「決して保守的なものを要求したのではなく、魂の回復を求めたものである。(中略)いま生きている日本人だけに呼びかけ、訴えたのではない。三島先生は『自分が考え、考え抜いていまできることはこれなんだ』と言った。最後に話合ったとき、いまこの日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立上がることができないだろう。社会に衝撃を与え、亀裂をつくり、日本人の魂を見せておかなければならない。われわれがつくる亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう-と言っていた。先生は後世に託してあの行動をとった。決して犬死にではなかったと自分は思っています」
「自分としては極刑にされても、やむにやまれぬ気持ちでやったので、後悔はしていない」
「(略)国の統治権や国民の自由意思の欠落した占領中に制定された憲法は、無効あるいは取り消されるのが法の建前ではないかと考えられる。(中略)日本の国を愛し、世を憂い、日本の健全な発展をおもんばかるものとっては、日本の国を自縄自縛している現憲法の荒縄をとき、真の主体性と権威と実力を備えた日本に回復させるためにも、憲法の改正を願わざるを得ないのである。(中略)国の存立の根本問題である国防問題が、安保論議、憲法九条の解釈論議にすりかえられて、多くの疑問を内包し、なんら解決されないままに放置されている。多くの日本人が欺瞞と虚偽とのうわぬりを繰り返してきたことに憤りをおぼえたわけです。(中略)日本にとって非常にむずかしい、重要な時期が、曖昧な、呑気なかたちで過ぎ去ろうとしており、現状維持の生温い状況の中に日本中は、どっぷりとつかって、これが、将来どのような意味を持っているかを深く、真剣に探ることなく過ぎ去ろうとしていたことに、三島先生、森田さんらが憤らざるを得なかったことは確かです」
(『裁判記録「三島由紀夫事件」』(伊達宗克著)より)
三島由紀夫の檄文 「敢てこの挙に出たのは自衛隊を愛するが故」
檄
楯の会隊長 三島由紀夫
われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
(三島森田事務所刊『「楯の会」のこと』より)
《三島事件のあらまし》
1970(昭和45).11.25日午前11時前、三島らは玄関に着いた。事前に東部方面総監・益田(ましだ)兼利陸将(57歳)に午前11時の面会を申し込んでいた。名目は「優秀な楯の会隊員の表彰紹介」であった。沢本三佐に出迎えられ、正面階段を昇り、原一佐に案内され総監室に通された。三島は真剣の日本刀の関孫六を携帯していた。応接セットにいざなわれた三島は益田総監に、森田ら4名を一人一人名前を呼んで紹介する。ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・関孫六に関してのものになった。
総監が、「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねている。これに対し三島がどのように答えたのかは分からないが話題を転じて次のようなやり取りに向かっている。「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりませんか」と言って、関兼元と記された鑑定書を見せている。この時、刀を抜き、油を拭うため「小賀、ハンカチ」と言って同人にハンカチを要求している。その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった。しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら立ち上がり執務机の方に向かった為、見合わせざるを得なかった。小賀はハンカチでなく日本手拭を三島に渡した。手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った。
午前11時5分頃、三島は日本手拭で刀身を拭き、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずいた後、刀を三島に返した。三島は使った手拭を小賀に渡し、鍔鳴りを「パチン」と響かせて刀を鞘に納めた。それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀がすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさいだ。続いて小川、古賀が細引で総監を拘束し、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わりながら短刀をつきつけた。こうして益田総監を人質に取った。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室、幕僚副長室に通ずる出入口に机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した。
沢本三佐が異変に気づいて指揮系統に報告した。業務室長・原勇一佐が正面ドアを開けようと体当たりする。室内から「来るな、来るな」と叫び声がし、ドア下から要求書が差し出された。原一佐はただちに幕僚らに非常呼集をかけ、沢本三佐の部下が警務隊と警視庁に通報する。第一報から12分後、警視庁機動隊一個中隊が総監室に到着した。
午前11時20分頃、三島は、両側の幕僚長室からバリケードを壊して突入して来る幕僚ら5名に対し「要求書を読め」と叫び、次々と飛び込んで来た幕僚らを関孫六で応戦し追い出した。さらに新たな7名の幕僚らが次々と総監室に突入して来た。古賀は小テーブルを投げ、小川は特殊警棒で応戦する。森田も短刀で応戦するが逆に短刀をもぎ取られてしまう。三島が加勢し、森田を引きずり倒した幕僚2人に斬りつけた。灰皿や地球儀が飛び交う中、「出ろ、出ろ、外に出ないと総監を殺すぞ」と怒鳴りながら、三島は幕僚らに斬りつけ追い出した。退散した幕僚らは総監室の廊下から窓ごしに三島を説得するが、三島は既にドア下から廊下に差し出したそれと同内容の要求書を破れた窓ガラスから廊下に投げた。
午前11時30分過ぎ、幕僚らは要求を受け入れることを決め、吉松副長が三島に対応した。要求書には「午前11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合させること。演説の静聴。檄の散布。楯の会の残余会員に対する三島の訓示。楯の会残余会員を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。自衛隊は午後1時10分までの約2時間、一切の攻撃を行わないこと。当方よりも攻撃しない。この条件が遵守されて2時間を経過したときは総監の身柄は安全に本館正面玄関で引き渡す。条件が守られないとき、あるいはその恐れがあるときは、三島はただちに総監を殺害して自決する」なる趣旨のことが書かれていた。三島らが本気であることを知った責任者は総監の生命を気遣って要求を受け入れた。
午前11時40分頃、集合を呼びかける構内放送により、自衛官約800名が前庭に集合した。なおこの日、第32普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。バルコニー前に集まっていた800人は通信、資材、補給などの「三島の想定した『武士』ではない」隊員達であった。自衛隊内には「暴徒が乱入して、人が斬られた」、「赤軍派が来たんじゃないか」などと情報が錯綜していた。なお、「楯の会残余会員を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること」については、市ヶ谷会館にいた楯の会会員30名は既に警察の監視下に置かれており現場に召集されなかった。
午前11時55分頃、鉢巻姿の森田、小川らが、要求項目を書いた垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らし、檄文多数を撒布する。檄文の内容については別サイトで考察する。三島は定刻になるのを待って歩き回っていた。
正午直前、三島は、カーキ色の楯の会の制服を着て「七生報国」と書かれた日の丸のハチマキをしめ、日本刀・関孫六の抜身を持って二階の総監室外のバルコニーに立った。森田は要求を書いた垂れ幕を広げた。
正午、三島はマイクなしの肉声で拳を振り上げながら演説を始めた。演説の内容については別サイトで考察する。事件を知った報道機関のヘリコプターが飛来し旋回していた。その騒音でマイクをもたない三島の声はかき消された。隊員たちは野次をとばし続け三島の訴えに嘲笑で応えている。三島は「静聴せい!」と再三叫んだものの野次と報道ヘリコプターの騒音で演説がかき消された。後に、この悲痛な光景をテレビで見た作家の野上弥生子は「三島さんにマイクを差し上げたかった」と述懐している(堤堯談)。現場に居合わせたテレビ関係者などは演説はほとんど聞こえなかったと証言している。録音でも野次にかき消されて聞こえない部分が多い。しかし三島から呼ばれ、現場に居合わせたサンデー毎日記者の徳岡は、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。
その場にいたK陸曹は後に次のように反芻している。
「バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした。ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した。野次がだんだん増して行った。舌打ちをして振り返った。(中略)やるせなかった。無性にせつなくなってきた。現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、大なり小なり隊員同士で不満はもっているはずなのに。まるで学生のデモの行進が機動隊と対決しているような状況であった。少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ暴徒によるものであっても、いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。こんなありさまの自衛隊が日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った。三島がんばれ!…心の中でそう叫んだ」。
徳岡は、この時の演説を聞き取れる範囲で書き残し、三島からの手紙、写真と共に銀行の貸金庫に保管していると云う。この演説の全て録音することに成功したのは文化放送だけであった。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や現場上空の報道ヘリコプターの騒音の中、三島の演説全てを録音することに成功しスクープとなった。
30分ほどを予定していた演説を7分間で終え、三島と森田は型通りに「天皇陛下万歳」を三唱し総監室に姿を消した。
【三島由紀夫のクーデター時の「演説」文】
「私は、自衛隊に、このような状況で話すのは空しい。しかしながら私は、自衛隊というものを、この自衛隊を頼もしく思ったからだ。こういうことを考えたんだ。しかし日本は、経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的にカラッポに陥って、政治はただ謀略・欺傲心だけ………。これは日本でだ。ただ一つ、日本の魂を持っているのは、自衛隊であるべきだ。われわれは、自衛隊に対して、日本人の………。しかるにだ、我々は自衛隊というものに心から………。(三島・静聴せよ、静聴。静聴せい) 自衛隊が日本の………の裏に、日本の大本を正していいことはないぞ。
以上をわれわれが感じたからだ。それは日本の根本が歪んでいるんだ。それを誰も気がつかないんだ。日本の根源の歪みを気がつかない、それでだ、その日本の歪みを正すのが自衞隊、それが………。(三島・静聴せい。静聴せい) それだけに、我々は自衛隊を支援したんだ。(三島 静聴せいと言ったら分からんのか。静聴せい) それでだ、去年の十月の二十一日だ。何が起こったか。去年の十月二十一日に何が起こったか。去年の十月二十一日にはだ、新宿で、反戦デーのデモが行われて、これが完全に警察力で制圧されたんだ。俺はあれを見た日に、これはいかんぞ、これは憲法が改正されないと感じたんだ。
なぜか。その日をなぜか。それはだ、自民党というものはだ、自民党というものはだ、警察権力をもっていかなるデモも鎮圧できるという自信をもったからだ。治安出動はいらなくなったんだ。治安出動はいらなくなったんだ。治安出動がいらなくなったのが、すでに憲法改正が不可能になったのだ。分かるか、この理屈が………。諸君は、去年の一〇・二一からあとだ、もはや憲法を守る軍隊になってしまったんだよ。自衛隊が二十年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだ。もうそれは政治的プログラムからはずされたんだ。ついにはずされたんだ、それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。
去年の一〇・二一から一年間、俺は自衛隊が怒るのを待ってた。もうこれで憲法改正のチャンスはない!自衛隊が国軍になる日はない!建軍の本義はない!それを私は最もなげいていたんだ。自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ。(野次、怒号) 日本を守ること。日本を守るとはなんだ。(野次、怒号) 日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである。(野次、怒号)(三島・おまえら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話を聞けっ! 男一匹が命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか) それがだ、いま日本人がだ、ここでもってたちあがらなければ、自衛隊がたちあがらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。(野次、怒号) 諸君は永久にだねえ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(野次、怒号) 諸君と日本の………アメリカからしかこないんだ。シビリアン・コントロール………シビリアン・コントロールに毒されてんだ。シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法下でこらえるのがシビリアン・コントロールじゃないぞ。(野次、怒号)………そこでだ、俺は四年待ったんだよ。俺は四年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を。(野次、怒号)………そうした自衛隊の………最後の三十分に、最後の三十分に………待ってるんだよ。(野次、怒号)
諸君は武士だろう。諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。どうして自分の否定する憲法のため、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ。諸君は永久にだね、今の憲法は政治的謀略に、諸君が合憲だかのごとく装っているが、自衛隊は違憲なんだよ。(野次、怒号) 自衛隊は違憲なんだ。きさまたちも違憲だ。(野次、怒号) 憲法というものは、ついに自衛隊というものは、憲法を守る軍隊になったのだということに、どうして気がつかんのだ!(野次、怒号) 俺は諸君がそれを断つ日を、待ちに待ってたんだ。(野次、怒号) 諸君はその中でも、ただ小さい根性ばっかりにまどわされて、本当に日本のためにたちあがるときはないんだ。(野次、怒号 そのために、われわれの総監を傷つけたのはどういうわけだ) 抵抗したからだ。憲法のために、日本を骨なしにした憲法に従ってきたということを知らないのか。諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。(野次、怒号) 一人もいないんだな。よし!(野次、怒号) 武というものはだ、刀というものはなんだ。(野次、怒号) 自分の使命………。(野次、怒号) それでも武士かぁ!それでも武士かぁ! まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。(野次、怒号) これで俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。(野次、怒号) それではここで、俺は天皇陛下万歳を叫ぶ。(野次、怒号) 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!
三島由紀夫遺言状「楯の会会員たりし諸君へ」
「日本はみかけの安定の下に、一日一日魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかった。もっともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかったのである。 (中略) 日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。 諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ」。
三島由紀夫「割腹」事件等は色々推測されているが、色々と、謎が覆う。
しかしながら、国を思い、あれまでの事件を起こしたことに驚愕するが、現代の罵声的反対論者には失望する。
事の是非は別として、過去の出来事を真摯に見つめ、個人的思いを持つべきではなかろうか。
以上は、産経ウエブサイトよりの抜粋が殆どであり、転載させて頂いた。お許しを願いたい(主観なし)。
纏め方が雑なこともお許し願いたい。
来たるべく2016年、良い年になることを願う。皆さん良い年をお迎えください。