池泉廻遊式の庭園は滝があり、離れの東屋、石灯籠など
自然地形を生かした造りとなっている
巨大な石灯籠は(高さ3M以上)燈りの下の台座は
六角となり、十二支が刻まれている
幕末から明治にかけて一財を成した「S家」
街中の一角を占めた屋敷はその風情は趣を残していたが
今は高層の駐車場ビルとなっている
その屋敷の離れにあった迎賓の座敷は移築され市が管理
お茶会やその他の活動に使われている
この「S家の夏の別邸」
とある地方建設会社のオーナーの所有となり
その後この建設会社の持ち株会社で不動産関連会社に所有権が移った
今回、この「旧S家別邸」が売りに出された
市民の有志が保存に向けて動き出した
市の財産としての働きかけに、市の財政状況から即答が引き出せない
本来なら、市民の拠出する資金で購入し、維持管理が望ましいが
その金額を集めるには草の根で幅広く仰がなけ
ればならない
結局は署名活動で市に陳情する事となった
年末を迎えると恒例の「忠臣蔵」があちらこちらに登場します
小さな神社では講談の会が催され「赤穂義士伝」が演目で
開催されました
講談師は「宝井琴梅」師匠
四十七士が四藩の藩邸に預かりとなり、切腹まで手厚い
持成しを受けた事
四十六人が切腹をし、一人は顛末を報告に郷里へ戻った
などと講釈をしていました
その四十六人処置について、荻生徂徠の意見が取り入れられ
その後徂徠は重用されたと講談しています
後半は
その荻生徂徠が生活に困窮していた時の豆腐屋との話で
締められました
1000町歩地主として財をなした数代の当主は書画骨董を
蒐集し、常設展示をしている
良し悪しは別として、収蔵品が保存され後世に伝わる事は
大切な事である
多くの文化財が散逸し、個人蔵で一般に公開されないものも多い
唐三彩の彫像が展示してあった
婦人像は見かけるが、鬼の格好の彫像は見たことが無い
ラベルに漢字を付けてあるが、パソコンには登録されて
いない漢字でブログルに表現が出来ない
(鬼の右に其が入る)
作字すれば良いのだが・・・
曹洞宗の修行寺「大栄寺」の本堂前庭に「達磨大師」が
鎮座している
手足がなく、古色を帯びた石彫である
曹洞宗は禅宗の一派
先日も「種月寺」へ行ってきましたが、今回は別の場所に
ある、寺院に足を伸ばしました
宗教の功罪はありますが、年月を経て培われてきた寺院には
精神的な落ち着きを感じさせます
喜捨を受ける為に雲水となり、村落を歩く
真夏も大変であるが、冬は雪・霙で辛いであろう
入口の壁に「わらじ」が干してあった
修行は生半可な気持ち・精神では勤まらない
曹洞宗 大栄寺
慶長十年(1610)に藩主は弟に分知〔領地を分ける事〕
12000石の小大名が誕生した
溝口善勝公
寛文十年(1670)に六十三歳で逝去
今から338年前のことである
その歴史を支えてきた重厚な墳墓
曹洞宗の禅寺
雲水が修行に励む道場があります
雪の降る季節にも、足袋にワラジを履いて喜捨を受けに
近在を歩きます
古刹として歴史を感じさせる山門と本堂
サブプライムローンやインターネットを感じさせない風景です
「福地山 種月寺」
※インターネットからの引用
西蒲区石瀬の種月寺は,南英謙宗が文安3(1446)年に創建した寺院で,かつては越後における曹洞宗の四大道場(耕雲寺・雲洞庵・慈光寺・種月寺)の一つに数えられました。
現在の本堂は,出雲崎の大工・小黒甚七が棟梁となって,元禄12年(1699)に建立された大規模なものです。屋根は寄棟造りとなっています。
内部は,前面(東側)に露地と大縁をとり,その奥を前後2列,各列4室の8室(前列は南から優婆塞・大間・優婆夷・茶の間,後列は南から位牌堂・内陣・室中2室)で構成しています。内陣と位牌堂は板敷きで,その他の室は畳敷きです。柱は,特別な柱を除いて面取角柱となっています。また,内陣の背面(西側)には開山堂が増築されています。
県内を代表する曹洞宗の本堂建築として評価され,平成元年に国の重要文化財に指定されています。
明治時代に財を成し、敷地面積8800坪、建坪1200坪の
威容を誇る大地主の庭園に秋を見た
千町歩地主として数軒ある内の一軒で、現在は財団として保存
一般公開されている
10日、11日とアップした「旧庄屋」宅の庭を拝見した
縁の下に古い、鼻緒の切れた女物の下駄が放置してあった
この家の「女あるじ」の履いたものであろうか
何年前に使っていたのかは分からない
しかし、歯の減り具合や緒の感じから、殆んど使用した跡が
感じられない
この屋敷の生活を垣間見た気がした
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