日暮里から西方向に出ると、「谷根千」の地区へ
幸か不幸か、戦災に遭わない町がこの地区であった
「谷中」「根津」「千駄木」
この地には文豪や文化人が沢山住まいし、上野の森
芸大が近いことも関係がある
朝倉彫塑館を尋ねた
道路原票が設定されている、東京の日本橋
首都高速道路が道路と川を覆い、経済優先のブザマな
様相を未だに晒している
未だに首都の首長は、日本のど真ん中に人間が集中し
経済を繁栄するのに「何が悪い」と強気の強弁を説く
この光景を見て、豊かな文化程度の高い国民が生活を
享受しているとはとても思えない
お江戸日本橋と聞くと、何とはなしに懐かしさを覚えるのは
wahoo一人でしょうか
広重の浮世絵や、江戸前寿司、諸々の犯罪や「鬼平犯科帳」など
高々150年一寸以前の、日常生活が営まれていたのです
久し振りに、日本橋の裏手にある、「あなご箱めし」
”玉ゐ”へ行ってきました
穴子めしを食べ、別のお椀にご飯と穴子を移し、お茶漬けに
して食べます
お手前で二度楽しめるのが、人気の秘密ですね
但し、味が悪ければ人気は出ませんが
小さな神社「神明宮」の本堂で講談が行なわれた
演目は
「西行歌日記」鼓ケ滝
「明和義人伝 樽きぬた」
地元に古くから伝わる神社で歴史を物語る
歴史的事実から若干外れることもあるが、あくまで講談
兼続がNHKの大河ドラマに登場するが、これはあくまで
「物語」
史実を脚色して、読者、視聴者の耳目に興味を持つように
するのが、小説家(三百代言とは別)
この小説家の物語を「講談」に仕立てているので、おやまぁーと
思わせる話が出てくる
講談師は見てきたように話を進めなければ、成り立たない
江戸の末に描かれた地方都市のお祭りの様子
絵巻になっており、一部を拡大してみた
余りに賑やかであり、派手な為に当時の権力者から
止めるようにお触れが出た
一般庶民は賑やかに楽しんでいるが、為政者側は借金で
首が回らず、仲金や屋敷に対しての課金を増額しても
庶民が楽しんで居る事に、腹立たしさを覚えているようだ
江戸時代の話は教科書や歴史書に沢山書かれているが
果たしてそうなのか、疑ってみる必要がある
例えば、苛斂誅求や百姓は奴隷の如く課税されて、貧困に
喘いでいたと書かれている
しかし、村や町の辻札には「絹を着るな」や「歌舞音曲」の禁止
「祭りが派手」などが書かれている
裏返すと、庶民や農民がそれらを享受していた事の証明である
明治になって、廃藩置県となっても城下町の「殿様」を
市民が吊るし首にしたなぞ、何処にもない
それどころか、未だに当時の主君の末裔を称えている
実際にお伊勢詣でや熊野詣で、四国巡礼など相当の費用を使い
多くの庶民が旅をして、物見游山をしている
全国各地の僻村に立派な屋敷が存在したのは経済的に豊かな
事を証明している
江戸時代が庶民や農民にとって「暗黒時代」のように書かれて
居ることを信じるわけにはいかない
農業は自給自足で成り立っていたなんてのは嘘っ八で
一部の農家は他の産物を作り、米を購入していたことが
多くあったようだ
遙か遠方の造船所に係留された2隻の貨物船
以前、撮影したときは修理中かどうか判別は出来なかったが
今回、新造船と分かった
前の船は塗装が進み、後方の船はこれから塗装にかかるようだ
同じ形の船を二隻並べての建造
大きさから判断すると、国内を運航する貨物船のようだ
昔であれば、この位置から明治に建てられた「運上所」
いわゆる税関の建物が見えるのであるが、現在は郷土資料館と
なり、川岸に新築の建物と右手に昭和初期の銀行を移築保存
の建物があり、見ることが出来ない
これらは、以前にブログルにアップしている
対岸から見える光景をアップした
船の行き交う港に、水鳥が群れて集まる
河口に広がる港は常に上流部から川の流れが
休む事無く流れている
川鵜や鴎が餌を求めて集まっている
小さな船ではあるが、大きな艀にコンクリートの
テトラポッドを乗せて、目的の場所まで引いていく
船を押したり、引いたりするタグボートもあるが
工事用の資材やクレーンなどを乗せた艀を引くのも
大きな馬力が必要である
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