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饅頭に引かれて善光寺参り

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饅頭に引かれて善光寺参り
2005/09/14-36

久しぶりに、長野の善光寺さんへ行った
門前のお菓子や「つるや」の酒饅頭を求めにひとっ走り

善光寺の山門は今修理中
再来年までかかるそうである

拝殿でお賽銭を上げ拝礼
女学生が盛んに「おびんずる様」を撫でている
信者の祈祷に答える為か、「おびんずる様」の目鼻は
すっかりと無くなり、光っている
それだけ、病の治癒を祈願する信者が多いと言うことであろう
本殿内は撮影禁止である
分からずに写し、注意を受ける

参考-1
「びんずるさま」は、釈迦の弟子であり、正式には「賓頭廬尊者」と記す。熱心に修業を行うが、ただ酒を嗜む癖があり、釈迦から酒を止めるよう約束させられる。しかし、生来酒を好む尊者はこの約束を破り飲んでしまったため、これを知った釈迦から追い出されてしまう。悲しむ尊者は、ひとりで修行に励むことに…。長い年月の末、釈迦は「本堂外陣なら」という条件で傍にいることを許す。「賓頭廬尊者」が外陣に安置されているのはこのような経緯(いきさつ)によるもの。

参考-2
賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)

「びんずる尊者」は、釈尊(しゃくそん)(釈迦(しゃか))の弟子で、十六羅漢(らかん)の筆頭です。
 他には単に「びんずる」、また敬語を付けて「おびんずる」とか「おびんずる様」とか、「なでぼとけ(撫で仏)様」とも呼ばれています。
 サンスクリット語(梵語(ぼんご))「ピンドーラ」の音訳から「賓頭盧跋羅堕闍(ばらだじゃ)」・「賓頭盧突羅闍(とらじゃ)」・「賓頭盧頗羅堕(はらだ)」とも呼ばれることがあります。「賓頭盧」が名前で「頗羅堕」が姓です。
 古代インドのヴァンサ国コーサンビーの優填王(うでんおう)の大臣の子、婆羅門(ばらもん)階級の出身でした。
 若いころは勝手気ままに暮らしていましたが、釈尊にめぐり合って発心(ほっしん)し出家・修行なさいました。
 阿羅漢果(あらかんか)を得て神通力(じんつうりき)に優れていましたが、それ以上に説法に優れていましたので「獅子吼(ししく)第一」とも呼ばれていました。獅子つまりライオンが吼(ほ)えるようだという訳ですから、だれも反論できなく押し黙ってしまう様子(ようす)が目に浮かびます。


阿羅漢果とは修行者の最終段階で、もはやそれ以上に学ぶ必要がないという意味で「無学位」とも呼ばれます。
 仏教の保護を行なった優填王が入信したのは、夫人の勧(すすめ)めという説のほかに、コーサンビー出身のピンドーラの説法で入信したという説もあります。
 人並(ひとな)み優れた神通力で、病気の人や体の不自由な人を助けたり、欲の深い人や意地悪な人を懲(こ)らしめたりしていました。しかし、釈尊に神通力をもてあそんだと呵責(かしゃく)されてしまいました。そこで釈尊から許可をもらって釈尊の入滅(にゅうめつ)の後も涅槃(ねはん)に入らずに、西瞿陀尼州(さいくだにしゅう)摩利支山(まりしせん)で衆生(しゅじょう)の救済(くさい)に努(つと)めていらっしゃるそうです。
 その他にもいろいろな伝説があるようです。
 小乗仏教寺院では上座(じょうざ)とされて、古代中国の晋(しん)時代、道安法師( 312〜 385)が夢に見た伝説から、禅寺では聖僧として食堂(じきどう)に白髪と長眉(ちょうび)の姿で示される像を安置しました。
 日本では本堂の外陣(げじん)・前縁(ぜんえん)などにその像を安置し、病人が自分の患(わずら)っている個所(かしょ)と同じ部分を撫(な)でるとその病気が治(なお)ると信仰されています。でも、そのお姿は撫で易(や)いように皆つるつるになってしまいました。

以上
インターネットの記事よりの引用です

撮影 2005/09/13 AM10:40

#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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ぱっさかりあさんからコメント
投稿日 2005-09-14 20:09

善光寺さん、私も何年か前に小布施に行く途中に立ち寄りました。
その時はあいにく雨降りだったのですが、紅葉がピークで観光客がいっぱいでした。

すぐ近くに長野県信濃美術館があり、そこの東山魁夷館を見てきました。
素晴らしかったです。

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Snailwalker
wahootasteさんからコメント
投稿日 2005-09-15 08:09

長野市近辺には美術館が多くありますね

北野美術館、池田満寿夫美術館や小さな版画美術館

長野は文化意識が高いせいでしょうか、工芸や美術がさかんですね

音楽も毎年、松本で齋藤云々の(忘れました)集まりが
ありますし

善光寺へは往復415Kでした
帰りは途中で高速道路を降りて、日本海沿いを走りました

「おびんずる様」を知っている方も少なくなりました

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zakka
zakkahさんからコメント
投稿日 2005-09-15 13:12

「おびんずる様」
信仰・・修行・・とは、己の心にあり。信仰とは、敬う師を以って足りる。発心とは、かような事でしょうか。仏教は、人間的ですね。
特に大乗仏教の流れを持つ日本、年月を重ね神仏混交にいたって、「和の思想」を持ってる。また、中世以来、社寺が文化の中枢を担ってきた。木の文化が社寺を通してある。日本の自然保護の原点でもありますか。地域特性を見直すべきかと思います。
長野に多く見られる道祖神に、庶民の感性を思います。


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Snailwalker
wahootasteさんからコメント
投稿日 2005-09-15 22:42

こちらには、道祖神は殆んど見られません
ただ、庚申塚は見受けられますが既に庚申講は行なわ
れていないようです

既に庚申講も分かる人が殆んどいないのが現状です

最近、江戸時代の書物や遺跡、遺墨を見て
当時の人々がこれらを読んでいたことに驚きと
尊敬の念を改めて感じます
全く読めないか、脇に活字があるとどうにか判読
できる
お粗末な己にがっかりとしています

先日、越後の出身者で書家の「巻菱湖」を拝見しましたが
難しい漢字を難なく書いています
よほど漢籍を勉強したんでしょう
この書家は幕末の三筆の一人と言われ
篆書・隷書・楷書・行書・草書・かな・飛白の七体を巧に書けた人です

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zakka
zakkahさんからコメント
投稿日 2005-09-16 01:04

鎌倉の住人でありながら、石仏・民間信仰を知る人々も少なくなりました。
鎌倉に市内の寺等で二十四地蔵尊参りという講中が有ります。江戸〜昭和にかけて盛んでしたが、すっかり廃れてしまいました。鎌倉期の阿仏尼(「十六夜日記」の作者・墓は、英勝寺のほど近くにある)を祀っている月影地蔵に、今でも地蔵尊講中が行われています。二十四地蔵尊の内、いくつかの地蔵尊は、一般公開をしておらない。不可思議な事です。文化財指定されると寺域を非公開にしてしまう文化財行政を憂います。

巻菱湖、名前だけは知っておりました。今でも息づいておられるのですね、筆跡。。。

思っても見なかったのですが、将棋の駒の書体が、巻菱湖の作であるとは、、、。初めて知りました。ネットは、得がたい。

ありがとう存じました。また一つ、知識が増えました。お恥ずかしい。

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Snailwalker
wahootasteさんからコメント
投稿日 2005-09-16 02:31

越後の能書家 三人

良寛
巻菱湖
会津八一 がいます

十六夜日記(阿仏尼)についてちょっと検索
しましたら、こんな事が分かりました
zakkaさんのお陰です

十六夜日記(いざよいにっき)は藤原為家の側室
阿仏尼によって記された紀行文日記である。
内容に所領紛争の解決のための訴訟を扱い
また女性の京都から鎌倉への道中の紀行を書く
など他の女流日記とは大きく趣きを異としている。
鎌倉時代の所領紛争の実相を当事者の側から
伝える資料としても貴重である。大別すると
鎌倉への道中記と鎌倉滞在期の二部構成。

成立当初、作者はこの日記に名前をつけておらず
単に『阿仏日記』などと呼ばれていたが
日記が
10月16日に始まっていることを由来として後世に
現在の名前が付けられた。

一巻。弘安6年(1283年)ころ成立か。

文化財の行政担当者に造詣の深い方(専門職)が少なく
担当を短期で変わるためにおかしなことが
多く見受けられます

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