© Daisuke Kawai
それは目の覚めるような青で
本当に目の覚めるような青で
綺麗であるとか
美しいであるとか
煌びやかであるとか
そういう言葉を恥ずかしくさせるような青で
それは息絶えた鳥の羽の色
構造色がそう見せるのだというような残酷な解説は
この青の前では静かに消え去ってしまう
零れた命のはかなさは
この青にはみじんもない
いずれ散り去り朽ち果てるさだめであっても
赤い血が脈動していたころから凍りついていたような青なのだから
© Daisuke Kawai
遠目に見つけて
ああ,と思う景色があって
もっと近寄ってよく見てみようと歩を進めていくうち
ああ,と先刻とはちがった印象となって
がっかりしてしまうことがある
遠目に見て美しいと思った景色を
より美しいままにして眺めていられる
そういう距離があるような気がする
近寄りすぎるのはよくないということか
適度な間隔を保てということか
神の采配した距離を学べということか
© Daisuke Kawai
ドライな森よりも
ウエットな森がいい
濡れねずみになるのはいやなので
雨あがりがいい
でもいちばんいいのは
よく晴れた日に浴びる滝のミストだ
さわやかでケンコウ的という感じなのだが
だんだん敬虔な気持ちになってくる
水というものが細かく微粒化することで
より聖性が高まるのかも知れない
© Daisuke Kawai
渓流の夢を見る
禁断症状のようなものだろうか
なにかがおのれのなかできれてくると
夢の中に渓流が現れる
最初は音だけだ
薄暗い森の中でどこからか水の流れる音が聴こえてくる
音を頼りに,森を進む
やっと目の前に渓流が出現したとたん
音が消える
ただ白波が沈黙のうちに流れている
いつも同じ夢である
© Daisuke Kawai
写真というのはその場に行ってシャッターを切りさえすれば
同じものが写るはずであるのだが
同じ人間が同じ場所に出向いても
歳月とか時季とか時間とかによって
まず同じ写真がとれることがない
真を写すというのはそのときそのときの真なのだろう
ヒトの細胞が毎日変わっているように
森もまた日々変化しているんだろう
完璧な風景が撮れたと思い,それを再現しようとして見ても
なぜか違和感がある
この風景もこの場所に案内することはいくらでもできるが
この写真を撮った時に案内することはできない
同じ風景なのに
いつぞやとは必ずどこかなにかが違っているというのは面白い
© Daisuke Kawai
夏の朝早くに森に出かければ
そこには清澄な空気があり
幸せな気持ちになれるのだということを
もうさんざん経験してきて熟知しているくせに
それでも
なにかそこへ行かなければならない理由がなければ
街の中でいつまでも惰眠をむさぼっている
森がどうの自然がどうのと言ったり書いたりしているわりには
そういう自分がどうにもこうにも嘘くさいのは
そんなていたらくをやはり情けないと思っているからなのだろう
薄っぺらい似非ナチュラリストなどの発言に
芯のある人間がそうそう反応するわけがない
しかしそんな愚かな逡巡をよそに
夜明けの森は今朝もたおやかに美しくきらめいている
© Daisuke Kawai
草葉の翳に
ががんぼのような
いかにもはかなげな羽虫がひとつ
身じろぎもせずぶらさがっていた
なんという虫なのか
そういうことを知りたいとは
どうしてかもうあまり思わなくなったが
こういうところには
こういう蟲がいるのだということを
忘れずにいたい
そんなことをいつものぼんやりと思うのであるから
不思議だなあと思ふ
© Daisuke Kawai
よい仕事をしようと思って
はりきって出てきたというのに
さっそく頭と端を喰われてしまった
ついてない
でも,こういうことってよくある
© Daisuke Kawai
樹は倒れてなお「仕事」をする
そして「仕事」を与えている
それも美の根源なのか
朽ちた倒木にも見惚れる
せっせと樹を朽ちゆかる
菌の「花」にも見惚れる
© Daisuke Kawai
でん,と根を張っていた
たくましい大木が
いかにもあっけなく斃れると
そこに頼っていた精神は
がっかりする
腹を立てる
そして哀しくなる
されど朽ちていく樹は美しい
樹が大きければ大きいほど美しい
むしろ「神々しい」といった方がよいだろうか
巨樹が倒れ,苔むし,朽ちていくのが
なぜかくも観る者を魅了するのだろうか
© Daisuke Kawai
しかし立っているものはまた
いつかかならず斃れるのである
それはもう
腹立たしいくらい
確実に
© Daisuke Kawai
立っている
根を張っている
それだけ
ただそれだけのことが
とても凄いことだと感じる
ひしひし感じる
© Daisuke Kawai
花が終わって,果実になっていた
それでもちゃんと「花」に見える
植物体の構造それ自体が花なのだ
© Daisuke Kawai
かたつむりは「家」を替えることがないのだろうか
だとしたら、この殻の主はずいぶん前に亡くなっているんだろう
いかにも硬そうな素材なので
いったいこれがいつのものなのか
いったいいつまで森の底で転がっているのか
わからないのだけれど
それでも案外こちらが思う以上の早い段階で
分解されてしまったりするのだろうけれど
うずまきを中央の起点からぐるぐるぐるぐるたどるうち
このうずまきは未来永劫続くんじゃないか
なんてことを,思ったりもする
そういえばケルトの遺蹟のうずまき模様は
輪廻を表したものだったんじゃないかしら
© Daisuke Kawai
むかし蜻蛉の名前を覚えたいと思ったことがあった
図鑑を用意した
大枚はたいて何冊も買った
専門家しか使わないような大部の図鑑も用意した
けれどちっとも覚えられない
それほど興味も続かなかったのだろう
本はそのうち霧散した
それでもいまでも蜻蛉の姿を見かけると
名前を覚えたいと思う気持になる
美しい自由を保障する
四枚の翅のフォルムに見とれるとき
その網目模様の匠に見とれるとき
死んだひとの魂がどこかへ去りゆくように
見つめるこちらなどなにものでもないというふうに
ぷいと空へ飛び立っていくときなどに
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