美しさはまた、「ノスタルジー」を感じます。美しいものが、悲しくなるとき。
7月
9日

自然の風景もそう。空のグラデーションや、風にゆれる葉の音に、胸がすーっとした。
でも、このごろは、ちがう。
美しいものを見ると、ふと、深いところに沈んでしまう。
理由なんて、はっきりしない。ただ、涙が浮かんでしまう。
美しい、ということが、どうしてこんなに切なくなるんだろう。
私の中では、「美しい」はそのまま「儚い」にすり替わってしまう。

たとえば夕暮れ。誰かと見たあの茜色。
たぶん、もう二度と、同じ空は見られない。
「懐かしい」という言葉も、少し苦手になった。
懐かしい、の奥にあるのは、「過ぎ去った」という事実。
もう戻らない、という距離。
思い出して、心があたたかくなる……なんてこと、あまりない。
どちらかというと、「ああ、あれも終わっていたんだな」と、
そっと置いていかれるような感じ。
こんなふうに感じる自分を、どこかで責めてもいる。
もっと素直に、喜べたらいいのに。
でも、心は言うことをきかない。
もしかすると、私は今、「変わり目」にいるのかもしれない。
何かを手放す途中で、まだ受け入れきれていない。
だから、美しさの中に、喪失を見てしまうのだろう。
それでも、ふとしたときに思う。
こんなふうに、何かに感じすぎてしまう心も、
ひとつの「生きている証」なのかもしれないと。
こんなふうに、何かに感じすぎてしまう心も、
ひとつの「生きている証」なのかもしれないと。
涙しながら聴く音楽も、
立ち尽くして見上げる空も、
そういうときのほうが、本当は心に深く残っている。
立ち尽くして見上げる空も、
そういうときのほうが、本当は心に深く残っている。
美しいものは、時に悲しい。
でもそれは、きっと、
私がそれを大切に思っている証なんだろう。
でもそれは、きっと、
私がそれを大切に思っている証なんだろう。
今日もまた、窓辺で珈琲を飲みながら、私はそれを見つめている。