「日本共産党リンチ事件」に関する共産党の党の公式見解
8月
15日

参議院質問主意書参照
時期・場所
事件は1933年(昭和8年)12月頃、日本共産党の内部で発生しました。宮本顕治 (当時党中央委員)が、同じく党中央委員だった小畑達夫と大泉兼蔵を、「スパイ」であると疑い、「査問」と称して監禁・暴行を加えました(リンチ行為)
リンチの詳細
小畑は暴行の結果、外傷性ショック死により死亡しました。
その後、遺体は床下に埋められ、大泉はその後逃亡し事件が明らかになりました。
(ウィキペディアより)
日本共産党の公式見解
日本共産党は、当時の裁判で認定された暴行事実について全面的に否定しています。
日本共産党は、当時の裁判で認定された暴行事実について全面的に否定しています。
裁判記録では宮本らによるリンチとされていたものの、党としては「スパイの嫌疑」とされた両名について「特異体質によるショック死」であったと主張しています 。
また、「査問という表現は党には存在せず」、当時も「党規約に基づく規律違反の調査」であったとの公式見解も表明されています。
法的処理とその後の展開
宮本顕治は、不法監禁致死・傷害致死・死体遺棄・治安維持法違反等で起訴され、無期懲役の判決を受けました。
法的処理とその後の展開
宮本顕治は、不法監禁致死・傷害致死・死体遺棄・治安維持法違反等で起訴され、無期懲役の判決を受けました。
袴田里見(日本共産党副委員長)らも有期刑の判決を受けています。
終戦後、GHQの命令により、政治犯とされる宮本らは釈放されました。
日本国内ではその後も議論が続きましたが、GHQの“超憲法的な特別指示”により、法的に服役を続けさせることは差し止められ、判決は実質的に無効となりました。
■志位和夫委員長も、この事件も含めて党が直面した過去の誤りや困難を「党の最大の危機」として位置づけ、「五十年問題」として反省の対象にしています。