試合が終わり、六甲おろしを歌って甲子園を出ます。
次はいつもの、阪神応援団御用達居酒屋、『とん平』 で打ち上げです。
お店は瞬間に阪神タイガースファンで、満席になります。
みなさんで、阪神の勝利を祝い乾杯です。
★この店で飲む酒はまた格別です、阪神が勝てばなおさらです^^
甲子園に来たら、阪神の応援だけではありません。
楽しいの大人のレクリエーションの場でもあるのです。
生ビールを飲み、日本酒や焼酎をペットボトルに入れて持ち込みます。
みなさん思い思いの食べ物や酒のアテを持ち。
阪神が勝っているとビールが旨い!
試合が進むに連れて、応援も酒もテンションが上がります。
阪神が勝つと、周りの人たちと抱き合い、握手します、相手が若い女性でも・・・
試合後に全員で歌う 「六甲おろし」 がたまりません。
ストレス発散にもなるし、友人との社交の場でも、甲子園球場はいいですね。
★たくさんの酒と各種のツマミ、3時間の楽しみです。
予想に反して、阪神のピッチャーは岩田、能見は今日登板か。
巨人は予想通りの東野、制球が悪かった。
ヒット数は同じ8本ずつ、巨人のエラーが2つとも得点に。
試合は、4対2、ですが流れから阪神の快勝でした。
今日は、能見と内海の投げ合いになるでしょう。
阪神、今日勝って3位に浮上です。
★もっちゃん! T先生! 昨日はありがとう^^ ブログ見てますか?
これも、もう一つの宗麟の功績です。
大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマへ派遣された、4名の少年を中心とした使節団。
その使節団の中心が、『伊東ドン・マンショ』 大友宗麟の名代の正使として派遣される。
1582年2月20日、長崎港を出発、マカオ、マラッカ、ゴアを経由して、’84年4月にポルトガルの首都リスボンに到着。
その後、スペインのマドリードに寄り,’85年3月1日にローマに到着、何と!ローマまで3年もかける。
さらに、ヴェネツィア、ミラノなどを訪問し、1590年に帰国する。
使節団により、ヨーロッパの人々に日本の存在が知られる。
彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機により、日本語の書物の活版印刷が初めて行われる。
【彼らが持ち帰った西洋の文物の一例】
「活版印刷機」 「西洋楽器」 「海図」
★画像は馬に乗った 「伊東ドン・マンショ」 の像です。(大分市)
今日から、セ・パ リーグ戦きょう再開です。
今から、阪神甲子園球場にタイガースを応援に行ってきます。
阪神、能見投手の先発か、現在、対巨人戦8連勝中です。
どちらのチームも調子は上向き。
伝統の一戦! 素晴らしい試合を期待しています。
これも宗麟の功績の一つです。
1557年、外科、内科、ハンセン氏病科を備えた西洋医学の病院、日本最初のいわゆる総合病院を建てる。
1558年には、医師の養成、いわゆる医学教育校を設立。
領民は無料で診察を受けることが出来、1562年には入院患者が100名を越えてたという。
その立役者となったのが彼です。
『ルイス・デ・アルメイダ(ポルトガル人)』
1551年に日本を訪れ、貿易商であったが医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入し、日本初の病院をつくった。
豊後府内(大分市)にとどまり、まず乳児院を建てる、さらに宗麟の協力を得て上記のように活躍する。
その後、医療目的で九州各地を周り、1583年、熊本県天草で没した。
【大分市に、大分医師会が開設した救急救命センター 「アルメイダ病院」 この名称は彼れにちなんでいます。】
★画像は、アルメイダが日本人助手と共に、右足の手術を始めようとしている場面の像です。(大分市)
1576年、ポルトガル人から、大友宗麟に日本で初めて 「大砲」 が送られる。
この大砲の音の大きさと破壊力により、「国崩し」 と呼ばれた。
フランキ砲と言い、16世紀の大砲の種類、原始的な後装砲。(大砲の後部で玉と弾薬を詰めフタをして使用)
宗麟はこの大砲を、丹生島城(今の臼杵城)の備砲とし、島津軍を迎え撃った。
薩摩の島津義久が日向に侵攻、戸次川の戦いで秀吉先発隊と大友連合軍は壊滅的敗北をきする、
やむ得ず、宗麟は丹生島城で籠城しこの大砲を使う。
この大砲のおかげで、島津軍を一時的に退かせ、豊臣秀吉の本隊が到着するのを待った。
【その後駆けつけた、秀吉軍10万、秀吉自ら率いる10万、総勢20万にて薩摩軍を敗退させ、宗麟、九死に一生を得る。】
★画像は、その時に使用された大砲の複製品、臼杵城内に展示されています。
★本物の大砲(国崩し)は現在、靖国神社に奉納されています。
『大友義鎮(よししげ) 1562年(32歳)に出家して、大友宗麟(そうりん)と号す』 1530年~1587年
豊後国(ぶんごのくに)=今の大分県(宇佐市と中津市を除く) ★宇佐市と中津市は当時、「豊前(ぶぜん)」 に属す。
その豊後国の主、強大な戦国大名、キリシタン大名、宣教師からは 「王」 と呼ばれたのが大友宗麟です。
1550年、父の義鑑が臣下の謀反により死去、弱冠、20歳にて豊後国の主となる。
1551年、宗麟が21歳の年、イエズス会宣教師 フランシスコ・ザビエルと引見し、キリスト教と出会う。
★領内の布教活動を保護することで、南蛮貿易を活発に行い莫大な利益を得る。
1578年(天正6年)宗麟48歳の年に洗礼を受け、 洗礼名は 「ドン・フランシスコ」 と名乗り、キリスト教徒となる。
★日本で初めて大砲(当時は国崩しと呼んだ)を使ったのが宗麟だとされる。
★鉄砲も種子島伝来より10年も早く、豊後へ伝わったとされてる。
【一時期は、九州六箇国及び日向、伊予の一画を支配した】
「豊後(大分県)」 「豊前(福岡県の東部から大分県の北部)」 「筑前(福岡県の西部)」 「筑後(福岡県南部)」
「肥後(熊本県)」 「肥前(佐賀県・長崎県)」 「日向(宮崎県の一部)」 「伊予(愛媛県の一部)」
★実に、薩摩国(鹿児島県)を除いた九州のほとんどを支配していたことになります。
【画像はJR大分駅前にある、大友宗麟公の像です。】
宗麟は、日向国(宮崎県延岡市辺り)にキリスト教国(キリシタンの理想国)、『むじかの里』 の建設を夢見た。
南蛮貿易を開花させ理想の国を追い求めた、キリシタン大名 大友宗麟。
『むじかの里』 戦争のない平和な国、理想の国を作ろうと決心するが・・・
その理想の地としての日向国に侵攻するが、1586年島津軍(薩摩)との戦いで大敗北。
豊後国内に攻め込まれるが、豊臣秀吉の軍勢による加担で島津軍を敗績させる。
1587年、秀吉による九州征伐後、秀吉より日向の地を与えられるが・・・
その年の1587年、豊後国津久見にて、むじかの里を夢見ながら病死、享年58歳。
宗麟の夢であった、むじかの里は遂にここで潰える。
【宮崎県延岡市に 「無鹿(むしか)」 と言う地名が残っています、「ムジカ」 ラテン語で音楽という意味。】
★ムジカは実現できなかったが、宗麟の残した功績は数知れず、強大なる戦国大名である反面、人間らしい一面も見せた。
【宗麟が没後、秀吉はキリシタンを弾圧した。】
画像は府内城(大分市)にある、宗麟公の像です。
画像の絵は、生家跡地に記念碑として建てられているものです。(タイル画)
福田画伯を代表する日本画2点です。
【福田平八郎】 1892年(明治25年)~1974年(昭和49年) 享年82歳
大分県大分市王子町一丁目 生家は文房具店を営む父母の長男として生まれる。
京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)卒業
後に本校、教授となる。
1947年(S22年) 日本芸術院会員
1961年(S36年) 文化勲章受賞 文化功労者
日展常務理事から顧問へ。
【大分市には画伯にちなんだ、「福田平八郎賞大分市小中学校図画展」 という名称の賞があります。】
★法然院(京都市左京区)哲学の道近くのお寺に、福田画伯ご夫婦のお墓があります。
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