そうすることに何の意味があるの?
7月
3日
「そうすることに何の意味があるのか?」
一日に35,000回は決断の機会があるといわれるが、その中でもこんなつぶやきが伴う決断が一日に何回かはあるんじゃないだろうか。
「それって何の意味あるの?」
時に冷たく、時に鋭く響く。
けれどもこの問いは、行動の価値を否定するためのものではなく、その行動に『自分なりの意味』を見出すための入り口なんじゃないかなと思っている。
意味を問うことは、ただの正当化のようにも思えたりするが、自分の選択に納得と方向性を与えるための静かな対話の機会のような気がする。
そしてその問いを丁寧に扱うことが、日々の営みを『ただの作業』から自分の人生に対する『生きた実践』へと変えていくようにも思う。
ボクたちは日々、無数の選択と行動を繰り返している。
けれども、その一つひとつに「なぜそれをするのか?」という意味を感じない時、その行動は「義務」や「惰性」に変わっているのではないか。
「そうすることに何の意味があるのか?」
という問いを立てることは、自分の行動に対して『納得できる理由』を作るためのプロセスにも思える。
毎朝の掃除
誰かへの声かけ
地道な記録作業
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単純な日課程度のこんな時間も、それらが「意味がある」と感じられるとき、行動は『自分の意志』として力強さを表してくる。
意味を問うことは、行動に魂を通わせることなんだ。
それは、他人に説明するためではなく、自分自身がその行動に誇りを持てるようにするための問いにも思える。
意味を問うことは、必ずしも「やる理由」を探すことだけではない。
ときには
「それをやらないことに意味がある」と気づくこともたくさんある。
無理に人に合わせない
あえて沈黙を選ぶ
何もしない時間をつくる
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そうした選択にも、自分なりの意味があれば、それは立派な実践なんだ。
この問いは、「やるべきかどうか」ではなく、「それをすることが、自分にとってどんな意味を持つのか?」という価値の問い直しともいえる。
意味を問うことで、『やらないこと』にも納得と優しさを与えることができる。
「そうすることに何の意味があるのか?」
という問いは、他者との関係性においても、対話の深みを変える力を持っていると思う。
誰かの行動に対して「なぜそれをするの?」と尋ねるとき、それが責めではなく、「その人の大切にしているものを知りたい」という姿勢から発せられた問いであれば、関係性は深まるはず。
また、自分自身が意味を問う習慣を持っていると、他者の行動にも「その人なりの意味があるのだろう」と想像することができるようになる。
それは、相手の行動を評価するのではなく、理解しようとする姿勢なんだ。
意味を問うことは、自分との対話であると同時に、他者との対話の質を高める営みでもある。
「そうすることに何の意味があるのか?」
という問いは、時に迷いを生むこともある。
けれどもその迷いの中にこそ、自分が何を大切にしているのか、どんなふうに生きたいのかという本質を浮かび上がらせる。
意味を問うことは、行動を正当化するためではなく、自分の人生に納得と方向性を与えるための静かな実践。
そしてその問いを繰り返すことで、私たちは「選ばされる人生」ではなく、主体的に『選び取る人生』を歩んでいけるのだと、実感している。
投稿日 2025-07-04 00:49
ワオ!と言っているユーザー