ヤッホの港
ホサナ・キリスト教会、日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「お着物に触る事でもできれば、きっと」
マルコの福音書 5章25~34節
"そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」"
(1) 希望を失った女性
①不治の病
12年間の漏出を病む女性~体力を消耗するばかりか、社会的に大きな制約を受けた。
レビ5:25
②悪くなる一方であった
全財産をつぎ込んでも医者には解決できずに、症状は悪化するだけ
これはまさに罪ある私たちの写し絵ではないか~ドラック、酒、快楽などに溺れて中毒になった挙句、健康と財産を失う。
(2) イエスのことを耳にして
①イエスをメシアであると信じて
メシアにしかできない癒しの奇跡を、主が行っていることを耳にしたゆえ
② 「お着物に触る事でもできれば、きっと直る」
ユダヤ人男性の着るガウンの四隅についているフサの事
自分に直していただく資格があると考えたのではない。癒し主にその権威があるとの確信。
(3) 病気にかからず、健やかで
①主のなされた「救い」=「直る」(28,29,34)の業は、瞬間の出来事
私たちを赦し、命を与える主の業は瞬間的である
恐れ震えながらも、主がしてくださったことを告白して確証を得る
②その後の人生においても健やかであれとの継続される祝福
主に対する感恩と感謝からの信頼関係が継続した
(結論)
時に私たちは重たい現実を前にしてどう祈ればよいのか、人々に説明したら良いのか分からないことがある。そんな私たちの罪や汚れ、恐れや戸惑う心を主はご存知だ。
主はそんな私をも拒絶されずに受け入れてくださる。礼拝に来たのは、御衣に触れるため。それだけでも良いのではないか。
「あなたの本質を見極めるキリスト」
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「あなたの本質を見極めるキリスト」
マルコの福音書 2章15~17節
"それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"
(1) キリストは、人をどう見たのか
①人の本質はどこに? 人は様々な物差しで他者をカテゴライズし、理解しようとしてきた。
民族、国語、性別、家庭、学歴、職業など。
②キリストはあなたをどう見るか(聖書の人間観)。神の形に造られたた尊いものであり、善なるものである。罪によってこの事実に曇りが生じている。
(2) 人々は、人をどう見るのか
①病の人を見て(2:3) 。 非生産者であり、価値のないものであるとみなす。
②取税人と罪人たちを見て(2:16) 。 神に捨てられているが故に人の社会から阻害され無視されても当然だとし、その差別感情が優越意識を助長させた。
(3) キリストの見方に気づくとき
①私の真の価値に目覚める。罪と病の不健康な状態が真の私ではない。真の私はキリストが自らの命を捧げるほどに尊いものである。私の中に隠れている神の子としての姿をご覧になっておられる。
②他者の価値にも気付く。キリストの愛により癒され満たされたとき、あの人の為にも、キリストは命を捧げられたことに思いが及ぶ。
(結論)
私は自分自身を、そして他者をどのように見てきたであろうか。
キリストの視点でこの世界を見るために、今注がれている私に対するキリストの眼差しを受け入れよう。
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「人は土を耕すものとなった」
創世記 3章21~24節
"神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。
神である主はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
神である主は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。
こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。"
(1) エデンの園から追放されたアダム
❶裁きの要素
果実・採集生活から労働による農耕生活(17-18)
やがて肉体的な死を迎え、ちりに帰る(19)
❷恵みの要素
労働は、人を堕落から守るようになる
悪を知った人が、そのままの状態で永遠に生きることの苦悩
「いのちの木への道」(24)は一時的に閉ざされていても、やがて開かれるのが暗示されている
「皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」ー動物による はじめての生贄 、贖罪の原初タイプ
(2) 創造の業に参与するアダム
❶土地から取り出された地を耕すことで、生命を維持する生業が始まった
その土地と降水は、植物を成長させ、結実させると言う神の業に他ならない
❷主イエスの4つの種類の土地の例え話から
①道端に落ちた種、
②岩地の上の薄い土壌に落ちた種、
③棘によって塞がれてしまう土地、
④手入れされ耕された土地
〜結実に至るには、人手による耕作が必要である
(3) 自分自身を耕し、また耕して頂くアダム
❶農耕には季節を学び、種の種類を選り分け、品種を改良し、他者との共同作業が必要
〜人は自らが頑固な思いを捨てて、自らを耕す者とされねばならない
「culture」は「耕す」を意味するラテン語「colere」に由来初めは土地を耕す意味で用いられていたが、英語に入って「心を耕すこと」の意味で用いられるようになり、そこから「教養」「文化」も意味するようになった
❷その不従順でわがままな人の心を耕す方がおられる
"わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。"
(ヨハネの福音書 15章1~2節)
「刈り込み」という修正作業を通じて私たちを教導される父なる神
(結論)
私たちは、失楽園の子孫としての肉体的死と霊的死の状態で生まれてきた。
神の子イエスが究極の生贄として、自らの命を捧げられたことにより、神の前に立てるものとされた。今置かれている世界で神と共に働き、耕すものとされたのである。
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「いつかは知らなくとも良い」
使徒の働き 1章10~11節
"使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"
使徒の働き 1章4~8節
"イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」"
(1) 弟子たちの悲願
①「イスラエルに王国を復興してくださるのは、今ですか」
かつてエルサレム中の人がその強烈な悲願に期待をかけたが、主は十字架へ向かい、
人々の失望は、怒と憎しみに変えられた
②聖霊の中へバプタイズされることへの言及。新しく画された時代への言及は、弟子たちへ勘違いを産んだ
(2)イエス様の肩透かしな応え
①「いつとかどんな時とかは、あなた方の知るところではない」
イエス様のおられるこの時に、自分が活躍できるこの時代に、生きている目で悲願の成就を見たいとの彼らの熱い願いは聞け届けられない
②私の期待通りの時に、祈りの応答のない時
祈り自体が間違っていたのか、信仰が足りないのか、神は聞いてくださらないのか、
祈ることを信じることを諦めてしまいやすいのが私たち。
(3) 時について権威を持って定めておられる方がおられる
①弟子たちの悲願は、聖書の約束に基づくもの
神がアブラハムに約束されたものは、神の誓いを経て永遠に不変である
②その約束の実現時期については、父なる神のみが知っておられる
驚くべきことは御子イエスでさえ、御使いさえ関知されていない
父なる神に属する排他的専権事項
(結論)
あなたの願い通りに今ことが運ばなくても、信仰の祈りを捨ててはならない。
神はご自身の御心の時にその祈りに答えを与えられるから。
①アブラハムに子供が与えられたのは、約束の時だった(創世18:14)
②ユダヤ人の希求していたメシアは、運命の時に来た(ガラ4:4)
③祈りは、運命のとき(Due to time)にきかれる(1ペテロ5:6)
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「いつかは知らなくとも良い」
使徒の働き 1章10~11節
"使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"
使徒の働き 1章4~8節
"イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」"
(1) 弟子たちの悲願
①「イスラエルに王国を復興してくださるのは、今ですか」
かつてエルサレム中の人がその強烈な悲願に期待をかけたが、主は十字架へ向かい、
人々の失望は、怒と憎しみに変えられた
②聖霊の中へバプタイズされることへの言及。新しく画された時代への言及は、弟子たちへ勘違いを産んだ
(2)イエス様の肩透かしな応え
①「いつとかどんな時とかは、あなた方の知るところではない」
イエス様のおられるこの時に、自分が活躍できるこの時代に、生きている目で悲願の成就を見たいとの彼らの熱い願いは聞け届けられない
②私の期待通りの時に、祈りの応答のない時
祈り自体が間違っていたのか、信仰が足りないのか、神は聞いてくださらないのか、
祈ることを信じることを諦めてしまいやすいのが私たち。
(3) 時について権威を持って定めておられる方がおられる
①弟子たちの悲願は、聖書の約束に基づくもの
神がアブラハムに約束されたものは、神の誓いを経て永遠に不変である
②その約束の実現時期については、父なる神のみが知っておられる
驚くべきことは御子イエスでさえ、御使いさえ関知されていない
父なる神に属する排他的専権事項
(結論)
あなたの願い通りに今ことが運ばなくても、信仰の祈りを捨ててはならない。
神はご自身の御心の時にその祈りに答えを与えられるから。
①アブラハムに子供が与えられたのは、約束の時だった(創世18:14)
②ユダヤ人の希求していたメシアは、運命の時に来た(ガラ4:4)
③祈りは、運命のとき(Due to time)にきかれる(1ペテロ5:6)
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「内なる人が強められるように」
エペソ人への手紙 3章14~21節
"こういうわけで、私は膝をかがめて、
天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。"
"どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。"
(序論)
「内なる人」とは近代的自我のことと一般的に理解され安い。
「強められるように」とはつまり健全な自己愛や自尊心を持てとのことか。
動詞の時制と様相に注目すれば、その共通した用法から何を意味しているかが明らかとなる。
それは何を意味するのか
愛を理解する力を得られるように(18) Aorist + Subjunctive
愛こそがキリストの教えの要約であり最高峰のものであり全て
神の満ちている様にまで満たされるように(19) Aorist + Subjunctive
どこまでも制限のない神の満ちている様相にまで
(2) それを求める根底は何か(17)
キリストが心の内に住んでおられるのだから
「住まわせてくださいますように」と希求形で訳すのは疑問
Aorist + 不定詞〜「心に住んでおられるキリスト」と本来訳すべきもの
愛に根ざし(完了形・受動態)、基礎を置いている(完了形・受動態)ゆえ
植物を支える根と建物を支える基礎工事が背景に
そこに至る方法は何か
人知を超えたキリストの愛を体験し続けることによる(19)
「知ることができますように」と希求形で訳すのは疑問
Aorist + 不定詞〜「(既に)知っている」と本来訳すべきもの
「超えている」は現在形+動名詞ゆえに、知ることが絶えず更新され続けるように勧められる
すべての聖徒と共に生きることによる(18)
その長さ〜年齢差や時代差
その広さ〜人間性の幅の大きさ
その高さ〜山よりも高い気高さ
そに深さ〜人の罪の深淵さ
(結論)
目に見える即物的で実現可能な事は祈らなくても努力で実現可能。
パウロの祈りは人間のできることを超えたもの。
私たちに働いている聖霊の力によってキリストが期待していることである(20)。
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「私たちの国籍は天に」
ピリピ人への手紙 3章17~21節
"兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。"
(1)人の帰属先(ID)
①人が何者であるかを決定するもの
住居地、職業、家系、所属教会など。
自己紹介等に用いるし、おおよそ客観的に人を類型化出来る便利さがある
②人の本質はどこで決まるか
住居は移動するし、仕事や教会も変わることがある
この世界に私自身の本質に関わる帰属先を預けるとなると永続的な基盤はなくなる
(2) 失われた帰属先
①表面でなく本質的な意味で帰属先が失われてしまった
〜失楽園以後の人の姿
②その結果の混乱と錯綜
彼らの神〜欲望
彼らの栄光〜恥
彼らの最後〜滅び
(3) 回復された帰属先
①帰属先=国籍が天にある生き方とは何か
キリストは最終ゴールであり永続する継続的な世界に私たちを招かれておられる
②キリストはやがて来られる
天(神)によって地上の営みは統制されているが、その天がやがて地上に投入される
その時にはこの滅びる体も栄光の体に変えられる
(結論)
キリスト者とは、キリストに所有された者の事。
この世にあっては異質かもしれない。異なる原理で生きているからである。
しかしその原理こそ普遍的で永続する天からの生き方であろう。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「私の所有者は誰なのか」
ローマ人への手紙 14章4~11節
"他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。
次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」"
(1) 私自身のものであるとする誤解
①通常、私たちは衣食住を決める自由を持っている
〜よってこのような誤解を生み安い
②時に制限もあるが
独裁国家による自由の制限や、前近代的な奴隷搾取生活
(2) 私自身を持て余してしまうとき
①心や体を思い通りに制御できるのか。
〜自律神経などの不随的働き
②社会通念等によって知らず知らずのうちにコントロールされる場合もある
〜「日」や「食」に関する宗教的戒律下にあった当時のローマ教会
(3) キリスト者は神が所有権となった者
①キリストが死んで甦られたゆえに
〜「生きるにしても死ぬにしても」私は私のものでなくキリストのもの
②神のものは神がお守りになられる
〜その生死に関わること、最期に臨んで責任を取られるのだ
(結論)
キリストは私を捉えられた。
私はキリストのものとなり、キリストが私のものとなった。
今や私の心と体の全てをキリストが所有しておられる。
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「あなたを信じ抜く方」
ルカの福音書 22章24~34節
"また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。
すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。
食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。
あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。
わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。
そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。
シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」"
聖書の中心メッセージは何か
神は人を信じられた
エデンの園で。
シナイ山での律法付与の時に。
サタンの挑戦
「人はあなたの信頼に値する者なのか」 ヨブ1章〜2章
確かに人の歴史は神の期待を裏切り、その御顔に泥を塗ってきた。
(2) キリストの戦い
人の代表として神の信頼に応える事
アブラハム、ヨブ、ダニエルなど信仰者としての系譜に置かれている。
ご自分の弟子らを信じ抜かれる事
十字架を前に裏切った彼らをなおも信じた主。
神の愛は人を信じ抜く。
「信」に生きる者とされて
信を失う試練と隣り合わせの私たちの人生
しかし、人には耐え得ない試練はやって来ない〜神の許容範囲。
"主はサタンに言われた。
「では、彼の財産をすべておまえの手に任せる。
ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」
そこで、サタンは主の前から出て行った。"
ヨブ記 1章12節
私たちが神を信じる以上にキリストは私たちを信頼される
"主はサタンに言われた。「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」"
ヨブ記 1章8節
(結論)
キリストは値しない私たちを信じておられる。
これを知る時、不真実な私たちに「信」が立ち上がって来る。
そこにキリストとの霊の交流が始まる。
ヨルダンのペトラ
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「生きている者にも、死んだ者にも」
ルツ記 2章17~20節
"こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。集めたものを打つと、大麦一エパほどであった。
彼女はそれを背負って町に行き、集めたものを姑に見せた。また、先に十分に食べたうえで残しておいたものを取り出して、姑に渡した。
姑は彼女に言った。「今日、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女は姑に、だれのところで働いてきたかを告げた。「今日、私はボアズという名の人のところで働きました。」
ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように。」ナオミは、また言った。「その方は私たちの近親の者で、しかも、買い戻しの権利のある親類の一人です。」"
(1) 恵みは生きている者にのみ与えられるのか
①私たちの陥る錯覚〜順境のときには神は愛であると感じ逆境には神はいないと感じる
②だが、私たちの知らない所でも神の働きは続いている
〜目に見えないのでこのことをなかなか信じることができない
(2)死んだ者にも与えられた恵みがあった
①ルツの例。死んだも同然な姑のナオミとの今日の生活生活、その境遇。
「"私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」"
ルツ記 1章21節
②人から見捨てられ、失望の中で死んでいたこの私にも恵みは届けられた。
逆境にあって神の愛を感じられず見えないが、信頼を構築する好機となる。
(3) キリストが死なれ、その後復活された理由
① 神のなさる事は人の想像を超える
"キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、
主となるためです。" ローマ人への手紙 14章9節
②この死んだにも等しいものにも神の霊が吹き込まれ
再び起こしてくださる方がおられる。
(結論)
あなたは今生きているのか〜その幸ではなくそれを与えられた神を喜ぼう
あなたは今死んでいるのか〜そのあなたを甦らすことができる神への信頼を与えられる時だ
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