記事検索

虚無感

スレッド
前回の記事が、おおよそ一ヶ月前のことだがーー随分と甘えた文章で我ながら嘲笑してしまう。

幾分か、すべきことをする元気は取り戻して、
けれども変わらずに虚無感との格闘を続けている。

虚無感。
私の心の中にずっと沈殿しているその感覚は、ふとした瞬間に心を覆い尽くそうとする。

誰しもにある感覚だと期待するが、どうだろう。

短的に言えば「これをして何になる?」という疑問だ。
今やっていることはおろか、自分の存在さえ無意味のように思えてしまう。

結論から言えば、この感覚を一度覚えてしまった者は、
生涯かけてその答えを導く努力をし、戦い続けるしかない。
下を向く顔を無理矢理 前に持ち上げるように、溜め息をもらしながらでも、明日を待つしかない。

何かをしながら。無意味と思える何かをし続けるしかないのだ。

そういう風で、私はどうにも自分が「若い」と自覚したことがない。
この感覚を抱えながら、ずっとこの先を歩いていくことに絶望を感じている。

理由を話そう。

環境は変わってしまう。
今大切に抱えているものは、いつか壊れる時が来る。
うっかり落としてしまったり、落としたことにすら気づかないかもしれない。

それが人生だと言われても、恐怖しか覚えないのだ。

ではこの心の傷は? 忘れたい記憶ばかりが残り続けて、
覚えていたい声や、顔や、時間や、景色ばかりが色あせてゆくなんて。
大切な、大切な存在が、いつか記憶の片隅に追いやられるなんて、と考えただけでご覧よ、こんなにも泣けてしまう。

今が、
大切なものをもつ今が、尊くて、仕方がないのだ。



私は、未来が怖い。


人間が築き上げたものは天災が一瞬で無にしてしまう。
文明も、知恵も何もかも、それを持ったことが間違いだったのではと錯覚してしまうほどに、想像もつかない力でなぎ倒される。
命は、ただでさえいつか無くなるというのに。
それどころか、同じ人類であったって奪い合うくらいなのに。

継いでゆくことしかできないのに、継ぐ意思を持つことさえ戸惑わせる。

感情も、愛情も何もかも、その人が見て感じたこと全てが、
カタチとして残しても尚、消されてゆく。

ああ、聞きたいよ。
人は何のために生きているの?


考えても、それはもちろん堂々巡りというやつで、答えなんかでるわけがないのだが、
そんな感情が“虚無感”という名で常に私の中にあるのだ。


先にも述べたが、自分の命より大切な存在を持つが故なんだろう。

そう書くと、随分贅沢な悩みにも思えてきた。
明日生きるか死ぬかの人びとは今に必死で、そんな風に感じることなどないと聞く。
ますます、人が栄えるとは何なのかをかんがえてしまう。

この感覚を抱えずに生きることが、幸せなのかもわからない。
生き易いのは確かだろうけど。

期待してもムダだ。答えは出ない。文章にしたってこの体たらく。
今を生きるしかないという、半ば諦めにも似た結論に落ち着くのが関の山。

未来を憂い、ときに涙するこの感情は
意味があったと判明したときにはじめて、報われるのだろうな。

報われて欲しい。

今が全て、意味あるものだったと 思える日が来ますように。
そう、ただただ、願うばかりだ。



ーーたった1人で、どこか小高い丘の上で夕日を眺める自分を空想する。
不安なことは何もない。抱えるものも何も無くなって、懐かしさに涙しながら、ただ朝日を待つ自分。

その自分にまた、問いたい。

生きていて良かったのかと。

ワオ!と言っているユーザー

心の疲れ(愚痴回)

スレッド
疲れていたんだなぁ、と思う時がある。

途切れていた集中力が長時間続いたとき
昼まで寝てしまったとき
ご飯を沢山食べれたとき
そして、このブログにその時の自分の気持ちを残そうと思えたとき

思えていなかったときの自分は、他にすべきことがあったとか理由も含めて、
疲れていたんだと思う。

他の人も、こういう時があるんだろうか?

「疲れた」と口にしたときと、
自分では自覚していないときとで、私の場合は二パターンあるらしい。

自覚していないときにしっかりと休むことができたなら
だらだらとムダな時間をこんなに長く過ごさなくて良かったのに。

休めたという幸福感よりも、すべきことを後回しにして
時間をムダにしたことを後悔してしまう。

真面目すぎる、とどん引きの表情で言われたことは何度かある。
だが言われたことに腹立つくらいで、真面目を緩めることができない。

もうかれこれ、随分長いこと、そうやって過ごしてきていた。


「好きなことなら集中できる」という状態は、心が疲れている時だと最近知った。
何もしたくない、という感情は誰しもに涌きうるが、
面倒だなんだと言いながらも、結局すべきことをできる時が、健康な状態なんだそう。


たしかに好きなことしか、今の私はできていない。

面倒なことは本当に面倒に感じて、手もつけれていない。
重すぎる腰をあげたことに溜め息が出る。

だけれども、どうしたらこの状態から脱出できるのか、未だ自分の扱いがわかっていない。

自然の中に身を投じるとか
耳栓してメイソウするとか
リラクゼーション効果のある曲を聴くとか、

思いつくことをしようとすることが、既にめんどうくさい。

癒しが、むこうから来てくれないものか。

癒されるために動くことが億劫であるというのは、なかなか重症かもしれない。

久々にかいてとんだグチ回である。タイトルにいれよう。要注意と。


ああ、僕のことを客観的にみたのなら、
疲れの原因は責任感と真面目さ、それと自尊心の高さだ。

周囲の期待を裏切れないという責任感、
作品を自分の持てる最大限の力でもって仕上げねばならないという圧迫感。
もし心残りのあるまま世に出してしまったら? 半端な気持ちだったと気づく人は気づく。
信頼を失いかねない。
98%の努力が、最後の2%で「中途半端」の烙印を押される。
そんな考えが脳裏によぎって、2%を埋めきる自信がもてないまま、
今こうしてだらだらしているのだ。

なるほど、僕は自分のメンツを保つのに必死であり、
メンツを保つことが、あまり得意でないらしい。

「気楽になりなよ」と声を聞いても、「いいやダメだ」と打ち消す自分がいる。
実に厄介。
このときの自分の心の、奥底にある欲求を表すなら「消えてなくなりたい」だが、
他にも、今この状態の自分を「好いて欲しい」という気持ちがある。

「それが良い。あなたのみりょくだ」などと言われたら、僕は今の自分を肯定できて、
一瞬で自尊心を満たすことができるだろう。
面倒だといいながらもすべきことは出来るようになるかもしれない。

ああしかし、それもまた空想の世界。

一時の、自尊心を満たしたいだけの衝動で、他人の心に頼ることはできない。


すべきことができている人は、どのように満たされ、何を原動力にしているのだろう。

どんなに良い運勢でも、自分が怠けてしまっては結果はやってこない。

そんな怠け者に容赦ない現実が、また僕の心を締め上げている。

夜は、まだ更けてゆく。

ワオ!と言っているユーザー

大野智という人②

スレッド
大野さんは何を根拠に努力できているのか。
人の評価がやる気につながらない人だと先のブログでのべた。


前回は評価が良かったから、今回も頑張らなければ。

人はその重責に、前回で勝ち得た、
「私ならできる!」という“自負”で気持ちをもりあげて取り組むが、
それがなかったら?

『ソレにかけた時間でしか、結果は得られない』と思っているとしたなら?


究極に没頭し、多くの時間を費やし、精神をすり減らし、
その果てに、“たまたま”合格点に到達できた。

もしかしたら、本気でその程度の認識でしかないのかもしれない。

そう考えて、私はこれまで大野さんの伝え聞く数々の話にガテンがいった。


例えば、松本さんが作るコンサート、
大野さんにもう一曲振り付けを考えてくれないか、と打診したときに、
大野さんは「無理!」と言ってきかなかったという。

今振り付けているもので手一杯だから!と。

松本さんの想いがわかっているうえで、協力したいのはやまやまだろうが、
そこで安請け合いしないところにプロの判断を見た気がした。

当時は松本さんの言うことを聞かないなんて意外だな〜くらいにしか思わなかったが、
今こう考えると、本当に時間が足りなかったのだろう。


そして、ジャニーズJr.のときに辞める動機になった想いだが、
『ダンスを極めたと思った』という言葉。
大野さんは至って真面目で、だから、イラストレーターになろうと思っていたという。

私のこれまでの教育によれば、簡単に業の道で「極めた」なんて言葉を使えば、
恥知らずだなんだと叱責されてもいいようなもの、である。


でもそれだって、きっと莫大な、
人とは一線を画すくらいの時間を使い切ったという思いによるところなんだと思う。
その上で、絵を描く方が好きだな(もっと多く時間を割いても苦ではないな)、
と気づいたのかもしれない。


さらには、後輩がご飯の席で大野さんに仕事の悩みを相談した際には、
「本気で悩んでいるヤツはこうしてフラフラ呑みにでたりしない。
家に帰ってとことん1人で考えろ!」と帰したという。
それは後輩にとってはビックリどころか、ショックですらあるだろうが、
大野さんはずっとそうやって難題に立ち向かってきたのだろう。


もしかしたら自分より短時間で台詞を覚えられる二宮さんとか、
そういう人に「凄いな」と思っているのかもしれない。

そう書いて気づいたことだが、ダンスを短時間で覚えられるようになったからこその
『極めた』だったのだろうか。
是非はわからない。



人からの評価を全く気にしない人、大野さんほどの人とは今まで会ったことがない。
だからわからないままに尊敬してきたが。

本人は自分を極めてフツウだと思っていて、天才だとも思っていなくて。
故に、人前でも猫背でいられるのかもしれなかった。


私は思う。だとするなら、
それだけ長い時間集中していられる、それこそが才能であり天才なんだと。


大野さんの演技、ダンス、そういう豹変ぶりを
2年後には拝めなくなるのが本当に切ない。

でもこうして、自分が今までまったく気づいてこなかった、
大野さんの魅力と、世の中の理を知れたことは、今回の発表があったからこそだ。

もちろんあくまで私の推測でしかない。

でもあれだけトップアイドルの、しかも最高権力者という立ち位置にありながら、
「休みたい」と、現状への満足が一切ない姿の理由を感じることはできたと思う。

癒しの1人の時間にも、仕事が割り込んできて、限界だ。
そういう判断だったんだろう。


音楽に精通している人によれば、大野さんの声は理想的な高さであり、
実に情緒的で、美しい響きと、微調節を含む正確な発声ができる凄い人なんだという。

生まれ持った才能は、声か、感性か、集中力か、それの全てか。


多くを語らないだけに、本当に興味深くて、未知の部分が魅力的な人だ。


大野さんのそういう繊細な性格に気づけなかった、寄り添えなかった
仕事のタイトな組み方には嘆かわしいものがあるが、


願わくば、いつか来る日に、またその姿を拝みたい。
帰ってきた理由も含めて、何を語り、休息の間に何を思ったのか、聞いてみたい。


といっても今は、この2年を走りきれるのかどうかの方が気になるけど。

他の4人の温度差と、現状まるでかけ離れていると思うので、
ここからどのタイミングで腹をくくり、勇ましい背中を見せてくれるのか。

最後のその日には
今までありがとう、ではなく、待ってると声をかけて、
華やかに送りだしてあげたいものである。

嵐を大切に考えている大野さんに贈る、それが敬意。
居心地の良い人間関係なんて、そう作れるものではない。

気づいて、戻ってきて欲しいなあ。

ただただ、未来に希望があると願うばかりである。
#嵐 #大野智 #休止

ワオ!と言っているユーザー

大野智という人①

スレッド
私は、嵐が好きである。
衝撃的な活動休止宣言から、3日、
ふとした瞬間に虚無感に襲われるくらいには、嵐が好きである。

どこが好きかといえば、
嵐の『仲の良さ』という“またか”と思われても致し方ない理由である。

だが、聞いて欲しい。

第一に、嵐はメンバーの意見を否定しない。
自分と反対の価値観を、リスペクトを通してみることができるのだ。
そして、自分の意見を強要もしない。

文にすれば3行で終わるそれの、なんと希有なこと。
嵐の “怒りや疑念、拒絶とかそういう『人の醜い部分』を一切感じない人間関係” を見て
癒されているのである。


その嵐をつくったのは大野智その人だと思う。

少し調べればわかることだが、嵐のメインボーカルはデビュー時から大野さんである。
ダンスも「大野を見て学べ」と言われるくらいうまい。
芸術にも造詣が深い。

実に才能豊かな人なのだ。

だが、驚くべきことに、
特筆したい、
一番重要なポイントなのだが、

大野さん自身は、ソレをまったく“自慢しない”というところだ。

大人の嗜みとして隠すことはできるが、自負というのはふとした瞬間に垣間見えてしまうものである。
が、大野さんはそれがない。

評価はどうしたって耳に入るはずである。
歌・ダンスがうまいね、とか主演映画にこれだけ人が入って、とか、
絵を描けばその道の著名人に「凄い」と言われたりする。

それなのに、その得意分野が活かせる場面がきても、

俺に任せろ!と前にでるタイプでは全くないのである。

尊敬すると言われても
「なんで俺?」と真顔でかえしてしまえる人なのである。
背筋がのびるどころか、猫背そのままにテレビに映る人なのである。


全くもってわけがわからない。


だからこそ人は魅了されてしまう。
覚醒した姿は衝撃的どころではすまない。

大野さんの“否定しない”とか“意見を強要しない”とかそういう部分に啓蒙され、
“目前の仕事に本気で取り組み、結果を出す”という姿勢に心酔して、
自分も頑張ろうと思えてしまえるんだと思う。

「今、目の前にある事を頑張れない奴が何を頑張れるんだ」

二宮さんの「根幹になった」という一言を、
言った大野さん本人が、覚えていないのは有名な話……。


そんな大野さんが、「休みたい」と言った。


この絶頂期にそんなコトが思える大野さんを、今一度考察してみて、
「自負がないからこそ、だったんだろう」という意見に賛同する。

つまり、人とは、他の芸能人とは違うのだ。


人の評価が、原動力になり得ないのだ。


黄色い声援をあびたら、やる気になるのが人間である。

褒められたから、次も頑張れる!という感情が人より希薄だとしたなら、
一体何が大野さんを突き動かしていたのか。

それは、責任感だったのかもしれない。


大野さんは人一倍責任感が強く、真面目な人なのだろう。


責任感がなければ、辞めたくなった嵐を10周年で「みんなに祝ってもらったから」で再び頑張れない。
責任感がなければ、休止が決まったそのあと、2年も同じ熱量で頑張れない。
責任感がなければ、誰かしらに冗談めかして、「休みたい」と吐露していてもおかしくない。

真面目だったから、休みの日にも仕事がちらつく。
真面目だったから、メンバーや他の人のことを思って、自分の気持ちを永くおさえ込んできたんだと思う。

人一倍繊細な、1人が好きなそんな性格でも、
これまできちんと穴をあけずに嵐の、その他の活動を続けられたのは、
責任感からくる、確固たる決意と覚悟の現れだったのかもしれない。


ここで、私は更なる疑問にぶちあたる。


とはいえ、責任感だけでこれだけの努力ができるだろうか?
自分はできる!とも思っていない人間が?

どうやって?


そう考えて、私は今までの自分になかった、新たな価値観に気づき、衝撃を受けた。
#嵐 #大野智 #休止

ワオ!と言っているユーザー

理想の人

スレッド
夜なのに、力がみなぎっている。

よく寝たからだろうか。それもあるだろう。

けども一番は、まだ見ぬ未来への底知れぬ可能性や期待が、
言いようのない不安や悲しみを凌駕しているからだ。

全ての歯車は自然とかち合うようになっている。
そう、答えをもらった。

私が、今の私のままでいれるなら、全ては運ぶ。
全ては回り出す。
宇宙から微笑みが振ってくる。
私が、変わりさえしなければ。


環境が改善されたからとて、
知識と経験によって、失敗をしなくなったとて、
何もできなかった頃を、忘れてはいけない。
何もできない人を責めてはいけない。
どんなに恥ずかしくても、みっともなくても、
きちんと過去も自分だと認識すること。


感謝を忘れない。

自分の努力でここまで来たなどと、間違っても思わないように。
冗談でも笑えない。頑張ったねと言われたら、返すべきは
「おかげさまで。」
私は、1人ではない。
相手の存在を消してしまうことほど、悲しいことはない。


「まあいいか」をなくそう。
どんなことでも真剣に考える。
頭がおかしくなりそうなほど、精神が病みそうなほど、
真面目に真剣にぶちあたる。

乗り越えた時に、どれだけ大変だったかを忘れないために。

でも、乗り越えたら固執してはいけない。
次に、目を向ける。
乗り越えたという自信だけを抱えて、歩き出さねば。
自分の苦労自慢にならないように。


私は言葉より文が得意な、
表面と中身がまったく一致しないタイプ。
今までは子どもにみられるのがイヤで必死になって伝えようとしていたけど、
必要はないのかもしれない。
語らずに、認めてもらえれば良い話だ。


私は、

自分の夢が第一の人間で、そう言う意味では人との付き合いは希薄だ。
友人とは月に一度会ったら満足してしまう。
寂しい夜にも慣れた。むしろ楽しんでいる。

離れた友を思うこともない。
プライベートな時間はSNSさえそっけない。

そう、だから人よりも自分は、冷酷な人間だと思う。


でも、だからといって人の不幸が好きなタイプではない。

嫌いな人間であれ、人生に苦しんで欲しいとは思わない。
誰かの悲しむ顔もみたくない。
死にたいと嘆く人の背中はおさない。
寄り添うことしか、できないだろうが。

世話はしないし、かまってもあげないけど、
自立して、希望を持った目を持って、前を向いている横顔を、みたいと思う。
どんな、人間に対しても。


そうあれよ。あってくれよ。キラキラしててくれよ。
いつもいつも、そう思う。

人生は驚くほど、難しい。
何事もなく過ごせば本当にあっという間に簡単にすぎていくが、
かといって最後まで簡単にいくものでもない。
予想もしない出来事に、突然みまわれるのが、この世の中だ。

ちゃんと、レベル上げをしなければいけない。
精神のレベルを。
心のレベルを上げねば、越えられない。

そういう風に、できているらしい。


本当は、この独白だって、誰にも明かさず、
胸の内にとどめておくのが美しい。

いつか、そういう人になれたら、いい。
言葉でも、文でも語らずとも、評価される人に。


今、この日の私とまったく変わらず、
成果だけが、世に出る人になったら、良い。

ワオ!と言っているユーザー

朝。

スレッド
朝、目が覚めてベッドで身を起こしたまま、しばらくしていると
一粒の涙が、ほほを伝った。
悲しい夢をみていたとか、そんなんじゃない。


昨晩、私が約3年務めたバイトで、私のお別れ会兼ご飯会が開かれた。
私はココが最初の勤め先だったから知らなかったけど、
本当はこうした会が開かれるなんて結構希有なんだろうな、と思う。
ただの、一介のバイトなのだから。


でも、店長と副店長とは苦楽を共にしたと言っても過言ではない。
それくらい大変な時期が、ココにはあった。


めちゃめちゃに笑って、じゃあまたね、と手を振って別れた昨夜。
今朝、一区切りついたんだな、と思うと3年分のありとあらゆるコトがフラッシュバックした。


私は卒業したて。一番最初の職場。
何がわからないのかわからなすぎて、失敗の連続だった。

夢との闘いも初めたばかり。
自分の気持ちをコントロールするのは今ほど上手くなくて、
家族との付き合い方も、なんだかわからなくなったりした。

プライベートも仕事も難しくなって、
ノイローゼになるんじゃないかってくらい、寝れない日々が続いた。

やめたいという衝動に本当はずっと駆られていた。
苦難が去ってからも、その気持ちだけはずっとあって、
毎回帰宅途中には空を見上げずにはいられなかった。

夢と、現実。
その両立の難しさ、世間体の悪さを、ずっと空に投げていたんだ。


ああ、そうだったなぁ……って、
唯一変わらない部屋を眺めて思う。

最後の方なんて、人生の岐路といえるビッグイベントのために、
身なりも気にせず、余裕がなく、常にギリギリした状態だったから、
解放されたあとの私の変わりように、店長も含めて皆が驚いていた。

余裕のなさを隠せなかったことをちょっと恥じる。
でも、それにさえ、「終わってよかったね」なんて言葉をくれたりしたんだ。

希有なこの関係。新しくなった職場でこの関係になるのはいつだろう?
あまり期待はしない方が良いかもしれない。
私が思うよりずっと、ココでの絆は濃くて、尊いものだったのだろう。

恥ずかしくてそんなことは、伝えられないけど。


正直ここまで胸にくる最後を迎えられたのは、
その苦しみがあったからこそだからだと思う。

心に傷が深くたくさん入ったからこそ、それらが隅々まで癒された時に、
感じ入って、どうしようもなくなる。

やめなくて、良かった。
でもこれは、かなり異例なケースだと思って間違いない。


たまたま私はその苦しさをメンバーと共有できたし、
乗り越えることができたから、続いた。
結果として、環境は劇的なまでに改善されたんだ。

でもそれが、全ての職場に当てはまるとは思っていない。

私は、働くのが苦しいと言う人がいたとき、無理に頑張れとは言わない。
本当にやめたいなら、その選択もアリだと思う。

ただ、続けた先に何が起こるのか、何が待つのか、
それは、続けた人にしかわからない。

ここでの結末のおかげで、そう説くことは、できるようになったかもしれない。

3年間ありがとうございました。
改めて今までの、私生活も含めた全てを振り返って、頭を垂れる。
踵を返したら、もうこれまでと同じ私にはならないように、

前を向いて、
迷いを捨てて、
感情をコントロールして、
厳しく律して、

夢に向かって進んでゆこう。


きっと過去は私の前途を祝福してくれる。
泣きはらした目でいる過去の私も、今の私に「行けー!」と叫ぶことだろう。

どんだけ進んでも、この3年間は、ずっと私に手を降り続ける。

いつかまた、遥か遠くで、笑顔で手を振り替えそう。

一生、忘れずにいよう。

ワオ!と言っているユーザー

価値観

スレッド
映画を見終えたあと、
感動したシーンや台詞が人それぞれであるのは当然だけど
どうしたって人はそこで多少なり、“価値観の相違”を感じてしまったりする。

価値観。

同じ環境で育った兄弟でさえ異なるそれ。
なのにソレが合わないと、人はなんだか勝手に寂しくなってしまったりする。

腹が立ったり、
なかったことにしてみたり、
悲しくなったり、
いろいろ。

相性が合えば、それは本当に幸せなことだ。
私は、永らくの間、ソレが引き連れる寂しさに、悩んできた。



高校生の頃から、私は遊ぶ余裕がなかった。
真面目に勉強する、という風でもなかったけど、とにかく
学校が終わってからは直帰で、放課後誰かとどこかに行くことは、
片手で数えるほどしかしていない。
余裕がなかった。

専門に入ってからは、
それこそ技を知るために学校以外の付き合いを一切断った。
学校と家の往復。クソ真面目にそんな日々を過ごした。

そしたら、さ、世間との感覚ともズレるというものだ。

その弊害をもって、私に「もっと遊べ」という忠告をする人はたくさんいた。

頑固者に見えても仕方ない。
「寂しい」といえば「だから言ったろう」といわれ、
私も「ああ、間違っただろうか」などと過去を振り返ったりした。


「寂しいと悩むことは、悪いことじゃない」


とその言葉をくれたのは、敬愛するその人。


「人とは孤独というものだ。合う人なんて1人いたらいい。
遊んだからといって、欲しいものが得られるわけじゃない」


私は聞いた。
でも多くの人と合わない私は間違っているのではないでしょうか。
人の気持ちが理解できないのは、私が作るものにも影響するのではないでしょうか。

すると、


「あなたは別に、人の話を聞いていない人ではないよ」


敬愛する方はそれから、つらつらと教えてくれた。


「技を極めるには、それに多くの時間を費やさないといけない。
結果、孤独にもなる。
でも孤独になって、自分を知り、自分を知ることで、他人を理解できるようになる。
孤独な人が生んだものは、
多くの人に感動を与える。」

悩むこと、思考することを、やめてはいけない。
人の意見を“合わない”と言って、はねのけてもいけない。

孤独がガンコを生むときは、殻にこもって思考を止めたときだよ。

だから、

「あなたのソレは、必要なこと。」

続けてゆきなさい。


と、そう言われたときには、なんて大変な道を選んでしまったんだと思った。

辛くて集中することもままならなくなりそうな、この心理状態が必要だって?
続けろだって?
歯向かう気はないから、従うけど。
なんて大変で、憂鬱で、苦しい道のりなんだ、と思った。

周りはもっと楽しそうに生きているのに、なんてこった。
人生楽しんだもの勝ちなんじゃないのか。


ああ、でも
「そんなこと気にしてないで、作業しなさい」とか、
そんなことを言われたんじゃなくて良かった。

少なくとも腑に落ちて、
「しょうがない。今のまま、
寂しい時には寂しいと、しっかり思って生きていくか」なんて
軽やかに思えている自分がいる。

相変わらずこの先も、私は世間の感覚を理解できないだろう。
そんな私が生んだものが、世間に何を伝えられるのか。
どんな反響があるのか。

それを楽しみにしてみても、良いのかもしれないと思えた。

ワオ!と言っているユーザー

優しい世界

スレッド
人生には、二つの道しかない。
一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。
もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。


と、その昔、アインシュタインは言った。

私は後者の人間でいたいと常に思っている。

外出のタイミングで雨がやめばラッキーだし、
大事なものを失くしたら、それは何か自分の考えが間違っている、
というメッセージかもしれない。

物事がうまく運ぶとき、そうでないとき、
その時々で私は、自分の心の在り方を確認するようにしている。

そんななか。

愛犬のラッキーがこの世を去った。

2歳から4歳までをともに過ごし、家庭内の事情でやむなく養子に出した。
それから5年。年齢は9歳で、その種の犬としては寿命と考えて良いらしい。

ラッキーが去るちょうど一ヶ月前、
彼の住む街にほんの10日間いくことができて、
私と彼は再会を果たすことができた。

相変わらず落ち着きがなかった。
何も変わっちゃいない。

ふわふわの毛並みを5年ぶりに撫でて、次がまたあるだろうか、などと思いながら帰った。

それから一ヶ月。たまたま養子に出した人と縁のある身内が、私の部屋に来ていてリアルタイムで、危篤状態から召されるまでの経過を電話を通じて、知ることができたのだった。

もしこれが、
身内が部屋に来ているタイミングじゃなかったら、
あとから、亡くなったという報告だけだったら、
養子に出した以降再会していなかったら、
実感のわかないまま、彼はいつまでも記憶のまま残り続けたかもしれない。

でも会えたから、リアルタイムでその瞬間を聞けたから、
私は心から彼を悼み、涙することができたのだった。



ペットが亡くなったとき、きちんと泣かないと、いつまでもソノ子が心に残って、似たような柄を見つけては、ソノ子を投影してしまうという現象に陥るらしい。
後釜、とかいうやつだ。どちらにとっても失礼な話である。

涙して悼んだときには、一旦そこで全ての整理をつけることができる。
だから泣くというのは、人間にとって必要なことなんだと思う。

泣くことを恥ずかしい、男らしくない、とする風潮があるけれど、
泣かないでいる人間の方が、他人の理解に乏しくてガンコ頭になりやすい。

そう言う人は、すべてのことを奇跡とは、なかなか考え辛かったりするのだ。

奇跡を感じるためには、5感をフルに使う必要がある。
匂いも、触覚も、聴覚もなにもかも、
自然体でリミッターなどかけずに、普通にしていること。

そうすると泣けるし、泣けたことすら、奇跡だと思える。

偶然だよ、と言って片付ける人とは、私は付き合うことはできない。
でもそう言う人たちがいるおかげで、
凄いね、と語り合える人にであったとき、再び奇跡だと思えるのだ。

人生は努力こそすれ、あとは流れに身を任せていれば良い。

奇跡だと思わない人の人生がどんなものだが、私は知りようもないけど、
少なくとも、私の人生は豊かである。

ありがとう、ラッキー。
腕に抱かれたまま逝ける、幸せな最期で良かった。
ラッキーにとっても幸せだったなら、世界は少し、優しくなるよ。

ワオ!と言っているユーザー

ココカラ

スレッド
まどろみの中で、これまでを振り返る。

この前、私は人生の大きな岐路に立った。
自分が望んだ未来だった。でも、直前まで覚悟が足りなくて、
ありとあらゆる葛藤と苦悩の末、当日を迎えた。

結果、思いがけず大輪の華とかよばれるものを咲かせるに至った。
今はまた、静寂の上に落ちつく日々に戻っている。

そこは、空を見上げても星は少なくて、
その分、街の明かりが美しい場所だった。

まるでなんでもないことのように、街を眺め
目的に歩みを進めた時間を、少しもったいなく思う。

それも、余韻ということだろうか。
今だから、思えるんだろう。
そのときは、そんな余裕なんて、ぜんぜん無かったから。


でも、設営の終わった夜、ほんのりと明かりを灯して
見渡した部屋の景色だけは、忘れることができない。

本当にキツかった。
本当に、いままでしたことがないような我慢をし、自分を叱責し、
己を奮い立たせて、現状に怯え、未来を恐れて、
心が壊れそうなほど、
上手くいきますようにと
神様に祈った。

こればかりはどう話したって伝わりはしないだろう。
ひどく、感覚的なことだ。

次の日、色んな方から驚くほど、嬉しい言葉をもらった。

そうしてようやく、私はそれまでの苦労を昇華させることができたんだ。

もう、その場で人生が終わっても悔いはないと思えた。
いろんな方のおかげで、私は自分を許すことができ、
筆を投げたくなるような夜を、抱きしめてやることができたんだ。

努力が、はじめて報われた瞬間だった。
涙がでない わけがなかった。


この世の中はとても厳しい。
どんな経験もムダではない、という言葉があるが
もったいない はある、と私は思っている。

デッサンだって、結果どんな書き方であれ、絵ができさえすれば良い。
でも、床は水平に描いた方がより早く“床”になるし、
ビンは縦に線を入れた方がより早く“ビン”になる。
それによって大学に受かるかどうかの分かれ道にもなる。
受かれば良いという問題でもないが、目標は限りなく達成しやすくなる。

鉛筆のタッチの入れ方、一つ。

常識だと聞くと はねのけたくなるが、
それはきっと、理と言いあらわすべきだろう。

理。世の中の真理。

先人がつらつらと本にしたり、
歌にしたり絵にしたりして、後世にのこしてくれているそれらを、
あとは自分自身が、どううまく取捨選択できるか。

それで人生は決まると思うんだ。

とは言っても別段、こうあれ、とか言うつもりはさらさらない。
そうアレコレ考えずとも世の中は責めない。極めて放任。
それから劣等感なんて、抱く必要などない。

前を歩いても、私はついていかない。
後ろを歩かれても、私は導くことはできない。
横を歩いて、それぞれの道で、変わらない笑顔でいれますように。
たまにある合流地点で会えたらいいね、とそれくらいでいいのだ。

だから、申し訳ないことだが、私は選択を精査するだろう。
誰それに会うにしたって、“今”必要なことか否か、
時々に応じて考えるだろう。

何故なら、優先順位の一番は、“未来を好転させること”。
“自分の使命を自覚すること”。

一つのことをし続けるのは、決して簡単ではない。
好きという感情だけでは、私の夢とは付き合えない。

わかっているからこそ、わかったからこそ、
私はふたたび今を犠牲にしよう。

決意を新たに明日を迎えよう。


いつかくる、その日のために。

ワオ!と言っているユーザー

  • ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
    ログイン
  • まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
    新規ユーザー登録へ