《雅羅・/・ 襍囈〝款冬華〟大寒  ❖ ’24-20 ❖》

フキノトウ(蕗の薹) キク科 (Asteraceae /Compositae) 
学名: Petasites japonicus (Sieb. et Zucc.) Maxim.
※ 蕗の薹 とは、蕗の若芽のこと ※


廿日団子。
 
《 弐阡弐拾肆年壱月廿日!!》
歳をとったからなのか!! 否、偏屈なのか、古い事柄等に拘りを持っている。
漢字にしても旧字体を大切に感じ、あえて使ってみたり。
子供頃から家にあった辞書を未だに使っている。昭和七年(1932)二月発行。
親爺の辞書だが、書斎に行っては辞書を参考に勉強した(親爺は不在がちだった)。
 
今日は、大寒。“二十日正月”とも呼ばれる日で正月最後の日とされて来た。
正月最後として納めの行事を行う。骨正月、骨おろし、頭正月等とも呼ぶ。
資料によれば関西では「二十日正月」、関東では「正月納め」と呼ぶらしい。
大寒“初候”の頃を款冬華(ふきのはなさく)と表現していた。
款冬(ふきのとう)が顔を見せ咲き始める頃を云う言葉。“和”を感じさせる。
寒さが厳しい大寒の時期に徐々に冬の終わりへ向かう様を見せる事象。
この大寒頃に、冷水や空気を有効に利用する知恵、古来から行われている行事。
小寒から大寒の時期に水を汲む行事を「寒の水」と呼んだ。
寒の水は、冷え込む時期に汲む為、雑菌の腐敗がなく清らか、体にも良い。
保存性に優れる寒の水は、寒い時期に仕込む味噌、醤油、日本酒作りに適した。
又、心身を清める力があると考えられており寒の水を直接飲む風習も残ってる。
日常生活の中では、大寒の頃に寒餅と云う自然乾燥させた餅を作ったりもした。
この餅のことを「かきもち」や「こりもち」とも呼んだ。中には着色された餅も。
寒の水で炊いた餅を使って作ると健康に過ごせるともいわれ家庭で作ったものだ。
二十日正月に食べるものに、「二十日団子」というものもあった。
小豆団子と呼び、「小豆粥」と同様、「厄除け」「無病息災」を祈ったものだ。
和菓子屋さんで売っていたものではない。生活の知恵、余り物の活用だ。
お供えを細かく砕き乾燥させサイコロ状にして揚げて頂いた覚えもある。
又、祝い事や行事の時、福茶を頂いたが、昨今はとんと頂いていない。
二十日正月と云う正月の終わり“節目の日”家庭的に継承したい行事である。
毎年1月20日に、正月お迎えした歳神様(年神様)がお帰りになる日。
正月納めをする日等と我が孫たちには伝えたい。そして継承して欲しい。
「令和陸年(皇紀2684年)1月20日、記」
 
  
 
 
 
 
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《雅羅・/・ 襍囈〝忘見花〟木  ❖ ’24-19 ❖》

〝夢待桜〟:
登録品種データベースより;
農林水産植物の種類 Prunus L(サクラ属)和名:夢待(よみ:ユメマチ)観賞樹
 登録品種の名称, 夢待 (よみ:ユメマチ ). 出願公表時の品種名称. 出願番号, 24847.
樹形は盃状、樹高は亜高木性、樹幹の色は灰褐色、皮目の多少は中、
枝の太さは中、枝の色は灰褐色、分枝性は中、葉の全体の形は楕円形、
葉の先端の形は尾形鋭尖形、葉の基部の形は円形、葉縁の鋸歯の深さは中、
葉の鋸歯の形は単鋸歯、葉の鋸歯の先端の形は芒形、葉の長さは中、葉の幅は中、
葉の厚さは中、蜜腺の有無は有、蜜腺の位置は葉柄上部、花序の形は散房状、
花序の花数はやや多、蕾の色は64B、花の向きは横向き、花の形は一重咲、
花の開き方は平開形、花の大きさは中輪、花の色は65C、
花弁全体の形は円形、花弁の先端の形(切れ込みの多少)は少、
花弁の基部の形は鈍形、花弁の脈の色は目立たない、花弁の数は約5、
雌ずいと雄ずいの長さの比較は同、雄ずいの数は中、がく筒の形は盤状形以外、
盤状形以外のがく筒の形は鐘形、がく筒の毛の多少は無、がく裂片の形は長卵状三角形、
花柄の長さは短、花の香りは殆ど無、通常開花期は極早である。
(カラーチャートはRHSを使用)
 出願品種「夢待」は、対照品種「カワヅザクラ」と比較して、
花の向きが横向きであること、
花弁の長さが中であること等で区別性が認められる。
対照品種「カンザクラ」と比較して、花の大きさが中輪であること、
花弁全体の形が円形であること等で区別性が認められる。
以上、データベースより。
「夢待桜」は、伊豆大島の故尾川武雄氏が作出した新種の桜。
美しい姿形と優しい色合いが特徴で、
正月頃に満開になる「おめでたい桜」として知られる。
*       *       *
冬に咲く桜、十月桜・寒緋桜・寒桜・子福桜等々、総じて冬桜と呼ぶ。
しばらく前、藤沢市にある長久保公園に“夢待(よみ:ユメマチ)”
なる桜の若木が植栽されているのを見た。1月上旬に咲くとされる。
未だ実際に花に出会っていない。今年も見に行けなかった。
若木も成長したことだろう。来年は是非に見に行きたい。
画像を探したが見つからず、登録に提示された画像を借用した。
 
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月19日、記」
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《雅羅・/・ 襍画〝希少白花〟植物  ❖ ’24-18 ❖》

ウチダシクロキ(打ち出し黒木)   ハイノキ科(Symplocaceae)
学名:Symplocos kawakamii 
別名:オガサワラクロキ
  《 限られた場所に見える絶滅危惧種の花!!》
ウチダシクロキは、東洋のガラパゴスと称される東京都小笠原諸島の父島のみに生育するハイノキ科ハイノキ属の常緑低木です。小笠原諸島に生育する同属植物として、他にチチジマクロキ、ムニンクロキがあり、これら3種類の先祖から適応放散によって分化したものと考えられています。ウチダシクロキは岩石が多い感想した斜面に生育しています。乾燥した場所は多くの植物にとっては生育には適した環境とは云えないでしょう。ウチダシクロキの葉は、縁が内側に巻こまれた厚い皮質で、表面には深いしわが刻まれています。また枝は、著しく張り出した翼状の稜がついています。長い進化の過程でウチダシクロキは、乾燥した環境の中で生き残る術を身につけていったのでしょう。戦前からすでに個体数が少なかったと報告されているウチダシクロキですが、1980年の夏の厳しい旱魃(かんばつ)によって、乾燥に強いウチダシクロキさえ、大きな株が何本も枯れてしまったそうです。さらに近年の乾燥化によって、ますます個体数は減少しています。また、ウチダシクロキを絶滅に追いやるもう一つの要因が父島に生息するノヤギの増加です。低木であるウチダシクロキは、ノヤギにとって食べやすい高さに葉があります。場所によっては、ウチダシクロキを選んで食べている様子さえあります。環境省では、保護増殖事業を実施しており、ノヤギの食害防ぐため、ウチダシクロキの周りに柵を設置しています。その他、保護増殖事業では野生復帰のための人工繁殖にも取り組んでいます。元々限られた場所にしか生えない植物が環境の変化によって固体数を減らし、外来生物のノヤギによって選択的に食害を受けるという、二重の圧迫を受けて絶滅にひんしています。以上環境省資料より。
 
東京都文京区 小石川植物園(温室)で生育中;2024・01・13
小笠原諸島の父島にのみ生育する高さ0.5~2mの常緑低木。葉は楕円形で厚く、縁が裏面にカールする。葉腋に白い小さな花を数個つける。花冠は5深裂し、雄しべ多数。小笠原諸島には同属の植物として、本種の他にチチジマクロキとムニンクロキがある。花期は11月頃。
花冠は白色で5深裂し、長い雄しべが多数あるので見栄えがします。ハイノキ属の花は小さくて、白色・5深裂・長い雄しべのものが多いようです。(例:ハイノキ、サワフタギ、クロキ等)
ウチダシクロキは小笠原諸島の父島にのみ生育する希少植物です。レッドデータブックによりますと絶滅危惧ⅠA類(CR):「ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの」となっております。
なお、小笠原諸島のハイノキ属には本種の他にも「ムニンクロキ 絶滅危惧ⅠA類(CR)」と「チチジマクロキ 絶滅危惧ⅠB類(EN)」の2種があります。
葉は楕円形で厚く、縁が裏面にカールしています。いかにも乾燥に強そうな葉です。
東京都文京区 小石川植物園資料より。
*       *        *
余り人目に触れない場所に珍しい植物が生きている。なんとか保護して頂きたい。楚々として魅せる野草だ。
通常は、11月頃に花を付けるようだが、
温室では今の季節でも見られる。
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月18日、記」
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《 雅羅・/・ 襍囈〝樹の香〟仏像 ❖ ’24-17 ❖ 》

以上3画像、中宮寺「弥勒菩薩半跏思惟像」


上2画像、広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」




《 木造仏を拜みたい。願望、其の一 》
年頭から事象が激しく搖れ動いている。震災、明日は我が身か。
荒廃した環境が、脳裏を掠める。今の鎌倉では想像できない寺々。
震災だけが原因では無いだろうが、名刹の荒廃した仏像が脳裏に浮かぶ。
岩波写真文庫の鎌倉編を見た時、言葉を持てなかった。悲惨過ぎて。
鎌倉の名刹、覚園寺の仏像が崩壊状態で瓦礫の山と化している写真に。
青年になって実際に覚園寺を訪れたときの光景に驚いた事を覚えている。
当時の御住職の尽力で見事に元のお姿に蘇っていた。あの黒地蔵像もだ。
地蔵堂自体に木の香りを感じた細香をいまでも鮮烈に覚えている。
家の風呂も木造りだったが木の香りはなくお堂の佇まいに感動してた。
後で知った事だが、一応檜の湯槽、と母。関東大震災後に造ったのだとか。
檜については、庭師の職人さんから色々と教えてもらった。
木の仏像に関しては、覚園寺の老師や写真の恩師に詳細に御教授頂いた。
古い仏像に多用された木材(1963年・小原二郎)とされていたヒノキ(檜)。
だが、近年の研究で仏像材の事がより鮮明に分析され判明してきた。
檜材が使われるようになったのは、奈良時代(8世紀)以降だった様だ。
飛鳥時代(7世紀)の仏像では、殆どがクスノキ材である。
これは、中国(隋)の仏像の多くが芳香ある白檀で作られていた事による。
当時、日本には白檀がなく芳香あるクスノキが使われたと推測される。
又、クスノキは成長が早く大木から材を得やすく柔らかい。加工もしやすい。
中宮寺(7世紀前半創建)の国宝「弥勒菩薩半跏思惟像」はクスノキ材である。
良く対比される広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、アカマツ材の一木造。
中宮寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」は、一木造ではなく特異な木寄せ造り。
頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、
台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。
両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な造りである。
クスノキは、古代日本では魂ふりの力をもつ神木、霊木と見做されていた。
クスノキを仏像の材とされた要因は、種々考えられるだろう。
日本書紀には「ヒノキは宮殿に、スギとクスノキは舟に、マキは棺に使え」
と、それぞれの用途を教えしめされている。
日本は、木の国。木材を「信仰、霊性」の視点からも見てみたい。
而して仏像に使われている木材自体に“香り”がある。
素人的には、仏像から感受する精神性という香りも大切ではあるまいか。
できるものなら、写真(仏像写真)での憧れのD師の足跡を辿ってみたい。
まず最初に訪れたいは、法隆寺・中宮寺である。
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月17日、記」
 
 
 
 
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《 雅羅・/・ 襍画〝正月の竹〟植物 ❖ ’24-16 ❖ 》

カンチク(寒竹) イネ科(Poaceae)
学名:Chimonobambusa marmorea
別名:ゴセチク
ステッキに使われる寒竹。中々のもの!! 画になる。
《 正月に見る竹の子(筍) !?!》
カンチク(寒竹);
九州地方に自生するササの仲間。
紫を帯びた棹は艶があって美しく、古くから庭や垣根として植栽される。
寒中(1月上旬~2月上旬)にタケノコが生じる。
それ故、寒竹と名付けられた。
タケノコが出るのは普通9月~11月らしい。
越冬して翌春に皮を落として葉を開く。
稀に年内に葉を開く。竹では最もタケノコの発生が遅い。
年末年始に葉のついたタケノコ状態になる事で正月花の定番。
タケノコの皮には褐色の縞模様があり、蛇皮の様にも見える。
タケノコとしては小さいが美味で食用としても利用される。
葉は小さめで、長さ6~15㎝、幅2センチほどになる。
枝は各節から3~5本生じて密生する。垣根として目隠しになる。
棹は細く、直立するが先端は緩やかに湾曲して垂れ下がる。
節に毛はないが時折、短い棘のような気根を生じる。
棹は最大で5mほどに育つが、節止めして管理する。
成長はやや遅く、地下茎もさほど広範にならなく小庭に合う。
棹の寿命は短く2年で枯れるため、定期的に根元から剪定する。
インテリア、家具、袖垣、竹細工などに用いている。
*       *       *
この季節、花観察出来る野生種植物がない(探す時間無し)。
それでも見応えある正月用植物は、ある。
地味だが園芸店で見かけた竹、以前植物園で見たのを思い出す。
   
「令和陸年(皇紀2684年)1月16日、記」

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《 雅羅・/・ 襍囈〝小正月〟継承 !! ❖ ’24-15 ❖ 》

以上の輪飾り、燃すには余りにも忍びない。
眼を楽しませてもらう。続いて。。。
綺麗すぎる!!
荒神様等のお供え、お供え前はなんともふくよかって感じだ。
お粥は、体に優しい。
《 伝統・・正月行事を消してはいかん !!》
昨日、一月十四日は陰暦では団子小正月、年越しの日とされて来た。
餅花を作り飾る。団子や前年の初穂を農神に供えたりもした由。
新暦になり1月1日「元日を大正月」「15日を小正月」と呼ぶ。
大正月に「門松」を、小正月には「餅花や削り花」などを飾る(花正月)。
餅花は、餅を薄くのばして丸く平たく切って彩色したもの。
削り花は、神仏などに供える飾り棒のこと。
小正月の朝、五穀豊穣を願う農耕儀礼の一つ「小豆粥」を食す習慣がある。
古く「土佐日記」や「枕草子」にも、小豆粥を食べた、と記されている。
旧暦(太陽太陰暦)では、1年の最初の満月の日、一月十五日が元日であった。
明治になって新暦(太陽暦)が採用され1月1日が元日となる。
これがために小正月の存在事象が影をひそめてしまった。。残念(私的に)。
昭和24年(1949年)に「国民の祝日に関する法律」が施行され、
1月15日が「成人の日」として祝日になり、小正月の行事も復活したが!!
小正月はおだやかな祭りで家族の中のお祭りとも言える。
更には、正月から饗しに多忙だった女性を癒やす意味で女正月とも云われる。
小正月の朝には、小豆入れ炊いた小豆粥を食べて無病息災を祈る風習もある。
小豆には、邪気を払う力があると信じられていたことにもよるか。
正月の門松や注連飾りなどを焼く、左義長(とんど)も行なわれている。
小豆粥を炊いてその年の農作物の豊凶や天候などを占う「粥占」もある。
小正月には、秋田県男鹿半島の“なまはげ”、石川県能登半島の“アマメハギ”
色々ある伝統的な民俗行事、大切に継承して欲しい。
 
今年は、“アマメハギ”どころでは無い。改めて地震災害、お見舞い申し上げます。
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月15日、記」
 
 
 
 




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《雅羅・/・ 襍囈〝年越し〟風習 ❖ ’24-14 ❖》

東京上野の国立博物館の正月飾り(小正月まで飾っている)。
護国院「大黒天」境内の手水舎にあった繭玉飾り。
一般には見掛ない風情(首都圏)。


久し振りの里地・里山。
森を横断している国道246号線。すぐ脇には厚木飛行場がある。

森の半鐘蔓の種子がひとつ、ひっそりと魅せてくれた。
伝統的行事は、継続して欲しいと思った一瞬だった。
《 未見の正月飾り;一月十四日の散歩 !!》
 陰暦で、一月一五日を小正月・十五日正月等と云われ伝わっている。
その前日を年越し(お晦日?)と祝い、「十四日年越し」と呼んだ。
元日から七日までを大正月、十五日を小正月と正月の終わりを意味する。
昔はこの小正月までが松の内であり、門松を飾っていたのだが、
江戸時代の徳川幕府の命により1月7日までが大正月と決めてしまった。
6日の夕方に門松やしめ縄を取り払う事で、「6日年越し」と言った由。
だが、この大正月慣習は関東地方以外では広まらなかったようだ。
今でも関西地方では、小正月まで門松を飾る所が多々あるようだ(未見)。
また、小正月は大正月とは違い、豊作祈願など農業に関する行事が多い。
正月の終わりとして6日又は、14日の夕方をもって門松を外す。
この事象を「松納(まつおさめ)」と表現されている。
「松上がり」「松倒し」「松送り」「松直し」「お松払い」等とも言われる。
1月15日の小正月の前日にあたる14日は年越しの日とされ祝っていた。
年越しと云えば大晦日だが、1月6日、1月14日なども大晦日行事があった。
「6日年越し」「十四日年越し」と呼ばれ伝わっている。
とはいえ今では、小正月の習慣がすたれ、十四日年越しの習慣も消えた状況だ。
元々、一月十四日は団子小正月(陰暦正月十五日)の前日十四日を年越しの日として祝った。
餅花を作り祝ったり、団子や前年の初穂を農神に供えたりする。特に農村で行われた行事でもあった。
小正月は旧暦の正月、1年の最初の満月にあたる1月15日とされていた。
太陽暦が用いられるようになり、行事も習慣も変化してしてしまった。
又、小正月は女正月とも言われ、地域によっては女性の骨休みの日とも云われる。
暮れから正月に掛けて多忙に扮した主婦を慰労、ねぎらう意味があるとか。
更には、農作物の豊作を願う行事ともされてきた。
お餅をまゆの形に作った「まゆ玉」を神棚にお供えしたり、
竹柳の枝先を稲の穂たれに例え門前や家の中に吊るすという風習もある。
農作物の豊作を願う行事でもあるのが小正月の特徴か。
*       *       *
先年末から年始、私ごとでもせわしく過ごした。更には災害等、絶句の日々。
私的には一段落し、14日の午前、近間の里地を散歩した。
“シモバシラ”が見られるかも、と楽しみにしていたが見れなかった。
散歩中にハンショウズルの綿帽子がヒトツだけ眼を楽しませてくれた。
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月14日、記」

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《雅羅・/・ 襍画〝洋蘭〟正月花 ❖ ’24-13 ❖》

アングレカム・セスキペダレ ラン科(Orchidaceae)
学名:Angraecum sesquipedale
別名:ダーウィンノラン(ダーウインの蘭)
英名: Darwin’s orchid, Christmas orchid, Angraecum
原産地: マダガスカル
(以上の画像は、借り物)
《  神秘的な植物  》
アングレカム・セスキペダレの花言葉は、「祈り、いつまでもあなたと一緒」。
ダーウインの蘭は、受粉の事をダーウインが研究し名が付いた由。
又、ホシガタノハナ(星型の花)とも呼ばれるは、當に花が星の様に見える事に寄る。
アングレカムとは、マレー語で着生ランを意味する「angurek」。
進化論を提唱したイギリスの生物学者チャールズ・ダーウィン(1809~1882)。
アングレカム・セスキペダレの長い距(花の一部分が長く後ろに伸びたもの)に着目し、
距の奥の蜜腺までとどく長い口吻を持った蛾が存在すると推察していた。
それに関しては大いに論争が勃っていたのだがダーウィン死後、
1903年にダーウィンの予測に該当する蛾(キサントパンスズメガ)が発見され、
ダーウィン説が実証された。開花時期が11月~2月で日本では正月に相応しい。
アフリカ大陸の南東、インド洋の西部に浮かぶマダガスカル島原産のラン科アングレカム属の植物。
アングレカム属の仲間は200種ほどあり、熱帯アフリカからマダガスカル島などに広く分布する。
樹木や岩に根を張る着生種と地面に根を下ろす地生種があり、
茎の高さも10cmほどから1mを超えるものまで様々。
セスキペダレは大型の着生ランで、
直径15cmほどの白花は夜になると芳香を放ってスズメガを誘う。
温室栽培では12月~翌年2月頃に花が咲く。
セスキペダレは単軸生長する単子葉植物である。
この属では大型になるもので、茎は長く立ち上がり、草丈1メートルに達することがある。
葉は厚みがあり、少し灰色味のある濃緑色で、先端が丸みを帯びて割れている。
葉長は通常20-40cm、葉幅は 6-7cm。根は濃い灰色で太く、茎から出ている。
根は少なく、樹木の樹皮にしっかりと着生する。染色体数は 2n=42。
原産地では6月から11月に伸びてくる茎の先に、光沢がある六芒星形の花ができる。
ヨーロッパでは、開花期は12月から1月にかけてである。
花の形と時期がヨーロッパでの通称の由来になっている。
"Comet orchid"(星型の蘭)は花の形から来ており、
"Christmas orchid"(クリスマスの蘭)は開花時期に由来している。
花は緑色のまま咲き始め、次第に白くなり、最終的に薄緑色になる。
花の緑色の濃さは株によって異なっている。
花の特徴は長い緑の距を持つことであり、距の長さは20-35cmにおよぶ。
距の奥には少量の花蜜があり、フルクトース・スクロース・グルコース・ラフィノースが含まれている。
花は夜間のみに非常に強い芳香を放つ。通常、株あたり1花から4花を同時につける。
学名の種小名はラテン語で「1フィート二分の一」を意味し、長い距を指している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 「令和陸年(皇紀2684年)1月13日、記」

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《雅羅・/・ 襍画〝備忘録 '24-2〟❖ ’24-12 ❖》

パラミツ(波羅蜜・菠蘿蜜) クワ科(Moraceae)
学名:Artocarpus heterophyllus Lam.
別名:ジャックフルーツ
(この頁、全て画像は、借り物)

棒状に見えるのは、花。
花は小さな花が密集して棍棒状の花序となる。
多肉質で一見すると果実の様に見える。
花は小さな単性花、
雄花が集まった雄花序と雌花が集まった雌花序が同じ木に付く。
パラミツの果実。
輪切りにして1/4に割った果実。
種の周囲に果肉があり、他の果肉との間に仮種皮がある。
《 未見の植物、’24・・其の二、パラミツ !!》
パラミツ(ハラミツ、)は、英語のジャックフルーツの方が知られているか。
果樹として栽培している国も多い。原産はインドからバングラデシュ辺り。
和名は漢語由来の波羅蜜であるが、パラミツの木を長実パンの木とも呼ぶ。
常緑の高木で、葉は成木では長楕円形だが、幼木では大きな切れ込みがある。
雌雄同株で、雄花のみをつける雄花序は枝の先につき、
雌花のみをつける雌花序は、幹に直接つく(幹生花)。
幹や太い枝に連なってぶら下がる果実は長さ70cm、幅40cm、重さ50kgにも達する。
世界最大の果実で形は、歪んだ球形や楕円形が多いが、ときに円柱形となるのもある。
果実の表面には数mmのいぼ状の突起があり、熟すと全体が黄色になる。
強烈な甘い匂いを放つ。果実は、集合果で、花序形成する組織が合着して果実となる。
繊維状にほぐれる淡黄色から黄色の果肉や仮種皮を食用にする。
種子は2cm程のやや長円形。熟した果肉や仮種皮は甘く、生で食用にされる。
樹脂分を含み、みずみずしさには乏しいが、弾力や粘りのある食感がある。
未熟な果実は野菜として、タイ料理、ベトナム料理等で煮物、炒め物などに使われる。
種子は焼くか茹でて食用にされる。熟す前の果肉は、デザートではなく総菜として使われる。
その他、シロップ煮缶詰、チップス、乾燥果実として使われている。葉と根は薬用になる。
パラミツの木材は建材、家具、仏像、印鑑の他、ガムランなどの楽器にも使われている。
更には、仏僧の法衣などの黄色の染料おしても使われている。
 
自生地で本物を見たい。迫力は、すごいだろう!!
 
 「令和陸年(皇紀2684年)1月12日、記」

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《雅羅・/・ 襍画〝新春の小豆〟❖ ’24-11 ❖》

伝統的な正月・お供え飾りを身近では見かけなくなった。
部屋の形も洋風になり和風の床の間も余り見ない。
だが画像のような飾りは、新年にふさわしい。
金槌で叩き砕くのだが、手拭いでくるみ叩いた。
この砕く作業は、子供の担当だった。
関東人は、お汁粉を頂く家が多いと思う。
我が家は、お汁粉の余りで羊羹を作った。
子供のおやつだった。
《 伝統的、おせち料理に続く餅料理 !!》
正月のお供え鏡餅をお汁粉やぜんざい、お雑煮等に入れ食べるのを「鏡開き」と言う。
一般的には、毎年1月11日に頂く料理。慣習というか、神事というか???
新年の恵みを与える神様「年神様」を家に迎えるのが“お正月”。
鏡餅は、古来より年神様に供える神聖な食べ物で、迎えた年神様の居場所でもある。
丸い形は歴代の天皇が継承する「三種の神器」の一つである青銅の円形の鏡に由来し、
縁起の良いもの。2段重ねるのは、福徳が重なり円満に暮らせる意味がある由。
鏡開きとは、年神様が家に滞在する「松の内」が明けてお見送りをした後、
鏡餅を下ろして食べる行事。元々は武家社会で行われていた。
鎧や兜の前に供えた餅を食べる「具足開き」が、一般の家庭にも広まった。
神様の力が宿った鏡餅を食べることで、一家の円満と健康を祈る。
それと、お正月に硬いものを食べて長寿を祝う「歯固め」の意味もあった由。
宮中行事の「歯固めの儀」は、大根や瓜、押鮎など硬い物を食し健康を祈った。
鏡開きは武家から始まった行事ゆえ、縁起悪い「切る」とか「割る」を嫌った。
そんなことから言葉・表現で、縁起の良い「開く」になったと伝わっている。
更には、包丁など刃物で切るのも嫌われ、手で割ったり、木槌で叩いたりした。
伝統的な鏡餅の場合、乾燥して硬くなり、木槌や金槌で叩いてもびくともしない。
一晩ほど水に浸して柔らかくした。昨今は、プラスチック型に餅を流し込んで作ったり、
真空パックで個包装されたのが多いのだが、扱いやすくなった。だが美的には??
年神様の「魂」が宿った鏡餅を食べることで、力を得られるのだから、パックは?
縁起的に汁粉で用いる小豆は、古くからその赤色が“魔除け”になると考えられて来た。
赤飯やぼた餅、お萩等、祝い事等に小豆を用いるのは、邪気払いや無病息災の意味もあるらしい。
 
甘党の僕には、お汁粉が何よりだ。田舎しることなる粒入りがいい。
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月11日、記」

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