土佐藩家老 野中兼山の偉業と失脚
6月
14日
しかし野中兼山を取り立てた殿様が退くと、捏造された罪で家族全員で流罪 謹慎となります。そして野中兼山は直ぐに亡くなります。しかし藩は残った家族の幽閉を解かずそれから40年後に男子全員の死去を看取って幽閉を解きます。土佐藩は「恩を仇で返す」ような仕打ちをした訳です。
物部川の中に野中兼山の造った「山田堰」の遺構が残されています。ここは近年新たな堰が上流に作られた為に山田堰の一部を保存して周囲は公園になっています。ただ「山田堰」と知って此処に来ないと看板も目立たないので気が付かないと思われます。この「山田堰」の工事は25年もかかっていますので相当な難工事だった様です。多くの農民が建設には関わった苦労した筈ですからもう少しきちっと顕彰しても良いのではないだろうかという感想を持ちました。春野町の水路と同じ様に満々と水は流れています。地元の人は代々この水面に野中兼山の姿を映し見ているに違いないですね。
天気は快晴、夏草の茂る河川敷の遊歩道にはトンボが群れをなして飛んでいます。ふと、ヒラヒラと黄蝶も舞っています。裸足になり暫く山田堰の周りの様子を写真に収めました。
野中兼山 : http://www.kigenhaeikayo.com/column/c006.html