岡山 宗忠神社参拝

宗忠神社は、宗忠神(黒住教の教祖 黒住宗忠)をおまつりする神社です。
孝明天皇が新たに仰せ出された勅願所である京都の神楽岡・宗忠神社(文久2年-1862年-ご鎮座)に続いて建立されました。(京都大学東の吉田山の東南の丘陵)
続き、明治18年(1885年)に ご祭神のご生誕の地である岡山市北区上中野(通称・大元)にご鎮座なりました。
そして今年10月10、11、12日の3日間 岡山の宗忠神社 ご鎮座130年記念祝典が開催されていて昨日 参列させて頂きました。
宗忠神社に参拝してもじっくり神社境内を散策しないのですが、今回は祭典を少し早く抜け出して撮影してまわりました。暑くもなく寒くもなくお日柄の良い日で、折しも七五三の時期で多くの一般参拝者も訪れていました。

宗忠神社 : http://www.munetada.jp/about.html
: https://www.facebook.com/munetadashrine
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土佐に「婉」(縁)ありて

野中神社境内
野中神社(お婉堂)
野中神社(お婉堂)正面
何故か句碑がたくさんあります。
婉の祭文
お婉堂裏手の田圃
お婉堂の境内のケヤキの下で
婉さんを讃えて付けた名前、「文佳人」四国酒まつりにて。
アリサワ酒造: http://www.tosashu.com/menu/tosashu/arisawa.html
利他食堂のメニューから。
文佳人の夏酒。
YouTube 婉の足跡を訪ねて高知と宿毛を旅します。まだ使われている山田堰も出て来ます。このテレビの放映から36年です。婉の幽閉期間に近い年月ですね。
失脚した野中兼山は間も無く亡くなります。遺された一族家来22人も罪を着せられ、遠く宿毛の地で投獄されます。野中兼山の三女が「婉」でした。当時4歳だったと言います。そして3人の野中家男子が亡くなって、婉をはじめ残った女たちに赦免状が届きます。婉は44歳だったそうです。獄中、密かに師事した谷秦山(たに じんざん)に宛てた手紙が残っていて、それを元に高知出身の「大原富枝」氏が「婉という女」という小説を書き、映画化もされました。
婉は学問に優れ美人だったと伝わっています。婉は高知城下に帰り、医を生業として 僅かに丸薬を売って生活していたと言います。患者さんとは直接対面せず糸で結んで脈を取ったと言います。
貧しい生活にも関わらず、「天 我に生を与ふれば、必ず赦を得べし。然れば他所に移りて其の時を期して祖廟を造らん」この決心のもと、現在の山田町の一画に小さい神社を建て野中家の一族と家臣を祭りました。野中神社あるいは「お婉堂」と呼ばれています。
宝永5年9月22日野中神社で「御祭礼」が執り行われ、婉は祭文を読み上げています。
また後には先祖、家族、忠臣の墓も建てています。婉は65歳で没しますが、後半生は野中家の先祖を供養することに邁進しました。
お婉堂から南東に約1kmの所にJR土佐山田駅があり、駅前には(株)アリサワ酒造が有ります。淡麗辛口の土佐の地酒を造る酒蔵です。「文佳人」がお酒の銘です。有澤の二代目宗策は、「お婉さん」を称え「文佳人」という酒の銘柄としました。
「文佳人」と言うのは「文の佳人」、つまり 手紙・文・詩歌・広くは学問に秀で、教養にあふれた美人である、とお婉さんを讃えた名前なのです。
この事は知りませんでした。知っていたら「利他食堂」のメニューにも有ったので呑んでいたのに…と少し心残りです。
高知の旅は利他食堂に始まり、アジサイ、アジサイ街道、野中兼山の偉業、お婉さんとお婉堂、利他食堂のアリサワ酒造の日本酒「文佳人」と一巡して終われました。
最初にきっかけをくれた利他食堂の「ナオミ」さんに感謝ですV(^_^)V

「婉という女」の作者大原富枝女史、琵琶奏者桃山晴衣さんが案内する1978年放映の「婉というのは女ありて」がYouTubeで観れます(3編に別れていますのでそれぞれリンク貼っておきます 25分番組)よく出来ています。是非ご覧下さい。1部の最初のみテープ乱れが有ります。

婉という女ありて 1部 : http://youtu.be/4CtIgxKzvFo
婉という女ありて 2部 : http://youtu.be/rEF7cdxSsjk
婉という女ありて 3部 : http://youtu.be/92WGjYzFzxc

野中婉 参考 : http://blog.goo.ne.jp/sanyou-gaisi/e/47a5f4f03970162d4da256cace998aae
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土佐藩家老 野中兼山の偉業と失脚

野中兼山肖像(お婉堂) : http://ja.m.wikipedia.org/wiki/野中兼山
野中兼山の造った水路に沿ったアジサイロード : http://www.kochi-shokokai.jp/haruno/ajisai_info.html
アジサイ神社と野中兼山が造った水路 : https://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/20/2019/muse/hanashi/hanashi1.html
野中兼山が造った石垣の美しい手結(でぎ)港 : http://www.webkochi.net/kanko/sanpo21.php
国道から手結港のある夜須の街並みを望みます。
山田堰放水口 堤防外に遺構として保存されています。
黄蝶や夏トンボが河川敷に舞っていました。
用水路は3本あり、現在でも使われています。
アジサイ神社の横を水を満々とたたえ流れる用水路は春野町を縦横に掘られていて田畑に水を入れています。この用水路は西にある大河 仁淀川から取水しています。この水路は江戸時代初期 土佐藩家老 野中兼山の指導のもと造られた水路です。野中兼山は他にも物部川や、四万十川にも同様な堰や水路を造り、人手による掘割港湾としては日本最古と呼ばれる手結(でぎ)港や室津港の築造も行っています。こうして拓かれた水田や漁場の結果土佐藩の石高は大変増大したと言われています。しかも350年経った現在でも野中兼山の造った堰や水路、港の多くは使われているのですから驚きです。
しかし野中兼山を取り立てた殿様が退くと、捏造された罪で家族全員で流罪 謹慎となります。そして野中兼山は直ぐに亡くなります。しかし藩は残った家族の幽閉を解かずそれから40年後に男子全員の死去を看取って幽閉を解きます。土佐藩は「恩を仇で返す」ような仕打ちをした訳です。
物部川の中に野中兼山の造った「山田堰」の遺構が残されています。ここは近年新たな堰が上流に作られた為に山田堰の一部を保存して周囲は公園になっています。ただ「山田堰」と知って此処に来ないと看板も目立たないので気が付かないと思われます。この「山田堰」の工事は25年もかかっていますので相当な難工事だった様です。多くの農民が建設には関わった苦労した筈ですからもう少しきちっと顕彰しても良いのではないだろうかという感想を持ちました。春野町の水路と同じ様に満々と水は流れています。地元の人は代々この水面に野中兼山の姿を映し見ているに違いないですね。
天気は快晴、夏草の茂る河川敷の遊歩道にはトンボが群れをなして飛んでいます。ふと、ヒラヒラと黄蝶も舞っています。裸足になり暫く山田堰の周りの様子を写真に収めました。
野中兼山 : http://www.kigenhaeikayo.com/column/c006.html
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大日如来の教えを示す 両界曼荼羅

両界曼荼羅(両部曼荼羅ともいいます)
左が胎蔵曼荼羅、右が金剛界曼荼羅で何れも大日如来を中心とした宇宙、生命、仏(あるいは神)の思想を絵にしたものです。
結願の寺 大窪寺。この奥の院が「胎蔵峯寺」でした。
庚申塚から見た女体山
奥の院までは徒歩で山路を登るしか有りません。その位置も地図によりまちまちで特定出来ません。
最初に考えて奥の院の位置
弘法大師は真言密教を中国唐の都長安にある青龍寺で慧果大僧正から正式な後継者として各種法典や教具と共に譲り受け日本に持ち帰ります。その中にあって両界曼荼羅(両部曼荼羅ともいう)は密教の体型を具体的に表す重要な宝具です。先日善通寺にお参りしましたが残念ながら目にする事は出来ませんでした。なぜ両界曼荼羅を見ようと思ったかという事ですが、去年秋 ブログル仲間の天使さんご夫婦と高野山に詣でる予定をしていましたが、直前に脚立から脚を踏み外して右腕を骨折した為に高野山に行く事が出来ませんでした。ずっと気にかかっていたのですが、ある時非常に単純な事に気がつきました。
高野山は金剛峯寺と称しますね。色んな解釈は有るでしょうが、両界曼荼羅は「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」(より正確には胎蔵曼荼羅と呼ぶ様です)に寄って真言密教の体系を示しているという事ですから、何処かに「金剛峯寺」に対する「胎蔵峯寺」が有るはずです。調べてみると四国八十八ケ所結願の大窪寺の奥の院が「胎蔵峯寺」である事が判りました。
先年怪我をして高野山に詣でられ無かったのは「先ず胎蔵峯寺に詣れ!」というお告げだったかもしれません。事実、四国八十八ケ所を無事回ったお礼参りとして最後に高野山詣でをする慣習です。
その前に両界曼荼羅の意味を知ろうとおもったのですが、幸いにもAmazonに両界曼荼羅の色紙が有ったので取り寄せてみました。(続く)
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両界曼荼羅と善通寺

善通寺の西に五岳山がそびえています。北東から見るとレンゲの花びらのように見えるそうです。
撮影場所は高速道路の直ぐ南「筆の山」と「我拝師山」が丁度重なる位置です。
五岳山 : 香色山、筆の山、我拝師山、中山、火上山
東の赤門
西の橋、お寺の境内から撮影。渡ると駐車場になります。香色山が左手に奥に筆の山が見えています。
御影堂は弘法大師を祀るお堂で大師堂とも呼ばれています。善通寺の紹介には御影堂が描かれますが、本堂ではありません。
御影堂と鐘楼
南の大門
五重塔
大門から真北に金堂(本堂)があります。
本堂の西側に御影堂があります。
御影堂の仁王門
宮川製麺所パノラマ
曼荼羅(マンダラ)を見たくて弘法大師後生誕地、善通寺へ行きました。お寺の西にある駐車場に停めて橋を渡れば直ぐに御影堂になります。本来は東の赤門か南の大門を入って先ず金堂(本堂)に参拝するのが参詣順路だと思うのですが 車だと逆になります。橋を渡って左に行くと会館があってお砂踏み道場になっています。以前に行って時にはチベット僧が描く砂絵のマンダラの様子が撮影出来たので 今度も撮影の許可を問い合わせましたが、一切撮影禁止になっていました。久しぶりでしたので境内を一通り撮影して、赤門前にある「郷土資料館」に行き善通寺の古墳遺跡の情報を集めて来ました。
帰りには今月3度目の「宮川製麺所」で昼ご飯じゃなくて「オヤツうどん」を食べて帰路に着きました。
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五角柱地神碑と庚申塔

青面金剛石塔と看板の背後にある5角柱地神碑
5角柱をした地神碑台座も5角です。
庚申信仰の青面金剛。庚申塔と言います。青面金剛像の下には「見猿、言わ猿、聞か猿」の像が見えます。
田植えされた田んぼを挟んで庚申塔を遠望します。
忌部神社の一つ、飯山の麓にある王子神社の5角柱地神碑です。忌部氏にまつわる神社には多くあります。基台は円形ですね。
インターネットより引用しました。斜線部分が「五角柱地神碑」がみうけられる地域の様です。
大窪寺から少し下がった旧道傍に有る五角形地神碑
榊(さかき)が枯れていますが地神碑は神道系の信仰ですね。
地神碑の傍に咲く野アザミにモンシロチョウがとまっていました。
田植えされた田圃風景
国道傍脇の祠の奥にも地神碑がみれます。
旧多和小学校近くの庚申塔です。
五角柱地神碑も文字が見えない程苔むしています。
反対側から見た庚申塔。
こちらの青面金剛像もかなり劣化しています。
今の所、香川と徳島の忌部氏の歴史と四国八十八箇所霊場にまつわる精神的遺産と云うか遺物を追って連休頃から撮影をして廻っています。
忌部氏は古代日本の祭祀、芸術、技術者の集団でした。古代王権と密接な関係にあり、邪馬台国や古代神話は阿波にあったという説もあります。更に時代が降り平安時代に弘法大師 空海の修行の場として四国八十八ケ所霊場が今に受け継がれています。その為今でもそうした遺産や遺物が現存しています。多くは更に後世の物と考えられますが、現代に至ってはそうした遺構の多くが忘れ去られています。ややスピリチュアルな考えになりますが、こうした遺構の一つ一つに「偉大な想念」が隠されていると思い知らされる様になりました。それを具体的に述べる迄には今の所出来ませんが、少なくともカメラで撮影出来る遺産は存在しています。今それを少しずつ撮影し始めましたので紹介して行きたいと思います。

前回少し紹介した「五角柱地神碑」です。讃岐忌部に所縁の神社や遍路道傍で多く見かけます。5面にはそれぞれの面に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、少彦名命(すくなひこのみこと)、植安媛命(はにやすひめのみこと)、大己貴命(おおむなちのみこと)の神名が刻まれています。五穀豊穣を祈る民間信仰との事ですが調べてみると面白い分布がある様です。四国では香川と徳島、兵庫、岡山、広島、山陰の一部と、忌部氏の分布に近い物が感じられます。一説には江戸時代阿波藩主蜂須賀公が奨励した信仰だとも書かれていますが、分布からしてそれ以前の信仰の様ですね。北海道にも有るそうですが、それは阿波の開拓民によって建立されたそうです。大地を耕し豊作を祈った農民の心の拠り所として「天地の神々」を敬った象徴です。

「庚申塔」あるいは「庚申塚」は中国から伝来した「道教」に由来する「庚申信仰」に由来する石塔だそうです。江戸時代初期頃から盛んに各地に建てられた様ですが、明治政府になって「庚申信仰は迷信」と言う事になり多くは撤去された様です。しかし、第八十八番札所への遍路道沿いに2箇所見ることができます。庚申の日の夜 人間の体内にいる三尸虫(さんしむし・桂三枝では無い^^;)
がその人間の悪行を神様に報告しに行くとされるので夜通し寝ずに青面金剛を祀ったり、宴会をする風習だそうです。青面金剛像の下に「見猿、言わ猿、聞か猿」が彫られているのが象徴的ですね。
青面金剛 庚申信仰 : http://ja.m.wikipedia.org/wiki/青面金剛

この様に四国八十八ケ所霊場巡りでは仏教以外にも古神道や、道教色や、民間習俗色のある信仰などが織りなされている事が判ります。
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古代から祭神を祀り 修験道の霊山 女体山

女体山からの高松市遠望
古大窪は黄色直線と赤線の林道が交差する付近
雑木に囲まれて見える範囲は限られます。
女体神社登山口
女体山の以前の名前は「祭神山」と説明しています。忌部氏との関連が有りそうです。
山頂の女体神社
忌部に関連する神社のシメナワによく見られる飾り
女体山の林道を登って行くと「古大窪(ふろくぼ)」と言う場所が有って大窪寺は初めにこの地に建立されたそうです。ただ傾斜地なので小さなお堂程度の大きさだったのかも知れません。
やがて林道は矢筈山と女体山の間の稜線に出ます。女体山山頂下まで約1kmを稜線に沿って余り高低差無く走ります。此処からは高松市街や小豆島の全景、東讃地区を広く見渡せます。更に稜線上に登ると鳴門海峡に架かる大鳴門橋の橋脚も見ることが出来ます。手前左には大麻山山頂が見えます。この南側の麓に四国八十八箇所霊場一番札所霊山寺が有ります。
女体山山頂へ行くには少し登らないといけません。登山口には「女体山神社」の鳥居が有って、傍に由緒書の札が立っています。由緒はこう記してあります。

祭神山名の由来
太古より祖霊は山中にこもり山頂になるほど浄まった霊が潜むと言う
山中他界(別解説)とか水霊信仰がありました。
寒川町の最高峰である女体山の頂(769m)に祀られている
女体神社の御祭神も埴山姫命(ハニヤマヒメノミコト)
水霊の神の中の1柱
治山治水の神
水分神(ミクマリノカミ)とも称されています。
であります。
しかしながら仏教の伝来(6世紀中期)以降この霊峰にも修験の徒を含む密教行者たちが進出し斗藪(とそう=行脚)の修行地に変容。
為に神仏は次第に習合しました。すなわち弘仁7年(816年)
山岳仏教を開いた弘法大師が密教研学の場を高野山に開設の折 それ以前にそこに鎮まる山の神を女体 それに使えた狩人 すなわち原始宗教者を男体 大師自らを法体と称し 山頂には女体権現、重複には神宮寺的性格の寺が建立されました。また男体も次第に神格化し、山王の御子とか夫婦関係などと称せられるようになりました。
この山系の中腹にある同系のの大窪寺もその前年弘仁6年(815年)建立されました。
したがってこの女体と言う山名その時代に命名されたものと思料されます。

山中他界観 : 古来日本では、死者の霊魂は高いところへと昇っていく性質を持つと考えられ、それは山の頂や高所にとどまって、子孫を見守ると信じられてきました。つまり死んだ人の魂はまったく別の世界へ行ってしまうわけではなく、現実の山の中に死者の霊が集まる他界があるという捉え方が山中他界観です。日本人の他界観にはこの山中他界観のほかに、海中他界、天上他界、地下他界があります。ちなみに浦島太郎が訪れた竜宮は、海中他界観の延長にあるものとされます。
 山中他界観はやがて仏教の影響を受け、山中浄土と山中地獄に分化します。山中の地獄と極楽は、以降の日本の山岳信仰の中心的なテーマとなっていくのです。

女体山の古名は祭神山であると書かれています。古神道の祭事に関わったとされる「忌部氏」に関係が有る記述です。山頂は今は樹々に覆われて見通しが悪いのですが、忌部氏の阿波の国、讃岐国を一望に出来る場所です。

山頂から降り再び鳥居をくぐろうとした時、鳥居のシメナワ(注連縄)をみて、気づいた事が有ります。まず阿波の忌部氏は麻の他、紙も生産していました。シメナワの縄の部分は昔は麻で縄れていて、シデと呼ばれる紙が織り込まれていますから シメナワの発祥は忌部からの物ではないかと言う事。確証は無いのですが、忌部氏にまつわる神社のシメナワは稲わらで大きくフサ状の装飾がある事です。正式なシメナワと略式なシメナワの違いかも知れませんが、今後の宿題としました。また弘法大師は1番札所も88番札所共に忌部氏にとって重要な場所に霊場を開いていると言う事にも気付かされます。
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女体山(にょたいさん)探訪

かぐや姫伝説を基に長尾町が雅な十二単衣をこしらえて「かぐや姫祭」に使っています。
西照大明神が本尊の「大瀧寺」です。新四国八十八箇所の結願寺でも有ります。
大滝山 大瀧寺近くから見た「女体山」です。女体には見えません。峰の連続です。
赤線が「林道矢箸太郎兵衛線」です。多和神社や昼寝城跡近くを通る林道です。かなり勾配があったり、落石も多い道です。「歩き遍路」さんが多く利用しています。
讃岐忌部氏ゆかりの多和神社
明治時代になって 式内社多和神社は瀬戸内海に近い志度に移されました。郷社の様な簡素な本殿です。
昼寝城解説看板
昼寝城展望台から見た昼寝城跡の方角。背後に女体山稜線が見えます。
昼寝城跡の報告書
林道脇にひっそり立つ五角形の庚申塔。どうやら道路が拡張された時庚申塚の場所が削られたようです。
道路の下に降りると様子が判ります。
大窪寺山道下にある「兼割庚申塔」。「青面金剛像」も建っています。
「兼割庚申塔」案内板
庚申塔の場所
5角柱の庚申塔。何を意味するか良くわからない。
青面金剛像
林道に入って集落の川横に在る祠。石を祀っています。
何も彫られていませんし、墓標とも思えません。
ニョキっと慰霊碑がたzつてます。
東照大明神、すなわち徳川家康の墓陵、日光東照宮の西側には「男体山(なんたいさん)」が有ります。弘法大師が彫ったと言われる西照大明神(にしてる)を御本尊として祀られている大瀧寺の東北には「女体山」が有ります。「東」と「西」、「男」と「女」と言う奇妙な一致点が有ります。「女体山」はまた四国八十八箇所の結願寺である「大窪寺」の背後の山です。大瀧寺は「新四国八十八箇所の結願寺」でも有ります。
5月初め 林道を車で女体山に登って来ました。道の駅を過ぎて県道志度山川線を暫く行くと別れ道が有って「林道矢箸太郎兵衛線」に入ります。この林道は女体山稜線を越えて大窪寺迄通じています。

「多和神社」讃岐忌部氏にまつわる神社とされます。式内社にあるにも関わらず郷社の様な簡素な神社です。実は明治になって志度にある「多和神社」が式内社と変更されたようです。女体山周辺は「多和地区」と呼ばれています。また、「かぐや姫伝説」の地とも言われています。
讃岐忌部氏 竹取物語との関連 : http://ja.m.wikipedia.org/wiki/讃岐忌部氏
竹取物語 : http://ja.m.wikipedia.org/wiki/竹取物語

「昼寝城跡」多和神社を奥に進むと「昼寝城」への登山道が有ります。戦国時代迄の中世の山城ですが、古くから多くの人が暮らしていた様です。山上集落を作る忌部氏が多く住んでいたと思われます。讃岐忌部氏は「笠」と「竹」を朝廷に献上していました。この地区も竹藪が多くて、今でも竹細工工芸が盛んです。
「庚申塚(こうしんづか)」道教の思想が元にある様ですが、いわゆる陰陽道(おんみょうどう)と関係が有りそうなモノリス(石碑)ですね。庚申塔は五角形の角柱です。讃岐忌部氏ゆかりの神社を巡って来ましたが良く見かけます。また、女体山周辺にも多く有ります。
庚申塔 : http://ja.m.wikipedia.org/wiki/庚申塔
庚申塔と道教 : http://ja.m.wikipedia.org/wiki/道教
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讃岐の忌部神社と「ちょうさ」の関係

香川県観音寺市の「ちょうさ」
笠田高校の北側に忌部神社が有ります。左上が忌部氏関連の「荒魂神社の境内の御本祖古墳」、右上は「宇賀神社」です。
忌部神社
忌部神社裏手から
灯籠が笠田高校の敷地に建っています。
御本祖古墳は石塔しか残っていませんが竹藪です。
竹藪が多く見受けられます。
豪華絢爛な「ちょうさ」

iPod data ちょうさの動画 参考 : http://i-pod-navi.cocolog-nifty.com/blog/files/ASA610.m4v
香川県にも「忌部神社」があります。古代、讃岐忌部氏が香川県西部を開拓したいという記録が残っています。讃岐忌部氏は「竹」と「笠」を毎年王権に献上するのが役割だった様です。忌部神社の住所は豊中町笠田竹田と言う所です。まさに笠と竹が地名に付いていますね。忌部神社は道を挟んで南側に県立笠田高校が有ります。元参道に高校ができた為か 参道の灯籠は高校の敷地に入り込んで残っています。
国道32号線は琴平から南へ猪鼻峠を越えて徳島県三好市池田町へ 更に高知まで通じてます。琴平から猪鼻峠の道の両脇に竹林が多い理由が古代から竹を作っていたからなのですね。又三豊地域は秋祭りが盛んです。しかも「ちょうさ」と言われるみこしも大型で豪華です。この「ちょうさ」の語源が「長竿」ではないかという見方もインターネット上に有りました。太く真っ直ぐな長い竹竿が出来た事を豊作祭に取り込み、長竿の上にお宮を載せて練り歩いたのではないかと想像します。「ちょーさじゃ!」の掛け声で「ちょうさ」を担ぎ上げて練り歩く姿は古代忌部氏の豊作の喜びを今に残しているのでは無いでしょうか。
ちょうさ祭り : http://www.chohsa.jp/yurai.htm
徳島県阿波忌部ちょうさ : http://project4951.com/news/archives/category/chosa
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西照大権現 杖立所(にしてるだいごんげん ついたてどころ)

四国別格20霊場 第20番札所 四国八十八ケ所総奥之院 大瀧寺
西照大権現御杖立所の石碑
畑の中に石碑が有ります。
花の里のイベント 阿波踊り
大滝山と広棚地区との位置関係。北側が香川県側です。
大瀧寺境内の八重桜が満開で、ツツジ、チューリップも咲いています。
西照大権現が御本尊です。御真言は『南無 西照大権現』
西照神社の境内、狛犬の伝説が有ります。
頭にツノが生えている一角獣
獅子、愛嬌がある顔立ちです。狛犬の伝説と同じ様に偶然母子が獅子の後ろにいました。
境内
徳島県は人形浄瑠璃が多いのですが、西照神社には神楽殿が有ります。
御本殿
御本殿
灯明杉の手前が願い事をお祈りする「願いの石」
灯明杉
4月19日 花の里では2週目のイベントが開かれましたが、あいにくの雨模様の天候だったので(イベントが始まる頃には晴れて来たのですが)会場には雨よけのテントが張られていました。折角の阿波踊りも絵になりません。初回の演技で切り上げる事にしました。その代わり直ぐ近くに「弘法大師の杖立所」の碑があると言うので行ってみる事にしました。
会場から120mくらい離れた田んぼの淵に碑が立っていました。由来も書かれていて、その時は弘法大師が休憩された所と理解して撮影して帰りました。
後日写真を整理していて石碑に掘られた文字は「西照大権現 杖立所」になっているのが判りました。「弘法大師が西照大権現を木で像を刻み、山上の大瀧寺に祀った」と記されています。西照大権現とは?…
西に対して東、すなわち「東照大権現」は「徳川家康の戒名」です。東照大権現は日光東照宮に祀られていますね。そこで大瀧寺に祀つられている「西照大権現」を拝したく 早速大滝山に登りました。

約1000mの大滝山山頂が香川県・徳島県との県境になっていてわずかに徳島県側に下がった場所に「大瀧寺」が有りました。又隣接して「西照神社」が有ります。明治以後神仏分離で新たに「西照神社」が創立されたとの事です。
「大瀧寺」は「四国別格20霊場」の一つです。弘法大師は四国霊場八十八箇所寺以外にも多くの足跡が有ります。それらが集まって出来たのが「四国別格20霊場」です。2つの霊場合わせて「88+20=108」で「煩悩を祓う」と言う事になります。大瀧寺には弘法大師が彫って御自身が祀った「西照大権現」像がご本尊なのです。ちょうど八重桜やチューリップが満開で綺麗でした。西照大権現の詳細は知る事が出来ませんでした。

大瀧寺の右脇に鳥居があって「西照神社」への階段が有ります。車でも境内に行けます。下からの階段を登りきった所に狛犬が有って逸話が有ります。
その昔ここは阿波と讃岐を行き来する峠で、ある日の事日も暮れて神社の祠で母娘が一夜を過ごそうとしていたら 野犬の群れに襲われそうになりました。母親が 南無 西照大明神と唱えると狛犬が現れて野犬を追い払って無事一夜を過ごせたそうです。
この狛犬何処か愛嬌がある顔立ちです。狛犬と言いますが、左側が頭にツノがある一角獣で右は獅子です。阿(あ)と吽(ん)の口元をしている事はよく知られています。

西照神社の縁起は、
『大滝山阿讃国境に位し標高九四六米七尾七谷の源をなす嶺峰にして古代「大嶽山」と稱せられる。
由緒、古伝の存す所を案ずるに上代神世の昔、伊耶那岐尊、高御産巣日神の詔を以ちて、筑紫の日向の橘の小戸の阿波峡原に降り禊祓まして心身清浄なる身を以て山川草木各々の主管者を任命し終りに天照大神を高天原へ。
祖国並に大八州国を統治し次に月読尊は夜の食国(筑柴の国即ち九州全域尚湯の出る国即ち四国の嶋)を統括し
東大和紀伊の動向を看視せよと委任し給ふ。
そこで月読尊は航海の神、田寸津姫命即ち宗像三神の部族を率いて伊豫から阿波の国に移り大嶽山の頂、展望のきく所に櫓を設け瀬戸内海難波及び大和の動向を監視せしめ、天津神の詔を体し九州四国を統括し、蒼生人の九厄十悪を祓ひ退け、夜毎に白露をふらし、五穀草木を潤し海上安全を守護されしと降って、平安朝の初期桓武天皇の御代僧空海二十四才の頃三教指針(神道儒教仏教)の一佛教を選び厳修体得せんと大嶽山に登り、北面の崖の中腹に山籠すること三年。教理に初光を見出し、続いて土佐の国室戸に至って三年余を経て都に赴く。
偶に遣唐使の渡航舟団に加はるに及んで、大嶽山航海の神に安全を祈願して出稿す。
途中台風に遭ひ遣唐使の三隻は行衛不明になるも空海は遙か南方唐の赤岸鎮に漂着。
陸路都長安に至り、青竜寺恵果和尚に教を乞ふ。
和尚之を優遇し密教の奥義を伝授。
さる帰国に及んで大嶽山の三神に厚く感謝せし。後門弟をして別当寺を建て奉仕せしむ。
続いて本地垂迹の説を唱え布教に之努め社号に権現号を贈り、西照大権現と改稱し、神祇官に代わり祭祇を司り明治六年に至る。
中世稲田氏国守となるに及び崇敬社として山麓の九石八斗の村落を寄進し、諸役を定住させ奉仕せしむ。
明治六年、神仏習合分離の大政官布告に基き、社格郷社「西照神社」と旧に服し、神官をして祭祇することとなり今日に至る。』
となっていて、主祭神は「月読尊」です。「田寸津姫命」「田心姫命」「市杵島命」が祭神です。

つまり「月読尊(天照大神の弟神、更に弟が素戔嗚です。このイザナギが産んだアマテラス、ツクヨミ、スサノオが、三貴神と呼ばれています)を大和方面の監視役として田寸津姫命を大滝山山上に遣わして瀬戸内海の監視に当たらした事が神社の起源」という事でした。名前は西照ですが、西照大権現のいわれは無く、むしろ「記・紀の説話は阿波に実在した」と言う説を真っ向から補強する面白い縁起です。

更に境内は杉の巨木が並んでいます。この杉にも「灯明杉」伝説が有ります。
「日清戦争が布告されたとき、杉の穂先に突然灯りがともり、毎晩輝き、翌年突然灯りが消えた朝に戦勝の報が入った」そうで、日露戦争の時も同じ現象が起きたそうです」こちらの説はちょっと眉ツバ物ですね…

「西照大権現」の御姿は今回拝見出来ませんでしたが、「東照大権現」以前に弘法大師によって「西照大権現」が造られ祀られていた事が判りました。
西と東と言うチョット駄洒落的なお話でしたが、もう一つ似た話が有ります。
こちらも弘法大師にまつわるお話ですが、まだ全部写真が撮れていません。近い内に発表したいと思います。
#社会 #政治 #経済 #環境 #歴史

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