鉄労から見た生産性運動
3月
8日
生産性運動は、鉄労の結成当初からの基本理念であったことから、国鉄が生産性運動を導入したことは、遅すぎると批判することになります。
その辺を、鉄労友愛会議の「国鉄民主化への道」からみていきたいと思います。
国鉄当局が生産性運動にとり組んだ背景は
最初に国鉄が生産性運動に取り組んでいく背景には、もちろん厳しい労使関係がありました。、
昭和41年には累積積立金を食い潰し、昭和46年には償却前で赤字を計上するなど、国鉄の財政再建は急務となっていました。
そうした意味では、国鉄が緊急に立て直すために生産性運動に取り組むことは喫緊の課題でした。
生産性運動自体は、国鉄職員の中に浸透し、使命感に燃えて「俺がやらねば誰がやる」的な雰囲気を醸していく事になりました。
これにより、国労・動労の脱退者が相次ぎ、その対応に追われることになりました。
青年組合員の対応に悩む国労・動労
そんな国労・動労にあってもう一つの厄介な問題が青年組合員の先鋭化でした。
若手(1970年代ですから、団塊の世代と呼ばれる戦後教育を受けた世代)の一部活動家が反戦青年委員会(革マル派の影響を受けている)の指導の下、先鋭化していくのでした。
そこで、国労は排除する方向に動くのですが、動労はむしろ育成する方向に動いたため、松崎明を強くすることとなり、鬼の動労という異名を持つほどに先鋭化していく事になりました。
これは、国有鉄道1970年9月号 P19には、その辺の事情が書かれていますので引用してみたいと思います。
国労の大会運営で特に注目されたのは、一般経過報告に対する質問では、ほとんど青年層を指名し、青年の意見を何とか汲みあげ,組合の老化現象を無くそう,と努力していたことである。
動労のほうは,青年対策というより,反戦青年委をどう、育成強化するかに苦慮している様子でもあった。
とあります、
誤解の無いようにお話をすれば、動労自体は元々、比較的穏健な職人肌の組合だったのですが、上記の反戦青年委員会の青年組合員らを動労本体が育てて行ったことから、組合は先鋭化していったわけです。
さて、こうしたことを知っていただいた上で、鉄労の視点から見た国労のお話をしていこうと思います。
国労が当局の生産性運動を真似た演出で大会開催?
鉄労編纂、国鉄民主化への道では、昭和46年の国労大会の様子を以下のように記しています。
国鉄民主化への道 P482から引用させていただきます。
どこの組合でも大会や闘争の時、皆の気持ちを一つにまとめて昂揚させるため、いろいろ演出する。生産性運動の場合も組合大会も似たり寄ったりだ
長崎大会の幕あき----収容人員1200人の公会堂は消灯され、闇の中に白いワイシャツ・鉢巻き姿の60人の青年が、薄青の明かりに浮かび上がり、原爆許すまじ」を合唱し・・・中略・・・大会準備委員長がスポットライトを浴びて演壇に立つと同時に緞帳が上がり、執行部の並ぶ舞台が現われ、正面に大きく「職場に労働運動強化を」というスローガン---と言うわけである。
と言った演出が行われているのですが、これは国鉄の生産性運動とほぼ同じような演出であり、国労も当局と同じような演出をしていながら、当局の演出には神がかり的ないわゆる洗脳的儀式であると笑っている事への矛盾を批判しています。
なお、国労自身がこのような演出を行った背景には、反戦青年委員会を中心とする若手の台頭があったからと言われています。
前述のように、国労の大会運営は、一般経過報告に対する質問で、ほとんど青年層を指名し、青年の意見を何とか汲みあげようとしていたというところにも現れており、如何に青年層と執行部の意思疎通を図れるかと言うことに配慮していたことが伺えます。
労働運動・生産性運動に関する記述はこちらも、参考にご参照ください。
日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】
日本国有鉄道 労働運動史(別館)
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