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- 組合に、本社幹部の人事権を握られる国鉄本社
私はこの本でもたびたび引用した、国労編集の『国鉄マル生闘争資料集』という部厚い本をめくっていたが、突然次のような一ページに釘づけになった。
活字を目で追いながら、私は怒りのあまり体の震えが止まらなくなった。
それは「マル生闘争の歴史と教訓」という、三日間にわたって行われた座談会の記事であった。
座談会の出席者は富塚三夫、谷合勝正、細井宗一、武藤久などの国労を代表するそうそうたるメンバーであった。
その座談会記録の中の細井宗一がしゃべった次の一節を読んで、私はがく然としたのだった。
「いや、あのときにわれわれの要求で、不当労働行為をやった直接の職制を処分しろというと、副総裁の山田明吉さんは『します』と約束したんですよ。
ところが、いま谷合さんがいっておった管理局長会議を二日に分けて総裁公館でやったときに、管理局長から
『私どもの部下を処分するなどということは絶対にやめてくれ、……』
という意見が出て、処分できなくなったんですよ。
そういう状況のもとで、ちょうど、一〇・二一のデモがあって、中川新一委員長が『デモに行こうや』って来て、『行くか』って四階で話をしているときに、副総裁から中川さんに、すぐ来てくれと電話がかかってきて、すぐ行ったんです。
『何か用があるみたいだから、待っておってくれよ』というので、富塚さんと私と待っておったわけです。
そうしたら、中川さんが帰ってきて、『処分は勘弁してくれっていうんだよ』っていうから、『だめだよ、そんなことを請け合ってきたのか』『いやア、もう山田明吉はどうしても頼むっていうんだよ。そのかわり真鍋をやめさせたあとの職員局長については、きみらの推薦する者にするから、処分は勘弁してくれというんだよ』
というんですよ。
それで、さア、職員局長を推薦するったって、だれがいいのかってわけで、今度は学士名簿を出していろいろと当たったんですよ。(笑声)
初め、加賀谷徳治氏(昭和44年には大阪鉄道管理局長)と思ったわけよ。そうしたらすぐ情報が入って、ある人からオレのところに電話がかかってきて
『加賀谷さんがいまここで職員局長になったら殺されてしまうから、加賀谷さんだけは何とか勘弁してくれ』
という。そんならいっそのこと、何にも知らんのがいい、マル生をまとめる段階なんだからというので、原田種達氏を推薦した。
そうして中川さんが行って『原田種達』といったら、山田副総裁が念を押して『それでいいのか』というから『それでいい』と。
それで、原田種達氏が何にも知らないで家へ帰って玄関の戸をあけたら、奥さんが
『本社から電話があって、副総裁がすぐ来いってお呼びです』
っていわれて、いまごろと思いながら行ったら、職員局長になったということです。(笑声)」
職員局長を組合に推薦させるという驚くべきことが陰で、こっそりと行われていたのだ。