世界初の寝台電車登場 第1話
昭和42年10月の改正で、世界初の寝台電車が誕生した。
これは、寝台車が昼間は遊んでしまう状態であった、高速道路も東名・名神以外は高速道路も整備されておらず、陸上輸送の基本は国鉄に委ねられている状況であり、効率的な運用行える夜行列車の存在が検討されていた。
また、国鉄側の問題として、高価な車両が夜もしくは昼間は遊んでしまうことは勿体ないので、鉄道車両という高価な財産を有効かつ、合理的に使用し、車両基地の設備も充分に活用することが出来るように計画されたのでした。
交通技術 42(1967)年5月号から引用
電化がもっとも進んでいる東京~九州問は、まさにこの例のとおりで、山陽線の昼間の特急列車はすべて電車か気動車で、夜行寝台特急列車はすべてブルー・トレイン客車列車である。このことは逆にいえば、481系交直流両用特急電車や181系直流特急電車は夜間は向日町基地か、南福岡基地などにまるまる滞泊し、逆にブルートレイン20系特急は品川基地か、九州、内各基地に昼間滞泊していることになる。
ここにおいて、車両として高価な財産を有効に、合理的に使用し、かつ設備をも充分に活用するための一つの有力な手段として、夜間は寝台、昼間は座席にそれぞれ切換え使用しうる車両の開発と云うテーマが提案されたのである。
典型的な例を示して車両運用を考えてみると、上図でAB両駅間の特急列車の所要時分8時間程度の場合、昼行特急lM2Mは電車による座席特急、3レ、4レは寝台専用客車特急、ブルー・トレインと云うのが従来のやり方であった。この場合、使用編成をみると電車が2本、客車が2本、合計4本となり、このほかに予備車がそれぞれ必要となる。ここで、昼は座席・夜は寝台とした電車を、この線区に投入するとし、B駅側に車両基地があれば、4レは1Mに、2Mは3レにそれぞれ運用がきくので、使用編成は2本となり、予備車も車種が減るので当然、少なくてすむこととなる。もちろん、いずれの場合もこのほかに検査のための編成が必要とはなるが、所要車両数はうんと少なくてすむことは明らかである。
また同時に、基地に滞泊する時間も非常に少なくなり、当然その分だけ他の車両を収容できることとなって、実質的に基地能力を向上したことになる。
そこで、動力分散式車両を利用して昼間は座席車で夜間は寝台列車で走らせるべく列車が検討されることになったそうです、当初は急行列車を想定しており、二等寝台【B寝台】も従来の開放型寝台をそのまま電車にしたものを想定していたそうです、この辺を昭和49年9月号の鉄道ジャーナルで星 晃さんが書かれた記事にその辺が詳しく書かれていました、要約しますと、当初の案では現在の寝台車(ナハネ10など)をそのまま電車にしたようなイメージ、昼間の居住性を強調するため昼間は、座席を移動させて普通の座席車仕様に、夜は再び座席を移動して寝台とする、Bロネ(開放式A寝台)を3段化したもの。
が案が検討されたそうです。
昭和40年12月の常務会では、従来型の寝台車をそのまま電車にするのが良いのでは無いかという結論となりました。
ただ、交直流電車のため交流機器が大きく占めるため一区画ほどは2段にせざるを得なくなり、定員は50名(従来の寝台車は54名が標準)になるのはやむを無いだろうということになったと言われています。
実際、高千穂等は昼間は寝台車を座席にして使っていたわけであるからもんだは無いであろうという結論であったそうです。
その後、寝台電車の運用区間として想定されていた、新大阪~九州間について検討を行った結果、急行列車では折り返し運用に適切で無いとのことで再び検討する必要が生じたと言われています。
そこで、再び特急列車でかんがえることに変更されていったと記録されています。
特急運用となると、こだま形電車がその標準となるため、デザインを含めて一から検討することとなったそうです。(特急電車581系誕生・・・次回に続きます)
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