ローカル線問題と国鉄 第1話 古くて新しい、ローカル線問題
11月
18日
昨日投稿したのですが、誤って消してしまったので改めて投稿させていただきます。
古くて新しい、ローカル線問題。(特に昭和30年代を中心として)
国鉄の経営は、戦後の復興と進駐軍(連合軍)輸送に追われ、インフレの高騰の中で赤字経営を続けていました。
昭和20年代の終わり頃もまだまだ、赤字体質からは抜けられず、運賃値上げなどを繰り返していました。
そんな国鉄に対しては、赤字に対する批判が強くなっていき、当然ローカル線に対する批判も強くなっていきました。
独立採算制を建前とする国鉄でもこの問題について取組まざるを得なくなり、昭和29年、千葉県の木原線と久留里線にそれぞれ大原運輸区・木津運輸区を設置して線区別経営を試みました。
具体的には、駅長の廃止、無人駅化、貨物列車の隔日化、気動車による増発など、運輸部門を一括して合理化したもので、ある程度の成果を得ることが出来ました。
入りを増やすのではなく出を減らすことで収支を改善しようとしたものであり、積極的に入りを増やすというものではありませんでした。
その後、運輸業務以外に保線・信号などの業務も線区別にまとめ、権限を大幅に委譲した管理所制度が発足させ、この テストケースとして仙石線が選ばれました。
最初のケースに選ばれた理由として、元々が私鉄であったたことなどと言われています。
管理所制度は一応の成果を納め、ローカル線経営のモデルケースと言われました。
具体的には、所長に線区ごとに権限を委譲し、所長の判断で機動的に動けるようにしたもので、所長の判断で車両の改良や営業運動等も併せて行ったそうです。
実際に、昭和33年からは全国に展開、運輸区は38線区、管理所は30線区まで広がりました。 この管理所制度は、現在の「地域鉄道部」の先駆けのようなものであったと考えていただければ理解しやすいのではないかと思われます。
ただし、仙石線では、増収活動まで取り組んだものの、他の運輸区や管理所では積極的に増収を図れる組織にまで行かなかったようで、ある一定の合理化を達成するとその存在価値自体が無くなってしまい、昭和45年頃までには全部姿を消してしまいました。
他に、戦時中に不要不急路線として線路が撤去された路線についても復活要望が起こり、路線として復活した所もありますが、「白棚線」の場合のように、復活に際して鉄道よりもバスの方が有利であるとして、旧線路敷きを専用自動車道として再整備して国鉄自動車白棚線とした例や、阪本線のように、当初は鉄道として建設されたが途中で採算性に疑問があるとして、路盤を自動車専用道に再整備のうえバス専用路線として(五条~城戸間)運用される例など、既にローカル線の建設に対しては批判が出始めていたのは注目していただきたいと思います。
余談ですが、坂本線も利用者の減少で現在は旧来の坂本線経由のバスは廃止されてしまいました。
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