組織改変論議と国鉄 第7話 昭和32年監査報告書
11月
16日
国鉄監査委員会(委員長は後の国鉄総裁に石田礼介氏)が発表した、昭和32年度監査報告書の序章で、「国鉄経営理念の確立」を唱え、公共企業体審議会の答申と、産業計画会議の勧告を正面から取り上げていました。
以下引用すると
「監査委員会は、これらの意見に対して、必ずしも全面的に賛意を表するものではないが、国鉄は、このような批判の、よって生じる所以を深く顧みる必要がある。そもそも国鉄は公共企業体であるが、一つの企業体である以上、それが自主性をもち、企業性の発揮によって企業としての確固たる基盤を持たなければならないことは当然である。・・・・ 今や国鉄の経営刷新が強く要望されているこの時において、国鉄が公共企業体としての、その使命を果たすための”新しい経営理念”は、外に対しては自主性を確立することであり、内に対しては企業性を強化するとともに、業績に対する全責任を明らかにすることがあると考えられるものである」
以上のように、国鉄が新しい「経営理念」を作るべきあることを強調していました。
国鉄の監査報告書は、ややもすると政府の意向を反映する傾向にありましたが、この報告書は国鉄に対してはきわめて厳しい批判と取れる反面、力強いバックアップとも言えました。ただし、大国鉄を大きく動かす原動力とはなりえなかったのは残念でなりません。
むしろ、国鉄ではそういった意見を耳にしながらも、戦中戦後に酷使した老朽資産の置換えもさることながら、戦後増大した輸送需要に対して、国民の付託に応えるために、大々的な輸送力増強を含めた、大幅な改善計画を発表するのです。
これが後の第一次5ヵ年計画と呼ばれたものでした。
概要を以下に簡単に書かせていただきます。
第一次5ヵ年計画の背景には戦後の国鉄輸送量の増大がありました、具体的には戦前の昭和11年と比較して旅客で3.74倍、貨物のトン数では1.65倍の増加となっていました。
ところがこれに対し、国鉄では、戦時中の酷使で老朽化した施設や車両で対応せざるをえず、輸送力不足は否めませんでした。
しかし、戦後のインフレーションの中では、収入で経費を賄うことも難しく、桜木町事故のように戦時中の粗悪品を使っていたことに対する国鉄の批判も大きくなっていたことから、計画されたものでした。
5ヵ年計画の基本は、
1. 資産の健全化、老朽施設の更新、信号保安度の向上
2. 輸送力増強
3. 動力・設備の近代化
以上の3点を重点事項とし、総投資額は5000億円にも達しましたが、昭和32年のなべ底不況で資金事情が悪化。資金不足で設備投資が十分に出来ず、老朽資産の取替えに追われ、輸送力増強が出来ませんでした、景気が回復すると今度は輸送需要が逼迫という状態となり、計画自体が過少であったとして、第一次5ヵ年計画は35年度でひとまず打ち切り新たに第2次5ヵ年計画を策定することとなりました。
なお、第一次5ヵ年計画では、電化・気動車化を中心とした動力近代化の端緒を開いたことは大きな功績でしたが全体としては、計画に対する達成率は68%でした。
さて、国鉄の第一次5ヵ年計画は、電化の推進(東海道線全線電化)など一定の成果は得られましたが、計画が過少であったとして、輸送力の増強。動力と輸送の近代化を盛り込み、経営の長期安定を目指し、昭和36年度を初年度とする第2次5ヵ年計画がスタートしました。
これは、投資総額が9,750億円(当時)という巨大なものでした。
具体的な内容は、昭和39年版運輸白書で参照すると、以下のようになっています。
1. 東海道線に広軌鉄道を増設すること。
2. 主要幹線区約1100キロを複線化し,150キロの複線化に着手すること。
3. 主要幹線区を中心に約1700キロの電化を行ない,これを電車化すること。
4. 非電化区間および支線区の輸送改善のために約2600両のディーゼル動車と約500両のディーゼル機関車を投入すること。
5. 通勤輸送の改善のために,約1100両の電車を投入するとともに,駅その他の施設を改良すること。
ただし、昭和38年度までの進捗状況は概ね60%以下で推移しており決して充分な進捗状況であると言えるものではありませんでした。
しかし、ここで注目いただきたいのは、国鉄諮問委員会(原安三郎委員長)が、昭和35年9月に、第2次5ヵ年計画への切替えを勧告した意見書で、過度の公共負担や、不採算路線の建設、運賃制度の不合理、中ぶくれの人員構成の、「4つの根本的な病根」と呼び、政府に抜本的な対策を政府に望んでいました。
第2次5ヵ年計画も、東海道新幹線は完成にこぎつけたものの、急激な高度経済成長に追いつけず39年度で再び見直しを迫られることとなりました。
特にこういった一連の輸送力増強計画に際して、自己資金以外は、国鉄自身の借入金で賄わせたことに大きな問題がありました。
昭和38年5月に提出された監査委員会の答申書「国鉄経営の在り方についての答申書」によると、国鉄が名ばかりの公共企業体となった原因を政府にあると、その責任を追及しています。
ここでその内容を引用させていただきますと、
「国鉄に果たして”企業性”が与えられてきたか、ほとんど完全に否である。・・・、国鉄の理事者は、その判断の自由と行動の自由とを、運輸省の一般監督、大蔵省の予算制度上の監督、国会が運賃決定権を握り、国鉄総裁は、その万般にわたる質問に対して自ら答弁に当たらなければならないことなどによって、まさにガンジガラメに縛られていたのである。・・・国鉄は、”企業性”を阻まれてきたが故に、そのうべかりし”収益力”を発揮しないできた、と同時に国鉄は”公共性”の名によって過大なる公共負担を負わされてきた。それが国鉄の今日ある所以である。別のいい方をすれば”独立採算制の公共企業体”たるべき国鉄に、その実が与えられていないこと、そこに全ての原因があるのである」
とはっきり指摘していました。
また、民営化論議に対しても、国鉄に対してもっと公共企業体としての実を与えることができるように配慮すべきであると指摘していました。
「国鉄を一会社の運営にまかせるのはムリだが、分割の方法が立ちにくい、資産の評価もむずかしく、今の国鉄には買い手がつかないだろう。民営にしたらうまくゆくという保証もえられない」として退けています。また、官営に戻す案に対しても、「国鉄が企業体であることによる利益を放棄してしまうことになるとし、政府に対し、国鉄に公共企業体としての実を与えることを求めていました。
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