復旧から発展 第3話 第2次5ヶ年計画
11月
9日
計画の骨子としては、主要幹線の線路増設と輸送方式の近代化、経営の合理化です。
計画の目玉は、当時、世界の三大馬鹿と言われた新幹線でした。(ちなみに、当時の世相では、万里の長城、戦艦大和、新幹線を世界の三大馬鹿と揶揄されていました。)
このときの総投資額は、9,750億円(うち東海道新幹線は1,735億円)でした、さらに、昭和37年5月の三河島事故(信号無視で安全側線に突っ込んで脱線した機関車に対向の電車が接触し160人が死亡した事故)や、昭和38年11月の鶴見事故により、輸送力の増強がより強く求められることになりました。
新幹線の建設に際しても、当初は予算を通すために過少な額を提示していたため、当然資金不足に陥ることとなるのですが、之は後の話。
新幹線建設に際しては、世界銀行から8,000万ドル=288億円(年利5.75%)による借款が行われることになりました。
これは、政府の予算を仮に使うと、年度ごとに変動する恐れがあったこと、世界銀行から借りたとなれば政府もむげに出来ないであろうという読みがあったとも言われています。
なお、実現には、当時大蔵大臣であった佐藤栄作(後の首相で、岸伸介首相とは兄弟)氏の尽力がありました。
この計画は、ほぼ予定通り進行し、東海道新幹線の開業をもって一つの区切りとなったのですが、皮肉なことに昭和39年、この年以降は毎年赤字を計上することとなり、昭和62年にJRに改組されるまで黒字に転換することはありませんでした。
客観的な目で見れば、新幹線を含め国家的事業であるにもかかわらず、国の政策に則って動く若しくは動かざるを得ない国鉄の事情が見えてきます。
さらに、それを独立採算制の建前から、自前で調達しなくてはならない、さらには地方の発展のためという名目で、収益性の認められないローカル線建設、学生の教育機会均等のために、格安な定期券の発売など、本来であれば運輸省なり建設省、文部省(省名は全て当時)が負担すべき分野まで国鉄が負担を負っていたことは問題だったと言うことを認識していただきたいと思います。(この辺は、磯崎総裁も国会答弁などでその旨を答弁しています。)
他に、国鉄では昭和30年代に、地方の財政不足を補う目的で、線路の延長ごとに率を決めて地方納付金なるものを支払っていました。この点は、別の機会に譲りたいと思います。
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