利休の茶室に秀吉、官兵衛、そして石田三成がいる。
………………………………
秀吉:「先鋒は清正と行長、軍師は官兵衛じゃ。
信長様が成し得なかった夢を、この秀吉が成し遂げるのじゃ。」
官兵衛: 「殿下……
天下太平は目の前でございますが、長い戦で民は疲弊しております。
何卒、しかと民の姿を見ていただきとうございます。」
秀吉: 「そのような事は分かっておる!」
官兵衛: 「殿下、何卒、お考え直しください!!」
秀吉: 「おぬし、このワシの夢にケチをつけるのか?」
……………………………
秀吉: 「これ以上申すな!!!」
利休: 「耳の痛いことを言ってくれるお方がおられるうちが春でございます。」
秀吉: 「利休よ。……ワシは黒茶碗が嫌いじゃ。」
利休: 「殿下にもいずれその良さがお分かりになります。」
…………………………秀吉は怒りに震えて立ち上がると、
その黒茶碗を蹴飛ばす寸前となるが、そのまま三成を伴って退席する…………………
天下人秀吉の傲岸さ、
天下のための最善は何かを理を持って説く官兵衛。
盲目的に秀吉のご機嫌取りとして権勢を伸ばしつつある三成、
高所から哲理を言ってのける利休。
この時点でのこれらの各人のそれぞれがよく表されている。
本日のとある新聞コラムにもこの時のいきさつが詳細に解説されていた。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140923/wlf14092307000002-n1.htm
秀吉が中国征伐という愚かしい老人性夢遊病に陥ったのは、
ここでの台詞通り、
信長の夢を踏襲して後継者としての正統性を
アッピールしたかったのは間違いないと思われる。
ではその信長が日本平定後、朝鮮や中国に目を向けたのはどうしてか?
当時万里の波涛を超えて布教や貿易にやって来た南蛮人に刺激された事は想像に難くない。
………………………………………………………………………
先回、当時の欧州は大航海時代であり、
地理上の新大陸発見時代でもあったことを書いたように思います。
ここから
「秀吉や家康がキリスト教を禁教にした理由」について考えて見ましょう。
1494年にアレキサンデル6世は、
大西洋の真ん中に南北で線引きして世界を真っ二つに両断することを両国に認めた。
(トルデシリャス条約)
両国とは、ポルトガルとスペインで、
この2カ国で新世界を真っ二つに両断したのである。
トンデモ、トンデモ〜
西側のブラジルを除いた新大陸をスペイン領とし、
東側のアジア・アフリカはポルトガル領とするというお話、、、
何とも身勝手な〜(^◇^)
その際に教皇は両国王に宣教保護権なるものを与えている。
それはスペイン王とポルトガル王に付与された
彼らが征服した新地に対しての布教許可権であり、交易独占権でもあった。
このように、カトリック教会の宣教と国王の政治的・軍事的な意向とが
結託していたのは紛れもない事実。
全世界でのキリストの代理人を自認していた教皇にとって
布教権や司祭叙任権は専権事項であり、
発見した新大陸でのそれらもまた本山(教皇)から
大航海と新大陸管理の事業者(国王)へ譲られるべき性質のものであった。
当時はそのような時代状況であり、事の善悪を論じられる次元ではない。
だから禁教令や鎖国を持ってキリスト教を排除しなくては
やがて日本も植民地に成り果てていた……
そんな風に考える人がどうも多いようなのです。
これは本当でしょうか…?
日本は世界から見ると、今も当時も超特殊な国です。
日本には大規模農地に適した広大で肥沃な土地はない。
当時は金銀などの鉱山資源も発見前のこと。
第一、戦国の武士たちに対抗するほどの兵員や武器の輸送は不可能であったと言えます。
関ヶ原での東西両軍の双動員兵員数は概算で30万人程。
一方、その数世紀後の欧州最大の会戦である
ワーテルローの戦い(1815)でのそれはおよそ20万人とされています。
欧州が連合して日本征服を企んだとしても、
日本の戦国武士にはかなわなかったはずです。
カトリックによる日本宣教は国王認可の元での国家事業であり、
貿易と密接に結びついたものであったとしても、
彼らに征服の下心があったと結論付るには早すぎるようです。
ここにホセ・デ・アスタコ(1540-1600)という
スペイン人のイエズス会宣教師を紹介します。
彼はペルーやメキシコでの布教活動を管区長として指導した人ですが、
1577年に書いた書簡の中で全世界の宣教地を3区分する必要性を説いています。
①西洋と同等な高度な文明を持つ人々〜日本や中国
②文明後進国ではあるが、それなりの独自文明を持つ人々〜南米マヤ人やアステカ人、ポルトガル領インド人
③野蛮人で「堕落した凶暴な住民」
その中でアコスタは
「第一区分の住民に対しては使徒時代のギリシア人、ローマ人、その他のアジア人、ヨーロッパ人と同一の方法で布教するべきである」と記しています。
イエズス会宣教師のトップが日本を白人国家として扱うよう述べているのに注目です。
その路線を正しく踏襲したのがイエズス会東インド管区巡察師として来日したヴァリニャーノでした。
…………………………来週に続きます………………………………………………
秀吉の無理難題をどう受け止めるか、苦悩する官兵衛
今週の大河ドラマ・官兵衛は、
秀吉による九州平定後に受け継いだ豊後の地侍どもの反抗をどう抑えるかという話題だった。
特に宇都宮氏をだまし討ちにするという
いわば黒田家の暗部が描かれていた。
秀吉の二枚舌、そして「殺せ」との専制君主の独断であるとはいえ、
宇都宮氏との首領安堵の約束を反故にした直接責任者は官兵衛である。
戦国時代の大名として殿下・秀吉の名には絶対に逆らえないゆえに。
そこではキリシタンとしてデウスの教えにあくまで忠誠を尽くすのは不可能であったのか。
先週の伴天連追放令の際、
官兵衛は秀吉を恐れて信仰上の妥協をしてしまった。
以後はデウスの教えと秀吉の命令との狭間の中で葛藤と妥協の生き方が続く。
ところで、秀吉や家康によるキリシタン迫害と禁教とは
日本にとって正しい判断だったと結論づける論考にしばしば出くわす。
キリスト教世界の中からさえも。
宣教師らを先に派遣し現地人民を懐柔した後に軍隊を派遣、
征服して植民地化するのが南蛮国の戦略であり、
それは南米諸国を見れば明らかだという論理。
日本を欧州列強の植民地化から阻止するためには、
その時代のキリシタン禁制も止む無しだった、と言うもの。
高校までの世界史教科書を表面的になぞるだけなら、
誰もがその結論に至って当然であろう。
確かに当時の欧州は所謂大航海時代であり、
アメリカを始め新大陸が「発見」されていた時代。
そこにいる何十万という原住民らを懐柔して交易に利用、
あるいは殺戮して広大な土地を征服していたのは事実。
……………長くなりそうなので来週に続きます…………
側近の石田三成から報告を聞いた秀吉は、
怒りを抱いて言う。
「右近のうつけめ、
このワシよりデウスを選びよった。」
「直ちに追放いたせ。」
「この秀吉に背くものがあってはならない。
それを存分に知らしめるのじゃ」
………………………………………………………………………………………
秀吉の銘により
京都での南蛮寺の打ちこわしが始まっていく。
領地を取り上げあっれた右近は
友人の庇護を求めて各地を流転したあと、
フィリピン・マニアに追放の身となり
移住後間も無くその地で最期を遂げる。
………………………………………………………………………………………
千利休に招かれた茶会での
官兵衛と右近の会話。
「私には右近殿の真似はできません。
殿下に面と向かって信心を貫くとは言えなかった。
信心ゆえに全てを捨て去ることはできない。
私は弱いのです。」
「官兵衛殿。人にはそれぞれデウスから与えられた使命がある
それを全うして下さい。」
……………………………………………………………………………………
秀吉の禁教令に真っ向から対峙し、一点の妥協も許さなかった右近。
それに対して信心を捨てるわけではないが、
迫害を受けるほどに公のものとせず
自己保身に比重を置く官兵衛。
一方が強く、他方が弱いとは断じられない。
一方が信仰者としての理想であり、
他方がまがい物であるとも単純に即断できないであろう。
この辺りの、棄教か死かの二者択一せざるを得なかった
当時のキリシタンの迷いと苦悩、
双方に主イエスはどう評価されるのか
という重いテーマを扱っているのが遠藤周作の「沈黙」であろう。
私の高校時代の国語教科書に掲載されているのを読んで、
激しく揺さぶられた当時のことを思い出す。
それにしても右近が官兵衛に言った言葉が深い。
ー 「人にはそれぞれデウスから与えられた使命がある
それを全うして下さい。」ー
これは信仰の真髄とも言っていい領域の言葉ではないか!
あのNHKが、このレベルにまでキリシタン信仰を調べ上げ
正確に描写しているのに驚かざるを得ない。
先回の大河ドラマ「八重の桜」でも
明治のキリスト教がほぼ正しく描かれていた。
Good Job NHK
秀吉は南蛮からの宣教師に質問する。
「大きな船は何のためにあるのか」
宣教師:「キリシタンを異教徒から守るためです。」
さらに秀吉が問い質す。
「この秀吉の水軍でもかわなぬか?」
「九州では伴天連が領地を持っているのだな」
「伴天連共は我が国の一部を勝手に占拠し、大筒を積んだ船を造った」
……………………
九州征伐に自ら乗り出した秀吉は
キリシタン勢力がただならない程大きくなっているのを見聞する。
そして突然の伴天連追放令を発布。
腹心の高山右近にもせまる。
「直ちに信心を棄てよ」
右近は殉教覚悟で応える。
「身内や家臣、領民のことを思えば胸が張り裂けるおもい、
されど、信心を偽ることはできませぬ」
彼の部下たちは地位も所領も取り上げられてしまうのを惜しみ進言する。
「殿下と折り合いをつけたらどうか」
……………………………………………………
秀吉がキリシタン禁制に至るまでのこれらの大河ドラマ筋道は、
史料から裏付けられて定説となっているものであった。
さらに天下人に駆け上がって行く途上の秀吉の変貌も
ドラマは見逃すことなく克明に描写して満足の行くものだった。
竹中直人の顔の表情がうまい。
徳川家康を大阪城でひざまずかせたのち
九州遠征を成功させると、
秀吉の自尊心は大いに膨らみ
不可能のない万能者のような自意識を持つに至る。
それまではことごとく官兵衛に相談し、そのアイデアを積極的に取り入れていたが、
冷たい視線を向けながら言う。
「もうワシは決めたのじゃ」
「この話はこれまで」
「官兵衛、ワシはお前を成敗したくない」
専制君主と成り果てた者の行き着く姿がそこにあった。
己の権力基盤を盤石にするためなら
どのような無理難題もおかまいなし、
流血も、殺戮も厭うことはない。
1ー4世紀のローマ皇帝によるキリスト教徒迫害がしかり、
太平洋戦争中、現人神に拝礼を強要した日本のキリスト教弾圧がしかりである。
昨日の「官兵衛」では九州征伐のために奔走する官兵衛さん。
同時に伏線として洗礼を受けた後の官兵衛の様子も映し出していた。
妻に告げることなく洗礼を受けたことを素直に詫びる官兵衛。
人生の転機を夫婦として共有出来なかったことに後ろめたさを感じる夫として描いている。
戦国時代の当時、妻の考えや思想がどれほど尊重されていたのだろうか?
人権意識のことに低い情勢下で、あのような近代的な夫婦の会話が果たして実際あったかどうか、実に心もとない。
その大切なキリシタンの教えを教えて欲しいと妻は迫る。
官兵衛は「まだ人に教えるほど良く分かっていないのだ」と答える。
高山右近との付き合いの中でキリシタンの教えを吸収していったとされるが、
四国征伐、九州征伐と戦乱を駆け抜ける中で腰を押し付けて学ぶ余裕は無かったであろう。
官兵衛にとって、創造主や永遠といったテーマに目を開かせたのは
有岡城での1年にも及ぶ幽閉事件であったのは確かなようだ。
ひどい湿気に窮屈な空間、蚊とシラミに悩まされて皮膚病に侵される。
死と隣り合わせの中で、彼にとり不思議な輝きに映ったのが藤の花だった。
順境の時にあっては気づきもしないであろうその変哲のない命が
「生き抜こう」と決意を誘う創造主の作品であり、
同時に自らの命そのものに見える心境となった瞬間であったと、
多くの研究家は考えるようだ。
司馬遼太郎は「播磨灘物語」でその時の彼の心情を次のように描いている。
「その青い生き物のむこうに小さな天があり、
天の光に温められつつ、伸びることのみに余念もない感じだった。
官兵衛は、生まれてこのかた、
生命というものをこれほどのつよい衝撃で感じたことがなかった。
その者は動く風の中で光に祝われつつ、わくわくと呼吸しているようであり、
さらにいえば、官兵衛に対して、生きよ、と天の信号を送り続けているようでもあった。
官兵衛は神(デウス)を信じていた。
しかしそれが神の信号であると思う以上に、
ごく自然な感動が湧き起こってしまっている。
官兵衛という生きた自然物が、
他の生命から生きることを励まされているという感じであり、
その感動が重なり重なって、そのことに馴れてから、
(これはデウスの御心ではないか)と、解釈するようになった。
解釈が成立して、官兵衛の心が落ち着いた」
藤の花の成長から神からのメッセージを受け取ったと、
クリスチャンではないが司馬氏はかいている。
友人の荒木村重から受けている非情な扱い、
その不条理でさえもまた、大きな神の摂理の一つであると解釈したのであった。
彼の人としての成長も、信仰心も
この試練の時に培養されたと言って良いと思う。
「試練(ここでは聖書文脈から信仰ゆえに受ける試練のことであるが)に耐える人は幸いです。
耐え抜いて良しと認められた人は、
神を愛する者に約束された、
いのちの冠を受けるからです。」
Ⅰペテロ1:12
先日の大河ドラマ官兵衛では、
彼の洗礼式がイエズス会宣教師オルガンチノによって執行された場面。
官兵衛の受洗について日本側にその資料は残されていない。
徳川時代のキリシタン禁制が焚書にしたゆえである。
ルイス・フロイスの「日本史」によれば
当時の日本は破竹の勢いでキリスト教国へ登っていたのが分かる。
200以上の国が群雄割拠していた当時の戦国時代にあって
60以上のキリシタン大名がいたことを報告している。
大河ドラマでは四国征伐後の九州征伐前に官兵衛が受洗したことになっていたが、
「日本史」からもそのその頃の時期であったことが伺える。
本能寺の変1年後の天正11年に大阪城建設が始まると
秀吉の協力もあって南蛮寺(キリスト教会)が城近くに建設された。
秀吉が天下人としてその大阪城に君臨すると
各地の大名が大阪城下に屋敷を構え、
大阪が活況を呈するようになっていくが、
官兵衛が洗礼を受けたのもそのころであったようだ。
フロイスは同「日本史」で以下のように報告している。
「時に天下は太平で、
各地の武将たちは頻繁に政庁を訪れるために大阪に出入りし、
その機会に我らの説教を聴聞し、
我らの主なるデウスから選ばれた者が常に洗礼を受けていた。
彼らは我らから何一つ物質的な代価を求めることなく、
純粋な意図から改宗し、それまでの堕落した生活を一変し、
遊女、快楽、非道、不正議、残忍、その他の悪に染まった生活を放棄した。…………
これら受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。
彼は優れた才能の持ち主であり、それがために、万人の尊敬を一身に集めていた。
関白と山口の国王(毛利輝元)との和平は、この人物を通じて成立したのであり、
彼は播磨の国に非常に多くの俸禄を有している。……
彼の心を最初に動かしめたのは海軍の総司令官・小西行長アゴスチイノであり、
ついで蒲生氏郷と高山右近ジェストが、彼を洗礼へと導いたのであった。
この貴人は、小寺シメオン官兵衛と称した。」
NHKの大河ドラマ「官兵衛」〜
キリシタン大名としての官兵衛をどの程度描くかを注視している。
先回の「八重の桜」ではあり得ないほどの忠実さで
夫の新島襄をキリスト信者の模範のように描写した。
守部喜雅氏の書かれた「天を想う生涯」によると、
日本には官兵衛のキリシタンとしての足跡がほとんど残されていないのだそうです。
それは1614年の徳川家康によるキリシタン禁制により
歴史的資料が消滅したためとされている。
よって資料としては、
ポルトガルに残されていたルイス・フロイスによる「日本史」にすがる他はない。
そこに官兵衛についての次のような記録が残っている。
「彼(官兵衛)はわずか2年前に、ジェスト右近殿とその父ダリオ、
および他の殿たちの説得によって大阪でキリシタンとなった。
だが天下の君(秀吉)の重大な用務に携わる身であったので、
キリシタンになった時にもデウスの話を聞く時間はほとんどなかった。
そのようにキリシタンとしての基礎に欠けていたので、
彼にはまだ救霊のことについて真の喜びと感覚が身についていない。
とはいえ、彼は大いに期待が持てる人物であり、稀有の才能の持ち主であるから、
教えを聴聞する機会が与えられれば、その信仰はより強固となり、
デウスへの奉仕に役立つ道具となることであろう。」
(フロイス日本史11巻)
やがて彼はその「教えを聴聞する機会」を得て熱心なキリシタンへと変貌を遂げて行く。
四国征伐を終えて九州遠征を控えていた時、
下関に司祭を定住させることに奔走し、
教会堂の敷地を家来の兵士を動員して整備している。
TVで江戸時代の絵師、伊藤若冲の絵画が紹介されていた。
その精密極まりない鳥獣や草木の極彩色と、
生命観あふれる構図には圧倒されるばかり。
200年も前に日本にこのような天才がいたことだけで驚き。
私はピカソの絵が理解できない。
何を描こうとしているのか、どうしてそれが評価されるのか。
だが、若冲の絵に瞬時に釘付けとされた。
この夏、その展覧会が東北の被災3都市を巡り、多くの人々を励ましたという。
彼とその作品は長い間評価されずに、
美術館の倉庫に埋もれていたのを掘り起こしたのが、
ジョー・プライスという米国人であるのがまた驚き。
インタビューでのプライスさんの言葉です。
正確な引用ではないですが、私の記憶にとどまったものです。
*多くの人は誰が描いたのかを目当てにしていて、
署名を見ただけで「次を見せてくれ」という。
*美術には何の知識もない私が23歳とき、
「葡萄の絵」に衝撃を受けた。
*当時日本が鎖国をしていたのが良かった。
外国のものの模倣でなく、自国にある美しい自然や動植物に向き合うこととなった。
日本独特のものを生み出す素地となった。
*津波の数週間後、色彩のない灰色の被災地に、
梅の花が開花した知らせに感動した。
以下はプライスさん自身が展覧会開催にあたり、
日本の皆さんに宛てた手紙からの引用です。
「テレビに映された梅の花にそれまで硬直していた身も心もほぐれ、
泣き崩れてしまいました。
一面灰色の瓦礫の中で咲いたあの色鮮やかな梅の花の美しさは一生忘れることはないでしょう。
また私たちは、避難所で配られたおにぎり1個に「ありがとうございます」
と頭を下げられておられた東北の人々に美しいものをお見せしたいとの思いに駆ら
れ、~」
江戸時代のものばかりでなく、
日本の優美は海外の人によって発見されることは珍しくありません。
ここ3週間ほど見ていなかった
八重の桜を見ました。
まだ会津戦争なのですね。
戦いばかりのドラマっていう印象になりそう。
それにしても、
開城・恭順を説く西郷タマモは徹底的に正論。
降伏は腰抜けでなく、勇気ある選択。
指導者の頑固さやプライドが、どれほどの尊い会津人の命を奪ったことか。
二本松での年少者の死、白虎隊の自害、、、無念です。
見るのに辛いです。
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