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官兵衛と藤の花

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官兵衛と藤の花
昨日の「官兵衛」では九州征伐のために奔走する官兵衛さん。
同時に伏線として洗礼を受けた後の官兵衛の様子も映し出していた。

妻に告げることなく洗礼を受けたことを素直に詫びる官兵衛。
人生の転機を夫婦として共有出来なかったことに後ろめたさを感じる夫として描いている。

戦国時代の当時、妻の考えや思想がどれほど尊重されていたのだろうか?
人権意識のことに低い情勢下で、あのような近代的な夫婦の会話が果たして実際あったかどうか、実に心もとない。

その大切なキリシタンの教えを教えて欲しいと妻は迫る。
官兵衛は「まだ人に教えるほど良く分かっていないのだ」と答える。

高山右近との付き合いの中でキリシタンの教えを吸収していったとされるが、
四国征伐、九州征伐と戦乱を駆け抜ける中で腰を押し付けて学ぶ余裕は無かったであろう。

官兵衛にとって、創造主や永遠といったテーマに目を開かせたのは
有岡城での1年にも及ぶ幽閉事件であったのは確かなようだ。

ひどい湿気に窮屈な空間、蚊とシラミに悩まされて皮膚病に侵される。
死と隣り合わせの中で、彼にとり不思議な輝きに映ったのが藤の花だった。

順境の時にあっては気づきもしないであろうその変哲のない命が
「生き抜こう」と決意を誘う創造主の作品であり、

同時に自らの命そのものに見える心境となった瞬間であったと、
多くの研究家は考えるようだ。

司馬遼太郎は「播磨灘物語」でその時の彼の心情を次のように描いている。


「その青い生き物のむこうに小さな天があり、
天の光に温められつつ、伸びることのみに余念もない感じだった。

官兵衛は、生まれてこのかた、
生命というものをこれほどのつよい衝撃で感じたことがなかった。

その者は動く風の中で光に祝われつつ、わくわくと呼吸しているようであり、
さらにいえば、官兵衛に対して、生きよ、と天の信号を送り続けているようでもあった。
官兵衛は神(デウス)を信じていた。

しかしそれが神の信号であると思う以上に、
ごく自然な感動が湧き起こってしまっている。

官兵衛という生きた自然物が、
他の生命から生きることを励まされているという感じであり、

その感動が重なり重なって、そのことに馴れてから、
(これはデウスの御心ではないか)と、解釈するようになった。

解釈が成立して、官兵衛の心が落ち着いた」

藤の花の成長から神からのメッセージを受け取ったと、
クリスチャンではないが司馬氏はかいている。

友人の荒木村重から受けている非情な扱い、
その不条理でさえもまた、大きな神の摂理の一つであると解釈したのであった。

彼の人としての成長も、信仰心も
この試練の時に培養されたと言って良いと思う。


「試練(ここでは聖書文脈から信仰ゆえに受ける試練のことであるが)に耐える人は幸いです。
耐え抜いて良しと認められた人は、
神を愛する者に約束された、
いのちの冠を受けるからです。」
Ⅰペテロ1:12

#TV #ドラマ #ビデオ #映画 #音楽

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