先日の大河ドラマ官兵衛では、
彼の洗礼式がイエズス会宣教師オルガンチノによって執行された場面。
官兵衛の受洗について日本側にその資料は残されていない。
徳川時代のキリシタン禁制が焚書にしたゆえである。
ルイス・フロイスの「日本史」によれば
当時の日本は破竹の勢いでキリスト教国へ登っていたのが分かる。
200以上の国が群雄割拠していた当時の戦国時代にあって
60以上のキリシタン大名がいたことを報告している。
大河ドラマでは四国征伐後の九州征伐前に官兵衛が受洗したことになっていたが、
「日本史」からもそのその頃の時期であったことが伺える。
本能寺の変1年後の天正11年に大阪城建設が始まると
秀吉の協力もあって南蛮寺(キリスト教会)が城近くに建設された。
秀吉が天下人としてその大阪城に君臨すると
各地の大名が大阪城下に屋敷を構え、
大阪が活況を呈するようになっていくが、
官兵衛が洗礼を受けたのもそのころであったようだ。
フロイスは同「日本史」で以下のように報告している。
「時に天下は太平で、
各地の武将たちは頻繁に政庁を訪れるために大阪に出入りし、
その機会に我らの説教を聴聞し、
我らの主なるデウスから選ばれた者が常に洗礼を受けていた。
彼らは我らから何一つ物質的な代価を求めることなく、
純粋な意図から改宗し、それまでの堕落した生活を一変し、
遊女、快楽、非道、不正議、残忍、その他の悪に染まった生活を放棄した。…………
これら受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。
彼は優れた才能の持ち主であり、それがために、万人の尊敬を一身に集めていた。
関白と山口の国王(毛利輝元)との和平は、この人物を通じて成立したのであり、
彼は播磨の国に非常に多くの俸禄を有している。……
彼の心を最初に動かしめたのは海軍の総司令官・小西行長アゴスチイノであり、
ついで蒲生氏郷と高山右近ジェストが、彼を洗礼へと導いたのであった。
この貴人は、小寺シメオン官兵衛と称した。」
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