小学校2年生で広島の原爆に遭い、家屋の下敷きとなった家族が焼死するのを目撃するゲン。
「はだしのゲン」は作者の中沢啓治による、自身の原爆の被爆体験を元にした漫画です。
戦中戦後の激動の時代を必死に生き抜こうとする主人公中岡ゲンの姿が
生き生きと描写されているもので、
私は題名だけを聞いたことがありますが、実際に本を読んだことはありません。
本日のTVニュースでは、このはだしのゲンを題材にした授業がニューヨークの大学で開かれていたりしているそうです。
すでに英語を始め、世界20ヶ国語に翻訳され、核兵器の恐ろしさ、非人道的な被害を長く与える残酷さがリアルに人々に訴えているようです。
核開発の進むイランでも、在日のイラン留学生がペルシア語へ翻訳したことから、この本を読む人たちが起こされています。
核を持たずに、平和への道を模索する機運を与えるツールとして用いられていきますように期待します。
私も英語版を購入して子供に読ませてあげたく考えています。
サンフランシスコの日本町。
サンフランシスコ・ベイエリアで牧師をしているS先生と会食しました。
お互い、ほとんど同時期に6月下旬から2週間ほど訪日していたので、
そんなことも報告。
「2週間滞在して、ほとんどプライベートな時間が無かった」と述懐されたS先生。
御教会出身者のための同窓会を全国3箇所で開かれ、2箇所での被災地奉仕。
到着日と、出立日にご両親の家に寄ったのが唯一プライベートと言えるかな。。
なんておっしゃっておられました。
今年の私の訪日も、似たような感じでした。
羽田到着から10時間後には横浜港南教会の日曜礼拝、羽田出立の3時間前までは川崎教会の水曜祈祷会に家族で出席していました。
プライベートと言えるのは、隅田川クルーズに母親を誘ったのと、その夜に高校同窓会に行ったくらいでしょうか?
「そういう訳で」ということではないのでしょうが、S先生は来夏、3ヶ月間の休暇を日本でお取りになるとのこと。
大いに結構ではないですか!
サバティカルとして、これまでに取れていなかった休暇を一気に消費するとのことです。
サバティカルとは、旧約聖書にあるもので、1週に対しての1日、7年間に対しての1年間を休暇として人間や農地に与えよ、との教えです。
もちろん、その運用は社会制度や職種で様々であってしかるべきもの。
そういえば、明治学院の教員がサバティカルを利用して1年間の研究生としてワシントン大に留学、当時ベルビュウーに滞在していたそのご家族とは今でもお付き合いがあります。
もちろん留学費用も滞在費用も大学持ち。
民間企業も同様で、さらに渡航の際にはビジネスクラスが提供されるというのだからスゴイ。
日本の経済力が下火だなんて言われて久しいですが、家族毎海外に研修させるんだから。
ところで聖書に最も親しんでいるはずの、
本家本元のキリスト教会がこの点でかなりの遅れを取っているようです。
私の周りのプロテスタントの日本人教会では、そもそも休みを貰っても外泊出来ない経済事情の牧師たちばかりです。
それを清貧の美徳とするか、改善点と認識するかは、日本の教会人の民度にかかっているのではないでしょうか。
さて、私はサバティカル欲しさにこれを書いているのでありません。
いつの頃からだろうか、私は休暇という概念を捨ててしまった。
On/Offの切り替えや、労働と休養の区別はあっても、
一年365日、一日24時間、常時仕事をしているつもりでいます。
同時に趣味にも励んでいます。
仕事=趣味です。
自分の心からしたいことに取り組んでいるんです。
たった今、夜の12時を超えてしまいました。
そろそろベッドに入り、睡眠という仕事に取り掛かることにします。
激動の生涯を生き抜いたジョン万次郎の物語。
本日は、本についてのエピソード。
日本のニュースを見ていたら、米国の小学生間でベストセラーとなっている話題の本が取り上げられていました。
Heart of a SAMURAI という本です。
ジョン万次郎の生涯について書かれたものです。
幕末、漁師の見習いであった少年万次郎は嵐に遭い遭難。無人島で米国の捕鯨船に救出せられてから、東海岸にある船長の家に移り住み、そこで学校へ通います。
やがて帰国しますが、時は明治維新。
彼は日本側通訳官として勝海舟艦長の船に乗り込んで、日米の条約締結の橋渡しをします。
試練と困難の中でもめげずに道を切り開いて行った万次郎の物語が、米国の子供たちに大きな励ましを与えているようです。
その話を家族にしたところ、小学4年の長男のクラス担任は毎朝の読書の時間、この本を子供たちに読み聞かせているのだそうです。
先月の長男の誕生プレゼントにはこの本を買い与えました。
彼は一向に読もうとしないので、
私が先に読むことにします。
アジアの子供たち
ボブ・ムーアヘッド牧師の説教からの抜粋です
【この時代に生きる 私たちの矛盾】
1.利便
ビルは空高くなったが 人の気は短くなり
高速道路は広くなったが 視野は狭くなり
猛スピードで運転し すぐ怒り
より便利になったが 時間は前よりもない
急ぐことは学んだが 待つことは覚えず
2.消費
お金を使ってはいるが 得る物は少なく
たくさん物を買っているが 楽しみは少なくなっている
レジャーは増えても 楽しみは少なく
飲み過ぎ・吸い過ぎ・浪費し 笑うことは少なく
持ち物は増えているが 自分の価値は下がっている
3.家族
家は大きくなったが 家庭は小さくなり
世界平和の時代と言われるのに 家族の争いはたえず
家は良くなったが 家庭は壊れている
夫婦でかせいでも 離婚も増え
4.食事健康
ファーストフードで消化は遅く
体は大きいが 人格は小さく
たくさんの食べ物に恵まれても 栄養は少ない
薬も増えたが 健康状態は悪くなっている
夜更かしをしすぎて 起きたときは疲れすぎている
5.信仰、祈り
書物を読むことは稀で
テレビは長く見るが、祈ることはとても稀である
6.人間関係
月まで行き来できるのに 近所同士の争いは絶えない
喋りすぎるが、愛することは稀であるどころか、憎むことが多すぎる
空気を浄化し 魂を汚し
原子核を分裂させられるが 偏見は取り去ることができない
7.人生観
生計のたてかたは学んだが 人生を学んではいない
長生きするようになったが 長らく今を生きていない
世界は支配したが 内世界はどうなのか
8.仕事
計画は増えたが 成し遂げられていない
前より大きい規模のことはなしえたが より良いことはなしえていない
利益に没頭し 人間関係は軽薄になっている
たくさんの学位を持っても センスはなく
知識は増えたが 決断することは少ない
専門家は大勢いるが 問題は増えている
たくさん書いているが 学びはせず
情報を手に入れ
多くのコンピューターを用意しているのに コミュニケーションはどんどん減っている
忘れないでほしい、
愛するものと過ごす時間を、それは永遠には続かないのだ
忘れないでほしい
すぐそばにいる人を抱きしめることを、あなたが与えることができる
この唯一の宝物には 1円もかからない
忘れないでほしい
あなたのパートナーや愛する者に
「愛している」と言うことを
心を込めて
あなたの心からのキスと抱擁は
傷をいやしてくれるだろう
忘れないでほしい
もう逢えないかもしれない人の手を握り
その時間を慈しむことを
愛し
話し
あなたの心の中にあるかけがえのない思いを
分かち合おう
人生はどれだけ
呼吸をし続けるかで
決まるのではない
どれだけ
心のふるえる瞬間があるかだ
昨夜に続いて
NHKスペシャル「大川小学校の記録」を見ました。
生徒数108人のうち、78人が津波で犠牲となった
最大悲劇を生んだ小学校です。
当時11人いた教職員のうち10人が犠牲となったため、
それだけの甚大な被害が出た理由が詳しくわかっていないのです。
佐藤さんという私と同年代の男性に番組はスポットを当てました。
末っ子のみずほちゃん(6年生)が帰らぬ人となりました。
直前の日曜日には家族ら4人でバレーの練習をした。
二人の兄妹たちは皆バレー部。
みずほちゃんもバレー部に入る予定でした。
でもそのバレーが最初で最後となった。
中学校教師の佐藤さんは、
これまで開かれた教育委員会の説明会にも関与できないでいた。
遺族からは学校の防災体制の不備を指摘する声が強まる中で、
自分がその場にいたら教師として何ができたろうか、
と考えざるを得ない。
「俺自身、防災を真剣に考えていたかといえば、そうでなないし、、」
しばらくしてから教育委員会から避難が遅れた理由の説明があった。
それをきっかけにして、これまでのスタンスが変わることになった。
その説明はとても納得できるものではなかったから。
これでは子供達の死が無駄となる。
しかし、
教師である立場の自分に
そういう声を上げる資格があるのか葛藤します。
ついに妻の助言を得て、会見に出ることを決意
「子供らのことを考えて、覚悟しないと、、」
記者会見では
11人の遺族代表が教育委員会に対して意見を述べる。
決して問い詰めるのでなく、
真相究明のために共に手を携えて行きましょう、
というものだ。
佐藤さんは振り絞るようにして言われた。
「学校は、教員は、信頼されるべき大人が
黒い波に呑まれて行った子供達の恐怖と辛さを思えば、
親や教師が立場的に辛いんだという、
それを理由(真相を究めないでおく)にしてはならないと思う」
2年前の6月、
私も家族と一緒に,
この大川小学校へ行ってきました。
巨大ブルが瓦礫を山のように積み上げた丘が
点々と荒野に散在する中で、
小学校だけが建物として残されてました。
夢と将来のある命を奪った黒い波の無情に言葉がありません。
信頼で結ばれていた学校と家庭を粉砕した濁流のむごさにも。
「私たちは、被造物全体が今に至るまで、
ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、
心の中でうめきながら、子にしていただくこと、
すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。]
(ローマ 8:22-23 )
本日のNHKスペシャル
「3.11 あの日から2年、何が命をつないだのか
~発掘記録・知られざる救出劇~」は良かった。
副題に「名も無き人々の記録」とあるように、
自衛隊などが到着するまでの間、
瀬戸際の状態にある被災者たちが
どのように乗り越えたかを検証してました。
ある静岡県の漁師の親方は地震直後、
救援物資を満載して
被災地救援に向かうことを決断。
それは50年以上前の伊勢湾台風の際に、
彼の祖父が三陸の漁師たちから船で救援物資を送ってくれた恩返しでもあった。
乗組員の半数はインドネシア人で、
その無償奉仕に賛同してくれるか懸念だった。
ところが数年前のインドネシア地震・津波のときの
日本の援助を覚えていて、快く賛成してくれた。
肌の黒い青年がつたない日本語で、
力強く「助けたい」と言ってくれたのがうれしい。
彼らが向かったのは宮城県、牡鹿半島。
20キロも太平洋に突き出した半島は、
道路がいたるところ寸断されて孤立状態。
電気も電話も一切の通信手段は何も無く、
食料は底をついた地震数日後に
支援物資がその漁師たちにより初めて届けられる。
70代と見える防災責任者の男性が、うれしさのあまり
冷たい海に胸の辺りまで浸かって支援物資を載せた小型船を出迎える。
憔悴しきってやせた彼の姿に、本船の船長は朝食を勧める。
彼は、「いや、浜には仲間が待っているから」と言って固辞。
「そのこと言葉を聞いたときは、ジンときたよ。」
初老の抱く仲間との強い連帯感に感心する船長。
「あんとき助けてもらったことは忘れねえ。生きている限り忘れねえよ。
もしお返しするときがくれば、してあげてえよ」
強い決意の初老の言葉で番組が締めくくられていました。
悲惨な現場で人命救助のために、
自らの命を捨てて使命に尽くした人々。
命を救っていただいた恩に報いようと、
復興に励む人々。
2年前、これらの美しいストーリーがある一方で、
そのためにはあまりに大きすぎる代償となった震災。
ビジネスでも結果を出すかどうかを決する要因はいろいろでしょうが、
最も大きなものは「本気度」ではないでしょうか。
あるいは「真摯さ」と言ってもいいかもしれません。
そのビジネスに命を懸けるほどの意義を見出せるか。
そのビジネスが人の命にかかわるほどの重要なものなのか。
そのビジネスは私の命を支えたゆえの恩返であるのか。
パウロという人は次のように告白しています。
「主イエスから受けた、
神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、
私のいのちは少しも惜しいとはおもいません」
使徒の働き20章24節。
「Apple」故スティーブ・ジョブスが2006年に米国スタンフォード大学卒業式で卒業生に向けて行ったスピーチです。
彼がなくなった昨年、この記事を読みました。
読み応えのあるスピーチで、時々読み返しています。
人生の点と点とが繋がっていると信じることの大切さを説いていますが、まさに聖書はそれを教えています。
そうだといいねぇという絵空事でなく、事実である根拠が論理的に何重にも証明できるからので、私も確信をもって「アーメン」(その通りです)と言うことができます。
「 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 (新約聖書、ローマ8:28 )」
そう、すべての点が、良いことも悪いことも、得意なことも隠しておきたい汚点も、それらがすべて合い働いて、あなたにとって「益」と変えられるミラクルをイエスは成し遂げてくださるのです!
ジョブスがクリスチャンであるか否かは私は知りません。
ただ、聖書の原理を知り、その教えに生きた人であるとは、いえるでしょう。
どうぞ、あなた自身がどれほど価値ある存在であるかを、主イエスにより認知されますように!
{以下がジョブスの講演内容です}
PART 1. BIRTH
ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがありません。だから、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。
本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。たった3つです、どうってことないですよね。まず最初に話すストーリは、点と点を繋ぐというお話です。
私はリード大学を半年で退学しました。しかし、本当に辞めてしまうまで18ヶ月位はまだ大学に居残って授業を聴講していました。じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですが、それは、ずっと昔、そう、私が生まれる前の話にまで遡ります。
私の生みの母親は、未婚の若い院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。経済的に苦しい思いをさせないために、育ての親は大卒でなくてはと、そう彼女は固く思い定めていました。そのため、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていました。ところがいざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。
彼らは「もちろん」と答えました。
しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていなかった。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。
PART 2. COLLEGE DROP-OUT
こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入ったわけですが、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高い大学を選んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めました。
「全てのことはうまく行く」と信じてね。
それは勿論、当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思います。だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですから。
夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりしてね。日曜の夜はいつも7マイル歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶、美味しかった。
しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。
一つ、具体的な話をしてみましょう。
PART 3. CONNECTING DOTS
リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ(飾り文字)教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至る所、ポスター1枚から戸棚の一つ、一つに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィが施されていました。私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めました。
セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になっていました。
こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のMachintoshを設計する時に、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきました。僕達はその全てをマックの設計に組み込んだ。そうやって完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。
もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。もし、寄り道していなかったら?Macには複数書体も字間調整フォントも入っていなかったでしょう。そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかったでしょう。WindowsはMacの単なる真似に過ぎないのですから。
勿論、大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんて出来ませんでした。
だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。
未来に先回りして点と点を繋げて見ることは、誰にも出来ない。君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。
PART 4. FIRED FROM APPLE
2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。
私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。実家のガレージでウォズとAppleを始めたのは、私が二十歳の時でした。がむしゃらに働いて10年後、Appleはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出しうる最高の作品、Macを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。
自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらは上手く行きました。しかし、お互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまったんです。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出された、そういうことです。しかも私が会社を放逐されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。
自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまった、そう感じました。こんな最悪の形で全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで一時はシリコンバレーを離れることも考えました。
ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見えて来たんです。私はまだ自分のしてきた仕事が好きでした。Appleでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。
その時は分からなかったのですが、やがてAppleをクビになったことは「自分の人生最良の出来事だった」ということが分かってきました。成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。
それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。
ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。
思いがけない方向に物事が運び、NeXTはAppleが買収し、私はAppleに復帰しました。NeXTで開発した技術は現在Appleが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。
Appleをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。それは、ひどい味の薬でした。でも患者にはそれが必要なんでしょうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものです。だけど、信念を放り投げてはいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。
皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることです。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっては駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとに、どんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。
PART 5. ABOUT DEATH
3つ目は、死に関するお話です。
私は17の時、こんな言葉をどこかで読みました。確かこうでした。
「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。
それは私に強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けています、「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日の予定は、本当に私のやりたいことだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟ります。
自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。
君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。
PART 6. DIAGNOSED WITH CANCER
今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。
医師たちは私にこう言いました。
「これは治療不能な癌の種別である、生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう」と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。
それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、「さよならを告げる」、ということです。
私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診て貰いました。その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したそうです。何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったから涙したそうです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。
これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。
以前の私にとって死は、頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることがあります。
「死にたい人なんて思う人はどこにも居ない」
天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わないでしょう。にも関わらず死は我々全員が共有する終着点であり、そこから逃れられた人は誰一人として居ない。そしてそれは、そうあるべきことだら、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。
今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で申し訳無いけれど、でもそれが紛れもない真実なんです。
君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。
PART 7. STAY HUNGRY, STAY FOOLISH
私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。
それはスチュアート・ブランドという人が、ここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。時代は60年代後半。パソコンやDTPがまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。だけど、それはまるでGoogleが誕生する35年前の時代に遡って出されたGoogleのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。
スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。
最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」
それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。
約2年ほど前、お一人でまだ家に住んでいたときに家族で訪れました。このときは100歳です。
私が何度も子供たちに読み聞かせた「バムとケロ」の本を紹介しています。
先日、林田文子さんが102歳になられました。
彼女は70年ほど前、日系人・日本人強制収容所に収容された最初の方で、シアトル地域でのそのシンボルとなられた方でもあります。
日系ナーシングホームに入居されていらっしゃり、家内が本日訪ねました。
私たち家族からの誕生祝いのメッセージをビデオにしてお届けしたところ、涙を流して喜んで下さったそうです。
体調も良好だそうで、近く日系マナーという、より軽度のケアハウスに移る予定です。
家内が102歳まで元気でいられる秘訣は何ですか、とお尋ねしたところ、、
①友人たちに囲まれて楽しく暮らすこと、感謝を忘れないこと
②残ってるものを何でも食べること
③最後に……遺伝だそうです
②は怪しい答えだと思いますが、細かいことにくよくよしないことだ、と解釈しました^o^
大阪市での事件。
桑田さんのコラムがSNSで取り上げられる1位をここ数日キープしています。
http://www.asahi.com/national/update/0111/TKY201301110314.html
ここ米国では体罰なんて考えられません。
これは、子供の人権に対する意識の違いが根本にあると思います。
勝負に勝つよりも、勉強ができるよりも、行儀・作法・校則遵守よりも、(たとい子供であっても)人としての尊い尊厳を認めているかどうか、という点です。それは本来人が持って生まれた不可侵で神聖なものという認識が近代市民革命を通じて欧米で醸成されてきました。
明治維新での改革は「アンパン型」で、中身は和魂・あんこのままでした。政治制度やインフラなどはお上から改革されても、
自立した自由人が生まれるには、私たち一人ひとりの意識改革にかかっています。
桑田さんの提言には実に説得力があります。
どのマウンドから投げるボールより威力があって、どんな強力打線をも沈黙させるものです。
野球選手としての活躍以上に今後を期待します。
1月1日号のシアトルのフリーペーパー・報知新聞に載っていたのは助数詞。平たく言えば、日本語での物の数え方。
そういえばこれは日本語にはない独特のものでした。
今まで私の知らなかったものに、こんなものがありました。
門松・一対(いっつい)
プール・一面
日本舞踊・一差し(ひとさし)
タンス・一棹(ひとさお)
そしてコラムの最後にはこうありました。
「同じものを数える場合でも、対象に込める気持ちによって助数詞が変化する。難しく面倒と感じるかもしれないが、それぞれに込められた意味と歴史的背景を理解することは、より深い日本語と日本文化の理解につながるはずだ」
なるほど。
異国で暮らしているので、意識しないと日本語も捨てれてきてしまうのですね。
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