釜飯って珍しい?!
Iさん、楽しい宵をありがとう
I さんと夕食を共にしながら話題はいつしか、
NHK大河ドラマに。
現在の「花燃ゆ」は退屈で見ていな~い、と共通認識。
私は初回だけは松蔭のストーリーに燃えて期待値もぐっと上がったのでしたが、
その後はドラマを見るたびにその数値が下がり、
ついに5回ほど見ただけでその後、見ることを止めてしまった。
来年の大河ドラマは、真田幸村が主人公とのと。
幸村はかねてからマークしている戦国武士であり、私はドラマで見たことのない者なので今から楽しみ。
脚本家はIさんの大のお気に入りの三谷幸喜とのこと。
その人のことは知らなかったのですが、
期待の持てる脚本家らしいです。
今から楽しみ!
この日、教会で「風立ちぬ」映画上映がありました。
上映後にグループに分かれてディスカッションの時があり、
それぞれの考えを知ることが出来て、より理解が深まりました。
映画の中で「風」はどういう意味を持っていたか?という問いにそれぞれ答えていきました。さらに、
何を伝えようとしているのか、漠然としている
戦争反対でも、美化でもないらしい
多神教やアミニズムの世界観で構成されているストーリーが読み取れる
米国映画では暴力やSEXが聴衆をクライマックスへと引き寄せるが、日本文化においては「死」ではないか
同監督の作品、トトロにもその「死」が隣り合わせに描かれている
日本古来の映像には懐かしいし音楽も綺麗で魅了される
ただ生きる上での目的とか、死に対する解決などの根本的なものが扱われないのは聖書の救いを知らない文化ゆえのものだろう、、
この上映会は日本宣教師のKeith とCeliaが企画してくれたものです。
宮崎駿のジブリ映画は数本しか見ていない私に対して、彼らは全作品を見ているとのこと。
彼らこそ、「日本学」の専門家といえるでしょうね。
King & I ブロードウェイミュージカルで活躍している
主演の渡辺謙さん。
20年以上も前に謙さんが主演していた
「独眼竜正宗」を見て以来ファンとなった。
渡米して「ラストサムライ」を銀幕で見たときも
そのエキゾチックさ、その誇り高い振る舞いに感心した。
映画やドラマと違いミュージカルは
撮り直しの効かない生出演。
英語でのセリフには週に2回も
ネイティブの教師からスカイプでの特権を受けてきたという。
その奮闘ぶり、その飽く無き挑戦心を見学させていただこうと
ブロードウェイ講演を初めて訪れることにした。
………そのつもりだった。
チケット代が$167
これだけ高額なチケットは買ったことないためか、ビビった。
そして迷い、最後の購入ボタンをクリック出来なかった。
それから2日が経過。
それでも購入の勇気がない。
カード支払いがある、、、
日本訪問の予定もある、、、
「日本人主演のブロードウェイミュージカルなんて、
自分の存命中には二度どない、最後のチャンスなんだから」
そう自らに言い聞かせて購入を決心。
ところが……悲しいかな、
ニューヨーク滞在の全ての日程ですでに売れ切れであった(。-_-。)
謙さん、ゴメン。
自らの小心さが恨めしい。
「三千世界の烏を殺し
ぬしと朝寝がしてみたい」
高杉晋作が作ったという、
謡曲の歌詞である。
ごろつきの様に箱根の関所破りまでしでかした晋作は
「狂」の境地にいた。
数週ぶりに「花燃ゆ」を見たのは
その晋作の狂を見物したかったから。
都大路を賀茂まで天子が行幸する際に
第14代将軍の徳川家茂背後からお供を仰せつかっていた。
京都の民衆は顔を上げることすら恐れて土下座し、ひれ伏しているとき、
晋作だけは顔を上げていたという。そして、
「いよう。――」
花道を進む役者に大向こうから声をかけるように叫んだという。
「――征夷大将軍」
「家康以来、天下の主に対してこれほどの無礼の挙動をとった男もない。
そういう事件も、徳川3百年間、一件もなかった」と司馬遼太郎は書いている。
そんな晋作の「狂」振りを見て見たかったのだが、
ドラマを見る限り常人の域を脱していない。
数ヶ月ぶりになりますが
大河ドラマ「花燃ゆ」を見ました。
悠長なストーリーの展開や
松蔭さんのお顔に耐えられなくて遠ざかっておりました。
時代は
久坂玄瑞や高杉晋作が攘夷を唱える頃となっていた。
優等生過ぎる久坂には物足りないが、
高杉の役柄はなかなかではないか?
遊び人の上にハチャメチャで
捉えどころのない天性の個性が出ているように感じました。
「それでは狂にならん!!」
長州藩の方針をめぐって
より着実で無難な攘夷の方策を唱える久坂に
ぶっきらぼうに答える晋作。
「お前の策はつまらん」
急進的で過激な方法で、ーそれは暴力でありテロなのだがー
攘夷決行を叫ぶ晋作。
あの時の維新はそんな型破りの狂気がなくては
回らなかったということだったのでしょうか。
野山獄跡
野山獄に繋がれている松陰はだいぶご機嫌らしい。
この若者にとっては、塞ぎこむということがないらしい。
天命の中にいるなら、
天が何時も自分を味方に着いてくれると楽観している。
それゆえ鎖国破りの国禁も屁のカッパ。
獄につながれていようとも、その魂は未知の世界をすでに逍遥している。
先達の囚人を捕まえてはそれぞれの得意分野を見つけ出し、
互いに教授となって授業を始めてしまった…
聖書の教えている「創造者」なる方は人格を持った生ける神であるが
それほどの認識までは進んでいないものの、
当時の志士たちも儒教的な「天」を論じる時、
信仰を抱いていたらしいことを司馬さんは次のように書いている。
……………………………………
「この時代、読書人たちはみな天という概念の信者であった。
天とは絶対者というべきであろう。
さらにいえば、松陰らの教養である朱子学にあっては
宇宙のげんりそのものを天といい、
人生もまた天という大いなる原理の中につつみこまれていた。
松陰はようやく天の意思を感じた。」
……………………………………………
ペリー艦隊での密航が失敗に終わってしまったことが惜しまれてならない。
もし成功して外国の諸事情を吸収して帰国出来ていたら………
そのような「もし」があてがわれる惜しい人材が
次々に死を遂げて逝ってしまった革命期。
松陰は鎖国日本の閉ざされた情報管理社会の中で
「天」に対する信仰に生きたが、
もし聖書の真理に接する機会が与えられたなら
人格的な「天」に帰依していたと言っていいと考えます。
ついに松陰は野山獄での囚人生活を送ることになる。
同僚の金子が死に瀕していること以外、この若者を気落ちさせるものはなかった。
天性の楽天家か?
人の善性を疑わなかった分だけ、
他人の懐に飛び込んでは幽閉生活を快活なものに創り上げてしまう。
そんな稀に見る気質は母親譲りかも知れない。
ドラマでも、事あるごとに「世話ない」と決まり文句を放つ彼女の屈託なさが目立つ。
松陰の身を案じてオロオロする家族の中にあって
母親だけは笑顔を崩さず悲観しないのは、
痴呆かと思える程である。
司馬遼太郎は天真爛漫な松陰をこんな風に描いている。
「この若者のほとんど生まれつきといえる奇妙さは、事態が悪化し、豪雨の前の空のように陰々として暗くなればなるほど、その密雲の上の固有の蒼天をおもうらしい。
むろんたれの目にも見えないが、松陰の目には網膜が青く染まるほどのあざやかさでおもうようであった。」
〜「世に棲む日日」の「空の青」から〜
「百に一つも成功せぬ。
必ず獄門首になる。君はわかっているのか」
「わかっている」
松陰は明るすぎるほどの顔色で言った。
「私はむしろ、鈴ヶ森の獄門台に首をさらされることを望んでいる」
……
「武士の本願は、獄門首ではあるまいか」
…………………………………………………………………
ペリー艦隊に乗り込み密航を企てた松陰がその決行前夜、
長州藩や熊本藩の同志らに集まってもらい、
これから彼が行おうとしている暴挙を打ち明けて意見を求める場面。
これはドラマには出てこない。
司馬遼太郎の「世に棲む日日」に出て来る場面である。
松陰は本気でそのように考えていたらしい。
己の死を通して強烈にメッセージを世に発信しようとしていた。
同志の一人であった宮部鼎蔵は彼の話を聞きながらたまりかねて大声を発し、
「狂ったのか」
と反論している。
が、松陰の人柄とその決行計画に変更がないことを知るようになると
呆れ果てるほかなくなる。
「君には、そういうところがある。
自分の死をもって詩を作ろうとしているところが」
…吉田松陰は、時代の生んだ狂人である。
密航が失敗したからといって何も番所に自ら自首せずとも良いのに。。
未だ20代の前半。
今なら大卒で社会人入り口に差し掛かったばかりの年齢だった。
再起を図って異国を知るという志を後日に遂げれば良いではないか。
死んだら、何もかもが終わりではないか!
常識人ならそう考えるはず。
松陰してそうは考えらせなかったのは、
当時の時代が煮詰まるため触媒を必要としていたことと関係するらしい。
その実直さ、真摯さに惹かれた若者らがやがて囚人の松陰の元に馳せ参じて松下村塾を形成し
維新の原動力になっていく。
使徒パウロの晩年がオーバーラップしてくる。
パウロもまた地中海伝道の志半ばで幽囚の身となり、
暴君ネロによって処刑されてしまう。
その幽閉中に著した各教会への書簡が新約聖書の内の数巻を形成している。
彼の幽閉と死は、より大きな影響と遺産をキリスト教会に遺すことになる。
「松陰は、駈けた。
浦賀に向かって駈けてゆくのだが、
この不器用な若者の駈ける姿は、
穏かな泰平の感覚から見れば、
まことにこっけいなものであろう。
…………………………………………
川崎、神奈川を夢のなかの景色のように通りすぎ、
保土ヶ谷から左折した。」
この文書は司馬遼太郎が著わした「世に棲む日日」にある
「浦賀」に出てくる一節である。
ペリーが1854年に日米和親条約を締結するために横浜港に停留している様を、
吉田松陰が見るために駈けている。
その駈けたコースは拡張されて現存していると思われる。
確かめていないが、現在の国道がそれではないか?
保土ヶ谷から左折すると横浜港に至る幹線道路は、
私の10代の時の生活圏であった。
中学、高校ともに保土ヶ谷にある学校へ通い、
その幹線道路を走るバスに揺られて関内にある塾へ通ったものである。
松陰のその道を走る姿が目に浮かぶようである。
ところで、
大河ドラマ「花燃ゆ」の評判がすこぶる悪い。
3回目を終えてみて視聴率は過去20年で最低であるとの報道。
うーん、確かに何処かが物足りない。
多分それは、
松陰の血騒ぎ、肉踊る「駈ける」ところが足りないのではないか?
……なんて、勝手なことを考えたりしている(O_O)
松陰はペリー艦隊を見物するためにそこへ行くのではなく、
それに乗り込み、米国に渡り、敵の国情を知って祖国防衛に役立てようとした。
国禁を犯し、命を投げ打っての暴挙に走っている。
司馬さんは、松陰のその時の心意気を次のように描いている。
「松陰は欧米文明圏の人間どもを、
文明の利器を使う人間として評価せずに、
むしろ「豪傑」として評価するむきがあった。
松陰は漢訳本その他でナポレオンのことやワシントンの人間や事歴をほぼ知っており
それらを毛唐であるからといって賤汚視せず、
史記列伝中の豪傑と同様に敬し
わずかながらも親しみを覚えたりしている。
さらには今浦賀沖に浮かんでいるアメリカの武者どもについても同様であった。
彼らがその故国における安逸のなかから飛び出し、
万里の波濤をこえてこの国にやってきているということに、
松陰は素直に「豪傑」を感じていた。
………
このあたりが、この若者の奇妙さであったであろう。
かれは、攘夷家であった。
しかしながら他の攘夷家のように、
日本国土に宗教的神聖さがあるとし、
かれらのアメリカの靴によってその神聖国土がけがされるといったふうの
情念のようなものはあまりもっていなかった。
かれの攘夷は、奇妙なほどに男性的であった。
おおかたの攘夷は、日本人の対外感情がそうであるように、
女性的であった。
松陰は違っている。
海をこえてやってきた「豪傑」どもと、
日本武士が武士の誇りのもとにたちあがり、
刃をかざして大決闘を演ずるというふうの攘夷であった。」
……………………………………………………………………………
こういった「奇妙」な人物を演ずるのは
プロの役者といえども並大抵のことではないということでしょうか。
「来てみれば聞くより低し富士の山
釈迦も孔子もかくやあらん」
長州の急進的家老であった村田清風が17歳で初めて江戸へ立ったとき
その途中、駿河で富士を見た時の歌であるという。
当時、長州藩では藩財政の改革を推し進めた村田の革新党と
これを嫌う反動勢力の坪井九右衛門らに政治勢力は二分されていた。
高杉晋作によって後日、
その改革派らは「正義党」、保守系は「俗論党」と名付けられるようになるが、
彼らは米国の議会政治のように
両党が互いに抗争しながら藩政権を交代して牛耳るようになる。
幕末になると村田を祖とする改革派は
尊王攘夷を叫んで倒幕勢力の中核をにない、
坪井を祖とする保守派は佐幕派を結成して行く。
長州藩はすでに幕末以前から政治の流動性がこのようにして活況であり、
封建政治打破の起爆性を秘めていたと言っていい。
さて、その村田清風である。
大河ドラマに出てくるか定かではないが、
吉田松陰がその生涯の師と仰ぐ一人である。
司馬遼太郎はその歌を作った村田清風という人物を
「世に棲む日日」の中で次のように描写している。
「つくられた権威というものの化けの皮を剥ぐ洞察眼と、
腕力と捨て身の度胸のようなものがあり、
それが彼の終生の政治的骨格を貫いた。」
その「政治的骨格」というものが
吉田松陰に、高杉晋作に、そして長州全体に遺伝して行き
明治維新への動力となり得たと言っていいのではないか。
「つくられた権威」が当時の幕藩体制であるなら現在のそれは、
日本においては天皇制であろうし、
イスラム原理主義では預言者であり、
ローマカトリックでは教皇制度ということになろう。
無論、善悪のことではなく
創造主によらない
「つくられた」権威のことである。
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