「松陰は、駈けた。
浦賀に向かって駈けてゆくのだが、
この不器用な若者の駈ける姿は、
穏かな泰平の感覚から見れば、
まことにこっけいなものであろう。
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川崎、神奈川を夢のなかの景色のように通りすぎ、
保土ヶ谷から左折した。」
この文書は司馬遼太郎が著わした「世に棲む日日」にある
「浦賀」に出てくる一節である。
ペリーが1854年に日米和親条約を締結するために横浜港に停留している様を、
吉田松陰が見るために駈けている。
その駈けたコースは拡張されて現存していると思われる。
確かめていないが、現在の国道がそれではないか?
保土ヶ谷から左折すると横浜港に至る幹線道路は、
私の10代の時の生活圏であった。
中学、高校ともに保土ヶ谷にある学校へ通い、
その幹線道路を走るバスに揺られて関内にある塾へ通ったものである。
松陰のその道を走る姿が目に浮かぶようである。
ところで、
大河ドラマ「花燃ゆ」の評判がすこぶる悪い。
3回目を終えてみて視聴率は過去20年で最低であるとの報道。
うーん、確かに何処かが物足りない。
多分それは、
松陰の血騒ぎ、肉踊る「駈ける」ところが足りないのではないか?
……なんて、勝手なことを考えたりしている(O_O)
松陰はペリー艦隊を見物するためにそこへ行くのではなく、
それに乗り込み、米国に渡り、敵の国情を知って祖国防衛に役立てようとした。
国禁を犯し、命を投げ打っての暴挙に走っている。
司馬さんは、松陰のその時の心意気を次のように描いている。
「松陰は欧米文明圏の人間どもを、
文明の利器を使う人間として評価せずに、
むしろ「豪傑」として評価するむきがあった。
松陰は漢訳本その他でナポレオンのことやワシントンの人間や事歴をほぼ知っており
それらを毛唐であるからといって賤汚視せず、
史記列伝中の豪傑と同様に敬し
わずかながらも親しみを覚えたりしている。
さらには今浦賀沖に浮かんでいるアメリカの武者どもについても同様であった。
彼らがその故国における安逸のなかから飛び出し、
万里の波濤をこえてこの国にやってきているということに、
松陰は素直に「豪傑」を感じていた。
………
このあたりが、この若者の奇妙さであったであろう。
かれは、攘夷家であった。
しかしながら他の攘夷家のように、
日本国土に宗教的神聖さがあるとし、
かれらのアメリカの靴によってその神聖国土がけがされるといったふうの
情念のようなものはあまりもっていなかった。
かれの攘夷は、奇妙なほどに男性的であった。
おおかたの攘夷は、日本人の対外感情がそうであるように、
女性的であった。
松陰は違っている。
海をこえてやってきた「豪傑」どもと、
日本武士が武士の誇りのもとにたちあがり、
刃をかざして大決闘を演ずるというふうの攘夷であった。」
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こういった「奇妙」な人物を演ずるのは
プロの役者といえども並大抵のことではないということでしょうか。
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