ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「クリスチャンとは誰か」
コリント人への手紙 第一 1章1~3節
"神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。"
(序論)
シリア・アンティオキアで異邦人のキリスト信者達が「クリスチャン」と呼ばれるようになった。クリスチャンとは、神からのコール(召し)を受けたものであるとするのが聖書の基本的立場。
天職としての召し
①パウロは使徒としてコール・召された
「使徒」とは特別の称号。イエスの直接の弟子で復活の目撃者である十二使徒の次の範中に属する。自身の使徒職を弁明する必要があった。
②私たちの各人の職業への召し
宗教改革の功績の1つ。天職意識を教会と修道院から持ち出してすべての経済活動へ適応した。
聖徒としてコール・召された
①それは立場的な聖である
「イエスにあって聖なるものとされた」完了形の動詞。すなわち現在、聖であると見なされている。
②ある特定の目的のために分別され、分けられたもの
"大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。
ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。"
テモテへの手紙 第二 2章20~21節
イエスの名を呼び求めている(コールしている)者たち
①神のコールに応答した者達のこと。
神が全ての人に呼びかけ(コール)手を伸ばしておられるのであり、そこにえこひいきや差別はない。
②「恵と平安がありますように」
常に恵が先に届けられ、それゆえに私たちは平安を得ることができる。
(結論)
「嗤われずに生き、疎まれずに死ねば、その人の人生はそれだけで偉大である」(武田鉄矢)
そのような人生を歩むのに必要なものが平安である。
平安を得ることができればその人は成功者であると言える(ある伝道者)
今日の夕日は、この年見た中で最も美しかった。
空に浮かぶ雲が、いくつか階層になっていて、その階層ごとに夕日が反射する色合いを作り、多くのグランデーションを空に引き伸ばしている。絵の具をキャンパスに撒き散らしたかのように。
無言のうちに息子としばらく見とれていると、自然と以下の聖歌が去来して来ました。
(1)
夕べ雲焼くる 空を見れば
主の来たり給う 日のしのばる
(繰り返し)
ああ神の前に われ勤しまん
業やむる時の 間近き今
(3)
その日をば待てる 我らなれば
悩みも涙も など避くべき
2000年前、オリーブ山近郊から天へと引き上げられて行かれたイエスは、再び地上に帰って来られるとの約束を残されました。
その日の様子をゼカリヤ書が以下のように予言しています。
"これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。"
ゼカリヤ書 14章7節
夕暮れどきの美しい光を見ると、この聖書のお言葉ゆえに主の再臨を想起したのでしょう。
そしてコロナ渦中にあって、今までの私たち全世界が経験したことのない社会の変革を迎えようとしています。
聖書が予言する主の再臨前の大艱難時代の様相に近づいているのを見るにつけ、この御言葉と聖歌が想起したのでしょう。
「われ勤しまん」
今までと同じような働きはできないですが、現在できることを勤しむ者でありたいと願ったのでした。
隣にいる息子は何を願ったのだろう?
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「あなたの立っている場所は聖なる地」
出エジプト記 3章1~6節
"モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。
すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。
神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。"
(序論)
聖書の「聖」と言う意味について。
qodesh.......分離、専用、特別な
Sacred Farm
縁切寺・東慶寺は、Sacred temple for wives desiring divorces
あなたの今立つ場が「聖」
①「この大いなる光景」(3)〜時に自然発火する現象であるがこの時は柴が燃え尽きないのが不思議。ありふれた日常生活の場面が「聖」となり得ることがある。
②ペテロにとってガリラヤ湖上の自らの舟上・仕事場であり、ペテロにとってダマスコ途上の街道であった。
そこが生涯を一変させる特別な場となった。
あなたの前に立つ方は「聖」
①「あなたの足の靴を脱げ」
聖なる方との関係が、出会いがその場所を聖なる場所するのであり、場所自体に意味がない。この方との関係において人は僕としての立場でしかあり得ない。
②「私はあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」ー民族の歴史に刻まれた契約のことであり、その物語が前提。
あなたのすることが「聖」
①何のために神はここでモーセに命じておられるのか。
80年間の教育期間を終えて、いまや契約を「思い起こ」(2:24)す時が満ちたのである。
②イスラエル人をエジプトの手から救いだし、約束の地に上らせるため(3:8)
困難はあったとしても神が計画された規定路線は必ず成就する。
(結論)
あなたの今いる場所、そして成すことが聖なるものとなるため、聖なる方を見上げよう。
ホサナキリスト教会ではLineを用いてのオンライン日曜礼拝を行います。
以下のQRコードで検索してライブビデオ礼拝に参加してください。
YouTubeでのライブ発信を試みたのですが制約があってこれは無理なようです。LINEではグループでのビデオ通信が出来ると聞いていますが、不確かなところもあります。礼拝開始時間前にテストのためにこちらにまでビデオ通信をお寄せくださっても結構です。
なお礼拝は全て日本語で行います。
日曜礼拝開始時間・米国西部時間午後5時から(日本時間の午前9時から)。本日米国時間では4月19日(日曜)、日本時間では4月20日(月曜)となります。
パンデミックの不安と不自由さの中、神様の御守りと平安とが行き渡りますように!
復活の主にあってシャローム。
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「聖書の伝える信仰」
ヘブル人への手紙 11章23~27節
"信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです。
信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、
はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。
信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなくエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。"
(序論)
ヘブル書11章は「信仰の章」とも呼ばれていて信仰者の列伝が紹介されている箇所。「信仰によって」のフレーズが22回も見出される(新改訳)。
理解する信仰
①「大きな富と思った」(26)〜キリストのゆえに受けるそしりとエジプトの宝とを天秤にかけて理性的に判断した
②その理由〜報酬を計算に入れたから
やがていただく報酬はエジプトの宝に勝るもの。
永遠的な尺度での価値判断があった。
行動する信仰
①習ったこと理解したことを実践した。
エジプトの宮殿を離れイスラエル人と共に生活をした(25)
王の反対を受けながらも出エジプトを断行(27)
②次の展開として反対と後悔がやってくる。それを乗り越えるアドバイスや助言が必要。
恐れや不安、反対や迫害。無理と思われることや後悔にも直面する。
その時にコーチや助言者を得よ。アロン、レウエル(イテロ)やホバブなどがモーセに与えられた。
憩いの信仰
①王の命令を恐れなかったモーセ(27)やその両親(23)。
命令に背く事は命をかけることであり、彼らに恐れがなかったはずはない。
②反対勢力や、逆境の局面において真の意味で守りや平安を体験できる。
(例)巨大な反対勢力に囲まれた時、ルターは神が力であり砦あることを見出した(詩篇46:1)
(結論)
よりよく信仰理解するために聖書学び、学んだことを実生活で実践し、この嵐のような疫病の中でも平安をいただこう。
昨日のレニア山。
昨日の夕日。日没は7時50分でした。
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「見て、信じた」
ヨハネの福音書 20章1~10節
"さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。"
マグダラのマリヤの「見た」(1)〜「 ブレポ」
①主に物理的に見る、観察する。5節の墓の内部を外からペテロが「見た」のも同じ語句。眺めた。
②その結果は、これまでの自らが積み上げてきた経験による判断と思い込み。そして悲観と絶望(2)。
ペテロの「見た」(7)〜「セオレオー」
①注目する、経験する、分析のために見つめる。
英語のセアター(劇場)の語源。俳優が演じる背後にある意味を汲み取ろうとする。
②事もなく見える福音書記事の中から驚くべき卓越性を把握することができる。
2人の弟子たちの走力、性格、洞察力の相違が分かる。
頭に巻かれた布と、体を包んだ亜麻布の配置位置と様子。
ヨハネの「見た」(8)〜「エイドー」
①その背後にある意味を理解、比喩から本質につながる昇華、精神的に見る。 “I see what you were saying”
②後に墓の中に入ったヨハネは、その内部の様子を「見て」、信じるに至る。
聖書を知的に理解したまま、自らの常識にとどまり続ける所の自由主義神学においては、暗闇と失望の中に留まる。
「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」(9)
(結論)
聖書の伝えるイエスの復活が、単なる神学ではなく生活の実態でなくては意味を持たない。
復活の
過去的ー弟子たちの証言する歴史的事件
現在的ー今も生きたもう主が私を支えている
永遠的ーやがて復活の主とお会いする
事実を「見よ」(エイドー)。
ホサナキリスト教会での日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「はっきり分かりました」
使徒の働き 10章34~43節
"そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、
どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事柄をご存じです。
それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムで行われた、すべてのことの証人です。人々はこのイエスを木にかけて殺しましたが、
神はこの方を三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
民全体にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちに現れたのです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられた後、一緒に食べたり飲んだりしました。
そしてイエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました。
預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。」"
⑴ “気づき”が確信に変わった
①ユダヤ人としてのそれまでの生き方がパラダイムシフトされる〜食物規定に厳格であった(14)
②「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」(15節)〜こんなことが3回あった。
それまでの行き方が崩壊しつつあった。
⑵天的な裏付けのある確信であった
①神ご自身のご性格と調和がある(35-36)
「このイエス・キリストはすべての人の主です」
②聖書の御言葉の裏付け(43)
"主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」"
イザヤ書 49章6節
⑶信仰生活が内的確信に導かれる条件
健全な信仰生活に留まり続けること
神への畏れ(35)、罪悪感からの自由(35)、他者からの評判(22)
②祈りの習慣と営み(9)
③時の状況や摂理(17)
(結論)
内なるものが永遠者に結びつけられた時、そこから受ける納得を「わかる」と言う。この内的確証こそ聖書の宗教の主座である。samel Wesleyが臨終の床でその内的保証の重要さを繰り返した。
ホサナキリスト教会からのお知らせです。
本日から日曜礼拝はズームを利用することにします。
先週初めてアカウントを設定しまだ慣れない中、実際の運用には不手際があると思いますが、とりあえず始める事になりました。
Zoomと言うアプリの性格上、どなたも飛び入り参加や退出ができるはずです。
また参加するには昨日からパスワードが必要になったと聞きました。
日曜礼拝開始時間・米国西部時間午後5時から(日本時間の午前9時から)。本日米国時間では4月5日(日曜)、日本時間では4月6日(月曜)です。
Zoom ID : 903 851 1026
登録名: Kyota Takahashi
(集会名の検索では、登録名を使ってもIDを使っても可能のようです。すみません。はっきりとはわかりません)
パスワード : 727050です。
パンデミックの不安と不自由さの中、神様の御守りと平安とが行き渡りますように!
普段はほとんど開かないままの(汗)聖書通読ガイドブックであるクレイを開いてみました。
今月はパウロの第3次伝道旅行のところが取り上げられていて、私自身が今まで気がつかなかったことを含め、学んだことを整理してお分かちしたいと思います。
それは使徒の働き18章23節から始まります。
①パウロはアンテオケから陸地を通ってエペソまで移動します。
第3次伝道旅行の中心地となったのがエペソで、そこで彼は約3年間ほど腰を据えて働きます。彼の働きはその近辺にも及び、黙示録2章と3章にに出てくる7つの教会は、この時期に彼により開拓され設立されたものと考えられます。
②エペソからトロアスへ向かいます。
旅行記である使徒の働き20章1節にはトロアスへの言及はありません。でもどうしてマケドニアへ渡る前にトロアスに行ったと言えるかと言えば、彼の書簡から解るのです。
"私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、
私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。"
コリント人への手紙 第二 2章12~13節
③トロアスから船出してマケドニアのフィリピへ。
ここでテトスに会うことができた。先に代理人としてテトスをコリント教会に送っていたが、その教会がパウロの指導を彼を通じて受け入れたかどうかが非常に気になっていた。テトスから悔い改めたと聞いて大いに慰められたパウロは、ここでコリント人への手紙第2を書いた。
"マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。
しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。
テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。
あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、
今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。"
コリント人への手紙 第二 7章5~9節
すると、使徒20章1節には、エペソからフィリピに至る旅行が凝縮されていて、そこにはテトス再会についての悲哀こもごもと第二コリントへの手紙の執筆があったのです。
"騒ぎが収まると、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げ、マケドニアに向けて出発した。"
使徒の働き 20章1節
④フィリピからコリントへ
パウロはここで3カ月を過ごすが、ガイオの家に滞在した可能性が大きい(ローマ16:23)。そしてこの3カ月間の滞在中にローマ人への手紙を執筆したと考えられる。
⑤コリントの外港であるケンクレアから直接シリアに海路で向かう予定だったが、陰謀者の情報を聞いて陸路を通りマケドニアを経て帰ることに計画を変更した。
⑥フィリピから船出してトロアスまで行き、そこで7日間滞在している。出発の前夜、屋上の間で長い説教した時にユテコと言う1人の青年が3階の窓から下に落ち、死亡すると言う悲劇が起こる。だが彼の祈りによって蘇生した。
⑦その後アジア州の海岸線を南下する。
海路でアソス、ミティレネ、ミレトスと言う港に寄港ながらの船旅が続く。
⑧ミレトスでは近郊のエペソへ使いを送り、そこの長老たちに集まってもらい、そこで告別説教をする(使徒20章17-38節)。祭りのある五旬節までにはエルサレムについていたかったので時間節約のためであった。そして彼はこれがペソ教会の人たちと会う最後の機会であると直感していた。
⑨ミレトスから船出して、シリアのツロに到着した。
⑩ ツロからエルサレムに登り、第3次伝道旅行が終了している。
「バプテスマ・ヨハネの透視力」
マタイの福音書 3章1~12節
"そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。
私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。
また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」"
⑴ 時代に対しての透視力
①「主の通られる道を真っすぐにせよ」
まもなく主の主であられるメシアが到来する時代が来るとの認識
②「荒野で叫んでいる者の声です」(ヨハネ1:23)〜自身の宣教活動がマラキ書預言の成就であると認識している
(例)今回の新コレラウィルスのによる世界中の混乱は聖書預言と照らしてどう理解すれば良いのか
⑵天の国に対しての透視力
①「天の国は近づいた」(2)
「天の国」とは霊的な王国ではなくメシヤ的王国のこと
この動詞は完了形が用いられている
②パリサイ人らが抱いている天の御国への入国条件に関する認識の違い
「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができる」
⑶メシアに対する透視力
ヨハネはその方の奴隷となる資格もないほど偉大な方
彼自身は「声」に過ぎず決して神の摂理を踏み越えようとはしない
②「聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」
聖霊によって信者を生み出し、やがてそれを「倉」に収納する
不信者を「消えない火」に投げ入れる。
両者を選別する「箕」を手にしておられるお方。
(結論)
バプテスマのヨハネにこれだけの洞察が与えられたのは天からの啓示があった故。彼はそれを聖書研究から与えられている。時代を正しく認識し永遠を展望した価値観に生きよう。
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