「麒麟が来る」
ついに始まりました。
先週第一回目を見てその感想をアップしようとしていたら既に1週間が過ぎ去った。第2回目はまだ見ていないので、その前に駄文書いてみようかと。
舞台となっている当時の世界は、応仁の乱後の荒廃した京都と戦国乱世のなんとひどい世の中であったことか。野盗による村落の襲来、殺人強盗強姦また人身売買が日常的に頻発していた時代。
ドラマも何とかそのような戦国の悲痛さを戦いの中で見せようとの努力がうかがわれる。しかし登場人物の人間味溢れる姿やその綺麗な顔立ちから、ちぐはくさを感じてしまうのは、求めすぎているのか。
この乱世を治めるヒーローが大衆から求められ、そのヒーローはキリンを連れてくると言う伝説が紹介される場面があった。
明智光秀はこれまで融通が効かない堅物、衝動的に本能寺の変を起こした精神角乱者、主人への裏切り者とのレッテルが貼られてきた。
今回のドラマでは、その乱世を終わらせ戦さのない世を造るヒーロー役として描かれるらしい。
大河ドラマはそのようなヒーロー役が登場しないと視聴率が稼げない。
この点、司馬さんがその歴史小説の中でSpotlightを当てる人物描写と似通っているように感じる。
39回目の西郷どん「父・西郷隆盛」は時代設定が数十年後にワープ(宇宙戦艦ヤマトの用語)していた。
奄美大島の流刑中に島の女性との間にできた菊次郎が京都市長に就任すると言う書き出し。
先回の戊辰戦争以来のドラマの道筋は、菊次郎が部下に父について物語ると言う展開。
物語がワープすると、番組の冒頭の主題歌演奏の際の映像も新たなものに差し替えられていることに気がついた。
徐々に緊迫した音響に緊張感が高められていくと赤鬼のお面をかぶった男たちが太鼓を乱打している映像が流れるところは常に共通している。
クライマックスに達すると朝日が差すように突然漆黒が消えて緊張が和らぐ瞬間がある。すると西郷が胸を張りながら歩いている画面に移行する。
私の記憶では本大河の当初は西郷が石畳の続く坂道を上って行くところ。おそらく薩摩から江戸へと上る設定か?
次にワープしたところでは赤鬼太鼓の直後の西郷は、羽織袴を着た姿で市中の橋を闊歩しているところだった。
そして今回のワープ後は、戊辰戦争の際の将校たちが身に付けたとされる軍服を着てこれまた闊歩している姿だった。
この暗闇から陽光へ、緊張から弛緩へ、そして得体の知れない魔物から望みのある人物へと突然変えられる局面がなんとも見ていて心地よい。
ノリの良い音楽が良く調和していて、NHK受信料はこの部分だけでも元が取れるのではないかとふと思ったりした。(海外在住者の私は払っていないが)
幕府も薩長も同様の黒い軍服を身に付けているが、あれは米国南北戦争後の不用品となったリサイクルである。米国はフランスを通して幕府に流し、またイギリスを通して薩長に流して大いに金を儲けた。もちろん何千丁のライフル銃が日本に流入したのも南北戦争のおかげである。
一週遅れとなりましたが、
西郷どんの「薩長同盟」を見ました。
西郷が主人公のドラマですから薩長同盟の立役者も坂本龍馬ではなく西郷に重きをおくのは、
まぁ致し方ないとしましょう。
それはそれとしてではありますが、
半目しあっていた薩長がシェイクハンドして秘密同盟を結ぶに至った経緯がなんとも現実離れしていて少々見るに耐えなかったのは私だけでしょうか?
ロンドンに留学している薩長の若者達が異国での不自由な境遇の中、現金を融通しあい協力しあっている様子を西郷が聞かせる場面がありました。
西郷は、
双方の留学生が写っている写真を見せながら、
互いに反目していたのでは徳川の世が続き、
やがて異国に食われてしまうと説くに従い
血気に流行る両陣営が説得されていく。
そして西郷が自ら頭を下げて
長州に同盟を乞うた。
その場面は潔くて彼の大きな度量を感じ、
感動のあまり涙目となってしもうた。
だがだが、
こんなことって、
普通に考えてあり得るでしょうかね?
留学生が異国でどれほど協力し合っていようが、
つい数年前に禁門の変により破れた長州藩は
履物に「薩賊会奸」などと書いて踏みつけて歩いては
薩摩や会津への深い遺恨を忘れていなかった。
「リメンバー ・パールハーバー」の米国が
留学生の模範を理由に戦争から和解に転じるなどありえるでしょうか。
巨大な幕府を打倒するには薩長が手を組む他ない事は誰もが認めるところ。
だがその犬猿の仲を和睦させる理由が留学生にあるとはとても思えない。
今回の大河ドラマにはこのような現実離れした筋書きがあちこちに散見される。
両者の憎しみを溶解させていたのは、
1にも2にも坂本龍馬による亀山社中の働きがやはり大きい。
経済を好転させ生業を豊かにし、最も欲しい商品を届けることが世を動かす力であることを商家出身の龍馬は知っていたのです。
西郷どん、
薩長同盟はおはんの説得や土下座した頭にあるのではなく
龍馬によるものぜよー
釜飯って珍しい?!
Iさん、楽しい宵をありがとう
I さんと夕食を共にしながら話題はいつしか、
NHK大河ドラマに。
現在の「花燃ゆ」は退屈で見ていな~い、と共通認識。
私は初回だけは松蔭のストーリーに燃えて期待値もぐっと上がったのでしたが、
その後はドラマを見るたびにその数値が下がり、
ついに5回ほど見ただけでその後、見ることを止めてしまった。
来年の大河ドラマは、真田幸村が主人公とのと。
幸村はかねてからマークしている戦国武士であり、私はドラマで見たことのない者なので今から楽しみ。
脚本家はIさんの大のお気に入りの三谷幸喜とのこと。
その人のことは知らなかったのですが、
期待の持てる脚本家らしいです。
今から楽しみ!
この日、教会で「風立ちぬ」映画上映がありました。
上映後にグループに分かれてディスカッションの時があり、
それぞれの考えを知ることが出来て、より理解が深まりました。
映画の中で「風」はどういう意味を持っていたか?という問いにそれぞれ答えていきました。さらに、
何を伝えようとしているのか、漠然としている
戦争反対でも、美化でもないらしい
多神教やアミニズムの世界観で構成されているストーリーが読み取れる
米国映画では暴力やSEXが聴衆をクライマックスへと引き寄せるが、日本文化においては「死」ではないか
同監督の作品、トトロにもその「死」が隣り合わせに描かれている
日本古来の映像には懐かしいし音楽も綺麗で魅了される
ただ生きる上での目的とか、死に対する解決などの根本的なものが扱われないのは聖書の救いを知らない文化ゆえのものだろう、、
この上映会は日本宣教師のKeith とCeliaが企画してくれたものです。
宮崎駿のジブリ映画は数本しか見ていない私に対して、彼らは全作品を見ているとのこと。
彼らこそ、「日本学」の専門家といえるでしょうね。
King & I ブロードウェイミュージカルで活躍している
主演の渡辺謙さん。
20年以上も前に謙さんが主演していた
「独眼竜正宗」を見て以来ファンとなった。
渡米して「ラストサムライ」を銀幕で見たときも
そのエキゾチックさ、その誇り高い振る舞いに感心した。
映画やドラマと違いミュージカルは
撮り直しの効かない生出演。
英語でのセリフには週に2回も
ネイティブの教師からスカイプでの特権を受けてきたという。
その奮闘ぶり、その飽く無き挑戦心を見学させていただこうと
ブロードウェイ講演を初めて訪れることにした。
………そのつもりだった。
チケット代が$167
これだけ高額なチケットは買ったことないためか、ビビった。
そして迷い、最後の購入ボタンをクリック出来なかった。
それから2日が経過。
それでも購入の勇気がない。
カード支払いがある、、、
日本訪問の予定もある、、、
「日本人主演のブロードウェイミュージカルなんて、
自分の存命中には二度どない、最後のチャンスなんだから」
そう自らに言い聞かせて購入を決心。
ところが……悲しいかな、
ニューヨーク滞在の全ての日程ですでに売れ切れであった(。-_-。)
謙さん、ゴメン。
自らの小心さが恨めしい。
「三千世界の烏を殺し
ぬしと朝寝がしてみたい」
高杉晋作が作ったという、
謡曲の歌詞である。
ごろつきの様に箱根の関所破りまでしでかした晋作は
「狂」の境地にいた。
数週ぶりに「花燃ゆ」を見たのは
その晋作の狂を見物したかったから。
都大路を賀茂まで天子が行幸する際に
第14代将軍の徳川家茂背後からお供を仰せつかっていた。
京都の民衆は顔を上げることすら恐れて土下座し、ひれ伏しているとき、
晋作だけは顔を上げていたという。そして、
「いよう。――」
花道を進む役者に大向こうから声をかけるように叫んだという。
「――征夷大将軍」
「家康以来、天下の主に対してこれほどの無礼の挙動をとった男もない。
そういう事件も、徳川3百年間、一件もなかった」と司馬遼太郎は書いている。
そんな晋作の「狂」振りを見て見たかったのだが、
ドラマを見る限り常人の域を脱していない。
数ヶ月ぶりになりますが
大河ドラマ「花燃ゆ」を見ました。
悠長なストーリーの展開や
松蔭さんのお顔に耐えられなくて遠ざかっておりました。
時代は
久坂玄瑞や高杉晋作が攘夷を唱える頃となっていた。
優等生過ぎる久坂には物足りないが、
高杉の役柄はなかなかではないか?
遊び人の上にハチャメチャで
捉えどころのない天性の個性が出ているように感じました。
「それでは狂にならん!!」
長州藩の方針をめぐって
より着実で無難な攘夷の方策を唱える久坂に
ぶっきらぼうに答える晋作。
「お前の策はつまらん」
急進的で過激な方法で、ーそれは暴力でありテロなのだがー
攘夷決行を叫ぶ晋作。
あの時の維新はそんな型破りの狂気がなくては
回らなかったということだったのでしょうか。
野山獄跡
野山獄に繋がれている松陰はだいぶご機嫌らしい。
この若者にとっては、塞ぎこむということがないらしい。
天命の中にいるなら、
天が何時も自分を味方に着いてくれると楽観している。
それゆえ鎖国破りの国禁も屁のカッパ。
獄につながれていようとも、その魂は未知の世界をすでに逍遥している。
先達の囚人を捕まえてはそれぞれの得意分野を見つけ出し、
互いに教授となって授業を始めてしまった…
聖書の教えている「創造者」なる方は人格を持った生ける神であるが
それほどの認識までは進んでいないものの、
当時の志士たちも儒教的な「天」を論じる時、
信仰を抱いていたらしいことを司馬さんは次のように書いている。
……………………………………
「この時代、読書人たちはみな天という概念の信者であった。
天とは絶対者というべきであろう。
さらにいえば、松陰らの教養である朱子学にあっては
宇宙のげんりそのものを天といい、
人生もまた天という大いなる原理の中につつみこまれていた。
松陰はようやく天の意思を感じた。」
……………………………………………
ペリー艦隊での密航が失敗に終わってしまったことが惜しまれてならない。
もし成功して外国の諸事情を吸収して帰国出来ていたら………
そのような「もし」があてがわれる惜しい人材が
次々に死を遂げて逝ってしまった革命期。
松陰は鎖国日本の閉ざされた情報管理社会の中で
「天」に対する信仰に生きたが、
もし聖書の真理に接する機会が与えられたなら
人格的な「天」に帰依していたと言っていいと考えます。
ついに松陰は野山獄での囚人生活を送ることになる。
同僚の金子が死に瀕していること以外、この若者を気落ちさせるものはなかった。
天性の楽天家か?
人の善性を疑わなかった分だけ、
他人の懐に飛び込んでは幽閉生活を快活なものに創り上げてしまう。
そんな稀に見る気質は母親譲りかも知れない。
ドラマでも、事あるごとに「世話ない」と決まり文句を放つ彼女の屈託なさが目立つ。
松陰の身を案じてオロオロする家族の中にあって
母親だけは笑顔を崩さず悲観しないのは、
痴呆かと思える程である。
司馬遼太郎は天真爛漫な松陰をこんな風に描いている。
「この若者のほとんど生まれつきといえる奇妙さは、事態が悪化し、豪雨の前の空のように陰々として暗くなればなるほど、その密雲の上の固有の蒼天をおもうらしい。
むろんたれの目にも見えないが、松陰の目には網膜が青く染まるほどのあざやかさでおもうようであった。」
〜「世に棲む日日」の「空の青」から〜
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