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解体心象

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おきち19歳(安政6年)

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おきち19歳(安政6年)
1859年 撮影者は「水野半兵衛」氏 横浜で下岡蓮杖氏(下田出身)より写真を学び「唐人お吉」の話を聞き下田へ来て写したもの。3代目水野重四郎氏よりおきちさんの菩提寺である八幡山宝福寺の「唐人お吉記念館」に出品されている。(当館の撮影許諾もらう)

桜見頃の唐人坂で
巡る想いは ひとりひとり
泣けば花散る一輪挿しの
艶(あで)な姿は春の宵

春の宵
桜舞い

唐人物語(ラシャメンのうた)
Lyrics & Music/桑田佳祐 Arrangement/サザンオールスターズ
Album:Southern AllStars"Sakura"より

日本に写真術が渡って間もない時代の写真ということになります。原版の写真とそこから複製されたと思われる数点の写真のうち着色された写真を元に修正をかけました。


“宝福寺”

#アート #伝統 #文化 #芸術

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KUMA
KUMAさんからコメント
投稿日 2007-07-21 11:51

当時の日本人の中では際立った美人ですね。

憂いのある目が印象的です。

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ペガサス
ペガサスさんからコメント
投稿日 2007-07-21 23:13

幕末にこれほどの写真を撮る技術があったすれば凄いことです。それで、この写真は「おきちさんではない」とする考え方もあるようです。いずれにせよ時代を越えて写真のインパクトは大きいですね。

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birdy
birdyさんからコメント
投稿日 2007-07-21 17:35

目元と眉が現代的ですね。

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cotona
cotonaさんからコメント
投稿日 2007-07-21 22:05

こんばんわぁ。
コレがおきちさんでもそうじゃなくても。
純粋に写真技術としては当時の中でもかなりのものだと思います。
そう見えるだけ?他の私が知らないだけ?
かもしれないですが。。。
やっぱりこうやって人物を写すことの難しさは少なからず分かっているつもりなので。。。
コレはガラスなんですかね。。。鶏卵紙印刷なんでしょうか?
その辺は全く分かりませんが。
幕末の頃といえど、これだけ明確なものがのこってるのは素晴らしいことですね。

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ペガサス
ペガサスさんからコメント
投稿日 2007-07-22 04:06

KUMAさん birdyさん cotonaさん 皆さんの感想通りです。インターネットで調べてみると幕末明治に活躍した複数の写真師のアルバムからこの写真の複数のコピーが見つかっているようです。「おきち19歳」と名付けられたこの写真は当時最もセンセーショナルな作品だったのかもしれません。

説明がなかったのですが、ここでの元板は前コメント3枚写真の真ん中のようです。鶏卵紙に焼き付けたもので像はかなり褪せててきています。(15×20cm程度)

拡大修正したものが今回の写真です。
しかし、インターネットで見た同種の写真では帯が出ている写真もあるのでこれも原版ではなさそうです。

下岡蓮杖というおきちさんとも幼なじみだったという 日本で最初に写真師とその弟子の水野半兵衛 当時の複数の写真師のアルバムから見つかった(ここでは)「おきち19歳」という 当時としたら(cotonaさんご指摘のとおり、今でも)ハイテクニックなポートレート写真。多分お手本だったのでしょう。写真史上も とてもミステリアスでドラマチックな話ですね。
宝福寺ではおきちさんの物語と供に、写真史の断片とその実物が見れて幸いでした。

また、サザンの桑田さんの歌詞も改めて聞いてとても素晴しいと思いました。特に
「巡る想いは ひとりひとり」の「ひとりひとり」の意味(イメージ)。次に続く歌詞はこの写真のイメージを書いていますね。
今回下田を訪れて「ひとりひとり」の私なりのイメージが創られました。

おきちさんはうりざね顔だったとも言われていますが、前回コメント上段の着色された額縁写真から修正をかけてこの項表紙の写真を制作。やや丸顔のおきちさんにしました。

おきちさんがアメリカ領事ハリスの元で奉公したのは2年前の数ヶ月間だけ17歳の時。
同1957年、江戸幕府とアメリカの間で日米通商条約締結。
余談ですが、写真が撮られたとする年1859年は坂本龍馬は24歳千葉道場で免許皆伝を受け前年1958年土佐に一旦帰国中です。「おきちさん」の話は当然聞いているとおもわれます。3年後龍馬脱藩。偶然にも脱藩の許しをこの宝福寺で滞在中の藩主山内容堂公に勝海舟が会って許可されているそうである。龍馬も下田の旅館まで同行したようである1863年。
1854年下田からアメリカ軍船で密航しようとした吉田松陰はこの年1959年秋安政の大獄で処刑。翌々年1962年桜田門外の変。
1959年は黒船来航から6年目 徳川幕府大政奉還、王政復古の大号令になる1967年の8年前です。
尊王攘夷論が大勢を占める時代、おきちさんの前半生がどのような状況であったか想像を絶するものがあります。
さらに画家モネはおきちさんの1歳年上ということになります。

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Toshiaki Nomura
Toshiaki Nomuraさんからコメント
投稿日 2007-07-22 08:17

「かごで行くのは「お吉」じゃないか」
と後ろ指を指されたようですね。

当時としてはかなり好奇の目で見られたことでしょうね。

でも現代によみがえってもすごい美人ですね。
きれいに再現されてますね(^_^)/

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ペガサス
ペガサスさんからコメント
投稿日 2007-07-22 20:04

おきちさん14歳頃には黒船来航とともに各地で巨大地震が頻発して、津波で両親をなくしたともいわれています。庶民の生活は生きて行くのも大変な時代だったと思います。特に鎖国を続けてきた幕府の外交政策は手探り状態でおきちさんの使命は相手の情勢を探るのが目的だったような気がします。再びサザンの「唐人物語」の歌詞から

「下田港を訪れた黒船が
沖遥か彼方に揺れ
駕篭で行くのは時代に翻弄ばれた
眉目清か麗しい女性」

で、前出の歌詞に転調します。

それに続く「ひとりひとり」の歌詞はNomuraさんのコメント通り彼女を見つめる群衆を指しているのですが、もっと別の意味 つまり彼女は自分に向かって「ひとり」「ひとり」と何度も言い聞かせながら桜見頃の唐人坂を昇っていった..そんな意味(イメージ)なのでしょう。この道を選ばざるをえなかったおきちさんの気持ちを見事に表現しています。

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Toshiaki Nomura
Toshiaki Nomuraさんからコメント
投稿日 2007-07-23 00:31

もうずいぶん前なのでどの本かは忘れましたが、
中年に近づいたお吉の写真を見たことがあります。
かなり全身像だったと思う。

しかし、その時も思いましたが、
まあ、当時としては目の覚めるような美人だったでしょうね。

ホントに実際は短期間の話にもかかわらず、
代表になってしまったのはこの美貌のせいですね。

同じときにヒュースケンの世話をした、「お福」という女性は子供まで生んだということですからね。
その辺の話よりお吉のほうが話としては有名になってますからね。

18歳くらいのときの、
正面の写真もそういえば見たことがあります。

輝くような美貌ですよね。
これが災いしたようですね・・・。

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ペガサス
ペガサスさんからコメント
投稿日 2007-07-23 14:44

Nomuraさん再度のコメントありがとうございます。

おきちさんの写真からいろいろと判ってきましたね。
また、ここ下田港には幕末のまだ語られないエピソードが沢山あるように思います。「宝福寺さんに逗留中の山内容堂に勝海舟が会って坂本龍馬脱藩の許しを乞うた。また龍馬は下田の旅館で吉報を待っていた。1863年」龍馬と宝福寺さんが関係があったと言うようなことは新たに、とても興味深いことです。この時おきちさんは芸姑になっています。龍馬とニアミス?
江戸時代下田港には年間3000隻もの千石船の寄港があったとされているのでこの頃はにぎわっていたことでしょう。町並みを含め当時の史跡もまだ多く有るようです。
下田には是非もう一度いってみたいものです。
「おきち19歳」少しミステリアスで多いに興味ある写真でした。

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