古代から祭神を祀り 修験道の霊山 女体山
5月
22日
やがて林道は矢筈山と女体山の間の稜線に出ます。女体山山頂下まで約1kmを稜線に沿って余り高低差無く走ります。此処からは高松市街や小豆島の全景、東讃地区を広く見渡せます。更に稜線上に登ると鳴門海峡に架かる大鳴門橋の橋脚も見ることが出来ます。手前左には大麻山山頂が見えます。この南側の麓に四国八十八箇所霊場一番札所霊山寺が有ります。
女体山山頂へ行くには少し登らないといけません。登山口には「女体山神社」の鳥居が有って、傍に由緒書の札が立っています。由緒はこう記してあります。
祭神山名の由来
太古より祖霊は山中にこもり山頂になるほど浄まった霊が潜むと言う
山中他界(別解説)とか水霊信仰がありました。
寒川町の最高峰である女体山の頂(769m)に祀られている
女体神社の御祭神も埴山姫命(ハニヤマヒメノミコト)
水霊の神の中の1柱
治山治水の神
水分神(ミクマリノカミ)とも称されています。
であります。
しかしながら仏教の伝来(6世紀中期)以降この霊峰にも修験の徒を含む密教行者たちが進出し斗藪(とそう=行脚)の修行地に変容。
為に神仏は次第に習合しました。すなわち弘仁7年(816年)
山岳仏教を開いた弘法大師が密教研学の場を高野山に開設の折 それ以前にそこに鎮まる山の神を女体 それに使えた狩人 すなわち原始宗教者を男体 大師自らを法体と称し 山頂には女体権現、重複には神宮寺的性格の寺が建立されました。また男体も次第に神格化し、山王の御子とか夫婦関係などと称せられるようになりました。
この山系の中腹にある同系のの大窪寺もその前年弘仁6年(815年)建立されました。
したがってこの女体と言う山名その時代に命名されたものと思料されます。
山中他界観 : 古来日本では、死者の霊魂は高いところへと昇っていく性質を持つと考えられ、それは山の頂や高所にとどまって、子孫を見守ると信じられてきました。つまり死んだ人の魂はまったく別の世界へ行ってしまうわけではなく、現実の山の中に死者の霊が集まる他界があるという捉え方が山中他界観です。日本人の他界観にはこの山中他界観のほかに、海中他界、天上他界、地下他界があります。ちなみに浦島太郎が訪れた竜宮は、海中他界観の延長にあるものとされます。
山中他界観はやがて仏教の影響を受け、山中浄土と山中地獄に分化します。山中の地獄と極楽は、以降の日本の山岳信仰の中心的なテーマとなっていくのです。
女体山の古名は祭神山であると書かれています。古神道の祭事に関わったとされる「忌部氏」に関係が有る記述です。山頂は今は樹々に覆われて見通しが悪いのですが、忌部氏の阿波の国、讃岐国を一望に出来る場所です。
山頂から降り再び鳥居をくぐろうとした時、鳥居のシメナワ(注連縄)をみて、気づいた事が有ります。まず阿波の忌部氏は麻の他、紙も生産していました。シメナワの縄の部分は昔は麻で縄れていて、シデと呼ばれる紙が織り込まれていますから シメナワの発祥は忌部からの物ではないかと言う事。確証は無いのですが、忌部氏にまつわる神社のシメナワは稲わらで大きくフサ状の装飾がある事です。正式なシメナワと略式なシメナワの違いかも知れませんが、今後の宿題としました。また弘法大師は1番札所も88番札所共に忌部氏にとって重要な場所に霊場を開いていると言う事にも気付かされます。
投稿日 2015-05-23 08:57
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投稿日 2015-05-26 03:11
ワオ!と言っているユーザー