種田山頭火ゆかりの味取観世音堂から車で数分の所に在るのが、田原坂です。高低差は80mで約1.5kmの曲がりくねった狭い坂です。この田原坂はかつて加藤清正公が城の北の守りとして築いた場所なのだそうです。時が過ぎて、明治10年西南戦争で薩摩軍と政府軍が死闘を繰り広げる戦場となったのです。 明治政府樹立の中心人物西郷さんも政府内で意見が合わず下野しました。九州各地ではその後不平武士の反乱が起こりますが、薩摩は呼応せず、全て政府軍に鎮圧されます。しかし新政府は薩摩に対して刺客を送り込むなど刺激をします。遂に明治10年2月5日大雪の日 薩摩軍は24000は険しい峠を越え熊本鎮台の有る熊本城に進軍します。近代のある熊本城されますが名城熊本城は簡単に落ちません。熊本ー東京間には電信が在り、細かな情報は東京へ送られました。即時に応援部隊は小倉から熊本を目指し南下します。薩摩郡はこれを食い止めようと熊本城北方にある田原坂に強固な塹壕作り待ち受けます。熊本へのルートはいくつかあったようですが大軍と大砲が通れる道は田原坂しかなかったようです。田原坂の攻防は3月4日から20日までの17日間の昼夜におよび一進一退の激戦が繰り広げられ事になります。 「雨は降る降るじんばも濡れる、越すに越されぬ田原坂」と歌に歌われていますが、田原坂を描いた錦絵の様な鎧をかぶり馬上に乗り戦った様な古風な戦いでは無く、正に近代戦の銃撃戦でした。しかも連日雨が降り、薩摩軍は旧式の火縄銃だった為銃が充分に使えなかったようです。対して政府軍の1日の平均弾薬使用量は約32万発という大変な量で両軍の弾が空中でぶつかる「かち合い弾」が沢山発見されています。連日の雨で、歌にあるように「じんば=陣場」塹壕はぬかるみ大変な状況だった様です。そのため薩軍は刀を使って斬り込みをしました。刀での接近戦では徴兵された政府軍より薩摩隼人の武士団の薩摩軍の方が圧倒的戦果を挙げたようです。そこで、政府軍も会津藩などの武士の集団を集めた警視庁抜刀隊を編成してこれに対抗し、ようやく形成を有利に導き、3月20日の政府軍の総攻撃で田原坂の薩摩軍を敗退させる事が出来ました。双方の死傷者5000余名、激戦で田原坂周辺の山容も一変したそうです。 田原坂には政府に武勲のあった碑は建てられましたが、植木町は資料から双方の戦没者の名を入れた供養塔を建立して、町立の史料館も建て歴史を伝えようとしています。一番奥で田原坂の戦いを解説したビデオを上映していました。その中に種田山頭火らしき僧侶(山頭火とは描いていない)が田原坂を歩く姿が有りました。山頭火はこの田原坂で何と句したのでしょうか。
投稿日 2014-11-18 04:02
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2014-11-18 20:52
ワオ!と言っているユーザー