ローマ帝国の盛衰はキリスト教の歴史でもある。
ユダヤ教徒だったイエス・キリストはユダヤ教の教条主義を嫌い、神のもとで人類は皆兄弟という神の国運動を展開するが、ユダヤ教の長老はイエスの運動をユダヤ教の権威を揺るがす脅威ととらえ、紀元33年にローマの後ろ盾のもとイエスを処刑する。イエスの処刑後、キリスト教の使徒たちは布教活動を一層積極的に行うが、はじめはユダヤ人コミュニティの中だけの布教であった。しかし神のもとで人類は皆平等という思想に基づき、やがて布教の対象がユダヤ人の枠を超えて多神教を信じるローマ人やギリシャ人のような他民族にまでもおよび、それが軋轢を生むようになる。キリスト教徒にとってキリスト教の神を信じない者は宗教に目覚めない気の毒な人たちだから、何とか救ってやりたいと熱心に布教するが、ローマ人にとっては余計なお世話となる。その上、ローマ人は神々に捧げるために牛や羊を神殿の前で焼き、それを人々が分けて食するが、被支配民族の文化に寛容なローマ人もカルタゴやケルト民族の宗教が人身御供を行うことを嫌悪していたのに、キリスト教の習慣であるパンはイエスの肉、ぶどう酒はイエスの血として食することは、野蛮人の風習としてローマ人が忌み嫌うものであった。
ネロが皇帝だった紀元64年にローマ市内で大火が発生したが、普段から多神教を信じるローマ市民に嫌われていたキリスト教徒の放火によるものとの噂により、多くのキリスト教徒が残酷な方法で殺害された。この弾圧により今日に至るまでキリスト教徒から最も強く弾劾されている皇帝ネロだが、キリスト教徒の弾圧はローマ市内に限定されておりこの1回だけであった。その後も98年から117年におよぶトライアヌス帝の時代、キリスト教徒はローマ帝国の東方を中心に秘密結社のような活動を行っていたが、社会の治安を乱す狂信として弾圧される対象であった。キリスト教に関するトライアヌス法では告発者の名前が記された告発のみが逮捕の対象となり、棄教を認めれば無罪、拒絶すれば死罪とされた。また161年から180年の哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝の治世には飢饉、厄病、蛮族の襲来などローマ帝国をゆるがす出来事が多発したため、皇帝が先頭に立ってローマの神殿で祭儀を執り行うことが多かったが、キリスト教徒はそれらに参加しないばかりでなくローマ市民なら当然参加する社会貢献に関するボランティア活動にも参加しないため、ローマ市民からは白眼視されていた。それでもキリスト教を信じる者たちが孤立した集団を作って反社会的な活動を行った場合には聖職者は斬首刑に処せられているが、単なるキリスト教の信徒に対しては反ローマにならない限り信仰の自由は認めている。
キリスト教徒に対する迫害がローマ帝国全土に及ぶのは3世紀に入ってからである。212年にカラカラ帝が勅令を発し属州民にもローマ市民権を与えるようになったが、250年、皇帝デキウスはローマ市民権所有者に対し、キリスト教徒ではないという証明書を発行する法律を施行した。トライアヌス帝の時代にはキリスト教徒を逮捕するのに告発者の名前が必要だったのに対し、この法律では告発なしでも弾圧しなければ治安が維持出来ないという政策への方針変更であった。多くのキリスト教信徒は証明書の発行の際に非キリスト教信者と偽って証明書を取得したが、信仰の上で偽ることがはばかられる聖職者たちの一部は逃亡した。しかし251年にはゴート族がドナウ河を越えてトラキアに侵入したため、キリスト教徒の迫害どころではなくなった。
253年、蛮族対策が一段落した時の皇帝ヴァレリアヌスはデキウス帝の非キリスト教徒証明書の発行を再開し、さらに257年にはキリスト教会の聖職者を対象とした暫定措置法を発布してキリスト教徒の祭儀と集会を禁止し、この禁令を犯したものは死罪かまたは追放された。258年には暫定措置法が強化され、禁令違反者の財産を没収することとした。キリスト教の拡大を防ぐには、金の流れを断ち切る必要があるとの判断であった。多神教のローマでは神の教えを伝える聖職者は不要だが、一神教のキリスト教では聖職者が信徒からの寄進により教会を運営し祭儀を執り行っており、宗教に金が集まることに気づいたからである。しかし259年、ペルシャがローマ帝国を侵略しアンティオキアを占領するに至り、皇帝ヴァレリアヌスはこの戦闘に出馬したためキリスト教対策は緩和されることとなった。
その後の40年間はキリスト教徒にとっては比較的平和な時代であったが、この時期のローマ帝国にとっては相次ぐ蛮族やペルシャの襲来により不安の時代であった。そのような時代に非ローマ的な不寛容である一神教のキリスト教は、将来に不安を持ち精神的に病んだローマ市民や社会的弱者に静かに受け入れられていった。またそのようなローマ市民にはキリスト教コミュニティに参加することで経済的な利点もあったのだ。この傾向は帝国東部で特に顕著であった。ローマ帝国再建を目指していた東方正帝であるディオクレティアヌス帝は303年、ローマ的な伝統と規律を回復するために、皇帝の周辺にも目に付くようになったキリスト教徒を排除する勅令を発して教会を破壊し、集会を禁じ、聖書や祭儀に使用する器具を焼却し、教会の資産を没収した。この勅令に対し特に帝国東部では反対する暴動が多発したが、ローマ軍が鎮圧した。これらのキリスト教徒弾圧は309年まで続いたが、勅令が厳しい内容の割に殉教者は意外に少なかったようである。309年に勅令が取消されると棄教者はキリスト教に復帰し、司祭階級は教会やキリスト教コミュニティの再建に尽くし、結果的にキリスト教は勅令が発せられる以前の状態に戻った。勅令が取消されたのはローマ人が多神教を信じ、他民族の文化に対して寛容であったため、キリスト教を迫害するのはローマ的な精神に反するという気持ちが常にあったためだと言われている。311年に東方正帝ガレリウスが信仰の自由やキリスト教コミュニティを認める勅令を発布したのもその現れと思われる。
くまごろうは今日、シアトル総領事館に赴き海外在住邦人のための衆議院在外選挙を行った。在外選挙は2000年から比例代表制だけが行えるようになったが、2005年以降は小選挙区でも投票が可能となり、2007年の参議院選挙が最初の小選挙区と比例代表の両方の投票が行える選挙であった。2007年、アメリカに移住するまで居住していた東京都大田区選挙管理委員会にくまごろうは在外選挙の申請手続きを開始し、翌年在外選挙人証を交付されて2009年8月の衆議院選挙が初めての在外選挙となった。
在外選挙では、先ず本人確認のため旅券と在外選挙人証の提示を求められる。次いで投票用紙申請書および投票用紙を封入するための大田区選挙管理委員会宛の封筒に必要事項を記入し、誤りがないことが確認されてはじめて投票用紙などが交付される。投票所は日本のそれと大差ないが、記入台の上には2冊の日本全国の立候補者名簿が置かれているため、かなり狭い。ここで投票する人は北海道から沖縄までいる可能性があるための処置だ。小選挙区の投票用紙に候補者の名前を書き、それを小さな封筒に入れ、この封筒を更にやや大きい封筒に入れて在外選挙人証の13桁の番号とくまごろうの名前および署名を行ってから封を閉じる。同じことを比例代表の投票用紙でも繰り返すのでかなりの手間だ。封を閉じたふたつの封筒を領事館の係員に渡すと、その係員はそれぞれの封筒に記載された番号、名前、署名を確認の後、隣席に陣取っている立会人に渡し、立会人が封筒に署名してから最初に宛名書きした大田区選挙管理委員会宛の封筒にふたつの封筒を入れて封が閉じられ、投票が終わる。
シアトル総領事館では投票期間は12月5日より8日までだが、投票期間が終了後確実に日本の選挙管理委員会に届けるために郵送や特別便で送るのではなく、領事館員がすべての投票を持って日本に行くそうだ。シアトルでは何人が投票するのか知らないが、今日は5人の館員が対応しており、万全を期すためにかなりの労力がかかっているように感じられた。在外選挙は海外にいる日本人として選挙権が行使出来る重要なことではあるが、現在海外に居住する日本人は120万人位とのこと、国にとっては金のかかることではある。
古代国家ローマがカルタゴを滅ぼし地中海周辺地域の覇権を確立しつつあった紀元前63年、地中海東岸にあるシリアの南、エジプトの北に位置したユダヤ王国はポンペイウスによる攻撃で敗退し、ローマの覇権を認めた上でローマとの同盟関係に入った。多神教のローマと異なりユダヤ人は一神教であるユダヤ教を信仰していたが、他文化や宗教に寛容なローマ人はローマに敵対したり社会的な問題を起こさない限りそれを認めた。
ユダヤ人は通商に長け、金融の才にも恵まれており、また優秀な民族であるため医師や教師も多く輩出し、ローマの諸都市や他の属州に進出して他民族と交流する機会が多かったが、神に選ばれた民という選民思想を持つユダヤ人はローマの同化政策には従わず、ユダヤ人による閉鎖的な社会を形成していった。
紀元前47年にカエサルはユダヤ人の要望に答え、ギリシャ人と同等の経済的な権利と、ユダヤ教徒が軍務を含む公職に就かない特権を与えた。後者はユダヤ教が一神教の神のみを信仰し、司令官や執政官に忠誠を誓うことが出来ないからだ。カエサルの帝政を引き継いだアウグストゥスもこの政策を継続し、約30年にわたりユダヤ王国は平穏だった。しかし神権統治を求めるユダヤ人急進派はユダヤ王国に住む他民族を追放したり暴動を起こしたため、ローマは軍団を派遣し紀元6年にはユダヤを属州とした。暴動制圧後、ローマはユダヤを急進派の多いイエルサレムと穏健派が多く住む海港都市に分割統治し、イエルサレムでの神権政体は認めなかったがユダヤ教の司祭階級による自治を認めた。
しかしローマ人とユダヤ人はあまりにも違いすぎた。塩野七生さんに言わせれば、ユダヤ人にとっては神が与えたものを人間が守るのが法であるのに対し、ローマ人には法は人間が作るものであり、現実に即して改めてゆくべきものである。すなわちユダヤ人は法に人間を合わせ、ローマ人は人間に法を合わせたのだ。そのためユダヤ人の法はユダヤ人にしか通用しないが、ローマの法はローマ人だけでなく属州となった諸民族にも通用するものであった。
一神教を信ずるユダヤ人にとってカエサルに与えられた特権は妥協の産物であるとは言え十分ではなかった。神権政体の樹立こそが彼らの望む自由であったのだ。紀元6年よりローマの属州となって60年後の紀元66年、ユダヤ人の鬱積した不満が些細な出来事によりついに炸裂した。ユダヤ人の急進派はユダヤ人の穏健派とローマ守備隊を虐殺し、更に暴動鎮圧のためにイエルサレムに侵攻してきたローマ軍が冬の到来で撤退し始めると彼らを急襲し多大な損害を与えた。この事変によって時のローマ皇帝ネロはユダヤの制圧を決意し、紀元67年春、6万の兵を送った。この戦役は途中でネロが自死したため中断するが、ヴェスパシアヌス帝統治の紀元70年、ローマ軍の攻撃によりイエルサレムにあるユダヤ教の神殿が炎上して陥落し、ローマに反抗するユダヤ人の残党が立てこもった最後のマサダの要塞も3年後の紀元73年に平定された。
トライアヌス帝時代の紀元116年、皇帝率いるローマ軍がパルティアに遠征する際、ユダヤの過激派はローマ軍の背後を襲ったが、直ちにローマ軍に制圧される。しかし反ローマの行動はこれ以来断続的に発生し、紀元134年、時のハドリアヌス帝はユダヤ全土を軍事的に制圧しただけでなく、イエルサレムからすべてのユダヤ人を追放し、イエルサレムに入ることを禁じ、更にユダヤの属州名をパレスチナに変更した。この時からユダヤ人はユダヤから離散し、亡国の民となったのである。
しかしローマが制圧したのはローマに反抗するユダヤの急進派であり、ローマや属州に住みローマに反抗しないユダヤ人に対してはカエサルが与えた特権をそのままとし、ユダヤ教の信仰も認めた。ユダヤ人は各地に離散したままでユダヤ教の信仰を続けたが、キリスト教が勢力を持ち始めるとキリスト殺しの罪を背負うようになり、ローマ帝国が滅びた後も中世に至るまでキリスト教世界では迫害を受け続けることになる。迫害は土地・店舗所有の禁止やギルドからの締出しなどを含み、ユダヤ人の農業・小売業・工業などへの従事が困難になったことから金融業が主たる職業になった。ユダヤ人に対する宗教的迫害が減少してきた18世紀以降になると優秀な民族性により科学者、企業経営者を多く輩出している。
日本ではオスプレイの沖縄配備をめぐって安全性の議論が盛んである。オスプレイについて日本のマスコミが配備反対をあおっているように思うのはくまごろうだけだろうか。日本のマスコミは今年2回事故が発生したことを度重なる事故と表現し、さもオスプレイが危険極まりない航空機であるかのごとく扱っている。また基地周辺での反対運動でも、岩国基地ではわずか50名程度の反対派をさも多くの岩国市民が反対しているように報道している。
BellとBoeingの共同開発により生産されているオスプレイの歴史は意外と長く、1960年代からアメリカだけではなく日本でも使用されているBoeing Vertol CH 46/47大型輸送ヘリコプターの後継機として1989年には原型となるモデルが初飛行している。ヘリコプターと飛行機の両方の機能を併せ持つティルトローターのオスプレイはその後多くの技術開発が行われ、アメリカ軍の実戦に配備されたのは2007年であり、最初はイラク戦争、更に2009年からはアフガニスタンにも配備されている。これまでに160機が生産されており、2012年には最大年間48機を生産することになっている。
オスプレイは巡航速度446 Km/hr.、航続距離1,627 Km、標準的なペイロードは20,000 Lbs. (9,080 Kg)で、CH 47大型輸送ヘリコプターの巡航速度265 Km/hr.、航続距離612 Kmに比較して有事の際の機動性に優れている。軍事に限らず災害出動などにおいてもオスプレイの優れた機動性は威力を発揮することだろう。
オスプレイは実戦配備からまだ日が浅いため、既に半世紀以上にわたって使用されてきたCH 47大型輸送ヘリコプターに比較すれば経験不足の感は否めず、ティルトローターという難しい機種のために試作段階では2回の重大事故を起こしているが、改良を加えた量産機での事故率は10万時間あたりの平均事故率は1.93である。因みにCH 46E大型輸送ヘリコプターの平均事故率は1.11、CH 46/47の改良型であるCH-53D大型輸送ヘリコプターでは4.51、またアメリカ海兵隊所属の全航空機では2.45である。
オスプレイが沖縄基地に配備されると困るのは誰だろう。基地の撤去を求める沖縄県民には不満があると同情するが、これまで普天間基地に配備されている大型輸送ヘリコプターに比較すれば事故が格段に増える恐れはなく、また騒音もアメリカのデータによれば大型輸送ヘリコプターより低いといわれている。オスプレイの配備に最も懸念を持つのはオスプレイの航続距離の範囲内となる中国および北朝鮮である。民主党政権により亀裂の深まった日米の同盟関係を再構築するためにも、日本はアメリカが重視する東アジア戦略を支援しオスプレイの配備に協力すべきであろう。
カルタゴとのポエニ戦役が終結すると主食である小麦がシチリアなどから安価かつ大量に流入し、それまでの小麦の生産者であった中産階級を無産階級に転落させた。平民階級出身の執政官マリウスはローマ軍の資質が低下していた状況を打開するため、軍制改革を行い有産階級への直接税とみなされる徴兵制であった兵役を志願制とする。これにより無産階級層が兵役を志願することとなり、ローマ軍の強化とともに失業対策ともなった。失業者や低所得者問題を福祉の充実では解消出来ないのは、福祉では人間の生存理由を与えることが出来ないからだ、という塩野七生さんの指摘は現在の日本における生活保護システムや低所得者対策にも通じるように思える。
遅咲きの執政官となったユリウス・カエサルは紀元前58年に執政官を退任後、北イタリア、ガリア、イリリア、および南仏ガリアの属州総督となる。カエサルは征服された民族が反旗を翻すのはその指導層が扇動するからであることを理解しており、ガリアで征服した部族の指導層を温存するだけでなくそれぞれの部族が持つ言語や文化も尊重する。8年かけてライン河以南、ピレネー山脈以北のヨーロッパを平定したカエサルに対し、元老院は強大な兵力と広大な領土を手中にしたカエサルを危険人物視し、武装解除を求める元老院最終勧告を行う。これに反し紀元前49年、カエサルは軍勢と共にルビコン川を超え、元老院が擁立したかつての盟友ポンペイウスとの戦いが始まる。浮き足立った元老院とポンペイウスの軍勢はイタリア半島を離れてギリシャに逃れ、戦いに敗れたポンペイウスは逃避先のアレクサンドリアで殺害される。
ローマの実権を握ったカエサルは広大な属州を支配するには元老院を中心とした共和制では迅速な対応が出来ないと考え、皇帝が支配する帝政へと改革することを目論んだ。そのために自身は終身独裁官となって権力を手中に収め、また元老院には軍務を共にした者を大勢送り込み、従来の元老院の勢力を弱めた。急速な改革を進めるカエサルに反対する守旧派元老院議員は紀元前44年にカエサルを暗殺する。カエサルが残した言葉『人間ならば誰にでも現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は見たいと欲する現実しか見ていない。』は人間の本質を見抜いたもので、現代社会でも通用する。
カエサルが指名した後継者オクタヴィアヌスはカエサルを暗殺したグループを粛清し、更にアントニウスとの戦いに勝利して、紀元前29年にローマで盛大な凱旋式を行いローマ帝国の絶対権力者となる。しかしその2年後、オクタヴィアヌスは軍団と法とローマの覇権下にあるすべての属州を元老院とローマ市民の手に戻すという、共和制回帰宣言を行う。但し現実はオクタヴィアヌスが連続して執政官となり、第一人者およびインペラトール(皇帝)という尊称を持ち続け実権は放棄しない。その後執政官を辞任するが、護民官特権を得てローマ帝国で唯一の拒否権を持つ立場となる。国の安全保障、通貨改革、税制改革、食料保障を推進し、既にローマ化が進んだ安全な属州は元老院属州とするものの、外敵に対峙する属州は皇帝属州として皇帝の指名した将軍が統治する方法でローマ軍団を支配下に置き権限を強固なものとする。かくしてオクタヴィアヌスはカエサルが標榜した帝政を元老院からの強力な反対もなく実質的に推進してゆく。
オクタヴィアヌスが再編し、約300年継承された税制はローマ市民権を持つものには直接税はなし、奴隷解放税および相続税は5%、またローマ市民権を持たない属州民には安全保障費として収入の10%を属州税とした。但し補助兵として兵役勤務の属州民は属州税が免除される。またローマ市民であるとないとにかかわらず間接税として1.5-5%の関税と1%の売上税を課している。
ローマ帝国はカエサル以降、属州の部族指導層にローマ市民権を与え、属州でも街道、水道、競技場などのインフラ整備を進め、更にはローマ軍団を除隊満期まで勤め上げた軍団兵を属州に土地を与えて入植させるなどして属州のローマ化を推進し、属州の平和維持に努める。また25年の軍務を満期除隊した属州民出身の補助兵にローマ市民権を与え、その権利は世襲することを可能にした。医療や教育の分野でもローマ市民権を活用し、医者や教師には出身を問わずローマ市民権を与えた。ローマ市民権を利用して知識階級を招聘し、属州民に国防意識を浸透させると共に軍事費を低減させたローマのやり方は現代国家も見習うべき点が少なくない。
ヨーロッパ系移民が国の中核をなしているとは言うものの、現在も移民を受け入れているアメリカはローマにならって知識階級や医療・芸術・スポーツなどの分野で優れたものに永住権や市民権を与えている。日本もインドネシアやフィリピンより今後需要が増大する介護師を移住させる計画を立てているが、概念は悪くないものの日本人でも容易ではない介護の専門用語が羅列された日本語による試験に合格しなければならず、ハードルが高すぎ仏作って魂入れずの観がある。
日本でも少子化が問題となり、担当大臣まで置き諸施策を行って久しいが効果が上がったという話は聞かない。ローマでも紀元前1世紀も後半になるとローマ市民は平和を享受して快適な人生を送れるようになり、また共和制の時代のように縁戚関係を作って出世する必要性が薄れ、独身を通す男女が増えてくる。オクタヴィアヌスはローマ帝国指導層の少子化対策として政治、経済、行政担当の上流および中流階級に対し正式婚姻法を定め、子のいない独身者には直接税課税や公職就任が不利になる制度を作るとともに離婚手続きをより煩雑とし、姦通罪も制定して健全な家庭の保護と育成を図る。健全な国家は健全な家庭が不可欠という概念である。塩野七生さんは『自由と秩序は互いに矛盾する概念である。自由を尊重しすぎると秩序が破壊され、秩序を守ることに専念しすぎると自由が失われる。だがこのふたつは両立していないと困るのだ。自由がないところには進歩はなく、秩序が守られていないと進歩どころか今日の命さえ危うくなるからだ。』と述べている。ローマ帝国は一見不自由に思える法律を作っても、その運用の妙により法律の本来の目的である少子化問題を解決したのである。日本もローマ帝国に学ぶべき点があると思うのは私だけだろうか。
遅ればせながら塩野七生さんの『ローマ人の物語』文庫本全43巻を読み終えた。ハードカバーは全15巻で毎年1巻づつ、合計15年かけて完結させた塩野さんの大作、読みでがあった。文章は平易で含蓄が深く、大勢の登場人物が生き生きと描かれており、平日の朝ほぼ毎日20分程度読み進んだが、早く続きを読みたくなる思いの数年だった。
より強力な部族に囲まれた都市国家ローマが紀元前509年に王政から元老院による共和制に転換した後も周辺諸部族との戦いに明け暮れ、紀元前4世紀には北方のケルト族に攻められて、ローマ市内も略奪された後に多額の身代金を払わされ、都市国家としてどん底に落ちてしまう。しかし同様な状況から立ち直れず消え去ってしまう他の都市国家とは異なり、ローマは国家運営の要職を広く平民階級にも解放して人材の活用を始める。更に同盟諸部族の指導者にもローマ市民権を与えてローマとの同化を進め、120年を経た紀元前270年頃に北はルビコン川から南はメッシーナ海峡に至るイタリア半島全域を統一する。
イタリア半島の統一は紀元前367年に制定されたリキニウス法が大きく貢献しているという。元老院は貴族に占められていたが、リキニウス法によりすべての要職が平民にも解放され、平民出身の執政官が実現する。また国家の要職を経験したものは元老院の議席を取得する権利も持つことになり、平民出身の元老院議員も生まれるようになる。出身ではなく実力あるものが国家の運営にあたることにより、ローマは強力な国家へと成長する。国のシステムが人材を育て国家の成長を助ける都市国家ローマから、現在の日本の政治システムや縦割りの官僚システムに目を転ずると、日本の将来に憂いを思わざるを得ない。日本にはリーダーとしての人材がいないのではなく、人材を育てるシステムが不十分であることを。
メッシーナ海峡に到達すればシチリアが見える。カルタゴの許可なくしてはローマ人は海(地中海)で手も洗えない、とカルタゴ人に揶揄されたローマ。西地中海は海運大国カルタゴの支配下にあった。紀元前265年にシチリアのメッシーナは同じシチリアのシラクサからの圧力を受けてローマに救援を求めてくるが、ローマは海峡を越えて軍団を派遣することを決定する。それはカルタゴとの長い戦いの始まりとなる。カルタゴの操船術はローマをはるかに凌いでいたので地中海の制海権はカルタゴにあったが、ローマ人は兵器開発の技術力により海戦を制し紀元前241年にシチリア全域を属州としてローマの支配下に置く。
当時スペインでの植民地を統治していたカルタゴのハンニバルはローマへの復讐を誓い、紀元前218年に大軍を率いてピレネー山脈を越えてガリアに侵入し、更に秋のアルプス越えで約半数の兵を失いながらもイタリアに侵攻する。イタリアでは各地でローマ軍を撃破し、紀元前216年に南イタリアのカンネの会戦でローマ軍に壊滅的な打撃を与える。ハンニバル率いるカルタゴ軍はその後15年間にわたりイタリア半島の一部を支配し続ける。
ローマがカルタゴに抑圧されていた時、ローマの若き司令官スキピオは元老院の許可を得てカルタゴの支配下にあったスペインに軍を率い、カルタゴ軍を蹴散らし、続いてジブラルタル海峡を渡ってカルタゴ本国に侵攻する。本国がローマ軍に侵略されたと知って、イタリアに居座っていたハンニバルは本国に戻り、紀元前202年にスキピオ率いるローマ軍とザマで戦うことになる。ザマの会戦である。カルタゴ軍5万に対しローマ軍は4万と劣勢であったがスキピオの巧妙な戦術によりローマ軍が大勝し、カルタゴ軍は敗走する。ザマの会戦での敗北によって結ばれた講和条約によりカルタゴは交戦権を剥奪され、軍船をローマに引き渡すことになる。こうして西地中海の覇権はカルタゴからローマに移ってゆく。
その後もローマは大国としてギリシャやマケドニアの紛争に介入し、結果として東地中海沿岸諸国もローマの支配下に置くようになり地中海の覇者となってゆく。ローマ人のやり方は自分たちの持っているものを徹底的に活用することであるという。ローマは支配下に置いた諸国の指導者を活用するだけでなく師弟をローマの元老院議員の家庭に滞在させ、元老院議員の師弟と同じ教育を行うことにより親ローマの人材を育ててゆく。多くのカルタゴやギリシャの青少年がローマで教育を受け、後に母国に帰国してローマ的な指導者となる。戦後アメリカのフルブライト奨学金制度も当時の日本の若者をアメリカで教育して親米派の人材を育成することが目的であったが、ローマのやり方にならったものだ。遅ればせながら日本政府も地方公共団体を支援して1987年よりJETプログラム(Japan Exchange & Teaching Program)を推進し、これまでに約50カ国から5万人の青年を日本に招聘して地方での教職などに当たらせると共に日本および日本人を理解させている。これは将来のためにきわめて有用なプログラムと思うが、その原型は古代ローマにあるのだ。
日銀は2月14日の金融政策決定会合で、国債などを買い資金供給する基金の規模を55兆円から65兆円に増やし、この10兆円で国債を購入すること、および消費者物価上昇率を当面は1%を目標とすることを決定した。
これまで日銀の白川総裁はマネタリーベースを増やしても円高には効果がないとか、アメリカのFRBも行っていないインフレ目標導入は行わない、と言って十分なデフレ対策を行わず、円高を放置してきた。しかるに2000年以降、アメリカ、EU、中国などが積極的にマネーサプライを増やし、更にはFRBが1月25日に2%のインフレ目標を設定したため、日銀も重い腰を上げてようやく今回の金融政策決定となった。
日銀の決定に対し市場は敏感に反応し、2月はじめには76.50円を割り込んでいたドル・円相場は瞬く間に79円台となり、昨年10月31日に財務省が8兆円を投じた為替介入よりも大きな効果が出ている。
しかし日銀の1%のインフレ目標はアメリカの2%のインフレ目標に比較して少な過ぎる。長期にわたり日本経済がデフレにあることを思えば2-3%のインフレ目標を設定すべきで、FRBがインフレ目標を設定したのでしぶしぶ1%のインフレ目標としたように思える。この程度のインフレ目標では1ドルが85円以上となることは、日本経済に大きなマイナスとなるようなよほどの事件でも起こらない限り無理だろう。
デフレの脱却には国内消費の増加が不可欠だが、1992年以来国民の可処分所得が減少し続けているところに追い討ちをかけるように震災復興増税や消費税増税を行おうとする現状ではそれも困難だろう。財務省は支出の削減には不熱心である一方、財政再建の名のもとで国民から不足分を徴収して省益の確保に奔走するばかりで、デフレを克服して適切な為替水準を維持することによる国家の繁栄には無頓着すぎる。歴代の民主党総理大臣および財務大臣は経済には疎く政治主導もどこ吹く風、と財務省の言いなりで、これでは国民はたまったものではない。
歴史的円高が続いている。2007年には1ドルが120円以上であったのに、2008年9月のリーマンショック後には90円台、2011年1月には83円前後、東日本大震災直後は76円台にまで上昇、その後政府の為替介入があって80円以上に回復したが2011年7月以降は78円を割ったままで、最近では再び76円台に達している。リーマンショック後、アメリカの雇用統計や小売業の業績が前月の統計を下回るたびにじりじりと円高となり、ヨーロッパの金融危機でのユーロ安の円高は理解出来るものの、昨年下期以降はアメリカの景気が緩やかに持ち直しているにもかかわらずドルに対して円高が続いている。
東大時代の恩師であるイェール大学の浜田宏一教授が白川総裁に対し2010年に公開書簡で、リーマンショック後各国の金融当局は金融緩和を進めたのに対し日銀は金融政策をほとんど変更せず、円高を招いてデフレをより深刻化させ、その結果日本企業の国際競争力を低下させ失業者や新卒者の就職難を招いた、と批判している。更に日銀が取るべき政策として短期国債の購入にとどまらず、長期国債や社債、株式などを実質的に買い上げることを提案している。白川総裁は浜田教授が提案したような金融緩和を行わない理由として、2002年から2005年にかけて日銀がマネタリーベースを大きく増やしたが円高が進んだので、金融緩和と為替レートの変動には直接的な関係があるか不明だ、としている。2001年のマネタリーベースを100とするとアメリカではリーマンショックの前は200前後であったのに対し、リーマンショック以降大幅に増加させ、現在は450に達している。これに対し日本のマネタリーベースはリーマンショック以前は100前後、リーマンショック後もそれほど増加せず現在でも150程度である。
日銀法第2条では『日本銀行は通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもってその理念とする。』となっているため、日銀は物価の安定に強いこだわりを持ち、絶対にインフレを起こしたくないという気持ちが強いのであろう。2008年に日銀総裁に就任した白川総裁の下では食料とエネルギーを除いた消費者物価指数は常に-1.5%と0%の間にあり、現在のようにデフレが何年も続いていてもインフレ目標を設定するようなインフレ誘導政策を進めることに極めて消極的である。
1月25日にアメリカのFRBは連邦公開市場委員会で食料とエネルギーを除いた個人消費支出で2%を長期的目標とすることを決定した。これまでアメリカのFRBでもインフレ目標の設定を行わないことを口実にインフレ誘導政策を回避してきた日銀はこれからどのような政策を進めるのだろう。たとえ公定歩合が日米ともゼロパーセントでも、アメリカが緩やかなインフレで日本がデフレなら今後も円が買われて円高が続き、日本の製造業は海外逃避を続け、浜田教授が指摘した失業者の増加や就職困難な状況は悪化するだろう。これに消費税増税や復興支援のための増税が加わればますます消費者の可処分所得が減少し、GDPは低下してデフレスパイラルに突入してゆくのではないだろうか。
今日はThanksgiving Day、アメリカではターキーディナーで祝うのが習慣だ。毎年、この日の前日、ホワイトハウスでは七面鳥が大統領にプレゼントされ、大統領がその七面鳥を許して殺さないことが年中行事となっている。以前からこの七面鳥がその後どうなるのか気になっていたが、今夜、娘の家でのターキーディナーの時に、その運命を知った。
娘が渡してくれたフードの雑誌によれば、大統領にプレゼントされる七面鳥は今年2月に生まれた鳥の中から選ばれるそうだ。National Turkey Federationが25羽を選び、その中から大勢の人前でも物怖じせず、大きな音で音楽が演奏されても驚かない,、おとなしく、かつ見かけの良い2羽を選んで1羽は大統領へのプレゼント用、もう1羽はそのバックアップ用とするのだそうだ。
大統領に赦免された七面鳥はワシントンDCからUnited AirlinesのファーストクラスでカリフォルニアのアナハイムにあるDisneylandに旅立ち、機内では同乗した旅客から祝福を受けるそうだ。Disneylandでは音楽隊と共にパレードし、その後同地にある牧場でのんびりと余生を送るとのことだ。ちなみにバックアップ用のもう1羽も同様の待遇だそうだ。
ターキーは淡白で健康志向の人たちには人気があるが、くまごろうには普通のチッキンの方がよほど美味に感じられる。しかし年に1度のサンクスギビングディナーにはターキーがないと何となく物足りない。これもアメリカ生活が長くなった証しなのだろうか。娘が焼いたターキーはなかなか美味であった。
9月初めにアメリカの太陽光発電パネルメーカーSolyndra社が会社更生法を申請したことをブログに記したが、本日付のNew York Times電子版ではこの倒産により、オバマ政権が当惑しているという記事が掲載されている。
オバマ政権は景気浮揚策および雇用対策としてエネルギー開発に対する連邦政府による融資保証プランを発表し、その一環としてエネルギー省が再生可能エネルギー事業に対する融資保証プログラムを推進してきた。このプログラムに対し143社より融資保証の申し込みがあったが、エネルギー省はその中の16社に計画書の提出を求めた。Solyndra社は最終的に太陽光発電パネルメーカーとしては最高の5.35億ドルの融資保証を受けることが出来、カリフォルニアに新工場を建設した。昨年5月には多忙なスケジュールを調整してオバマ大統領が新工場を訪問し、同社の経営者や従業員を前に『Solyndra社のような会社がわれわれのより輝かしい未来をつくるのだ。』という演説までしている。
Solyndra社は2008年以来ワシントンDCでロビイストを使い、連邦政府の融資保証を受けるべく色々と画策してきたらしい。6つのコンサルタント会社に総額180万ドルを払ってホワイトハウス、連邦議会、エネルギー省の要人などに売込みを図ってきたようだ。通常では実現出来ないオバマ大統領の同社訪問はその成果の一つといえる。今になってエネルギー省は融資保証を受ける際に必須の経営内容の審査なども十分に実施しておらず、杜撰な審査だったことが明らかになってきている。
Solyndra社の経営不振は太陽光発電コンポーネントの価格が世界規模で急速に下落したため、との理由付けがなされているが、そのような経営環境でも生き延びている企業もある。来年大統領選挙を迎えるアメリカでは、Solyndra社の会社更生法申請による焦げ付いた多額の政府保証が共和党のオバマ民主党政権批判の新たな材料になるだろう。
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