久方ぶりに見た官兵衛は、時代が進み、
秀吉が死去して関ヶ原前夜となっていた。
徳川を立てて結束しようと躍起となる息子の長政。
家康は思惑通りに二分した豊臣家の武断派を籠絡してしまう。
尾張出身の長政、加藤清正、福島らがねね様中心に結束するのは、
石田三成ら近江出身の官僚らに対抗するため。
尾張派の三成への個人的な憎悪が、
徳川に見事に手のひらに乗せられ利用させられた。
そのカラクリを透徹した目で見抜いていた官兵衛。
「わしは、わしの道を行く」…側近にそう告げた時の官兵衛の目は将来を見つめ輝いていた。この時の岡田さんは、骨の髄まで官兵衛になり切っていた。
徳川でもなく、石田派にでもなく、自ら天下を目指す官兵衛。
その父親の夢と気概、戦略を解せない息子の長政がもどかしい。
昼間のシアトル空港中央コンコースはいつもと一味違うライブコンサート。ヴァイオリンだけでなく、このあとヴォーカルも披露したお姉様。
これからニューヨークへ出発です。
家康は、タヌキ振りを如才なく発揮。
天下簒奪の時を見計らうが、見え透いた柿ドロボーの真似はしない。
大義を立ててから行動を起こさねばならない。
行動とは、大きな戦であるらしい。
豊臣政権を引っくり返すためには、諸侯を巻き込む大戦が必要。
三成一人の首を獲ってみても、天下取りの芝居にはならない。
これを見越して家康の元に逃げ込む三成。
陰謀の腹の探り合いが続く。
タヌキの始めた徳川政権は明治維新まで二百数十年間も存続するため
その後の日本人に及ぼした影響は無視できないものとなった。
愚かに見えるほど己の心情を開け広げて同情や賛同を奪ってしまう
人垂らしの秀吉とは対極にあった。
両人の個性の相違は、そのまま江戸と大阪の違いの要因の一つとなったようである。
秀吉の後継者と見込まれていた秀次が切腹に追い込まれた。
秀吉に生まれた秀頼の行く末の邪魔だてとなるのだという…
大河ドラマでは秀吉の私心による成敗で、秀次への同情を誘われるが、
本来そのような同情心の必要のない男である。
秀次は、もっと早い段階で葬り去られた方が良かった。
ルイス・フロイスは「日本史」の中で秀次のことを、
残虐非道極まる男であり、ネロをはじめとしてどんなローマ皇帝も彼ほどではなかったと報告している。
絶命の際の声を聞きたいなどどいい、興味本位から通りがかりの町人を何度も辻切りしている。
哀れなのは秀次の家族、親類一同39名が幼児に至るまで
三条河原にてズタズタに切り裂かれて絶命したことであろう。
ところで、現在でもイスラム国を名乗るイスラム過激派が同様の蛮行を犯して誇っている。
人権意識。
人の命の尊さ。
その尊厳さに思いが至らないことゆえの悲劇。
「どうして人を殺したらいけないの?」
小学生だったか、日本である子が教師にそう質問したという。
その教師がどのように答えたかは知らない。
生命の誕生も、ヒトまでの進化も偶然と適者生存が支配している価値観を教えている学校で、
どうやって善悪の基準を説くことが出来るのか?
聖書の教えが広まり、浸透していった社会で
「人権」という価値観が生まれてきたと言っていい。
科学技術の発展や経済の隆盛が社会に人権意識を移植させたのではなく、
聖書の教える神とその価値観が認められて、人ははじめて人らしい生き方に目覚める。
ざっくりいうなら、現在の少数民族を迫害する中国や自国民を洗脳して締め上げる北朝鮮、
そしてイスラム過激派、、、、
聖書の権威に真っ向から反する政権はどれも人権を踏みにじっている。
聖書の教えによれば、、
世界には一人だけの真実な神がおられる。
その方が天地宇宙の全てを創造された。
動植物をその種類に従ってそれぞれ創造された。
人は「ご自身の姿に似せて」創造された。
それゆえ、人は神と交流を持つことができ、また尊い存在なのである。
ところが最初の人、アダムは罪を犯したことにより神との交流が絶えてしまい(霊的な死)、
肉体的にもいつかは死ぬ運命の存在となってしまった。
憐れみ深い神は、人を何とかして回復させようとした。
その最後的な方法として愛するひとり子を世界に送られた。
それが、イエスと呼ばれる人間であると同時に神ご自身なるお方であった。
この方が人の罪を背負って十字架にて贖いの死を遂げられた。
それゆえ、罪を赦され、途絶えていた神ご自身との交流を人は回復できるのである。
つまり、神の目から見て人は、
ご自身の大切な独り子の命をささげるほどに尊いものとしての価値を置いておられる。
この聖書の教えを知って、どうして人を虫けらのように殺すことができようか、、、
PS.
昨日のドラマでは、秀次は切腹直前まで将棋をしていて、
恐怖のあまりその駒を散らかしてしまう。
司馬遼太郎の「豊臣家の人々」によれば、最後は碁を打っていたことになっている。
いつもは勝てない西堂という相手にこの期になって勝てたのが余程嬉しかったらしく
「今からワシは腹を切りにいくが、この盤面はくずすな。床の間へ、そっと運べ。
みなあとで石の具合をとくと見よ」と言ったという。
どちらが本当の話かは、無論知らない。
秀吉の怒りに触れて蟄居を命じられた官兵衛。
そのままのケースなら利休と同じ、切腹の憂き目を見ることになる。
「利休殿は己の意地を貫いて腹を切りました。
つまらない意地などで腹を切るのは、拙者の性分ではございません。」
頭を丸め隠居を申し出て、
命乞いとも見える言い分を持って平伏し、秀吉からの赦しを得た。
そういえば、小田原征伐参列の意思表示が遅れ、逆臣の疑いを掛けられた伊達政宗も
死を覚悟した白装束を着て秀吉に謁見し赦しを得ている。
粋な演出で己の命を救うのも戦国大名のビジネスなら、
高山右近や利休等の様に、信条や思想に殉じるのは信仰者の仕事だったと言えるかも。
朝鮮出兵の際に築いた名護屋城。
秀吉の狂気は、この名護屋城を築いただけでなく、
周囲3kmの範囲に全国の諸将を駐屯させた事。
諸将が築いた陣屋の数は、120を超えるそうです。
小田原征伐を終えて日本統一を果たした秀吉は
明への遠征を企てる。
あまりにも無謀、狂気、夢想、、、
この愚かさをどんな言葉を尽くしても言い足りない。
決して正当化できるわけではないが、
20世紀の近代日本が大陸へ進出したのには大義名分があった。
世界は帝国主義植民地獲得競争の只中であり
ロシアの南下政策に対する祖国防衛であり、
欧米からのアジア解放だ、といった立派な?言い分もあり得る。
ところが秀吉の朝鮮出兵には1ミリの正当な理由もない。
ドラマの中で日本兵の士気が上がらずに敵に押し返されている状況を聞いて、
官兵衛が「この戦には大義が無いからじゃ」と言ったのはまさに正しい。
たとい朝鮮を超えて目指す明国まで征服が完了出来たとして、
日本兵を朝鮮や明に残留させるのはあり得ない。
市場に物資を多量に供給するには産業革命を経なくてはならず
戦国期の日本には他国民の生活までを潤すモノなんてなかったのである。
信長の後継者として自他ともに認めさせたかったのか、
秀吉一人の幼児のようなワガママさ。
誰にとっても無益な戦乱を朝鮮半島に突き刺した。
槍働きで武功を上げた清正や官兵衛に対して
官僚として兵站補給の任に当たる三成や増田らの溝はこの戦でさらに深まる。
出兵に反対する官兵衛らの忠言に、全く聞く耳を持たない秀吉。
やがて豊臣家分裂の刈り取りをせねばならなくなる。
秀吉により切腹させられる。享年70歳。
1591年、茶頭であり秀吉のブレーン役であった千利休に切腹命令が突如下る。
昨日の大河ドラマでは石田三成が讒言した内容に秀吉が激怒して
切腹を命じたことになっていた。
秀吉の怒りに触れた理由には諸説ある。
大徳寺の山門に作った利休の木造の下を秀吉が通らねばならないとか、
茶道具の目利きとして法外な値を付けて私服を肥やすようになったとか、、、
これらのドラマが取り上げた理由には説得力が欠けるように思える。
もっと秀吉の核となっている事項に触れてしまって
地雷爆発を誘発したと考える方が理解しやすい。
それではこの時の秀吉の「核」とは何か。
❶明への遠征
長らく戦乱の世を終わらせて天下統一を果たしたばかりの時、
民は疲弊して国土は廃れているから内政に力を注ぐ時であり、
外征など天下のためにならず!
利休はそのように忠告したであろう。
秀吉には、政道に口を挟む煙たい存在と映った。
このポイントはドラマでも充分に描写していた。
❷茶道観の隔たり
万事はで好みの秀吉は「黄金の茶室」を作らせるが
利休にとっては悪趣味にしか映らなかった。
平凡で素朴な佇まいの中に悠久の美を見出そうとする
「わび・さび」に価値観を見出す利休とは相入れない。
❸淫蕩で残虐な性格
ドラマではこの点が描かれていなかった。
ここにこそ秀吉が利休に切腹を命じた最大の理由があると考えられる。
ルイス・フロイスの「日本史」には秀吉の人間像を次のように報告している。
「関白秀吉は極度に淫蕩で、200名以上の女を宮殿の奥深く囲っていたが、
さらに都と堺の市民、役人達の未婚の娘と未亡人全てを連行して来るように命じた。
そして容姿の美しい者はほとんど残らず、関白の元に連行された。」
秀吉は利休の次女の三(さん)にもその食指を伸ばすのだが、
利休がこれを拒んだがために秀吉の逆鱗に触れたというのが最有力と思われる。
ちなみに、貞節を硬く守るキリシタンを快く思わなかったというのも
秀吉がキリシタンご法度に傾く伏線となっているのも間違いない。
昨夜の大河ドラマ官兵衛では秀吉に実子の鶴松が生まれ、
茶々が正妻として立場を強くして行くものだった。
茶々と鶴松は秀吉とともに大阪城に住むことになり、
ねねは追い出される形で京の聚楽第に移り住むことになる。
茶々を取り込んで勢力を拡大して行ったのが石田三成である。
秀吉の子飼いとして幼少期からねねが世話をしてきた
加藤清正や福島正則、そして官兵衛は徐々に疎外されるようになる。
しぜん、家中に二つの派閥が対立する構造が出来上がる。
この後、小田原征伐が終わると朝鮮出兵が始まる。
目付き役の石田三成が加藤清正らの働きぶりをネガティブに秀吉に報告したことから恨みを買い、両者の対立は決定的なものとなって行く。
豊臣家が茶々派とねね派とに真っ二つに割れ、
やがてその豊臣家の内紛に乗じていくさを仕掛けるのが徳川家康。
いわば漁夫の利をむしり取ったタヌキさん(*^^*)
こうして見ると秀吉には信長のような世界戦略がなかったようだ。
朝鮮や明を従属させたいという信長の果たし得なかった夢を外面だけ継承しても、
内実が伴っていない。その器ではないということだろう。
鶴松可愛さとお家の存続が秀吉にとっての最優先課題。
トップがそのような私心を持っている以上、御家騒動は起こるべくして怒らざるを得ない。
アジアの覇者となるという途轍もない野望は、
少なくとも信長にとり「公」のものとしての位置付けであり、
その最終ゴールに向けての手はずが順次組み立てられつつあった。
南蛮貿易を奨励して貨幣経済を潤したのも、
貿易に伴う伴天連を優遇して、キリシタンを庇護したのも、
王としてのグローバルスタンダードを極東アジアにも確立させたいとする
戦略の一環ではなかったか?
運良く舞い込んだ天下を取ったがために
人変わりして私欲に走る秀吉は、得体のしれない化け物に成り果て行く。
茶々が懐妊したのを揶揄した風刺落書に怒る秀吉。
犯人の可能性のある百人ほどの人々をまとめて拷問の上、死罪とした。
天下人の横暴を諫言するのは官兵衛しかいないと、
正妻のねねに頼まれ大阪へ登る。
「人は天下を獲ると、こうももうろくするものか、、」
「何?!!!」
秀吉は表情を変えて立ち上がり、官兵衛に近づく。
側近の三成らも「控えよ!」と怒声を上げて殺気立つ。
以後も命を掛けた官兵衛の諫言が続く。
「民は秀吉様のお子の誕生をよろこばれましょうか?!」
…………………………………
ドラマでは秀吉の残虐非道さを己の命に変えても諌め、
天下の安定のために尽くす官兵衛が演出されるが、
この部分は創作であろうと思われる。
官兵衛がそこまで勇気を振るって諫言している史料にお目にかかったことはない。
秀吉の傍若無人さは誰にもストップできなかった。
この後、甥の秀次を実子が生まれたばかりに邪魔者扱いし、
側近ら10名も含めて切腹させている。
そればかりか、
側室や女児、幼児をも含めた秀次の遺族39名をことごとく首を刎ねて処刑する。
すでにキリシタン禁教令を発布していたが突然、
フランシスコ会中心のキリシタンを京都で捕縛し
耳を削いだ上で長崎まで連行、
十字架で磔刑に処している。
(26聖人の殉教)
この場で命を捨てて諫言している官兵衛と
先日の禁教令発布の折には守るものあって妥協した官兵衛。
NHKさん、
同一人物として調和出来ないのですが…
利休の茶室に秀吉、官兵衛、そして石田三成がいる。
………………………………
秀吉:「先鋒は清正と行長、軍師は官兵衛じゃ。
信長様が成し得なかった夢を、この秀吉が成し遂げるのじゃ。」
官兵衛: 「殿下……
天下太平は目の前でございますが、長い戦で民は疲弊しております。
何卒、しかと民の姿を見ていただきとうございます。」
秀吉: 「そのような事は分かっておる!」
官兵衛: 「殿下、何卒、お考え直しください!!」
秀吉: 「おぬし、このワシの夢にケチをつけるのか?」
……………………………
秀吉: 「これ以上申すな!!!」
利休: 「耳の痛いことを言ってくれるお方がおられるうちが春でございます。」
秀吉: 「利休よ。……ワシは黒茶碗が嫌いじゃ。」
利休: 「殿下にもいずれその良さがお分かりになります。」
…………………………秀吉は怒りに震えて立ち上がると、
その黒茶碗を蹴飛ばす寸前となるが、そのまま三成を伴って退席する…………………
天下人秀吉の傲岸さ、
天下のための最善は何かを理を持って説く官兵衛。
盲目的に秀吉のご機嫌取りとして権勢を伸ばしつつある三成、
高所から哲理を言ってのける利休。
この時点でのこれらの各人のそれぞれがよく表されている。
本日のとある新聞コラムにもこの時のいきさつが詳細に解説されていた。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140923/wlf14092307000002-n1.htm
秀吉が中国征伐という愚かしい老人性夢遊病に陥ったのは、
ここでの台詞通り、
信長の夢を踏襲して後継者としての正統性を
アッピールしたかったのは間違いないと思われる。
ではその信長が日本平定後、朝鮮や中国に目を向けたのはどうしてか?
当時万里の波涛を超えて布教や貿易にやって来た南蛮人に刺激された事は想像に難くない。
………………………………………………………………………
先回、当時の欧州は大航海時代であり、
地理上の新大陸発見時代でもあったことを書いたように思います。
ここから
「秀吉や家康がキリスト教を禁教にした理由」について考えて見ましょう。
1494年にアレキサンデル6世は、
大西洋の真ん中に南北で線引きして世界を真っ二つに両断することを両国に認めた。
(トルデシリャス条約)
両国とは、ポルトガルとスペインで、
この2カ国で新世界を真っ二つに両断したのである。
トンデモ、トンデモ〜
西側のブラジルを除いた新大陸をスペイン領とし、
東側のアジア・アフリカはポルトガル領とするというお話、、、
何とも身勝手な〜(^◇^)
その際に教皇は両国王に宣教保護権なるものを与えている。
それはスペイン王とポルトガル王に付与された
彼らが征服した新地に対しての布教許可権であり、交易独占権でもあった。
このように、カトリック教会の宣教と国王の政治的・軍事的な意向とが
結託していたのは紛れもない事実。
全世界でのキリストの代理人を自認していた教皇にとって
布教権や司祭叙任権は専権事項であり、
発見した新大陸でのそれらもまた本山(教皇)から
大航海と新大陸管理の事業者(国王)へ譲られるべき性質のものであった。
当時はそのような時代状況であり、事の善悪を論じられる次元ではない。
だから禁教令や鎖国を持ってキリスト教を排除しなくては
やがて日本も植民地に成り果てていた……
そんな風に考える人がどうも多いようなのです。
これは本当でしょうか…?
日本は世界から見ると、今も当時も超特殊な国です。
日本には大規模農地に適した広大で肥沃な土地はない。
当時は金銀などの鉱山資源も発見前のこと。
第一、戦国の武士たちに対抗するほどの兵員や武器の輸送は不可能であったと言えます。
関ヶ原での東西両軍の双動員兵員数は概算で30万人程。
一方、その数世紀後の欧州最大の会戦である
ワーテルローの戦い(1815)でのそれはおよそ20万人とされています。
欧州が連合して日本征服を企んだとしても、
日本の戦国武士にはかなわなかったはずです。
カトリックによる日本宣教は国王認可の元での国家事業であり、
貿易と密接に結びついたものであったとしても、
彼らに征服の下心があったと結論付るには早すぎるようです。
ここにホセ・デ・アスタコ(1540-1600)という
スペイン人のイエズス会宣教師を紹介します。
彼はペルーやメキシコでの布教活動を管区長として指導した人ですが、
1577年に書いた書簡の中で全世界の宣教地を3区分する必要性を説いています。
①西洋と同等な高度な文明を持つ人々〜日本や中国
②文明後進国ではあるが、それなりの独自文明を持つ人々〜南米マヤ人やアステカ人、ポルトガル領インド人
③野蛮人で「堕落した凶暴な住民」
その中でアコスタは
「第一区分の住民に対しては使徒時代のギリシア人、ローマ人、その他のアジア人、ヨーロッパ人と同一の方法で布教するべきである」と記しています。
イエズス会宣教師のトップが日本を白人国家として扱うよう述べているのに注目です。
その路線を正しく踏襲したのがイエズス会東インド管区巡察師として来日したヴァリニャーノでした。
…………………………来週に続きます………………………………………………
秀吉の無理難題をどう受け止めるか、苦悩する官兵衛
今週の大河ドラマ・官兵衛は、
秀吉による九州平定後に受け継いだ豊後の地侍どもの反抗をどう抑えるかという話題だった。
特に宇都宮氏をだまし討ちにするという
いわば黒田家の暗部が描かれていた。
秀吉の二枚舌、そして「殺せ」との専制君主の独断であるとはいえ、
宇都宮氏との首領安堵の約束を反故にした直接責任者は官兵衛である。
戦国時代の大名として殿下・秀吉の名には絶対に逆らえないゆえに。
そこではキリシタンとしてデウスの教えにあくまで忠誠を尽くすのは不可能であったのか。
先週の伴天連追放令の際、
官兵衛は秀吉を恐れて信仰上の妥協をしてしまった。
以後はデウスの教えと秀吉の命令との狭間の中で葛藤と妥協の生き方が続く。
ところで、秀吉や家康によるキリシタン迫害と禁教とは
日本にとって正しい判断だったと結論づける論考にしばしば出くわす。
キリスト教世界の中からさえも。
宣教師らを先に派遣し現地人民を懐柔した後に軍隊を派遣、
征服して植民地化するのが南蛮国の戦略であり、
それは南米諸国を見れば明らかだという論理。
日本を欧州列強の植民地化から阻止するためには、
その時代のキリシタン禁制も止む無しだった、と言うもの。
高校までの世界史教科書を表面的になぞるだけなら、
誰もがその結論に至って当然であろう。
確かに当時の欧州は所謂大航海時代であり、
アメリカを始め新大陸が「発見」されていた時代。
そこにいる何十万という原住民らを懐柔して交易に利用、
あるいは殺戮して広大な土地を征服していたのは事実。
……………長くなりそうなので来週に続きます…………
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