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聖地旅行2日目:ぺトラ(2)

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断崖に覆われた岩の回廊が終わっ... 断崖に覆われた岩の回廊が終わったところに姿を現すエル・ハズネ神殿。ナバダイ王国時代の戦士に囲まれて。 ナバダイ王国王国は断崖に守られ... ナバダイ王国王国は断崖に守られて数百年間、大地震によって崩壊されるまで存続しました。 至る所に神殿や墓が岩山に掘り込... 至る所に神殿や墓が岩山に掘り込まれています。 ナバダイ王国時代の戦士に囲まれ... ナバダイ王国時代の戦士に囲まれて。 チャリオットは、風のように疾風... チャリオットは、風のように疾風して通り過ぎて行きました。 聖地旅行2日目:ぺトラ(2) 聖地旅行2日目:ぺトラ(2) チャリオットに乗るための待合場... チャリオットに乗るための待合場所
古代ナバタイ王国は、アレクサンダー大王やローマ帝国などの列強をはねのけて生き続けました。これら列強と直接戦わずに、毎年貢物を送ることで生き延びたのです。
東西南北の交易により潤ったこの王国には、かつて3万人ほどの人たちが住んでいたと言われています。
神殿建設には、バビロン、ローマ、エジプト、イラン、ナバタイ文明を取り組んだ装飾となっていて興味はつきません。

その後は、エイラートまで一路バスに揺られて南下。
そこでイスラエルに入国しました。
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ヘブル書3章の学びです

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3:16-19「荒野放浪からのレッスン」
ホサナキリスト教会での聖書研究です。
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3つの質問を投げかけることにより読者にレッスンを与えています。

①「み怒りを引き起こしたのは誰か」
それは「モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではないか。」
彼らは神に助けられて奴隷状態からの解放を受け、約束を信じて出発したのでした。その彼らが不信仰に陥ったため、約束の国を失い、安息を失ったのです。

②「罪を犯したのは誰か」
み怒りを引き起こした者たちと同じ者たちです。彼らは罪を犯し、その結果を刈り取らねばならなかったのです。その罪とは1回きりのものではなく、40年間何度も継続されたもの、不信仰の現れであったのです。
結果とはしかばねを荒野にさらすこと、つまり肉体的な死のさばきを受けたのです。彼ら全てが霊的な死を遂げたと考えるのは不自然です。
モーセも罪を犯したゆえに約束の国に入れず肉体の死をさばきとして受けています。でも霊的な死、つまり救いを失ったと考えるのは妥当でありません。変貌山で主イエスと会っていること(マタイ17:3)からして、彼が神の前を生きていたことを疑う人はいないでしょう。同様に大祭司のアロンやミリアムもまた約束の国に入れずに死を迎えますが、救いを失ったわけでありません。その他にも大勢の人が霊的には生かされつつも、さばきとしての肉体の死を遂げたのです。
本へブル書では、一貫して神の信者にもたらすさばきとは肉体的なものであり、救いを取り去るものではないことを教えています。

③「安息に入れないと言われたのは誰か」
ここでの安息とは約束の国のことであり、それはこれまで見てきた全く同じグループの人たちと重なります。不従順により、安息の祝福を失ってしまったのです。
ただ、イスラエルは贖われた民としてステータスを失ってはいないことに留意しなくてはなりません。罪を犯したからと言ってエジプトに帰って奴隷に戻ってはいないのです。彼らは尚も贖われた、選びの民なのです。にもかかわらずに、約束の国での安息の祝福には漏れてしまいました。

 出エジプト世代の人々は信仰に踏み止まらなかったため、約束の国にはいれなかったのです。3つの段階を経てさばきを招いたと言えます。
第一に、不信仰に陥った。
第二に、その不信仰が不従順を招いた。
第三に、その不従順がカデシュバルネアでの罪を誘発したのです。
それは撤回できないさばきをもたらし、40年間の荒野での彷徨による肉体の死に繫がったのです。

このへブル書が書かれた世代と共通する点があります。
メシアが十字架で死なれて(AD30)から、この時ですでに40年近くが経とうとしているのです。40年後とはAD70であり、それはローマによるエルサレムの崩壊とユダヤ人の大虐殺が神のさばきとして今や起ころうとしていた時でした。
もし当時の読者たちがユダヤ教に逆戻りしてしまうなら、そのローマ帝国を神が道具として用いるさばきによって彼らは肉体の死を受けねばならないのです。

AD66にローマ帝国の将軍ヴェスバシアヌスによりエルサレムは完全包囲されます。AD68に皇帝ネロは自殺。するとヴェスバシアヌスは包囲を解いてローマに帰国し、政変に乗じて自らが皇帝に即位します。
その時、主イエスの次の言葉を守ったメシアニックジューは全てエルサレムから逃れることができました。

20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都に入ってはいけません。
22 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
23 その日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
24 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
(ルカ21:20-24 )

やがてAD70年、ティトスが将軍として再び遣わされるとエルサレムは陥落し徹底的に破壊され尽くされます。城壁内の全ての住民は虐殺されたのでした。その数は百万人とも言われます。主の警告のことばに従わないところからのさばきとなりました。


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和洋折衷

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サーフィンに乗る相撲取り。 サーフィンに乗る相撲取り。 モトクロスの侍、こういった発想... モトクロスの侍、こういった発想は西海岸ならではのもの。
カルフォニアは寿司が浸透した場所です。

最初に渡米した寿司職人が作った海苔巻きを見た米国人は、「何それ?( ̄^ ̄)」
米国人の目には「ブラックペーパーが巻きついている」ものにしか映らなかったそうです。
そこで海苔を内側に巻き込ませ、ライスを外側にもってくるカリフォルニア・ロールが誕生しました。
和洋折衷と言いますか、米国型アンパンと言いますか、、

この日訪れた寿司屋では、壁にある絵まで和洋折衷でした。
さすがカリフォルニアン!
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3億円をどうしますか?

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「山上の垂訓」 マタイ5章1~16節
~マタイ講義(11)からの抜粋です~
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 主は8つの幸いについて教えられました。
このそれぞれ節は、「マカリオス」という原語が冒頭に来ていて、しかも感嘆文となっています。
文語約が実に良くこのあたりのニュアンスを訳出してあり、「幸いなるかな」と余韻を踏んでの書き出しとなっています。

「ハピネス」(幸運、ラッキー)と違い、この語句には「祝福されている、恵まれたものよ」という意味があります。

よく誤解されていますが、これは天国に入るための倫理道徳条件のリストでなく、天の御国で生きる市民の様子を描写したものなのです。
聖書でいうこの「天の御国」という概念もまた誤解されやすいところです。そこにある基本的概念は、「王の支配の及ぶ領域」というものです。

主イエスを信じ受け入れた者の心中には、王なる主の支配があります。そのようなクリスチャン同士の交わりにおいてもまた、主の権威が及んでいます。それゆえ互いに赦しあい、愛しあう場となり、それが神の国と言われる所以です。
やがて将来、主の再臨の時に、この地上に見える形で主の王国の支配が全世界を覆うことでしょう。それもまた神の国のありかたです。

つまり「神の国」(マタイでは「天の国」と呼ばれています)とは、現在成就していて信者が信仰により体験できるものであると同時に、将来、究極の大スケールで実現される希望でもあるのです。

先日あるご婦人が20年以上前の「ハピネス」についてお話ししてくださいました。ハピネスをもう少しで掴みそうだった、と言った方が現実に近いかもしれません。
彼 女は毎週末に$5でLottoという宝くじを買っていたのです。その日も購入予定の番号を書き出していたら、たまたま息子さんがそれを見つけて「ママ、そ の番号は愚かしいよ」と言ったため、買いに行くことをしなかったのだそうです。後日、何とその番号こそが大当たりの3億円となったのを知りました。その瞬 間、彼女は悔しさのあまり髪の毛をかきむしり、側にあったソファーのクッションを部屋中に投げ散らしたのでした。
今となって彼女は「あの時クジに当たらないで良かったです。」と言っています。「もし3億円を手にしていたら、私はクリスチャンになれなかったですもん」と話してくれました。

さて皆様は、主イエス様と3億円のどちらか一つを選べるとしたら、どちらを選びますか?
「もちろん主です」と即答できる人は、「マカリオス」(何と幸いな人でしょう!)と言われるにふさわしい人です。
3億円という途方もない価値に勝る宝を見出して、そこに生きている方だからです。
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日本婦人クリスチャンランチョン

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日本婦人クリスチャンランチョン
先日は、日本婦人クリスチャンランチョンが開かれました。
大シアトル圏にある日本語教会の関係者が一同に集まるものとして年一度だけ開かれるもので、ことしで30周年となりました。

この機会でなければ お会い出来ない友人方もいて、私は毎年楽しみにしているのです。
ゲストスピーカーは、宮城県塩釜市で牧師をされながら復興活動に深く関わりを持っておられる「ホープみやぎ」代表の大友先生でした。
仮設住宅にお住まいの被災者方への支援活動の実際のお話の中から、無限に拡がるニーズごに対してもめげずに対応していらっしゃる姿勢に頭も下がる思いです。

ソロをしてくださったYumi姉のご奉仕にも聖名を崇めました。
魂の込められた声量に、ガンを克服しての、復活を想起させる霊感あふれるものでした。

ハレルヤ!
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カペナウムの戦略的位置付け

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聖書広場からの抜粋
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 主イエスは、働きの場として主にガリラヤ地方を選ばれた。
ユダヤ国家の宗教、伝統、学問の中心地としての南部にあるユダヤ地方に対して、北の中心地・ガリラヤ。そこは農業を始め商工業が発達した場所でもあった。
ガリラヤ湖の北西にあるカペナウムはその地方第一の町で、主の働きの根拠地となったところである。そこにペテロの実家があり、マタイは通行税を徴収する役人として働いていた。主ご自身も「自分の町」(マタイ9:1)と呼ぶほどに親しまれた。
ところで主の本来のホームタウン、あるいは出身地は同じガリラヤに位置するナザレである。

 洗礼を受けられ、悪魔の誘惑にも勝利された後、いまや本格的な宣教生涯をスタートさせる準備期間を終えた主は、ガリラヤヘ帰られた。そして時を移さずにナザレを訪れる。
そこでは人々が「この人は、ヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)と言って、イエスをメシアとして拒絶し、町の立っている丘のがけまで連れ出してはそこから突き落として殺害しようとする。イエスはホームタウンでは受け入れられなかった。
それがそもそもの預言者のたどる道である(ルカ4:24)と説明されるが、もうひとつの理由を付け加えたい。

 それは、その町が持っている地政学的力学である。
ナザレは山間の盆地に位置する小さな寒村である。わざわざそこを通るものはなく、外の空気に接することもない人々は自然とこれまでの伝統やしきたりを墨守する傾向が強まる。
エルサレムから派遣されてくる律法学者こそ、サンヘドリン(ユダヤ最高議会)お墨付きの権威としてその教えをありがたくも頂戴することの他、選択肢がない。

 一方、カペナウムは商工業で栄えている。ダマスカスとエジプトを結ぶ国際幹線道路がそこを貫いている交通の要衝地である。 多くの外国人、商人、旅人がそこを通い、異なる価値観も共存共栄している町であった。ローマ軍の百人隊長がユダヤ人のために会堂を寄進したのがその良い例(ルカ7:1~10)となる。自然、人々の気質は進取性に富むようになり、開放感あるものとなった。

 コチコチに固まったユダヤ教保守派のパリサイ人の教えを主イエスが論破したとき、そこの民衆はどちらに軍配を上げればよいかの判断力や洞察力を培養していた。
商業という、物事の価値を数値で測ることに慣れている乾いた思考方法に負うところが大きかったと言える。
カペナウムを震源として、主イエスの新しい神の国運動は全国的な広がりを見せるようになる。そこには主の戦略的な狙いがあったことは確かである。
 
ここで日本史と比較すれば、織田信長が建設した安土にセミナリオ(司祭養成のための初等教育機関)が置かれたのも戦略として頷ける。イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父は、信長に願い出てその建設を安土城のすぐそばの一等地に許可される。当時、楽市楽座政策により安土には全国から商人や職人が集まり活況を呈していた。
琵琶湖を渡れば京にも近く、交通の要衝地として見込んでの、天下統一を睨んだ信長の新しい城下町建設直後のことであった。

 さて、私たちの内なるものとは、どちらのタイプに属しているのだろうか。
私たちの心、感情、考え、意思などはどのような傾向性を持っているのか。ナザレ的であろうか、カペナウム的であろうか。
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聖霊が働かれるとき

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聖霊が働かれるとき
本日は韓国人の知人と会話する機会がありました。

彼の6週前に生まれた子が、ZOEと言うのだそうです。

「life」と言う意味ですね、と私が言い当てたことからギリシャ語を勉強したこと、神学校に行ったこと、現在も日本語教会の牧師をしていることなどを話す機会となりました。

以前からの私の想像通り、彼もクリスチャンでした。

そこでどうしてクリスチャンとなったのかを尋ねてみました。

それは15年前に米国にやってきてしばらく経ってからのことでした。
会衆わずか8人の小さな韓国教会でのこと。
集会前、彼はベンチに静かに座っていました。
すると、その静けさの中で神の迫りを体験するのです。

彼は鮮明にある光景をビジョンの中で見ます。
それは、母親が彼の1歳のとき心臓発作で倒れて他界したときのものだったそうです。母親は坂道を歩いて登っていました。しかし突然発作を起こし、道端に倒れ、誰にも助けを求めることもできないまま息を引き取ったのです。

そのとき、1歳の彼自身を残して逝かねばならない母親の無念さをリアルに彼が味わったと言うのです。母親の自分に対する強烈な愛。体験としては覚えていないはずですが、そのとき始めて強烈な愛の迫りを受けたのだそうです。それは神の愛でもありました。
それ以後、集会中も集会が終わったあとも約2時間ほど、彼はただ涙が出て、泣けて泣けて仕方がなかったと言うのです。

牧師が感動の説教をしたわけでもないのに。
誰一人として彼に神様の話をしたわけでもないのに。
賛美の中で誰かと感動を分け合っていたわけでもなのに。

もちろん、そこに至るまで彼は教会出席のうちから聖書の話を伺っていて、いわば神様についての基礎理解がありました。

しかし聖霊(神の霊)が働くとき、人の思いや計画を越えて働かれるものであることを知りました。
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誘惑にどうしたら勝てるのか

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マタイ4章1~11節「主イエスの誘惑」 
マタイ福音書連続講解説教⑨からの抜粋

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 Ⅰ.誘惑の正体を知る

 誘惑と試練とは、コインの裏表である。
「誘惑」に対する聖書原文のギリシャ語は「ペイラスモス」であるが、これは「試練」とも訳せる二つの概念が同居している言葉である。

「誘惑」は悪魔がもたらすも(ヤコブ1:13~15)で、ここで主イエスを誘惑している者は悪魔(サタン)という人格を持った実存のモノだ。一方、その困難な状況は神がお許しになされた「試練」(ヤコブ1:2~4、12)という見方ができる。主イエスは「御霊に導かれて荒野に上り」、そこが誘惑の場所とあった。

 大震災と言う悲劇に直面して、二つの見方がありそこから二つの結果が表れた。神が愛ならどうしてこんなことが起ったのか、と不信と憎悪を掻き立てられた人々がいる一方で、与えられた命と残されている家族の尊さにあらためて気づき神の恵みを知った人々。同じ一つの出来事は、神から私たちを引き離す誘惑とも成るし、同時に神に近づく試練とも成り得るものなのだ。

 Ⅱ.誘惑の連帯性を知る

 ここで主は3度の誘惑に会っておられるが、その3種類のものは私たちすべての人間が遭遇する種類のものであり、またこの3種類以外に受ける誘惑はない。

最初の人間、アダム&エバもこの3つの誘惑に陥り罪に落ちてしまった。
「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」(創世記3:6)木の実をサタンにそそのかされて食べてしまった。彼らが堕罪したがゆえにその罪が世界と私たちの中にも侵入してきて(原罪)、私たちは欲と罪、誘惑には勝てない者と堕落した。
世にある欲とは「肉体の欲、眼の欲、勢いより起る高ぶり」(Ⅰヨハネ2:16・元訳)の3つであると教えれているが、その欲に対して無力なのは、アダムの失敗がその子孫である私たち人間全体に連帯されているからなのだ。

そこで第二のアダムである主イエスが新しい人間の代表選手となって誘惑に勝利してくださるところに、望みがある。アダムとの連帯性ゆえに連戦連敗だった私たちに、主イエスと連帯すること(信仰による一体化)で勝利への予感がもたらされた。

Ⅲ.誘惑の勝利者があなたの側に立つ

 主は、3回の誘惑とも「~と書いてある」と旧約聖書の言葉を引用されて誘惑を撃退された。神の言葉は生きていて人を変える力がある。私達も聖句を暗唱するほどに親しむことで必要なときに聖句を思い出し、その力を引き出すのだ。

2回目のときには悪魔も聖句を引用したが、それは自己流の間違った解釈によるもの。聖書を正しく理解・解釈するために学び続けなくてはならない理由がここにある。
 
 本日午後に、双子の姪の誕生パーティがあって義弟の新居に行ってきた。
そこはシアトルから遠い郊外にあり、数エーカーの広い敷地を持つ。
先日、裏庭に野生の母ウサギと5羽の子ウサギが散歩しているのを4歳になる姪たちが窓越しに見ていたが、そこへ無情にも鷲が飛来して来て、子供の1羽をまさに鷲づかみにして飛んで行ってしまったという。姪たちにはトラウマとなった悲劇であった。その時、もしウサギ達の側に弟が羊飼いが使うような丈夫な杖を持って守っていたらどうであろう。さすがの鷲も簡単には近づけないはずだ。

 私たちは、一人孤独に誘惑に立ち向かうのではない。
勝利者(黙示録5:5)なる主イエスが私の側に、あなたの側にいてくださり、この方が戦ってくださることを知ろうではないか。

「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:18)
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宗教は人を束縛するものか、自由を与えるものか

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宗教は人を束縛するものか、自由...
マタイ3章13~17節「主イエスの洗礼」 
マタイ福音書連続講解説教⑧からの抜粋

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主が洗礼を受けられて水から上がられたとき、天から声があった。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3章17節)

父なる神がいわば主イエスのミニストリー着手を認められた宣言となり、福音書には他にも2回、それぞれ異なる機会に同様な天からの声が記録されてある。

この声は、主イエスに大切な二つの自己認識を与えた。

1) 王としての立場。
  前半の「わたしの愛する子」は詩篇2篇7節からの引用で、そこの文脈では王としてのメシア預言がなされている箇所。イエスは、やがて全世界を治める平和の王として来臨する確信を深めた。

2) 僕としての立場。
  後半の「わたしはこれを喜ぶ」はイザヤ書42章1節からの引用で、そこの文脈では僕としてのメシア預言がなされている箇所。この言葉により、人に仕えられた後に命をささげる従順な僕として世に来られたとの確信を抱いた。
 
 この主イエスが理解され受け入れられた立場は、主イエスのバプテスマを受け、主と一体化する私たち信者にも演繹される。そう、私達も王として、また僕としてこの世に派遣されている者たちなのだ。
 
 先日オリンピア半島にキャンプしたとき、我が子たちはテント設営場所にあった大木の枝からぶら下がるブランコに夢中となった。私が車からの荷物搬入を手伝うよう命じるまで、わき目も振らずに遊んでいる。
彼らは仕事はしたくない。ただ遊んでいたいだけだ。それでも良い。それも許される立場にある。なぜなら彼らは私たちからして生徒でもなく、従業員や兵隊でもなく、我が子であるのだから。オーナーの子供であるなら、王のように振舞うことも許される。

だが親としては、彼らに喜びを経験させたい。それは好き勝手に遊んでいることからは生まれて来ない。プロジェクトに共同参与して、それを達成することから得られる自信や誇りを経験してほしいのだ。それゆえ荷物の運搬から始まり、テント設営、夕食準備など諸々の仕事に協力してもらうことになる。

彼らはしぶしぶブランコから降りて、僕としての働きをはじめることになる。やがてキャンプファイヤーに火がともり、その隣のテーブルには夕食がセットされ、組み上げられたテントの内部には4人分の寝床が整えられたのを見て満足する。家族としての共同作業が、自分たちの野外での一夜の生活を支えたことを身を持って体験したのだ。
 
 私たち主に購われた者は神の家族に加えられ、キリストとの共同相続人であり、つまり「王」としての立場を持つものである。ゆえにどんな種類のミニストリー(働き)であれ拒む自由がある。同時に参与する自由もある。「僕」として働きに専念するなら、やがて完成したその働きを見て、主とともに喜ぶ者とされるのだ。
 
 王である私たちは、僕としての働きに召されていることを覚えようではないか。それが主イエスの辿られた道であった。

 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」(ピリピ2章6~9節)
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これでほぼ完成、ホサナ教会のウエブサイト

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本日もPSPに午後からお邪魔しました。
先日からお世話になっているYさんをはじめ、メンテナンスのDさん、インターンのMさんらのご協力を得てWEB作成作業が進められていきます。

これでその件でPSPに伺ったのが4回目になります。
サブページを組み入れたり、それがうまく機能しないのでほかのページを作成したり、二転三転しながらそれでも少しずつ前進。これを一人でするのは到底不可能です。オフィスの終了時間までお相手してくださった皆様、ありがとうございました。(少々粘りすぎましたか?)

それにしてもこのように手取り足取り指導してくださる日本のIT企業があるなんて、とてもありがたいです。ITという海のように広がっている未知の分野を道案内してくださる力強い味方!

それは聖書という奥の深い世界を日本語で丁寧に解説し、神の国へと道案内をしている当ホサナ教会みたいです!
(かなり自己宣伝となりました)

帰宅後も、一人で2時間ほど取り組んでようやく完成。

まだ写真を始め内容を仕入れなくてはならないページがあるのですが、それはおいおい進めるとして、何とか人様に見ていただけるものが完成です。

神様、ありがとうございます。
PSP様、ありがとうございます。

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