セントルイスにあるベイデン教会の5人組が
この日、日本へ出立する。
昨年、ドン・シャープ牧師が急に天に召された。
奥様とご長男ご夫妻、そして義理の娘さんご夫妻のご一行は3週間ほどの滞在。
チャーチオブゴッドの4つの教会を訪問しながら交流を深め
これまで60年以上に渡る日米教会交流の絆を確認し、神に感謝するとき。
その間、若き4人は富士山登頂を計画しているという。
山開きの翌日の7月2日に登頂を目指して川崎からアタックするらしい。
先回の富士山アタックでは道に迷い、登頂は失敗した。
全行程の安全と守り、交流の祝福をお祈りしています。
アンジェロス主教
21人の殉教者を描いたイコン(聖像)。コプト教徒のトニー・レズクさんが描いた。コプト正教会の米ロサンゼルス教区もウェブサイトでこのイコンを掲載している。
コプト教会の代表がイスラム国に虐殺された21人のコプト教徒について声明。
クリスチャニティトディは以下のように報じている。
「英国のコプト正教会主教が、過激派組織「イスラム国」(IS)が、21人のエジプト人キリスト教徒を斬首した動画を公開したことを受け、ISの戦闘員のために祈り、赦さなければならないと語った。
「私はキリスト教徒として、このことが私たちの義務で、なすべきことだと考えています。それほど難しいことではないと捉えています」と、アンジェロス主教は述べた。
「もちろん、私たちがなってほしいのと反対に物事が動くこともあります。しかし、キリスト教徒として、私たちは赦さなければなりません。私は、圧政下にある人々の権利を守るよう働き続けますし、自分で発言することのできない人々のために立ち上がります。しかし、それが私たちに対する犯罪という結果に至ってしまったときは、前進する道はただ一つ、赦すことです。もし私たちが赦さないなら、何を持っているのでしょうか。報復、憤り、怒り。そして、解決や終結を見ることはありません」
(引用はここまで)
IS戦闘員らに対して祈り、
赦さねばならないという……
確かに主イエスはそのように命じられた。
「自分の敵を愛し、
迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)
一方で自国民が犠牲となった報復として
エジプトやヨルダンでは即刻の空爆を行い、数多くの犠牲者を出した。
どちらの判断が正しく、
どちらの行為が英雄的で、
どちらの考えが理性的で近代的(進歩的)なのだろうか?
後日、この21人は聖人として列聖されたとの知らせがありました。
約半年前ぶりにお会いしたYさん。
すっかりお母様になっておられた。
長男の坊やにお会いする特権も。
まだ半年だというのにハイハイも得意で、頑丈な体つき。
この日まで赤ちゃんがいたなんて知らなかった…
待てよ…
赤ちゃんが半年だとすると、半年前のYさんは出産直後だったというわけか?
お腹に赤ちゃんがいたようには見えなかったので、、
兎にも角にも、
赤ちゃんとの新生活を今後も楽しんでくださいませ。
サラダと味噌汁、それにデザートのあずきアイスクリームが付いて$13は安過ぎるでしょう! こんなにお得で良いのかな?
1981年、大島での高校生キャンプの同窓会です。
Fort Lee へ行ってきた。
宿舎のあるロングアイランドからマンハッタンを抜け、
ハドソン川をワシントン橋で渡るとそこにある街がFort Lee。
3つの地下鉄(F、M、A)とワシントン橋を通るバスを乗り継いで1時間ほどの距離。
この街にいる友人は、皆日本人ばかりである。
特に見逃せないのが小川さん。
ランチに必ず立ち寄ることにしているYamagataのオーナーシェフである。
この日もその日の日替わりランチをご馳走となったが、どれも実に美味い。
味噌汁を一口味わっただけで感動の世界が広がった(^O^)
小川さんには「あと少なくとも、20年は続けてください」と懇願。
「いやあ、もう疲れてきてねェ」と独特のしわがれ声で応答してくださった。
故郷の山形県酒田へ、時には温泉療養などされれば良いのに。
数日前の「屋根の上のヴァイオリン弾き」最終公演の直後
昨年旅行したグランドキャニオン
こよなく晴れたこの日、家内と子供達はDiscovery Parkにあるビーチへ。
20分もドライブすれば見晴らしの良い、
広大なピュージェトサウンドの入江が見渡せる。
それは海と岩地の違いこそあれ、
有名なグランドキャニオンと比べて決して引けを取らない大自然のシンホニー。
昨年の春休みには初めてグランドキャニオンへ家族旅行した。
今年は自宅から通える範囲の小旅行。
食事も休憩も、それにTVなどのアクセスにも
自宅で思いのままできてとても便利!!
この日のビーチへ私も同行しようかと最後まで迷ったが、仕事を選んだ。
「出かける所があるから」と言ったのち、自宅でのデスクワークを始める。
ランチを済ませてさあ出勤だ、として時計の針が午後2時を回った時だった。
ビーチから彼らが帰って来た。
「まだ家にいたの〜」
「一緒に来れたのに〜」
思いのままにスケジュールが管理できる自宅ヴァケイションはやはりいい(^O^)
テルアビブ
聖書は、人が死んだとしてもその存在が無くなってしまうことはない、
と教えている。
それが「不滅」である。
先回は、8箇所の聖書箇所を取り上げてその論拠とした。
今回が最後であるが、
8箇所の聖句を取り上げて論証してみよう。
⑨永遠を思う心が人には存在する
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠を与えられた。
しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。 (伝道3:11)
10. サウルの前に現れたサムエル
「サウルは、変装して身なりを変え、ふたりの部下を連れて、
夜、その女のところに行き、そして言った。
「霊媒によって、私のために占い、私の名ざす人を呼び出してもらいたい。」
すると、この女は彼に言った。
「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち滅ぼされたことをご存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちにわなをかけて、私を殺そうとするのですか。」
(Ⅰサムエル28:8-9)
11. 神は生ける者の神である
「しかし、イエスは彼らに答えて言われた。
「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、
あなたがたは読んだことがないのですか。
『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」 (マタイ22:29-32)
12. 人は死んでも生きる
「イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
このことを信じますか。」
(ヨハネ11:25-26)
13. 将来の栄光に変えられる約束がある
「今の時のいろいろの苦しみは、
将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、
取るに足りないものと私は考えます。
(ローマ8:18)
14. 将来の命の約束がある
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、
私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 (1コリント15:19)
15. 霊魂が新しくされる
「ですから、私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、
重い永遠の栄光をもたらすからです (Ⅱコリント4:16-18)
16. 不死は福音によって明らかとなった
「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
(Ⅱテモテ1:10)
17. 死後の将来には報酬や裁きがある
「それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、
もしもツロとシドンで行われたのだったら、
彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、
さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。
ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、
もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、
さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
(マタイ11:20-24)
ローマ2:5-11
Ⅱテモテ4:7-8
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さて、モーセ律法の目的を論ずるにあたり、
議論の前提となるところを先ず確認する所から始めよう。
「モーセ律法は、ユダヤ人に与えられた法体系である。」
この聖書の原則を理解しただけで今日の多くの混乱が解決できるはずだ。
聖日が日曜日なのか土曜日なのかという議論、
日曜日にどこまで仕事が許されるのかという議論に終止符が打たれるはずだ。
なぜならモーセ律法とはそもそも異邦人に与えられたものでも、
教会に与えられたものでもなく、
ユダヤ人のみを対象に与えられた戒めであるからだ。
聖書の3つの箇所からそのことが明らかとなる。
①申命記4:5-8
「見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、
おきてと定めとをあなたがたに教えた。
あなたがたが、入って行って、所有しようとしているその地の真ん中で、
そのように行うためである。
これを守り行いなさい。
そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、
これらすべてのおきてを聞く彼らは、
「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」
と言うであろう。
まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、
いつも、近くにおられる。
このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。
また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、
このみおしえのすべてのように、
正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。」
律法を持っている「偉大な国民」とは一つしかないことが分かる。
全民族の中でイスラエルのみである。
②詩篇147:19-20
「 主はヤコブには、みことばを、
イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。
主は、どんな国々にも、 このようには、なさらなかった。
さばきについて彼らは知っていない。
ハレルヤ。」
モーセ律法とそれによる神の啓示の
イスラエルに対する専有性が教えられている。
③ミカ4:4
「あなたがたは、 わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。
それは、ホレブで、イスラエル全体のために、
わたしが彼に命じたおきてと定めである 。」
モーセ律法はホレブにてイスラエルに与えられた。
それを記憶せよとの進めもまたイスラエル人に対するものである。
「永遠の命を得るには①~人の功績か?」
マタイ19章13~ 22節
~マタイ福音書連続講解説教51~
聖書本文とメッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/911250
財産家(22)であり、役人(ルカ18:18)でもあった青年が主の下に来て尋ねた。
「永遠のいのちを得るためには、どんな良い事をしたらよいのでしょうか」
彼は、真面目な求道者でもあることがこの質問から知ることができる。
パリサイ神学では、ユダヤ人として生まれた選民であるなら
永遠の命は保証されていると教えていた。
彼はその教理に飽き足らず、
救いの確信を探していたのだ。
しかし、彼の思考の根底には
パリサイ神学が岩盤のようにどっしりと据えられていたことも、
「良いことをする」ことが命を得る=天国行きを保証する
という問いから窺える。
❶「良いことをする」事でなく、メシア信仰による
主は、良い行いによる救いでなく、
信仰による救いをここで彼にチャレンジされている。
マルコの並行記事では、
青年は主を「尊い先生」(マルコ10:17)と呼びかけている。
「尊い」とは「良いこと、良い方」(16,17節)と同じで、
アガソス(ギリシア語)である。
この語句は、ユダヤでは神のみしか用いられなかった。
人を形容する場合のそれは、カロスであった。
マルコの記事では、
なぜ私を「尊い」とするのか。
神のみが尊い方である(マルコ10:18)と、
主は尋ねられている。
ここは誤解を生み易い箇所である。
主の意図を理解した上で解釈する必要がある。
ここでは、
「あなたはわたしをメシア(神)であると信じるのか」と
彼に問うているのである。
ご自身が神ではない、と言っているのではなく、
メシア信仰へのチャレンジである。
17節にある質問と答えとの間には、沈黙の数秒間があった。
青年は、主への信仰告白が出来ずに沈黙してしまったのである。
ゆえに、主は「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」と、
彼の無言の返答に代わる言葉を続けられたのである。
❷モーセの十戒の役割
ここで主は、
青年の立つパリサイ神学という土俵へと降りておらるのを見逃してはならない。
「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」
ーこの言葉だけを取り上げて短絡的な結論を出すなら、
文脈を無視していることになる。
実にここは、
カトリック教会による功績による
救いの教理の根拠として用いられた聖句なのである。
ところが実際のところ、主はそれとは正反対のことを教えようとされているのだ。
「どの戒めか」と問う青年に、モーセの十戒を示された主。
「そんなことなら分かっているんだ、小さい時から守ってきた。
もっと斬新的な戒めを教えてくれよ」
そう彼は催促する。
分かったつもりになっている彼に、
主は彼の置かれている状況に即した実際的適応をして見せられた。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛する」とは、一体どういうことか?
その適用例を聞いて青年は身がすくむような、
奈落の底を見せられた思い。
正しく律法を学び、それを自分自身に適用しようと努力するなら、
彼ならずとも私たちは、たちどころに不適格者であることが露呈される。
律法は、それを遵守することで救いに誰一人至らないことを教える役目がある。
「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。
私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)
❸完全になりたいのなら
「完全になりたいのなら」=「欠けたことが一つあります」(マルコ)とは、
「あなたの律法主義生き方を完全にしたいのなら」という意味。
青年の土俵に降りて来られた文脈の中での言葉であることに注意。
ここでも良い行いが完全をもたらすと教えているものではない。
21 イエスは彼に言われた。
「もし、あなたが完全になりたいなら、
帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
そのうえで、わたしについて来なさい。」
22 ところが、青年はこのことばを聞くと、
悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
(21~22節)
この聖句も多くの場合曲解されて来た。
一段上の完成された霊的エリートになるためには、
無一文となって修道院生活に入るようにと教えている、といった具合に。
主は彼に律法の具体的適用例を教えておられるに過ぎない。
彼は律法を実行できないジレンマに直面させられた。
彼自身のパリサイ神学の結果として、命が得られない結論に到達したのだ。
彼は「悲しんで去って行った」~永遠の命をあきらめざるを得なかったのだ。
富を選ぶか、神を選ぶかの選択を迫られた瞬間であったとも言えよう。
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