イスラエルでの朝食はオリーブとチーズ、野菜がふんだんに使われている
「来年はエルサレムで」
山形県大江町キリスト教会での日曜礼拝・説教要旨です。
Ⅰコリント1章4~9節
「私たちの主イエスキリストとの交わり」
私たちキリスト者とは、
「主キリストとの交わり」に入れらたものであるというのが、
聖書の教えるクリスチャンポジションである。
その「交わり」についてはベクトル表示を例にすると分かりやすいかもしれない。
❶ベクトルの始点~交わりの発端:「そのお方の召しによって」(9節)
私たちは誰一人として自分で選んでクリスチャンになれたものはいない。
主が私を貴方を選び、声をかけ、招いて下さったのだ。
それは自らにふさわしい功績などがあったわけではなく、
それらすべてに先行する神から「与えられた恵み」(4節)ゆえに実現したものなのである。
その恵みについては多くの場合、
感知できないほど私どもの神経はマヒし、
感知できる感受性を見失ってはいないだろうか。
こうして生きていること自体が、生かされている恵みである。
❷ベクトルの長さ~交わりの豊かさ:「神の御子・主イエスキリスト」(9節)
パウロはその与えられた恵み故に神に感謝していると言うが、
なぜなら
⑴その豊かさゆえに(5節)
~「ことばと知識」において豊かなものとされたという
私たちはどれほどその豊かさを体験し、
味わっているだろうか。
それは聖書にどれだけ親しみ、
その教えに精通し、
そのみことばを通じて
真の知識であるキリストを経験していることにつながっている。
コロサイ2:3.
⑵その確かさのゆえに(6節)
~コリント人のキリストにあるあかしが確かになったという
その確かさのゆえに聖書を雄弁に説く教師らが活躍した。
パウロやアポロがその例。
彼らはコリント人の成長、信仰の確立のために用いられ、
水や種を蒔いた役割を担ったに過ぎず、
成長させたのは神」(3:7)であることを忘れてはならない
❸ベクトルの終点~交わりの完成:「神は真実であり」
主との交わりが豊かにされ、確立されていくとき
その「結果」(7)はどうなるのであろうか。
1⃣「どんな賜物にも欠けることがなく」
それは個人でなく、教会に賜物が欠けることがなくなるという意味。
信者がそれぞれ与えられている賜物を教会建設のために発揮するようになること。
コリントの教会には賜物を誇る輩がいたようであるが、
本来の目的はキリストの体の建て上げのために
神から信者にギフトとして与えられたものである。
Ⅰコリント12章
2⃣「熱心に私たちの主イエスの現れを待っている」
主イエスの再臨の待望する姿勢が
「ことばと知識」に精通し、成熟したキリスト者の姿であると教える。
歴史に介入される神、
その体系を理解してい行くときに
個人の信仰生活が
神の世界における救済事業とリンクされ
自らがその救済史において位置づけられる。
その時各人は、
神の恵みによって始まったキリストとの交わりは、
同じ恵みによって完成させられることを納得するに違いない。
神はキリストの血潮によって
私たちと永久の血の契約(新約)を結んでくださった。
「主も、あなたがたを、私たちの主イエスキリストの日に
責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます」(8節)
死海に登る朝日
地中海を臨んで
「マタイ福音書は御国の書」
マタイ福音書・総集編⑵
~マタイ福音書連続講解説教 109~
メッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/2015-06-30
マタイの福音書は
「御国の書」としての特徴が顕著である。
① 御国について
マタイでは「天の御国」と記されている~ユダヤ人対象に書かれた福音書ゆえ
他の福音書では「神の国」である; 両者は全く同じ概念
基本的な概念は「王による統治」。統治者は神であり不変であるが、統治形態、統治の対象者、統治の結果については5つの異なる形態がある
② 御国とたとえ話
全福音書にたとえ話は29回。直接「御国」に関しては17回、間接的には6回のたとえ話がある。
その大多数はマタイにあり、マタイ独自のたとえ話が10もある。
神の国の5つの異なる側面
聖書に「神の御国」と呼ばれるものは常に同一のものではない。
5つの異なる「神の御国」があり、
文脈からどの「神の国」が言及されているかを見極めなくてはならない。
1) 宇宙的・永遠の御国
神が森羅万物の創造者にして、供給者あり、支配者である側面
全宇宙が、そしてあらゆる時代がすでに神の国であるといえる
詩篇 10:16、145:1-21、使徒 17:24
2) 霊的な御国
聖霊によって新しく生まれた者たちの心に存在する
アダムから現在まで、信仰によって義とされたものたちがその住人
マタイ 6:33、19:16、ヨハネ 3:3-5、使徒 8:12
「教会時代」とは使徒 2 章から今後の携挙までのことをいうが、
この御国はさらに広い時代をカバーしている
この御国はアダムから永遠の先までの信者をメンバーとする
3) 神政政治による御国
神政政治国家(イスラエル)を通じての神の間接統治
モーセによって始めて樹立された
律法が与えられて神政国家の土台が敷かれる
モーセからサムエルまでは、神の召命による仲介者による直接統治
君主制による世襲統治~サウルからダビデ、デゼキア王による間接統治
出エジプト 19 章~Ⅱ歴代 36 章までがこの御国時代
神政時代後半は衰退期。預言者による新しい御国形体の預言が、
この衰退期に活発となる。それが、将来に実現されるメシアの御国である。
4) メシアの御国(千年王国)
統治者か、統治年数に注目するかで呼び名が変わる。メシアによる直接統治
エルサレムでダビデの座についての文字通りの地上統治
これはダビデ契約の成就~とこしえの家、王国、王座、子孫を与えるとの約束 。Ⅰ歴代 17:11~15
OT のほとんどの御国預言はこの側面である
B.ヨハネと主イエスが「近づいた」と伝えた御国
当時のユダヤ世代からは取り去られたが、将来のユダヤ世代(艱難期)に再び 提供されるもの
「神の国の実を結ぶ国民」(マタイ 21:43)とは将来のユダヤ民族のことである。 「国民」を「異邦人」(口語訳)と訳すのは置換神学の史観である
人間的な視点からは神の国は延期された。神の視点からは想定内のことであった ~異邦人に伝道が進むことによる成就(イザヤ 49:1~3)
5) 奥義としての御国
12 章でのメシア拒絶があって、変動された神の国プログラム。それは奥義。
「旧約聖書では啓示されず、新約時代になって初めて明らかにされた真理」
「先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたので す。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかる
はずです。この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に 知らされていませんでした。 (エペソ 3:3-5 )
OT ではこの側面は全く言及されていない
この御国の期間は、メシアの初臨から再臨までの間である
さらに厳密には、ユダヤ人のメシア拒絶(12 章)から、将来の艱難期のメシ ア受容までの間である
「キリスト教界」"Christendom” が最もふさわしい用語であろう
王は天におられて、地上には不在な状態の御国である
13 章の 8 つのたとえ話は、現在進行中の地上にあるこの「奥義としての御国」の様子を描写したものである。
「奥義としての王国」を解説するたとえ話:マタイ13章
神政政治としての御国がバビロン捕囚で潰えたとき、
預言者たちは頻繁にメシア的王国としての御国について預言するようになった。
神の統治がイスラエルを通じて実現させるという試みは頓挫したかに見えた。
イスラエルにおける理想的な神の統治を規範として、
世界に神の栄光を届ける計画は失敗した。
しかし神の計画自体は失敗に終わることはなく、
やがてメシアが地上に来臨してエルサレムに王座を確立し、
全世界を平和に統治する時が来ると預言した。
それがメシア的王国と言われるものであり、
黙示録に至っては千年間続くことが啓示されることから「千年王国」とも呼ばれている。
イエスがメシアとして来臨された時、
ユダヤ人らは拒否した。
そこでメシア的王国はその当時は実現されず、
その成就は将来に延期されることになった。すでに2千年間が経過している。
そのメシア的王国に代わって登場する王国が
「奥義としての王国」である。
期間としてはほぼ教会時代と一致している。
その奥義として御国がどのような時代環境となるかを
イエスご自身がたとえで預言・説明した箇所がマタイ13章である。
1) 第1ののたとえ(18~23 節) ~4つの土壌:4種類の心
2) 第2のたとえ(24~30)~毒麦のたとえ:不信者の教会への混入
3) 第3のたとえ(マルコ 4:26~29)~種の成長:福音には命が内蔵している
4) 第4のたとえ(31~32)~種のサイズ:からし種。始まりの小ささ
5) 第5のたとえ(33~43)~パン種:異端的様子の混入
6) 第6のたとえ(44)~畑に隠された宝:メシアニックジュー
7) 第7のたとえ(45~46)~良い真珠:異邦人クリスチャン
8) 第8のたとえ(47~50)~地引網:千年王国直前のメシアの裁きの座
9) 第9のたとえ(51~52)~蔵から新しいものでも、古物を取り出せる主人:成熟した弟子
世界に対する神の救済事業は
現在も「奥義としての王国」として進行中である。
その救済事業は「千年王国」において完結する。
マタイ13章のたとえ話は、その「奥義としての王国」の性格と進展状況
、最終到達点を教えるものである。
「マタイ福音書は教えの書」
マタイ福音書・総集編⑴
~マタイ福音書連続講解説教 108~
メッセージノートはこちらから
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/2015-06-26
マタイは、カペナウムにて
通行税を徴収する取税人であった(マタイ9:9)。
よって編集・記述能力に長けた官吏であり、
彼の書いた福音書は題目的記事の展開でとなり、
時間順に書かれたものではない。
マタイ福音書がNTの最初の書であるという位置は、
OTとの関連性を想起させる。
実にマタイ福音書の内容が、
両者の橋渡しの役割を果たしているのである。
本書には、65回もOTからの引用がある。
「成就するためであった」という用語は13回も出ている。
他の福音書と比べて突出していて、
主イエスがOT預言の成就として来られたという点が、マタイの中心主題である。
OTからの聖句をNT記者が引用する際には、4種類の類型がある。
これはユダヤ教教師のラビが文献を引用する際の典型的な用法であるが、
現代のそれとは大きく異なるものである。
現代私たちが文献を引用する際には、
省略や統合などの編集は認められないのが常識となっている。
聖書をそのつもりでみる限り
「OT聖句がNTに引用される際には正確さに欠けている」という壁に突き当たる。
聖書が書かれた際の文法や様式、文学形態を理解し、
それに沿った解釈をしなくては本意を見逃してしまう罠がここにある。
そのOT引用例の4種類の類型の全てがマタイ2章に出現している。
OT引用の4類型:マタイ2章から
1) 字義通り型:(5~6節)
OT記述とこれを引用しているNT文書はほぼ同一である
ほとんどの引用はこの類型
私たちの現在の常識と合致する
2) タイプとしての成就(15 節)
ホセア11:1は、預言ではなく出エジプトの歴史的出来事を回顧している
神の子・イスラエルが、神のひとり子のイエスのタイプとして引用され、
双方ともに出エジプトを果たした点が共通項である
クリスチャンも神の子とされたものである。
同様にサタンからの攻撃と神の守りを経験する
「タイプ成就」の例
•イザヤ29:13 ~ マタイ15:7~9
•イザヤ6:10 ~ ヨハネ12:39~40
•詩篇118:22~23 ~ マタイ21:42
3) 適用としての成就(17~18節)
エレミヤ31:15、近未来に起こるバビロン捕囚が背景となっている
捕囚に引かれてゆく男子はラマに集合させられ
母親たちが我が子と涙の別れをするとの預言
ラケルはイスラエルの母の代表
「ラケルがその子ら(捕囚民)のために泣いている」とエレミヤは描写
字義とおりでもなく、フルスケイルのタイプとしてではなく、
たった一つの類似点を取り上 げて、その部分をのみ適用したものである
•母親が失った子供たちのために泣いている、という点
•それ以外のどの点にも引用文からの類似点は見出せない
「適用タイプ」の例: ヨエル2:28~32と使徒2:16~21
•「字義とおりの預言成就」と解釈することから起こる混乱と挫折があった。
全ての人の預言者的活動や天変地異は今も成就されていない。
•類似点はたった一つ、それは「聖霊の激しい傾注があった」点のみ。
4) まとめとしての成就(23節)
OT のどこの箇所にも引用元は見出されない。
「ナザレ」という言葉さえOTに言及なし
「預言者たち」複数形であることに注目 :4つの類型でこのタイプのみ
これは OT の預言書群がメシアについて教えていることの
総体でありまとめである
「ナザレ」とは、「さげすまれ、軽蔑され、拒絶されたもの」の呼称
~ヨハネ1:45~46
これはメシアの地上生涯の性格をまとめたものである~イザヤ 53 章
「まとめ成就」の例
•メシアご自身のことばから~ルカ18:31~33、マタイ26:54~56
•これらのことばのどれにも OT からの引用元は見出せないが、
総合するとメシアの受難と拒絶 を教えていることになる
~イザヤ 53 章の成就
*聖書はユダヤ的な読み物なので、その視点から読まない限り正しく解釈・理解することは不可能である
イスラエルにある城壁を洗う地中海の荒波
「メシアの宣教大命令」
マタイ28章16~20節
~マタイ福音書連続講解説教 107~
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/81620107
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいた全てのことを守るように、
彼らを教えなさい。」
マタイ福音書に記されてある最後の主イエスのことばです。
復活前までの主イエスの宣教地域はイスラエル国内に限られていたものでした。
ここでは「全世界」が宣教対象となっています。
この違いを見抜くためには、
新しい時代が到来(ディスペンセイション)
したことを理解しなくてはなりません。
①モーセ律法の時代は神の直接啓示(神の顕現やみことばの付与)が
イスラエルのみに与えられていた
弟子たちを派遣するときは、イスラエル国内での宣教命令。
「イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい」マタイ10:5~8
その際の「天の国」(7)とは
メシア的王国のことである。
メシアは先ず、イスラエルの救いのために遣わされた。
「イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません」
マタイ15:21~24
②メシアの十字架、復活、聖霊降臨により新しい時代が到来した
新しい契約が締結された故に、神が人を統治される原則が変化した
福音宣教=神の国の到来宣の対象が、異邦人にも拡大した。
「全世界に出て行って」
ただし、聖霊降臨までの50日間、エルサレムにとどまる必要があった。
新しい契約は使徒2章にある聖霊降臨によって完結するためである。
次に、
この宣教大命令と言われているみことばに焦点を当てて見ましょう。
まず、文書の構造からわかることは、
この大命令にある動詞は一つだけである。~「弟子としなさい」
他の動詞は現在分詞形であり、弟子づくりのための方法を示している
この文法構造から
キリスト教会の最終的な目標がどこにあるかが見えてきます。
ある教会は国外宣教を優先し、
または洗礼者が起こされ、集会出席人数に重きを置きます。
また教育事業にかかわっている教会や団体があります。
これらは大切なキリスト教事業には相違ないですが、
それら一つ一つは目標に至る手段であって、
キリストの弟子作りのための前段階であることを
確認しなくてはなりません。
1) 「行って」
全世界を対象にした伝道のこと
行くためには遣わされなくてはならない:教会が宣教師を派遣する使命がある
2) 「バプテスマを授け」
父、御子、聖霊の三位一体の神秘が教えられている
「御名」は単数形
「よって」into:三位の神との一体を示す
救いを得たのちに、救いのしるしとしてのバプテスマを教えるものであり、
初代教会において両者は不可分の関係であった
3) 「教えなさい」
「命じておいた全てのことを」=NY、さらにOTのことであるといえる。
霊感による記述されたゆえに、神(メシア)の教えがもれなく、
誤りなく伝えられている。ヨハネ14:26
「全てここと」を網羅するために教育の使命がある
「守るように」:信仰と行為との連続性・関連性
「神を愛するとは、神の命令を守ること」 Ⅰヨハネ5:3
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」
ヨハネ14:21
聖書の教えに反している行動や生活習慣の中にあって
「クリスチャンです」との告白はあり得ない。
ここで霊的指導者が
気を付けなくてはならない罠があります。
「弟子を作る」とは、イエス様の弟子を作ることであって
自分自身の弟子を作ることではないということです。
その罠に陥るとき、教会がカルト化してしまいます。
現在のエルサレムの城壁
死海
「メシアの復活」
マタイ28章1~10節
~マタイ福音書連続講解説教 105~
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
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イエス様が復活されました。
明け方早い時間に地震が起こり、墓石が転がされ、入り口が開きました。
天使たちが現れて、ローマの番兵たちはあまりの恐怖に腰を抜かし、
死人のようになって硬直したと記録されています。
❶ 4福音記事の調和について
4つの福音書にある復活物語を比べると、
一見して矛盾しているような場面があります。
朝早く墓に訪れに行ったのは、
マタイ28:1では、二人のマリヤの名が記されています。
マルコ16:1では、その二人にサロメ(ヨハネとヤコブの母親)が加わり、
ルカ24:10では、サロメがいない代わりにヨハンナの名前があります。
ヨハネ20:1では、マグダラのマリヤだけが墓に行ったことになっています。
聖書の霊感(神の霊によって書かれ、それゆえ誤りははい)を信じない人たちは、
これらの相違が矛盾であると指摘して、霊感を否定するのです。
それは「編集者の自由裁量の原則」
を見逃している短絡的な見解です。
福音書記者たちは、
それぞれの視点からそれぞれの印象に残ったことを選択しているのです。
そこには編集上の省略や総合的な記述など、
各人に任された記述手法があります。
4つの福音書を突き合わせてみると、
次のような順序で復活したイエスが女性たちにお会いしているのが分かります。
⊛先ず、マグダラのマリヤだけが一人で墓に向かっている
⊛墓石が動いているのを見て、弟子たちのところに走って戻って報告した
⊛ヨハネとペテロが確かめに墓まで走っている
⊛後から再び訪れたマグダラのマリヤは諦めきれずに墓の入り口で泣いている と、二人のみ使いに出会う。
⊛続いてイエスに出会う。その時はイエスにすがりつくことは許されていない。
ヨハネ20:17
⊛そのあとで、ほかのマリヤ、サロメ、ヨハンナの3人の女性たちが墓を訪れている。
⊛そこでみ使いとイエスに同様にして合っている。
⊛その時は彼女たちはイエスの足を抱き、礼拝をささげている。マタイ28:9
❷ 大祭司としてのイエス
初めに会ったマグダラのマリヤはイエスの体に触ることが許されなかったのに、
その後にお会いした他の女性たちに許されているのはどうしてでしょうか。
その時間に何があったと考えられるでしょうか。
レビ記の16章には、大祭司が贖罪の日(ヨム・キプール)に行う
年に一度の贖いの儀式規定が記されています。
その日、至聖所に入って民全体のために贖いの血を注ぎかけるのです。
その際、儀式が始まってから終わるまでは誰も大祭司に触れることは許されていません。
人から触れらると汚れたものとされ、
至聖所での清めの儀式が出来なくなるとされていました。
ここでイエスは天そのものにお入りになり、
私たちのために動物の血ではなく、ご自身の血を携えて
父なる神の御前に進み出られ、
私たちのために贖いを成し遂げてくださったのです。
Mマリヤからその他の女性たちにお会いするまでのその時間内に、
これらの贖いの務めを天において果たされたと考えられます。
地上生涯において主イエスは預言者としての働きをされました。
イスラエルの系譜に属する預言者として、
人々から拒否され、最後は十字架の死を遂げられたのです。
それ以後の主の働きは主に大祭司のそれとなります。
私たち信者のためにとりなしの祈りを神の右の座において
常時していてくださっています。
そして将来、地上に再臨される際には
全世界をエルサレムから統治される王として君臨されます。
❸ ガリラヤでお会いできる
復活の主イエスと弟子たちとはガリラヤで会うことになるとみ使いが告げています。復活の主もそこで弟子たちと会うと約束されています。マタイ28:7、10
どうしてわざわざ「ガリラヤで会う」ことが強調されたのでしょうか。
弟子たちも女性たちも全てガリラヤ出身の人たちです。
そして主イエスの働きのホームもガリラヤでした。
エルサレムでの宣教は、祭りのときに都上りをした場合でしかなく、
いわばハレの日の非日常体験です。
つまり彼らにとっての日常生活の場がガリラヤであったのです。
そこで主イエスにお会いする、と約束されています。
私たちのイエス様は
日曜日に教会に来ている時だけ神なのではありません。
月曜からの週日、あなたの仕事場や家庭生活、
そのありふれた日常生活の場においてあなたとお会いし、
あなたに語り掛け、
あなたと同行される神なるお方であられます。
エルサレムにて復活の主に初めてお会いし、
やがて聖霊降臨もそこで50日後に経験した弟子たちでした。
その特別な霊的祝福は、
ありふれた彼らのガリラヤでの生活において日常化されていくのです。
私たちも同様に、変哲のない日常生活の場に
主イエスをお迎えしようではありませんか。
ミケランジェロ作
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
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「メシアの埋葬」
マタイ27章57~66節
~マタイ福音書連続講解説教 104~
主イエスは十字架から降ろされ、
墓に埋葬されました。
これは例外的なピラトが与えた処置であり、
恩赦と言われるべきものです。
当時、犯罪人が埋葬されることは許されず、
死体は野ざらしに放棄され、猛禽の餌食になるほかなかったからです。
そこにはイザヤ53:9の預言成就がありました。
「彼の墓は悪者とともに設けられ、
彼は富むものとともに葬られた」
ここで「富むもの」とはアリマタヤのヨセフという人物ですが、
彼について次のことが分かります。
✓ 裕福なサンヘドリン議員であった
✓ イエスの隠れた弟子
✓ ピラトへの埋葬の嘆願
✓ 亜麻布と没薬による遺体処理・ニコデモの協力
✓ 自身の所有する真新しい墓に埋葬
さて、埋葬されて金曜から復活までの日曜朝まで
主イエスはどこで、何をされていたのでしょうか。
ある方は先日、
「よみに下ったイエス様は、
サタンにいじめられていたのかと思っていました。」
と言われました。
日本の古事記にある、黄泉の世界でウジに覆われ、
救いに来た夫を襲うおぞましき妻の物語り、
また、仏教の地獄絵で鬼たちに拷問を受けている人たちなど、
日本文化を下敷きにして、
その日本的に親しんできた概念に引き寄せて
聖書世界を決めつけてしまうことがあるのです。
今回学びを終えたとき、
その方は
「イエス様がよみで何をされていたか、今日はっきりわかりました。
イエス様、かっこいい!!」
と興奮気味に言われたのがうれしかったです。
さて、埋葬されていた間、
イエス様はどうしていたのでしょうか。
1) シオール(ハデス)に降られた
✓マタイ12:40、エペソ4:9「地の低いところに下られた」
✓シオールとハデスとは、同じ意味(詩篇⒗:⒑と使徒⒉:27、31とは同義語)
✓そこはまた「パラダイス」でもある(ルカ23:43)
✓それは、地球の中心部分に位置している
✓不信者と信者の居住区、二つの区分がある
✓その二つの居住区には大きな淵があり、超えることはできないが、見たり話したり聞いたりすることはできる(ルカ16:19~31の実話から)
2) そこで、「みことばを宣べられた」・Ⅰペテロ3:18~19
✓セカンドチャンス論(死後にも救いのチャンスがある)の根拠とされる聖句であるが、それは誤解である
✓ギリシャ語本文の「宣べられた」の意味は、宣教や説教ではなく、宣言である
✓霊たちへの勝利の宣言をされたのである
3) 「捕らわれの霊たち」について
✓それは「昔ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのこと」(19節)である
✓「霊」は不信仰な人間とも、人間の女性と結婚をした悪霊たちとも解釈できるが、悪霊たちとした方が相応しい
✓洪水で滅ぼされた後、その悪霊たちはタータラス(Ⅱペテロ⒉:4)に幽閉された
✓そこはノア時代に人の女と雑婚した悪霊たちだけが住んでいる場所であり、他の悪霊らも、不信者らの居住区とは異なる特殊な幽閉所である
✓彼らは創世記3:15「女の子孫」として降臨するメシア誕生を阻止するために雑婚を繰り返し、ネフィリムという新しい悪霊・人の異物を広めようと暗躍した
✓その非常事態に神は洪水を起こして新しくノアから人の歴史を始める他なかった
✓メシア降臨阻止を画策したこの悪霊らに対して、イエスは彼らへの最終的裁きと神の救済計画の勝利とを宣言したのである
どうですか。
パラダイスからタータラスに幽閉されている悪霊らに対して
勝利の言葉を宣言されたイエス様。
かっこ良くないですか?
地中海に沈む夕日
聖書は人の死後の世界について明快に教えています。
イエスの十字架と復活を通じて
新しい契約の時代が始まりました。
それ以前は旧約時代、
あるいはモーセ律法の時代と呼ばれます。
死後の世界においても
その時代を画して画期的な変貌が遂げられました。
それでは今回は、
旧約時代の人たちの死後の世界についてこうさつしてみましょう。
⑴ 旧約時代の人々(アダムからイエスの昇天まで)
① 全ての人はシオールへ行った(OTに64回言及。詩篇89:48)
ハデスと同じ意味(詩篇⒗:⒑と使徒⒉:27、31とは同義語)
それは、地球の中心部分に位置している
不信者と信者の居住区、二つの区分がある
② 信者もまたシオールへ行った(創世記37:35)
「アブラハムのふところ」とも「パラダイス」とも呼ばれている
そこは天ではない~罪の贖いが未完成で、天に入るには不十分
モーセ律法のいけにえは信者の罪を覆うのみで取り除けない
へブル10:1~4
信者が死後に天へ移されるには、新約時代によるメシアの贖いの完成を待たねばならない
③ 不信者は狭い意味でのシオールへ行った
「アバドン」とも「よみの穴」とも呼ばれている
そこは意識もあり、ある苦しみの場である
④ 二つの区分の間には越えられない淵がある
ルカ16:19~31
ここに出てくるものはたとえ話ではなく、実話である
「ラザロ」と固有名詞があることからそれが分かる
淵を超えてのコミュニケーションは出来る
人の死後の行き場所について
聖書が教えている地名が幾つかあります。
その代表がシオールです。
これはヘブル語で、新約聖書ではギリシア語のハデスと訳されています。
つまりハデスもシオールも同じ意味、同じ場所です。
1 その場所は地球の中心にあります
A.旧約聖書では「地下の国」
エゼキエル26:20
B. 新約聖書では「地の低いところ」
エペソ4:9~10
2 二つに区分されています
A. 義人の住まい 「アブラハムのふところ」「パラダイス」と呼ばれています
B. 罪びとの住まい
①狭い意味でのハデスで、不信者の場所です。「アバドン」「よみの穴」とも呼ばれます
②アビスがそこにあります~堕天使を一時的に幽閉しています
③タータラスがそこにあります~ノア時代の堕天使を永遠に幽閉しています
エルサレム市内
「メシアの死」
マタイ27章45~56節
~マタイ福音書連続講解説教 103~
主は十字架上で7つの言葉を発しておられます。
【1】御父へのとりなしの祈り(赦しのことば)
●「父よ。彼らをお赦し下さい。
父よ。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
(ルカの福音書23:34)。
【2】約束のことば。
●「まことに、あなたに告げます。
あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
(ルカの福音書23:43)
【3】思いやりのことば。
●「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」
(ヨハネの福音書19:26)。
●「そこに、あなたの母がいます。」
(ヨハネの福音書19:27)。
【4】神に見捨てられたことば。
●「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
(マタイの福音書27:46)。
【5】死の苦しみのことば。
●「わたしは渇く。」(ヨハネの福音書19:28)。
【6】救いの完成のことば。
●「完了した。」(ヨハネの福音書19:30)。
【7】父なる神にゆだねることば。
●「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
(ルカの福音書23:46)。
十字架上での6時間の内、
朝9時~昼12時までは人からのあざけりを受け、
十字架上での第1~3言を語りました。
昼の12時~午後3時までは神からのからの怒りを受けた3時間です。
そこでは十字架上の第4~7言を語っています。
その3時間は、人類史上の特異な時間帯となりました。
第4番目の十字架での言葉に注目して見ましょう。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
ここで主は神のことを「父」と呼んではおられない。
そこに徹底された父と子の断絶がありました。
「全地が暗くなった」とその3時間が記録されていますが、
父なる神からも見放された、稀有の時間帯だったのです。
ここでどうしてイエスが
そのような敗北とも受け止められる言葉を発されたのか考察してみましょう。
神の子として、十字架での死とその後の復活をすでにご存知で
弟子らにもそれを伝えていたのに。
どうして今更、
「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
なんて嘆きの言葉を言われたのか?
❶預言成就のため
詩篇22篇1節をそのまま引用した言葉です。
この22篇はメシア詩篇として、
その十字架での苦難が克明に預言されている詩篇です。
人々からの嘲り
喉の渇き
肉体の痺れや
関節が外れること
脱がされた衣服が分けられたり
くじにかけられることなどが
預言されています。
6〜8節、14〜15節、18節など。
❷人間イエスの魂の叫び
イエスは100パーセント神であると同時に
100パーセント人間であることを思い出しましょう。
それまでモーセ律法に一点たりとも違わずに
完璧な生涯を歩んで来られた主です。
その正しさ、完成度に対して
耐えねばならない苦痛、恥辱はどうでしょう。
そのギャップの大きさ、
その理解しがたい理不尽さ。
人間なら誰しもが
「一体どうしてこんな目に遭わねばならないのか」と嘆くはずです。
主の言葉はまさにその人間としての
魂の叫びでした。
主は決してスーパーマンやサイボーグのような魂のないものでなく、
私たちと同様、喜怒哀楽を感じられる人間なのです。
正しさや権利が蹂躙された時に感じざるを得ない
疑問や怒りを共有されているのです。
❸私たちへの問いかけのため
完璧だった無実の人が十字架で苦しみを受けている
その理由が私たちに問いかけられています。
それは当時のエルサレムにいた目撃者ばかりが対象でありません。
十字架の福音を聞く現在の私たち一人ひとりに対する問いかけです。
貴方はこの問いにどう向き合いますか。
「私の罪の代わのためです」
と告白できる人は幸いです。
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