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「回帰不能点に到達する前に」

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{ホサナキリスト教会でのへブル書聖書研究からの引用です}
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へブル3:7~11

7 ですから、聖霊が言われるとおりです。 「きょう、もし御声を聞くならば、
8 荒野での試みの日に 御怒りを引き起こしたときのように、 心をかたくなにしてはならない。
9 あなたがたの父祖たちは、 そこでわたしを試みて証拠を求め、 四十年の間、わたしのわざを見た。
10 だから、わたしはその時代を憤って言った。 彼らは常に心が迷い、 わたしの道を悟らなかった。
11 わたしは、怒りをもって誓ったように、 決して彼らをわたしの安息に入らせない。」

不従順の危険に対する警告ーその2回目(3:7-4:13)

①旧約聖書からのレッスン(3:7-11)

 この聖句は聖霊によって書かれた詩篇95:7-11からの引用で、エジプトを脱出したイスラエルの民が神の「み怒り」を引き起こしたような過ちをしないように警告されています。
ギリシア語の「み怒り」は、新約聖書全体で3回だけしか使われてなく、そのすべてがこの3章にあります(8,15,16)。
モーセはイスラエルの子たちが10度も不従順を重ねたと記録してますが(民数14:22)、この「み怒り」を引き起こしたカデシュバルネアという場所は他とは違うターニングポイントとなったのです。

 9節の荒野をさまよった「40年間」とは、読者にとり重要な意味を持ちます。それは主の十字架からすでに40年が過ぎようとしている時に本書が書かれたからです。
神は出エジプト世代の者たちを「常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった」としていかられたのです。著者と同世代の者たちと並行させた書き方です。
その神の怒りの結果は「決して彼らを安息に入らせない」(11)、つまり約束の国カナンには誰もが入れなくなりました。入れたのは子供たちと信仰を貫いたヨシュアとカレブのみなのです。

  「約束の国」とは、英語圏の讃美歌では死後に行く天国であると多くの場合歌われてきました。しかし聖書的にはそこは「安息の国」であると理解されるべきものです。
イスラエルの民は、エジプトでの奴隷状態から贖い出されたにもかかわらずに約束の国での祝福を受けることに失敗しました。信仰に踏み止まらずに不従順を続けたからです。
カナン安息を失ったということです。それはきよめられた者が与る安息であると旧約聖書からも教えられているものです(申命記1:34-36,12:9-10)。
その安息とは、神の力に、貴方の心も思いも意思も全てを従わせることから来るもので、罪を征服させるものです。ヨシュアは民を約束の国に導いた時、先住民を征服して安息を彼らに与えました。それがモチーフとされて霊的なレッスンが語られるのです。

 ただそのカナン入国世代は出エジプト世代とは異なります。
入れたのは荒野で産まれた新しい世代なのです。
一度贖われた民であっても信仰に留まらないなら、楽しめたはずであろう祝福を失うことがあります。不従順の出エジプト世代は失敗の後に悔い改め、神から赦されていると明瞭です(民数14:20)。
しかしながら肉体的な結果を刈り取らねばならなかったのです。
この点が、本書の十字架の40年後世代に適応されている点です。
彼らは回帰不能点に到達し、肉体の死を招く危険にさらされている状態だと指摘されているのです。

 一度回帰不能点に到達したなら神のさばきを受けなくてはならないというのが聖書の原理です。
そのさばきは肉体的なもので、霊的なものではありません。つまり救いを失うことではないのです。民数14:20で人々が悔い改め、神が罪を赦されたとあります。個人の救いまでは影響力を及ばせずとも、肉体の死という結果を払わなくてはならなかったのです。
回 帰不能点に達したなら、どれだけ熱心に悔い改めようとも肉体的なさばきを逃れることはできません。モーセでさえもこの点から漏れることはなかったのです。 彼はたった一つの罪によって約束の国の外で死ななくてはならなかった。彼の救いが取り去られたわけでないのですが、肉体の裁きを刈り取ったのでした。

 不従順の結果は永遠の救いを失うことではなく、一時的で肉体的なさばきを招きます。それは肉体の死であり、本来楽しめたはずの祝福を経験できないことにあります。
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キリスト教は「道」である

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ホサナキリスト教会
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マタイ福音書連続講解説教15  マタイ7章1~12節
「義の道における注意事項」
{メッセージからの抜粋}

 7章の前半部分は、これまで主が語られた山上の垂訓(5章~6章)の総論部分であると位置付けられます。「義」をキーワードにすると、次のようにまとめられるのではないでしょうか。
1) 天の御国の住民(義とされた者)のマカリオス(幸い)を描写~5:1~16
2) 天の御国の憲法(律法の義)をメシアが再解釈~5:17~48
3) 義を生きるとはどういうことか(宗教生活への適応)~6:1~18
4) 義を生きるとはどういうことか(一般生活への適応)~6:19~34
5) 義の道における注意(付帯)事項:総論~7:1~12(今回)
6) 義の道に対する二つの応答:結論~7:13~29(次回)

 義を実践しようとするとき、信仰を見える形で表現するとき、それは人目につきやすいものです。それを実践している人がしていない人を見て、さげすんでしまうことも起きやすいのです。

 そこで7章に来てから付帯(注意)事項として、
I. さばいてはいけないこと(1~5節)が教えられます。
ただこれは、人を正しく評価(Evaluate)することを禁じたものではありません。
さばくこと(Judgment)と相手を見抜くこととは別ものです。そこで、
II. 判断力(識別力)をもつことが必要(6節)であると教えられます。
そのような知恵は当初から人は持ちえていません。人はみことばを学ぶことによって知恵と悟りとをいただくのです。神様からの良い賜物、聖霊様もいただかねば信仰生活を最後まで全うできないのです。成熟へと進んでいけないのです。そこで主は、
III. 求めることついて(7~11節)、父親と子供の関係をたとえにしながら教えられます。
そしてこの総論部分の結語として12節があります。これは旧約聖書を要約するとこの一文章になる、と主ご自身がまとめられたものです。
IV. 総まとめ(12節):「それで、何事でも、自分にしてもらいたことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」

 当時のパリサイ人が実践した義とは、律法(聖書)本来の精神とはかけ離れたものでした。私たちは彼らのことを笑えません。キリスト教会史の中でも、神の義を振りかざしながら、神の御心に反することを繰り返してきました。反ユダヤ主義、十字軍の遠征、宗教改革直後の教派間の血で血を洗う争いなど、ほかにも数えたらきりがありません。
「神のために」という大義名分を掲げるとき、12節にある聖書を要約した基準に照らしてみると、これまでクリスチャンでありながらも、いかに脱線してしまっているかは明確となります。

 初代教会の信者たちはアンテオケで大きな教会を組織するようになると、他者から「クリスチャン」と呼ばれるようになったと使徒の働き13章にあります。
それまでは「この道の者たち」(使徒9章2節)と呼ばれていました。
人々は彼らの生活様式を見て、それは一つの生きる「道」であると遠巻きながらも認めていたことがうかがえます。これは東洋的な表現です。


 ここで話は飛びますが、「柔道」と"Judo”は別物です。
「柔道」はある原理を持って究明すべき「道」と言えます。その原理とは「自他共栄」と「精力善用」であり、講道館柔道ではその精神を持って1本を取りに行くのを目標としてきました。世界に広がりを見せたJudoは「道」というより純粋なスポーツです。とにかく試合に勝つことが絶対目標となり、ポイントを稼ぐためにガードを固めるため1本での勝敗が少なくなりました。タックルや足取りなどの奇術も外国人選手の得意なものとなり、組み手からの投げ技という本来の姿勢が失われています。負けないこと、勝つことが優先され、「何のための柔道か」という哲学的な命題が抜けているスポーツだからです。テレビスポンサーのために、カラー柔道着が導入されたのもずいぶん昔のこととなりました。

 1世紀の人々が信者を見て「この道の者たち」と呼んだのは、彼らの食べ物や着るもの、髪型や服装などの表面的形態が他者と異なっていたからではありません。
信者のスピリットがイエスを主と仰ぎながら、主に習うものであるのを認めたからです。
その良い例が最初の殉教者となったステパノにあります。
彼は自分を石打にして殺害しているものたちのために、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7章60節)と祈りましたが、それは十字架上で主が敵のために赦しを祈られた祈りと重複するものです。
その赦しのスピリットが世界を変えてきました。革命を起こしてきました。

 義に生きるとは、宗教的形態を取り繕うことではなく、主イエスのスピリットに生きることです。

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ヘブル書聖書研究・1章5節

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1:5 「イエスは特別な御子」

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 御子の優越性を述べた後に著者はその理由を挙げなくてはなりません。
しかも読者であるユダヤ人と共通の土台に立たなくは議論は成立しないのです。それはもちろん旧約聖書に他なりません。
5節から13節まで7つの旧約聖書箇所を引用しながら御子の御使いに対する優越性についての根拠を展開していきます。
 ここでは第一の根拠を取り上げます。それは詩篇2:7からの引用です。

神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。 「あなたは、わたしの子。 きょう、わたしがあなたを生んだ。」 またさらに、 「わたしは彼の父となり、 彼はわたしの子となる。」 (ヘブル1:5 )
For unto which of the angels said he at any time, Thou art my Son, this day have I begotten thee? And again, I will be to him a Father, and he shall be to me a Son? (Heb 1:5 KJV)

 御子が相続者であられ、特別な意味での「子」であられ、父なる神との特異な関係を持っておられると教えるものです。御子こそは、たった一人の神が「生んだ」子 “ begotten son” です。

 その原語は、エホバの証人のようなカルトが教えているような「誕生」や「起源」を意味しているものではありません。英語訳では”only begotten”  となるのですが、この原語は「長子としての権利を持ったもの」という意味のものです。そしてこのような使われ方はどの御使いにも一度としてされたことはありません。

 永遠の昔からイエスは父なる神に対して御子であられましたが、復活を通じて御子は特別な意味での「(父なる神が生んだ)ひとり子」: ”only begotten son” と呼ばれる地位に着いたのです。
これは当時のローマ文化を踏まえた上での書き方です。ローマの家庭に生まれた子供はその誕生から子供であることには違いないのですが、成人に達したとき、父親から改めて「子」であると宣言されていました。その絵がここで用いられています。御子は永遠に父なる神に対して「子」であられますが、ある時点で特別な意味において「子」であると宣言されたのです。それが復活のときでした(使徒13:33、ローマ1:3~4)。

 御使いは旧約聖書では常に、“sons of God”と複数形の「子達」という形で現れます。例外はありません。しかもそのとき常に集合体での言及であり、個人的に「神の子」と言及されている箇所はありません。旧約聖書の歴史で一度として御使いは “a son “と呼ばれていないのです。創世記6:1~4、ヨブ1:6、2:1、38:7、詩篇29:1など。
 
新約聖書に入り、信者たちも「神の子たち」”sons of God” と呼ばれていますが、御子だけが「(父なる神が生んだ)ひとり子」であられます。
御子は御使いも信者にもないユニークな関係を父なる神に対してお持ちです。
 
 御子の地上生涯でそのように特異な「ひとり子」であるとの宣言を受けた箇所がいくつかあります。
① 御使いガブリエルが母マリや語った言葉の中に。ルカ1:35
② 御子が洗礼を受けられたとき父なる神の言葉の中に。マルコ1:11
③ 御子の変貌時に父なる神の言葉の中に。ルカ9:35
④ 復活によって特異な神の子であると宣言。ローマ1:4
 
 信者や御使いが踏み込めない特別な関係をイエスは父なる神に対してお持ちであられます。
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空の鳥から学ぶこと

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マタイ福音書連続講解説教14  マタイ6章19~34節
「義に生きる(一般面)」
{メッセージからの抜粋}
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 主イエスは何と現実主義者であらることでしょうか。
神の義とはどういうものであるかを説かれ(5章前半にある八福)、義に対しての再解釈をされ(5章後半の六つの事例)、その義を生活に適用した生き方とはどういうものかを述べているのが6章です。
その適用例は実に身近なものが取り上げられています。誰もが問題意識を抱いている中心的なトピックについての教えです。
6章前半はユダヤ教を実践するに当たっての三大支柱ともいうべき施し、祈り、断食について触れます。
6章後半は一般の日常生活にあって最も関心を払う富(お金)や思い煩いについて取り上げられています。


 お金は神様から使い方を任せられた管理者として正しく、また賢く運用しなくてならないものですが、時にそのお金が私たちを支配するほどに強い魔力を持つことがあります。
「マモン」というアラム語はそのような支配的権力を握った「富」の一面をよく表している言葉です。
「だれも二人の主人に仕えることはできません。~あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(24節)
 この富の奴隷となって仕える限り、私たちは思い煩いから開放されることはありません。
地上に蓄えた富は目減りしてしまうものです。
「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(21節)
損害を受けた富は、人の心を蝕んでしまうものです。
天に蓄えられた宝は、虫や盗賊の手の届かないところにあって保全されます。
減価償却の心配の必要もないので、私たちの心に悪い影響を与えることもないのです。
主イエスが私たちの主人となってくださるとき、あらゆる思い煩いから開放されていきます。


 本来人は神の最高傑作として、創造の冠として造られました。
「空の鳥を見なさい」(26節)と主は言われました。
巣を作ったり、餌を集めたり、賛美の歌声を奏でるために忙しく一日中働いています。
でも「何を食べようか、何を飲もうか」といって思い悩んでいる様子はないのです。私たちは鳥よりももっと優れているものです。
「野にあるゆりを見なさい」(28節)とも主は言われました。
働かずとも栄華の窮みであるソロモンもこの自然界にある神の作品ほど着飾ることはできなかったのです。私たちは野の花よりも精巧に、優美に造られた作品です。


 養ってくださる父なる神への信頼があるところでは、心配は解け去っていきます。
美しいガリラヤの田園風景を教材にされながら、義を実践する際の支柱は父なる神への信頼にあることを教えてくださいました。
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主イエスには誰にも知られていないもう一つの名前があるのです

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ヘブル書聖書研究からの抜粋です
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ヘブル1章4節 「御使いよりも優れた名前」

ヘブル書は大変簡潔に二つに分解できます。
① 前半が御子の優越性について 1章4節~10章18節
② 後半が信者が御子にある生き方の適用 10章19節~13章終わりまで
御子が優越していることをユダヤ信者に示すにあたり、ユダヤ人が最も誇りとしているものと比較しています。当時、信者となったユダヤ人は常に以前のユダヤ教に惹かれ、元のユダヤ共同体に属してアイデンティティ危機を回避したい誘惑にありました。そこで異邦人と比べてユダヤ教が優れていると彼らが誇り、認めている3大支柱を持ち出して、そのおのおのがイエスと比較されたとき、イエスはそのそれぞれにおいてもさらに優れているのだと論証するのは的を得たことでした。

 そういうわけで本書のほとんどのページは、御子がユダヤ教と比較されるために費やされています。
① 御子は御使いたちに勝る    1章4節~2章18節
② 御子はモーセに勝る      3章1節~4章13節
③ 御子はアロン系祭司制度に勝る 4章14節~10章18節

 ユダヤ人にとって御使いは大きな地位を占めていました。
大切な律法も御使いの手を通じてモーセに与えられています。
しかし、御子は御使いたちに勝る方です。


 先回この書全体のイントロダクションとして1章1節~3節を考察しました。
4節からいよいよ本論に入ります。
「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」 (ヘブル 1:4 )
“having become as much superior to angels as the name he has obtained is more excellent than theirs. “(Heb 1:4 RSV)
ここで「なられました」”having become” とあるところはあるカルト団体により「造られた」”being made”と訳され、教えられています。残念ながら英語のKJV訳もそのように訳してしまっています。ギリシア原語では明らかに”having become”、 “to be”と訳されるべきものです。


 御子なる神がナザレのイエスとして人となったとき(”having become”)、つまり受肉されたとき、ある意味において御使いよりも低いものとなりました(ヘブル2:9)。
にもかかわらず、御子が復活され、昇天されて天の御座に帰られたとき再び御使いたちに勝る地位につかれたのです。そのときは人間性を保持されながらも、御使いより優越された位まで挙げられたのです。
そしてその瞬間、「御子は御使いたちよりもさらに優れた御名を相続され」ました。
 
 その名前とはいったいなんでしょうか?
マリヤから肉体を取って誕生されたとき、御子は御使いによって「イエス」と命名されました(マタイ1:21)。御子が十字架で死なれて復活し天に帰られたとき、その従順によって父なる神はさらにもう一つの名を用意されておられました(黙示録19:12)。
「その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。 (黙示録19:12 )」
その名が何であるかは御子以外には誰にも明らかにされていません。私たちが天国に行ったとき、もしかしたら教えられるかもしれませんが、聖書はその点は沈黙しています。
その名はすべてのものに勝る名であるとされています(ピリピ2:9)。
また、預言者ゼカリヤが見た幻に出てくる石(これはメシア)にある言葉が刻まれていますが、これがそのメシアの秘められた名であろうと考えられています(ゼカリヤ3:9)。


 天国においてその刻まれた名前を読むことが許されるとしたら、今からワクワクしませんか。
「ヘブル語で書いてあるのでしょ。どうせ私には読めません。」なんてあきらめる必要はありません。そのとき天国では私たちはヘブル語を自由に操ることができるでしょう。もちろん英語もです!!
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ヘブル書の聖書研究が始まりました

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ホサナ教会ではヘブル書の聖書研究を始めました。
http://hosannamin.org/jpn/page/hebrews

今回は初回で3節だけを扱っています。

ヘブル1章1~3節 <ヘブル全書の主題>

聖書本文
「1:1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 (ヘブル 1:1-3 )」

解説
 かつて旧約聖書の時代、神は預言者を通じて私たちに語られました。
神がご自身について、人について、また世界の目的について明らかにされたことを啓示と言います。しかしこの「終わりのとき」には「御子により語られました」。
たいていの英語訳はこの「御子により」の部分を in his son あるいは in the sonと訳しています。
しかしギリシア語原文には定冠詞はなく、 in son と本来は訳されるべきものです。
ギリシア語で定冠詞が省かれている場合、人格的な関係よりも性格や性質が強調されていることになります。つまりここでは、かつて預言者という管を通じて語っていた神が、いまや御子というユニークな方法で語られているということです。啓示は a sonによるのです。啓示は人によってでなく、御使いによってでもなく、a sonによるのです。そして複数の「多くの方法」によるものでなく、単数のa sonによるのです。
 このa sonとは言うまでもなく神のひとり子であられるメシアなるイエスです。
それではこのひとり子がどうして最後の啓示者として、神の啓示を担う資格をお持ちであられるというのでしょうか。2節から3節にかけて7つの根拠が説明されています。
① 御子は万物の相続者であられるから。
御子は宇宙の中心で歴史の目的です。また万物の目的でもあられます。
万物を相続するとはそういう意味であり、またそれは所有という概念を含んでいます。宇宙の所有者であられるのです。それなら神ご自身に他なりません。
御子は人の姿をお取になられて地上に来られました。正確には神ー人として来られたのです。
② 御子によって世界を造られたからです。
ここでのギリシャ語は「時代」と訳されるべきものです。直訳では「御子によって時代を作った」となります。各時代のプログラムや神の計画をコントロールされておられる方です。宇宙の創始者であり、同時に時代の創始者であられます。
歴史の進行は御子により、時代の漸進性やディスペンセイションとなって顕されました。聖書が示しているとおり、それぞれの時代に神様は目的や計画を御子によって紐解き、顕かにされたのです。御子は時代を造られたばかりでなく、時代にかかわるあらゆることにまでコントロールされます。

③ 御子は神の栄光の輝きです。
御子は神の「輝き」なのです。御子は神の特質のすべてを啓示されます。というのは隔てることのない父なる神との関係を持っておられるからです。彼は神の栄光が放たれる際の輝きそのものであられ、ユダヤ人の間で「シャカイナ・グローリー」と言われています。それは目に見えない神ご自身が人に臨在される際の顕現なのです。たいていは光り輝く様子で人に現れることが旧約聖書から分かりますが、御子がその輝きなのです。このお方は外に輝き出でた神聖そのものです。この点をヨハネ1章1~14節が詳細に扱っていて、それによるとメシアはシャカイナグローリー(光)であられ、肉体を取られてイスラエルの人々の間に幕屋を張られた(住まわれた)のです。
④ 御子は神の本質の完全な顕れです。
英語訳では「神の本質のイメージそのもの」と訳されますが、imageという英語訳のギリシア語原語の意味は「表現されたイメージ」というものです。その原語は実は英語のcharacter(性格)を生み出した言葉なのです。御子は神の実態が顕れた性格そのものであられます。完璧な代理人であるという意味です。それはまたコインが刻印される際の道具に用いられる言葉でもあります。金型がコイン表面をプレスしてから上げられると、コインには金型にあったものと同じものが代理として残されるのです。そのように御子は神聖の完璧な顕れです。あらゆる方面から見て父なる神を再現されるお方です。この点は先述した歴史の始まる以前から御子が存在していた点を示しています。父なる神のうちにあるすべては御子のうちにもあるのです。御子はその力あるみことばによって万物を保っておられます。
⑤ 御子こそは宇宙の保持者であられ支配者です。
すべての歴史を貫いて父なる神が定められた目的を達成されるために働いておられます。「保つ」というギリシア原語の言葉には単に物を持つだけでなく、ゴールに向けてそれを運ぶという意味が含まれています。現在形で書かれていることから、今この時点でも御子がすべての被造物が持っている神から与えられた目的に達するために宇宙を支えているのです。その万物は摂理により、また御子が放たれた言葉によってコントロールされています。
⑥ 御子は罪のきよめを成し遂げられた方です。
「きよめ」という言葉は祭司の仕事に関わるものです。このあと5~7章で主が祭司職にかかわる方であることが詳しく解説されますが、その萌芽がここにあります。御子は死を通じて罪のきよめを成就されました。これには4つの側面があります。

専有的な清めです。御子だけが成就されたものであり他に購いを完成したものは誰もいません。

それは清めのための犠牲を伴ったことを意味しています。

ギリシア語特有のアオリスト時制が使用されている点から、これは完了した清めですでに実現されているので、人の購いのために御子がすることは他にないことが強調されています。

外側の形式的な清め(旧約時代がそうでした)だけでなく、罪のきよめに関することなのです。

⑦ 御子は優れて高い大能者の右に着座された方です。
着座されたとは、仕事を成し遂げたことを意味し(10:12)、また右の座に付かれたということは父なる神と等しく同等の権威をお持ちである(Ⅰペテロ3:22)ことを教えています。その御座での働きは私たちのために父なる神にとりなしの祈りをささげることです(ローマ8:34)。
 これら7つの点から分かることは、御子は預言者たちに勝るユニークな啓示者であられるということです。旧約聖書預言のゴールが実現するための最終的な啓示をされるお方であり、かつ、これまで「多くの部分に分けられて、いろいろな方法で語られてきた」ことを御子こそが認証できる方であられるということです。
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右の頬を打たれたら左の頬を向けなくてはいけないのでしょうか

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マタイの福音書5章17節~48節  「メシアによる義の解釈」 マタイ連講12

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(メッセージの抜粋です)

主イエス様がお話しされた言葉の中には、多くの誤解されている箇所があります。
「あなたの右の頬を打つような者には左の頬も向けなさい」というのも、その誤解されている有名な言葉の1つではないでしょうか。

この言葉は、マタイ福音書5章38節から43節までの1つのセクションの中に収められているものです。
そしてそのセクションは、復讐について教えられているところなのです。

「目には目で、歯には歯で」と言われたのをあなたがたの聞いています。しかし私はあなた方にいます。(38節)

旧約聖書に出てくるこの同害復讐法と言われる法令は、世界最古のハムラビ法典にもある有名なものです。
本来旧約聖書では行き過ぎた復讐を抑えるための教えであったものが、これを根拠にして私的復讐を正当化し、さらに奨励するようなものとして使われていました。

そこでイエス様は本来の旧約聖書にある聖句意味を再解釈する必要を感じられたのです。

21節から48節までは6つのセクションに区切られますが、どれもよく知られた旧約聖書の聖句で、しかも身近な生活に関わるものを取り上げて主による再解釈をされました。殺人、性的不品行、離婚、誓い、復讐、そして隣人愛の6つです。

いずれの6つにも出てくる「わたしはあなたがに言います」と言う主の表現は、「わたし」が強調されているギリシャ語文法となっています。
かつてモーセに律法を授けられた、旧約聖書の著者なるお方が、ここで神的権威を持って解釈されている場面なのです。

さて、その第5番目の「復讐」についてのセクションです。
「悪い者に手向かってはいけません」とあってから、「あなたの右の頬を…」と言う言葉が続きます。
つまり犯罪者に対して私的制裁(リンチ)を禁止した教えであって、社会的制裁や正義を追求することを否定したものではありません。

主イエス様も頬を平手打ちされたとき、堂々と抗議されました(ヨハネ18章22節)。
パウロもまた鞭で叩かれたのを抗議し、謝罪を求め、正当な権利を主張しています(使徒16章37節)。
決して、悪に対して無抵抗に泣き寝入りせよ、と勧めてるものではないのです。

これに続く40節にある「下着を取ろうとする者には上着もやりなさい」。
41節にある「1 ミリオン行けと強いるようなものとは一緒に2ミリオン行きなさい」。
これらは皆、法律で決められている以上のことを自ら進んですることにより悪に勝利せよとの教えです。いわば愛による復讐の勧めなのです。

私たち家族が毎年夏に滞在している山形県の大江町キリスト教会の始まりは、実にこの「愛による復讐」によるものでした。

戦争で山形の田舎に疎開された小出という少年は、足が不自由なため級友から散々いじめられ、悲惨な思いをされました。
戦争が終わり上京した小出少年はそこでイエス様と出会い、やがて献身し、神学校を卒業しました。そして卒業するとかつて子供時代にいじめられた山形の大江町で教会開拓をすることを決心したのです。
いじめられた仕返しに、愛をもって報いようと、その働きが始まりました。

それからすでに50年以上が経ち、3度の教会堂建設を経て、地域に溶け込んだすばらしいし宣教活動が続けられています。小出牧師は見事に愛の復讐を成し遂げたのです。

「悪に負けてはなりません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」ローマ12章21節
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