ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です
「キリスト教の本質~ユダヤ人と異邦人:新しいひとりの人」
マタイ15章29~39節
~マタイ福音書連続講解説教40~
メッセージノートと聖書本文ははこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/529-3940
{メッセージの抜粋}
マタイ15章は、キリスト教の本質を明らかとした章として学んできました。
1~20節 :パリサイ的ユダヤ教との対比:パリサイ人の偽善性
21~28節 :異邦人との対比:ユダヤ人の優先性
29~39節 :歴史的な帰結:ユダヤ人と異邦人の一体性
本日の記事は、デカポリスという異邦人の場所が舞台となっています。
そして、弟子たちを引き連れての第3回目のリトリートでした。
その場所で、主は大勢の異邦人、
「足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、
口のきけない者、そのほかたくさんの人 」(30節)
をいやされておられます。
これは、メシアとしての業が異邦人にも広がっていることを体現しますが、
ミニストリーとしては例外的なものです。
先回学んだように、
初臨のメシアはあくまでもイスラエルに遣わされた方だからです。
それでは、異邦人社会でのこの主の働きをどのように受け止めれば良いのでしょうか。
これは「メシア的王国」の先取りであり、
やがて成就する預言のひな形であると考えるのが良いと思われます。
イザヤ35章。
さらに、新約での新しい時代・教会時代
を予表する出来事であると捉えることもできます。
教会時代の特徴について、聖書は次のように教えています。
①教会は、ペンテコステ以後に始まる、メシアを地上に体現した「からだ」である。
②教会の構成員はユダヤ人と異邦人の両者から成る。
③両者は「新しいひとりの人」である。エペソ2章11~21節。
われわれ異邦人は、かつて約束の契約からは他国人であり、望みなく、神もない者たちだった。12節
両者を隔てていた壁が壊された。神殿内の隔ての壁。14節。
律法がメシアの死によって廃棄された。15節。
今や、両者はメシアにあって一つの体:共同体である。16節。
同一の御霊によって父なる神のみもとに近づく者とされた。18節。
異邦人はユダヤ人と同様、同じ国民であり、神の家族。19節。
メシアを礎石として、一つの建物(教会)の会員として建て上げられる。22節
そしてこの教会時代が始動するためには、
モーセの古い契約に代わる、
メシアによる新しい契約が締結される必要がありました。
そのために流されたのが、メシアの尊い血潮です。
異邦人のデカポリスでパンの奇蹟が行われていますが、
ヨハネ福音書からの見方によれば、
それはメシアの肉体が割かれることを意味しています。
つまり贖いの死を予表したものです。
①ガリラヤ伝道の締めくくりでは、5千人の給食の奇蹟があった
②異邦人の地での伝道の締めくくりでは、4千人の給食の奇蹟があった
③エルサレムでの受難週の最後の晩餐の場面では、パンを裂く教えと聖餐式が制定された
『イエスは言われた。
「わたしがいのちのパンです。
わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
(ヨハネ6:35 )
主の十字架は、こうして見ると神学的に3つの重大な意味を含んでいます。
①新しい契約が成就したときです
②モーセの律法が無効となったときです
③異邦人がアブラハム契約の祝福に預かるようになったときです
死海での夜明け。昨年11月の聖地旅行にて。
日本帰国後の最初の日曜は、
横浜港南教会で礼拝を守ることになりました。
その日は、特別伝道集会のある日です。
私には、救いの証をするようにとのご依頼。
その原稿も月刊教会誌に掲載するとのことで書かせていただきました。
「どうしてイエスを信じたのか?
信じるとは、あなたにとってどういう意味があり、
その結果どうなったのか」
というのが、
「救いの証」と言うことができるでしょうか。
その原稿を一足早く、皆様に紹介します。
「良くなりたいのか」
ホサナキリスト教会
高橋京太。
私の生家は横浜港南教会の近く、戸塚区平戸町にあります。
私が小学生低学年の頃、
東戸塚キリスト教会が平戸町交差点に開拓伝道を始められました。
近所の友人たちと何度も日曜学校に通い、
関東教区合同での夏季日曜学校キャンプにも参加したりしていたのですが、
その時はお遊びの教会生活で終わりました。
次にその東戸塚教会に足を踏み込んだのは、
高校1年生となった時でした。
「かつて通ってたけど、今でもまだ活動しているのかなあ」
なんて不遜な思いで玄関先にある案内板を見ていた時、
ちょうどそこを通りかかった故シェルホン先生と美智子先生が
「どうぞお入りください」と声をかけて下さり、そのまま会堂内へ。
数年ぶりでお会いした伊東先生ご夫妻は、
かつてのヤンチャ坊主の私とは気がつかないまま歓迎してくださいました。
その数ヶ月後、秋の特別伝道集会にご案内を頂いて、高校同級生と出席。
講師は山形から来られた橋本幸夫先生でした。
聖書箇所は忘れもしません、
ヨハネ福音書5章のベテスダ池の間欠泉に佇む病人の癒しのお話。
「初めてお会いした先生なのに、どうして私のことを知っているのだろう?」
あまりにも的確に私の心中を射抜くようなメッセージに、
人間世界を超えた絶対者の存在に圧倒されるかのような思いで拝聴したのです。
当時の私は、期待や希望を抱いて入学した高校生活が馴染めず、
厚い壁に阻まれていたのです。
その原因を友人や家族のせいにして非難したり、
自分の足りない能力に失望して自己嫌悪に陥ってはもがいていたのです。
丁度あの病人が競争原理の中で挫折しては他者を批判し、
自己憐憫の敗北感に38年間打ちのめされていた姿と、
その時の私の姿とが見事にオーバーラップしたのです。
「病人は答えた。『主よ。私には、水がかき回されたとき、
池の中に私を入れてくれる人がいません。
行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。』」
(ヨハネ5:7 )
そんな只中に置かれていた彼に主は、
「良くなりたいか」(6節)と
問いかけられたのでした。
良くなりたいのはもちろんのはずです。
でも38年間という長期間は、その希望を彼から剥ぎ取っていました。
その彼対して、病の現実よりも、他者との競争よりも、
優しく「良くなりたいか」と語りかけられる主に
信仰の目を上げるようにと迫られたのだ、
というメッセージは、私に強烈なインパクトを持って迫って参りました。
さらに主は、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」(8節)と言われて、
彼の病を瞬時に癒されておられます。
主のお言葉に応答するなら、
それまでの生き方とは違う、
別個の次元の生き方が開かれるのだろうか??
そのような、漠然とはしていましたが、
抗し難い迫りを感じながら、信仰の挙手決心に導かれたのでした。
以来、30年以上の月日が経過しました。
あの時の決断・決心は、生涯で最も大切で意義あるものであったと、
今振り返ることが出来ます。
主はそのお言葉通りに、
信仰を持ってついて行く者に良いことをして下さるお方でございました。
その後の歩みの中でも壁に突き当たる度ごとに、
「良くなりたいのか」と問いかけられて来たようです。
見える現実に失望することから、語りかけられる主のお顔を見上げ、
主が実現してくださる恵みの御業に参与させていただいて来ました。
あの特別伝道集会の結論に語られていた聖句を最後にご紹介します。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。 (マタイ11:28 )」
この約束のお言葉は確かであると、
その後の30年以上の信仰生活から証言できます。
くびきを共にするように、主イエスと共に歩いた30数年間でした。
その歩みは、心地よさと安らぎとに溢れたものでした。
そして重荷を主のもとに降ろすこと、
降ろしても良いことを日々学ばせていただいております。
ヨハネ福音書5章1~8節
1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、
ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、
やせ衰えた者たちが伏せっていた。*
5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が伏せっているのを見、
それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、
池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、
もうほかの人が先に降りて行くのです。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋
「キリスト教の本質~異邦人との対比から」
マタイ15章21~ 28節
~マタイ福音書連続講解説教39~
聖書本文とメッセージノートはこちらから
http://hosannamin.org/whatsnew/view/521-283
「キリスト教とは、つまるところ何であるのか」についての2回目の学びです。
今回は異邦人の女性との会合を通じて,その本質を垣間見ることができます。
彼女いわく、
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。
娘がひどく悪霊に取りつかれているのです」(22節)
それに対して主は「彼女に一言もお答えにならなかった」
とあります。
さらに、「イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていない」(24節)
とまで言われています。
主もまた当時の特権意識を抱いていたユダヤ人と同様に、
国粋主義で民族主義的な偏見で異邦人を見下していたというのでしょうか?
この箇所を正しく理解するには、
ユダヤ的な視点から聖書を紐解く必要があります。
日本の文化土壌や常識から平坦に聖書を読んでも
到底理解できないものがあります。
聖書の著者が前提としているものは、
数千年間にわたり蓄積されてきたユダヤの文化であります。
主はこの時、初臨のメシアとしてイスラエルに専属的に遣わされているのです。
それが旧約聖書預言の視点であり、
今日21世紀の私たちの視点と異なる点です。
やがて主はユダヤ人に拒絶され、十字架に架かります。
そこで「異邦人の時代」となり、福音が世界中に広がります。
すると救われる異邦人の数が満ちて、
「異邦人の完成」段階へと進む瞬間が将来のある時にやって来ます。
その後にイスラエルの回復と完成がある、
というのが神が人類救済のために計画されているタイムテーブルです。
その全体像からすると、
本記事の段階では未だ十字架前であり、
異邦人が祝福を得られる時代段階ではないのです。
女性は、「ダビデの子よ。」と呼びかけていますが、
それはメシア称号です。
ダビデ契約の成就者として旧約に預言されているメシアは、
イスラエルに回復と繁栄をもたらし、
全世界を統治されます。
これらは、第一義的にユダヤ人に専属的に与えたれている祝福です。
「子供たち(ユダヤ人)のパン(祝福)を取り上げて、
子犬(異邦人)にやるのはよくないことです」(26節)
との主のお言葉は、
そのような聖書預言の歴史的な展開(英語でいうディスペンセイション)
を背景としたものです。
冷淡とも言える主の言動にもめげずに、
その女性は執拗に食い下がります。
「主よ。私をお助けください」(25節)
当初の彼女の言葉がここで変化しているのに注目しましょう。
これは、「メシアがイスラエルを祝福する義務」
を利用しようとしたものではありません。
「ダビデの子よ」との呼びかけには、そんな意味が包含されていました。
ここではただ単に、個人的なあわれみを求めた言葉です。
そこに至ってはじめて主は、彼女に応答ができる局面を得たのでした。
二人の間にコミュニケーションが成立し始めてから、彼女は答えます。
「主よ。その通りです。
ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(27節)
ここで主は、「あなたの信仰は立派です」と言われ、
即座に彼女の娘を癒されました。
ところで、「立派です」と主からほめられた信仰は、
聖書に2例しかありません。
そのもう一つは百人隊長の例です。マタイ8:10
彼らはともに異邦人であり、共通項として次の点が挙げられます。
• 主に対する絶対的な信仰があった
• 主の力を引き出すのは自らの立場、熱心、資格によらないことを熟知していた
• 祈りが届けられるのは、主の一方的なあわれみによると理解していた
さて、ここに見られる「立派な女の信仰」とは
• 理解があった~「そのとおりです」:イスラエルへの専有的祝福を理解
• 謙遜があった~「小犬でも」:異邦人としてのわきまえ
• 期待があった~「食卓から落ちるパンくず」:主の力とあわれみはとてつもなく大きく、
それに比べたら自分の願いは小さいものなので、主には不可能でないとの信頼。
現在は、全ての人が信仰により、
主の救いと祝福に漏れなく預かれるよう招かれている時代です。
そして今後も、聖書預言は一つも違う事なく成就して行きます。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/51-2038
「キリスト教の本質~ユダヤ教との対比から」
マタイ15章1~ 20節
~マタイ福音書連続講解説教38~
マタイ13章で、「奥義の御国」(教界)時代が始まり、
その特長がたとえ話から解説されました。
マタイ14章から、弟子訓練が始まりました。
マタイ15章では新しいその御国時代が、
パリサイ的なユダヤ教と比べて、
また異邦人と比べるとどのようなものであるかが、
突発的な出来事を通じて明らかとされて行きます。
つまりキリスト教とは何であるかが、
これらの範疇にいる人々と主との会合を通じて明らかとなるのです。
15章の便覧
*1~20節:パリサイ的ユダヤ教との対比
*21~28節:異邦人との対比(ユダヤ人の優先性)
*29~39節:異邦人との対比(ユダヤ人と異邦人の一体性)
今回はパリサイ人との論争を通じて、
ユダヤ教と対比したキリスト教の本質を学びます。
❶義は自力で獲得するものではない。
パリサイ的なユダヤ教は、
清めの儀式や安息日厳守にこだわりました。
これらを守ることは、人の目に明らかとなります。
その標準に生きる人たちにとって他人の評価を得やすいので、
つい法規遵守に夢中となりやすいのです。
それに惑わされやすいのが人間の姿でもあります。
ユダヤ教ばかりでなく、
世界にある全ての人が創作した宗教は遵守すべき掟があります。
お勤め、托鉢、座禅、修行、断食、荒業、などなど、、
これら難題をクリアする事が、万人とは異なる優越感を抱かせ、
神仏からの悟りやお墨付きの「義」を得る道として、実にわかりやすいのです。
主は、
パリサイ人の作り上げた数万からなる詳細な義に至る道である口伝律法をことごとく無視されました。
その厳格な遵守の先に義はなく、
救いはないことを教えられました。
「まことに、あなたがたに告げます。
もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、
あなたがたは決して天の御国に、入れません。」 (マタイ 5:20)
ここで言われた「まさる」とは、遵守の程度ではなく、
次元の違いを指摘されたのです。
❷義は神から与えられるものである。
「父なる神様がお植えにならなかった木」、
すなわち人為的な宗教戒律に生きる自認エリートは他者を見下しながら、
自分の義に満足する人たちです。
そこに謙遜さはなく、救いへの求道心もありません。
ところが、
主が「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」 (マタイ5:3 )と言われた心貧しい人とは、
自らのうちには誇りとするもの、
自己義の根拠となるものがかけらもないことを知っています。
この人たちは、ひたすら神のあわれみ、恵みにすがる他ないのです。
自分には神の前に立てる誇りとするものが何も無いので、
主イエスの義にすがったのです。
その時に、イエスの義が転嫁されるのです。
イエスをメシアとして信じる信仰により、
心に聖霊が与えられて、
心清められるのです。
そして新しい霊が内側に働き、
その内発性の動機が神の御心に沿う正しい行いへと私たちを向かわせるのです。
「 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰(イエスの真実)によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行いによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、
ひとりもいないからです。」 (ガラテヤ 2:16 )
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/422-3637
「湖上での弟子訓練」
マタイ14章22~ 36節
~マタイ福音書連続講解説教37~
マタイ14章は、主イエスによる弟子訓練が記されています。
その14章冒頭ではバプテスマのヨハネの斬首事件があり、
これを期に弟子たちへの教えから訓練へと、主の働きの主眼が変えられて行きます。
先回の14章半ばは、5千人の給食の奇蹟で、これは弟子たちの丘の上での訓練でした。
今回の14章終盤は、主イエスの湖上歩行の奇蹟として、これは弟子たちへの湖上での訓練となりました。
主と弟子たちとの間には大きな隔たりがあります。
弟子訓練とは、その隔たりを幾分かでも埋めようとの営みとも言えます。
主と弟子たちとの間には、どのような隔たりがあったのでしょうか。
❶ゴールの隔たり。
空腹の1万人以上になる男女を5つのパンと2匹の魚から満腹にした主の奇蹟は、
大きなインパクトを人々に与えました。
食糧問題を瞬時に解決されるメシアとして群衆は大歓迎し、
王として即位させようと計ったのも自然の成り行きです。
弟子たちも「時、到来」とばかりにこれに同調し、
旧約聖書が預言しているメシアによるエルサレムからの世界統治が実現されると、
興奮の渦に巻き込まれて行ったのです。
それが彼らの目標(ゴール)であったわけですが、
それは地上的・物質的な願望に色濃く染められたものでした。
主はそんな彼らを無理矢理に解散させ、
弟子達には強いて舟に乗り込ませて帰途に就かせたのでした。
主のゴールは十字架による罪の贖いの成就であり、
それによって人々の罪の問題を解決されることにありました。
苦難のメシアとして死に向かわれたのです。
その先に勝利者として地上にやがて凱旋され、
メシア王国を樹立されることになります。
❷苦難に対する隔たり
弟子たちを乗せた舟は、間も無く嵐に襲われました。
8時間ほども波・風と格闘しながら漕ぎ続けます。
肉体の疲労と目的地に辿り着けない挫折感の中で、
信仰も弱って行ったことが想像されます。
「主のお言葉通りに舟を出したばかりにこんなことになって、、、
一体どうしてくれるんだ!?」
そんなつぶやきが聞こえてきそうです。
一方その時、主はお一人で山におられました。
「祈るために」(14:23)とあります。
主は霊的な苦闘の中を通られておられました。
同時に、父なる神との慕わしい甘美な時を過ごされていたのです。
センセーショナルな群衆の期待にも流されることなく、
与えられている使命の道を完遂するためには、
神御自身であられるメシアでさえも、祈りの時間が必要とされたのです。
ここに、完全な神であられたお方は、
同時に完全な人間でもあられたという調和を見ます。
私にはこの調和を理性で理解することはできません。
聖書に書かれている通りのことが、啓示された真理として受け入れるのみです。
主でさえも祈りが必要ならば、私たちは尚更のはずです。
「一人で」「山に登る」
そこで下界の騒がしさから離れて、神と語らう祈りの時間が必要とされます。
❸平穏さの隔たり
主は苦闘している弟子たちのところにまで、
波の上を歩いて近づかれます。
人影を見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と錯覚し、
恐怖のあまり「叫び声まで上げた」とあります。
漁師という波の上のプロ集団が、
そこまで取り乱してしまうのも滑稽な話です。
主はしっかりとした声で「わたしだ。恐れることはない。」と言われました。
水や湖、全世界を創造されたお方は、
嵐を瞬時に鎮めることもおできになられますから恐、れるはずはありません。
その平静さと確信の高嶺におられる主を前にして、
ペテロが口出しをします。
「私に水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」(28)。
彼らしい野望が、この言葉の中に見て取れます。
「自分は怯え切っているが、平然とした主のように嵐の波の上を歩いて見たい」
そんな心中は決して軽んぜられるものでありません。
それは聖なる野望ともいうべき、褒められる挑戦でした。
主も同意されて「来なさい」と、彼を招かれました。
私たちも己の実態が、試練の前に揺れ動く小さなものであるのを知る時、
信仰の高嶺への一歩を勇気を持って踏み出そうではありませんか。
それは未経験の一歩であるやもしれません。
しかしながら、「主のように歩みたい」との野望を持って、
挑戦し続けようではないですか。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew
「5千人の給食」
マタイ14章13~ 21節
~マタイ福音書連続講解説教37~
主はヨハネの殉教を知られ、ご自身の最期が近いこと認識されました。
そこであと残されている1年間の地上生涯を弟子訓練に集中されるようになります。
人々との応対に追われたいた都会のカペナウムを離れて、「寂しいところ」(13)へ行かれたのには、そのような文脈がありました。
ガリラヤ湖対岸へイエスと12弟子が舟で渡られるのですが、その上陸場所が伝承から特定されていて、現在では教会堂が建てられています。
その床にパンと魚のあるモザイク画があることで有名で、聖地旅行では逃せられない訪問地の一つとなっています。
カペナウムから徒歩で30ー40分程の距離ですから、聖書記述通りに、沖に出た舟を肉眼で確認しながら湖岸を歩いてそこまで先行することも可能でした。
舟から上がられた主がご覧になられた群衆とは、「羊飼いのいない羊」(マルコ6:34)の姿でした。
真の指導者に恵まれなかった当世の人々は、聖書の預言を正しく教えられずにメシアを拒絶して、やがてローマ戦争により世界離散への運命を辿るのです。
主は、内臓が突き動かされるような深いあわれみ(スプランクニゾマイ)をお感じになられ、人々を教えられ、また病を癒されます。
時に夕闇が迫り、群衆を解散させねばなりません。
ここから本格的な弟子訓練の始まりです。
「あなた方であの人たちに何か食べるものを上げなさい」と弟子たちに言われます。
自分たちに差し出す何があるか弟子たちの間で相談が始まり、
さらに人々からも提供を求めました。
すると、一人の男の子が自身の弁当を差し出したのです。
それは貧しい庶民の典型的携帯食で、大麦の乾パン5つと、2匹の干し魚でした。
「それをここに持ってきなさい」と言われた主は、
そのパンを取り上げて感謝を捧げると、それを割いて弟子たちに渡しました。
弟子たちはあらかじめ組ごとに別れている群衆に配ると、
男だけで5千人もいた大群落が満腹したというのです。
ここで、どうしてその男の子の弁当が差し出されたのか考えて見ましょう。
先述の距離を歩けることからして、男の子は10歳前後以上の年齢であったと思われます。
弁当持参していたのは他にもたくさんいたはず。彼らが差し出せなかった理由に、
弟子たちと同様の理性が働いていたと考えられます。
つまり、「これが一体、何の役に立てるのか」というもの。
一万人以上の空腹という需要の前に、
一人分の弁当は大洋の一雫、焼け石に水でしかない。
その理性や計算はこの男の子にも出来たはずです。
それにも勝る何かをこの子は持っていた。
それがこの子をして自らの弁当を差し出すこととなったです。
では、その「何か」とはなんでしょうか。
主イエスのあわれみ深い働きぶり、そのお話や癒しの奇跡を目撃して、
この子には感じるところがあったと考えられます。
主が食物を探しておられる。
この子にとって、それだけの理由で充分であったのです。
無駄となるかどうかは自分の知ったことではない。
主イエスの求めに応じたかった。
自分の弁当が役に立つと主がお考えなら、
それを主のもとに持って行き、捧げたかったのです。
主はそれを喜んで受け入れられ、祝福して、何倍にもして用いられました。
私たちの手にしている資源も限りあるものです。
自分の経済力、賜物、時間、、、どれも大きな世界の需要の前にあまりに無力に見えるものです。
主のお声を聞く時に、私たちはその小さなものを主のもとに持って行きたいのです。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/4112-36
「バプテスマのヨハネの斬首」
マタイ14章1~ 12節
~マタイ福音書連続講解説教36~
バプテスマのヨハネとヘロデ・アンティパスとは、
対極にいる人物として本章に書かれています。
それはマタイ福音書2章で、
東方からイエスを拝みにやってきた博士たちとヘロデ大王が対極にありますが、
そのパターンに似ています。
• 権力者と市井の一般人
• 不信者と信仰者
• 己の欲に振舞わされた人と神の使命の道に忠実であった人
• 人を恐た人と神を畏れた人
• 殺人者と礼拝者
などなど。
メシアの道備えをしたヨハネは獄中で数年間を過ごしますが、
最期は斬首されるという悲惨な結末を迎えます。
彼は、
1. ヘロデ・アンティパスの虚栄心・メンツの犠牲となりました。
ヘロデ自身はヨハネの語る真理に納得するところもあり、ヨ
ハネを保護したほどでしたが、「誕生日祝いに集まった重臣、千人隊長、ガリラヤの名士たち」の前で自分の約束を守らねばならない状況に陥った。
彼自身のメンツがより大事なものでした。
2. ヘロデヤの憎しみの犠牲。
夫ピリポと離縁し、アンティパスのもとに駆け落ちしたヘロデヤ。
この罪をヨハネから糾弾されて以来、心穏やかではいられなくなりました。
密かにヨハネ殺害の機会を狙うようになったのです(マルコ6:19)。
3. 娘サロメの冷淡さと無関心の犠牲。
彼女は感心される踊りを披露した見返りに、
母親の言いつけ通りに殺人を所望しました。
預言者ヨハネの働きの価値を何ら理解しないまま、
冷酷で気まぐれな判断をして、
母親に気に入られようとしたのです。
ヨハネの死には一体どんな意味があったと言うのでしょうか。
信仰を曲げなかったがゆえに、損と見えるクジを引き当ててしまった?
そのような例は聖書で他にも多く出現しています。
バテシェバの夫などがその代表です。
神が奇跡を起こして彼を救出されずに殉教を許されたのには、
人智を越えた深い神のお考えがありました。
それは、その当時においてはとうてい理解できることではありませんでした。
長い時を経てから分かることが多いです。
ヨハネは先駆者としての使命を全うしました。
その殉教は、イエスに最期の時に対する認識を新たにしました。
彼の殉教は彼の栄誉となり、その名声は広くエペソまで伝わって行きました。
そして、将来は主イエスから「いのちの冠」(黙示2:10)を受け取ることでしょう。
「すべてが相働いて益となる」(ロマ8:28)とは、
神に従うもの、神を愛するものに対する変わらない約束です。
そしてこの頻繁に語られてきた聖句は、
永遠という時間の流れの中で、
私たちの救いが完成する将来における「栄化」を教えている文脈(ローマ8:18-39)
に位置してます。
殉教や迫害、試練が「益」となるなんて、
現段階ではとうてい考えられない重たく、辛い現実でもあります。
そこで忘れてならないのは、
現段階だけが私たち信仰者の土俵ではないということ。
神の言葉が真実その通りであるのを実感・体験できるのは、
将来の主イエスによる裁きの時まで待たねばならないことを教えているのです。
彼の遺骨が収用収容される直前、お墓の前で。
奥様のKさんによって、白い鳩が解き放たれ、
天へと羽ばたいて飛んでいきました。
タコマでの家庭集会(聖書を学ぶ集い)に毎回奥様と出席されておられた
S.さんが癌との闘病生活の後、天に召されました。
ご近所の教会での葬儀があるので行って来ました。
S.さんはイエス様から平安をいただいた方で、
常に穏やかで優しい笑顔を絶やさない方でした。
いつも奥様と仲良くて、私の隣にお座りになられては聖書を熱心に学ばれた方でした。
旧約聖書時代に、
それを執筆した預言者たちは新約聖書時代をどのように理解していたのでしょうか。
聖書を書いた預言者たちは、
神の霊に導かれて真理を書き残しました。
その神の霊の働きのことを、
「霊感」と呼んでいます。
この神の霊(聖霊)によって、
真理が明らかにされることを「啓示」といいます。
啓示が与えられた彼らは、当然その啓示の内容まで良く理解していたはずだ、
と私たちは考えやすいのです。
メシアが来られる啓示、
そのメシアがイスラエルのものだけでなく
異邦人を含めた全世界へ伝えられていくという啓示、
その異邦人時代(教会時代)の後に、
メシアが地上を統治される王国が始まるという啓示。
実は、彼らはこれらを神様から啓示されましたが、
現在その時代に生きる私たちほどには理解できていなかったのです。
それが以下の聖書で教えられているところです。
Ⅰペテロ1:10-12
「10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」
以下は、この聖書の解説です。
10節にある、「恵みについて預言した預言者」には、例えばダニエルがいる。(7:15-16,9:1-3,12:8-9)。
これは預言全般に渡って言えることであるが、
預言者は、NT時代の信者の救いについて預言し、参加し、語っている。
11節ではその預言の内容がある。
ただしその二つの矛盾してると思われる点は最後まで彼らの中で調和できないままであった。
その二つのうちの一つというのが、キリストの「苦難」。
これはメシアが初臨において経験することで、
複数形になっているのは十字架を含めた地上生涯でメシアが通過するすべての困難を意味しているからである。
「栄光」が苦難に引き続きメシアに与えられるものである。
それも複数形であるのは、メシアの復活、昇天、右の座への着座、再臨、千年王国の樹立を含む複合概念だからである。
ここでペテロが言っている点は、
聖霊が彼らに内在して預言のことばを与えていても、
彼らの理解は十分でなかったということである。
この節の完了形用法は、
聖霊が預言者たちに継続して啓示を与え続けたことを示唆している。
旧約時代の長期にわたり、預言者たちに啓示を与え続けたのである。
この苦難と栄光の、矛盾とも見えるメシア理解は、
ユダヤ文学で「二人のメシア」観を作り上げて行った。
ラビたちも、預言者同様にこの苦難と栄光の相反する概念が、
一人のメシアに調和・体現されるとは考えていなかった。
新約聖書になって明らかに教えていることは、
二人のメシアではなく、一人のメシアが2回に渡り地上に来られることである。
12節では、預言者への啓示に焦点をあてている。
その新約時代の読者になって始めてこれら二つの矛盾点が理解できるようになった。
「啓示を受けた」と受動態で書かれているのは、
彼らに働いた聖霊を強調するためである。
しかしながら、その意味については当時の預言者たちは理解できていなかった。
預言者達は旧約の彼らと同じ世代のためでなく、
新約聖書の読者世代のための働きをしたのである。
そういった例は、ローマ15:4,Ⅰコリント10:11にもある。
聖霊が使徒たちに働き、
その使徒たちが福音を説教して、
はじめて預言者達の預言が理解できるようになったのである。
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