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私の救いの証

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死海での夜明け。昨年11月の聖... 死海での夜明け。昨年11月の聖地旅行にて。

日本帰国後の最初の日曜は、
横浜港南教会で礼拝を守ることになりました。

その日は、特別伝道集会のある日です。

私には、救いの証をするようにとのご依頼。

その原稿も月刊教会誌に掲載するとのことで書かせていただきました。

「どうしてイエスを信じたのか? 
信じるとは、あなたにとってどういう意味があり、
その結果どうなったのか」

というのが、
「救いの証」と言うことができるでしょうか。

その原稿を一足早く、皆様に紹介します。




「良くなりたいのか」
                      ホサナキリスト教会
                      高橋京太。


 私の生家は横浜港南教会の近く、戸塚区平戸町にあります。


私が小学生低学年の頃、

東戸塚キリスト教会が平戸町交差点に開拓伝道を始められました。


近所の友人たちと何度も日曜学校に通い、

関東教区合同での夏季日曜学校キャンプにも参加したりしていたのですが、

その時はお遊びの教会生活で終わりました。


次にその東戸塚教会に足を踏み込んだのは、

高校1年生となった時でした。


「かつて通ってたけど、今でもまだ活動しているのかなあ」

なんて不遜な思いで玄関先にある案内板を見ていた時、

ちょうどそこを通りかかった故シェルホン先生と美智子先生が

「どうぞお入りください」と声をかけて下さり、そのまま会堂内へ。


数年ぶりでお会いした伊東先生ご夫妻は、

かつてのヤンチャ坊主の私とは気がつかないまま歓迎してくださいました。


その数ヶ月後、秋の特別伝道集会にご案内を頂いて、高校同級生と出席。


講師は山形から来られた橋本幸夫先生でした。

聖書箇所は忘れもしません、

ヨハネ福音書5章のベテスダ池の間欠泉に佇む病人の癒しのお話。


「初めてお会いした先生なのに、どうして私のことを知っているのだろう?」


あまりにも的確に私の心中を射抜くようなメッセージに、

人間世界を超えた絶対者の存在に圧倒されるかのような思いで拝聴したのです。



当時の私は、期待や希望を抱いて入学した高校生活が馴染めず、

厚い壁に阻まれていたのです。


その原因を友人や家族のせいにして非難したり、

自分の足りない能力に失望して自己嫌悪に陥ってはもがいていたのです。


丁度あの病人が競争原理の中で挫折しては他者を批判し、

自己憐憫の敗北感に38年間打ちのめされていた姿と、

その時の私の姿とが見事にオーバーラップしたのです。


「病人は答えた。『主よ。私には、水がかき回されたとき、

池の中に私を入れてくれる人がいません。

行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。』」

(ヨハネ5:7 )



そんな只中に置かれていた彼に主は、

「良くなりたいか」(6節)と

問いかけられたのでした。


良くなりたいのはもちろんのはずです。

でも38年間という長期間は、その希望を彼から剥ぎ取っていました。


その彼対して、病の現実よりも、他者との競争よりも、

優しく「良くなりたいか」と語りかけられる主に

信仰の目を上げるようにと迫られたのだ、

というメッセージは、私に強烈なインパクトを持って迫って参りました。


さらに主は、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」(8節)と言われて、

彼の病を瞬時に癒されておられます。


主のお言葉に応答するなら、

それまでの生き方とは違う、

別個の次元の生き方が開かれるのだろうか??


そのような、漠然とはしていましたが、

抗し難い迫りを感じながら、信仰の挙手決心に導かれたのでした。


以来、30年以上の月日が経過しました。

あの時の決断・決心は、生涯で最も大切で意義あるものであったと、

今振り返ることが出来ます。

主はそのお言葉通りに、

信仰を持ってついて行く者に良いことをして下さるお方でございました。


その後の歩みの中でも壁に突き当たる度ごとに、

「良くなりたいのか」と問いかけられて来たようです。

見える現実に失望することから、語りかけられる主のお顔を見上げ、

主が実現してくださる恵みの御業に参与させていただいて来ました。


あの特別伝道集会の結論に語られていた聖句を最後にご紹介します。



「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。 (マタイ11:28 )」


この約束のお言葉は確かであると、

その後の30年以上の信仰生活から証言できます。


くびきを共にするように、主イエスと共に歩いた30数年間でした。

その歩みは、心地よさと安らぎとに溢れたものでした。

そして重荷を主のもとに降ろすこと、

降ろしても良いことを日々学ばせていただいております。





ヨハネ福音書5章1~8節

1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。


2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、

ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。


3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、

やせ衰えた者たちが伏せっていた。*


5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。


6 イエスは彼が伏せっているのを見、

それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」


7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、

池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、

もうほかの人が先に降りて行くのです。」


8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」







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