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イスラエルの聖書的視点

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昨年11月にヨルダン・イスラエ... 昨年11月にヨルダン・イスラエルを研修旅行したときのものです
ネボ山から約束の地を見下ろしました。
モーセはここで死を迎えました。
カイザリヤの円形競技場、地中海... カイザリヤの円形競技場、地中海を望んで。 ガリラヤの丘の上で。 山上の垂... ガリラヤの丘の上で。
山上の垂訓教会。
RJCの一つのセクションを私も担当しました。

演題は「イスラエルの聖書的視点」

パンフに載せた紹介文は、
 「ユダヤ人は今日でも選民と言えるのでしょうか?今も約束の地としてあの地をイスラエルに与えていると聖書は教えているのでしょうか? 置換神学とは? 二契約神学とは? 今年11月に行ってきたイスラエル旅行を報告しながら、聖書が教えているイスラエルとクリスチャンを通じての神の全人類救済計画について確認します。」

以下はPPTによる原稿です。

Ⅰ.イスラエル国の概観
①現在のイスラエル
  人口:770万人、政治形態は共和制、
  主な宗教はユダヤ教(キリスト教は2.1%)

②聖書のイスラエル人観
 「聖なる民」、「選ばれた、宝の民」(申命7:6)
 「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(Ⅰペテロ2:9)
 *Ⅰペテロは、ディアスポラのユダヤ人に充てられて書かれたものである。
 *これを「教会」や「クリスチャン」に置き換えて解釈してきたキリスト教会の伝統がある。この立場が置換神学である。

③イスラエル建国への経緯
 *19世紀のシオニズム運動。ロシアやポートランドでのポグロム(ユダヤ人虐殺)との反ユダヤの欧州から祖国に帰還するユダヤ人が起こされた。各地でのキブツ・共同体の形成。
 *ナチスによるホロコーストで600万人の虐殺数十万のユダヤ人難民の受け入れのため、1947年、国連パレスチナ分割案。
1948年、テルアビブにてイスラエル建国宣言。
周囲のアラブ諸国の侵入・独立戦争、1949年に停戦。  

④イスラエルの現状
 *2012年11月。国連総会でパレスチナ政府を「国家」に格上げ議決案の採択
 *ガザを支配するハマスはイランから長距離ミサイルを輸送、テルアビブやエルサレムが射程距離内に入る
 *周辺アラブ諸国の不安定。エジプトのムルシ大統領はムスリム同胞団(ハマスの母体)出身で、シャリーア(イスラム法)をベースにした憲法修正案を提出。
 *イスラエル国内のメシアニックジュー。
  約1万人。それでも建国時の数人から現在は飛躍的な増大。信教の自由が保障されているが、ユダヤ教正統派からは嫌がらせ等の迫害がある。


Ⅱ.聖書の舞台の地・イスラエル

*イスラエル人(ユダヤ人)とは?
*聖書のどこからイスラエル人物語が始まるのか?
*アブラハムの生まれ故郷とはどこか?
*どこに行くようにと告げられたのか?
*神の御告げは、契約の形をとっている

   ~アブラハム契約 創世記12章1~3節 ~
「12:1 主はアブラムに仰せられた。 「あなたは、 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。
3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。」

Ⅲ.アブラハム契約の概観
  ~命令形が2度、 それそれに付随する祝福が3度出てくる~

1.「行きなさい」(1節)
 ①A.は大いなる国民(=イスラエル)となる
 ②A.は神の祝福(霊的にも物質的にも)を受ける
 ③A.の名は大いなるものとなる

2.「祝福の基となるように」(2節・新共同訳)
 ①あなたを祝福するものをわたしは祝福する
 ②あなたをのろうものをわたしはのろう
 ③地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。
  *それはA.の子孫であるメシアを通じて成就する(イザヤ42:1)
  *異邦人が霊的祝福を受ける基盤がここにある(ガラテヤ3:8)

  ~アブラハム契約の締結  創世記15章7~18節~
7 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」
8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」
9 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」
10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。
11 猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。
12 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。
13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。
15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。
16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」
17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。
18 その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。

Ⅳ.アブラハム契約の特徴

*聖書の契約概念の骨組み、人が救いを得るための土台
*創世記には繰り返し22章まで7回に出現。
*3大条項
 ①土地に関する契約
 ②子孫に関する契約
 ③祝福に関する契約
*片務契約であり無条件契約
*永遠の契約
*ゆえに現在も有効である
#救済

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RJC 第一夜 講演備忘録

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総責任を担われている、Don ... 総責任を担われている、Don Wright 和歌山県・三段壁の自殺防止ネッ... 和歌山県・三段壁の自殺防止ネットワーク代表・牧師でもある
藤藪 庸一(ふじやぶ よういち)先生


主講師の藤藪 庸一(ふじやぶ よういち)先生による講演。
http://with-you-wakayama.jp/hp/message/message_3.php

私は、23歳で牧師となりました。
4月から今の教会に赴任すると、
早速4月5日に三段壁から電話がありました。

急行すると50歳少し前の方がいて、
私の足のつま先から頭の天辺まで眺めて言うのです。

「お前に何がわかるんだ……」

「……………」

「俺はやはり死ぬことにするよ」

先生は彼の前に座って、
行く道を防いだのだそうです。

二人で面と向き合って対座し、
彼の話を聞き続けました。

先生が帰ってしまえば
彼は三段壁から飛び込んでしまうかもしれない。

そこで、
1時間、2時間、3時間、、

ついに翌朝を迎えました。


観光客がやってくる時間になりました。

50歳ほどの男と、26歳の若者が対座している。

これは滑稽な場面に違いない。

先生はそれを利用することにしました。

「ココでは恥ずかしいから僕の家に行こう。

「…いっていいのか?」

「いいんです」

「本当にいっていいのか」

「いいのです」

これを3回繰り返しました。

自宅で朝食を済ませたあと身の上を聞くと、
彼が3回も「行っていいのか」と繰り返し聞いた理由が分かりました。

彼には帰る家がない…
どこにも行くところがない…

牧師がすでに「来ていい」と言ったんだ。

どうする?

「あんたどうするつもりねん?」
妻の目は無言で先生にそう言っていたそうです。

奥様は先生より信仰深く、
「家に留めるしかないんでしょ」
と結論を先に言ってくれたのだそうです。

それから2歳の赤子のいる3人家族の牧師家庭に
その方が共同生活をするようになりました。

以来十数年間、
自殺未遂の方が牧師家庭からいなくなる日はありませんでした。

近所にアパートを借りながら最も多いときで26人、
現在では5名の方との共同生活が続いているのだそうです。

年間に百名ほどの自殺未遂者をレスキューするのだそうですが、

「@@名を救出しました」
「@@名と共同生活をしています」

というのは結果でしかない。

結果を生み出すのは、当人にどこまで付き合うかにかかっている。

どこまで自分の時間を犠牲にできるか。
どこまで自分の家庭を犠牲にできるか。

その一瞬の選択の積み重ねに結果がある。

一瞬がすべてを決する。
すべては一瞬にある。
#救済

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RJCが始まりました。

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Rocky & Mar... Rocky & Marla ご夫妻 毎集会、歌い継がれたワーシップ... 毎集会、歌い継がれたワーシップソングとオリジナルの賛美で
私たちの心を神様に引き上げてくれました。


木曜から3日間、Reaching Japanese for Christ(RJC)
が開催されました。

米国内のボストンやテキサス、シカゴやカリフォルニアはもとより、
日本国内からも多彩な顔ぶれが集まります。

年に一度、日本人伝道に励んでいる者達の
ネットワークを広げ、強固にするためのファンファレンス。

ワーシップソングのリードは、
Rocky & Marla ご夫妻。

日本、メキシコ、イスラエル、インド、ルイジアナ等各国のアクセントで歌う
「イエス様はあなたを愛している」
賛美歌が良かった。

#救済

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カルビン主義とアルメニウス主義はキリスト教界を二分してきました

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ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。
http://hosannamin.org/jpn/page/home

マタイ福音書連続講解説教27  マタイ11章25~30節
「メシアへの応答―その③:幼子たちの受容」
{メッセージからの抜粋}

マタイ11章は、メシアに対する人々の応答が書かれている所です。

第一セクションでは、先駆者・バプテスマのヨハネの応答、
第二セクションでは、ガリラヤの町々の応答、
そして今回第三セクションでは、これらのまとめに加えて
賛同者達の応答を扱います。

❶ガリラヤ伝道のピークを迎えつつある時
そのとき、イエスはこう言われた。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。
これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、
幼子たちに現してくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」
(マタイ 11:25-26)

この節にある「そのとき」とは「カイロス」で、
質的なクライマックスの瞬間であります。

福音のために神の国に漏れまいと
激しく攻める賛同者たち(12節)に対して、
多くのガリラヤの町々の大多数の人たち(23節)は
主を拒絶しました。

成果の少なかった宣教活動に対して
主は落胆されたでしょうか?

いいえ、驚くべきことに、
ここで父なる神を「ほめたたえて」おられます!

主が父なる神に対して賞賛の言葉を語られているのは、
聖書の中で数回しかなく、とても珍しいのです。

❷父の御心を喜ばれるメシア
乏しい宣教の結果を見て、
それは方法や人材に問題があったからではなく、
「御心にかなったこと」であり、
全く賛同されての賞賛でした。

神の国の啓示=救いに至る道は、
「賢いものや知恵あるもの」に対しては隠され、
「幼子たち」に対しては現されたのです。

ここでの「幼子たち」とは比喩的表現です。
偏見のない素直で柔和なこころ、
純粋な真理に対する知識欲のある者たちに
福音は啓示されてきました。

なぜ啓示された神の国を
その人々は受容できたのでしょうか?

当時ユダヤ人がイエス様をメシアであると告白するならば、
ユダヤの共同体から追放される村八分とされました。

そこまでの犠牲と不利とを承知の上で
信者となったのは
体制側のパリサイ派や律法学者たちからも現れました。

ニコデモであり、アリマタヤのヨセフです。

職や生活を犠牲にできるほどの、
より価値高い真理とは、
「父なる神を知る」(27)ことでした。

その「知る」ことを得たのは、
「子が父を知らせようと心に定めた」
ゆえであると主は言われます。

つまり、主イエスの先行する御心なしに
だれ一人として
父なる神の啓示を受け止める者なく、
救いに至る者はありません。

神学的に神による選び、予定論といった深いテーマです。
これは宗教改革者の一人のカルビンがまとめ上げた教理です。

「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。
それで、父のほかには、子を知る者がなく、
子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、
だれも父を知る者がありません。」 (マタイ 11:27)

❸カルビニズムとアルメニアン主義
「神による選びなくして人の救いは無い」
これは聖書が明確にしている教理です。

「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、
だれもわたしのところに来ることはできません。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
(ヨハネ6:44 )

これをもう一歩進めるとどうなるでしょう?
「人が救われないのは、神がその者を選ばれていなかったからだ」
「神はある人々を救いに、ある人々を滅びに予め選ばれているのだ」

これは二重予定説と言われるもので、
カルヴィンから後世の神学者たちがたどり着いた結論です。

人間の論理的思考からはそのような結論となるでしょう。
しかし聖書は二重予定説を教えてはいません。
カルビンもそのことまでは言っていないのです。

一方イエス様はその直後にこう言われました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイ11:28)

ここでは全ての人に対して「来なさい」と呼びかけておられます。
私たちの意思に訴えておられるのです。

人は自らの意思により決断し、
立ち上がり、
歩いてイエス様の下に行き、
信じなくてはならないのです。

神が強制的にあなたを
信仰に追いやることはありません。

神様はあなたの同意無くして
あなたの心の領域に一歩たりとも踏み込むことができないのです。

すると人が救いに至るのは、
その当人の意思が必要であることも明らかです。

この自由な人間の意志という側面に着目した神学者が
アルメニウスです。

しばしばこのアルミニウス主義は
カルバン主義と対峙するものとして取り上げられます。

これはキリスト教世界を二分してしまう神学的テーマであり、
現在でも議論が続けられています。

それではどちらが一体、聖書的で正しいのでしょうか?

私の答えでは、両方とも正しいのです。
双方とも聖書が明白にしている教えだからです。

ただ人間的な論理で割り切れない要素があることを
認めなくてはなりません。
論理的に一方のみを追求しすぎると、
脱線してしまいます。
二重予定説はその良い例です。

神による選びと
人間の意志論は
相反する論理ですが、
これを神にあって調和する一つの教えとして受け入れるのです。

厳密な意味で理性的には
理解しえないものです。

これを信仰の飛躍により受容するのです。
聖書がそのように啓示していることを
私たちは受け止めるのです。

私たちの創造主は、
私たちのちっぽけな頭の理解の中に収まる方ではありません。
究極の意味で人が完全に理解しえない神の神秘に属する事柄です。

一方を強調するあまり、
他方の神学的理解をもっている教団・教派を異端視してしまうのは
賢いものではありません。

三位一体という、神の存在のあり方そのものが神秘です。
主イエスには100%の人間性と、
100%の神性とが
矛盾することなく調和を保って宿っておられる
というのもまた神秘です。
#救済

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バプテスマのヨハネはエリヤなのか

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ホサナ教会・聖書広場での今日のメッセージでした
http://hosannamin.org/jpn/page/home

マタイ福音書連続講解説教25  マタイ11章1~15節
「メシアへの応答―その①:バプテスマのヨハネ」

マタイ11:1 イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。
2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
5 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
6 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」
7 この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
8 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。
9 でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
10 この人こそ、 『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、 あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』 と書かれているその人です。
11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。
15 耳のある者は聞きなさい。


❶問題提起
かつてバプテスマのヨハネはパリサイ人たちから「あなたはエリヤですか」との質問を受けました(ヨハネ1:21)。
メシアがくる前にはエリヤが来てその道備えをするという預言を彼らは知っていたのです。
「 見よ。わたしは、 主の大いなる恐ろしい日が来る前に、 預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、 子の心をその父に向けさせる。 それは、わたしが来て、 のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(マラキ4:5-6 )
これは旧約聖書最後の聖句としても有名です。
ヨハネはその問いに「違います」と即答しています。
一方イエス様は「あなた方が進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、来るべきエリヤなのです」(14節)とここで言われています。
一見すると、明らかに二人の認識には矛盾が見られます。

しかし、学びを深めていくと両者には何の矛盾のない事が分かります。
その学びとは、表層・文学的な聖書の読み方だけでは追いつかないものです。
神の人間の全歴史への干渉をトータルに俯瞰する見方を養うことが必要となります。
つまり終末的視点です。
誰もが分かることではないし、理解するにはそれなりの注意深さや時間が必要とされるので主は結語のようにして語られました。
「耳のあるものは聞きなさい」(15節)

❷預言理解の限界
当時の人々はメシアが2回にわたって来られることを理解していません。
一般民衆も十二使徒たちもヨハネ自身も、メシアが来られたのなら、たちまちにしてメシア的王国が成就されると期待していたのです。1度ですべてを成し遂げると。
後世の私たちは、神の国の進展プログラムをより明確に俯瞰できます。
最初は受難のメシアとして、死ぬために来られた事。
2回目は王なるメシアとして全世界を統治し、不従順な者たちをさばいて、メシア的王国を確立されるために再臨されること。

捕えられて獄中にいるヨハネからすれば期待していたメシア王国がいつまで経っても成就しない中で、イエスへのメシア信仰がぐらつき始めていたのです。
それが今回の記事に見るヨハネの質問となって現れました。
「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」  (マタイ11:2-3)

メシアが2回にわたって地上に来られるとすると、預言成就のためにはバプテスマのヨハネも2回にわたって来なくてはならない。
ここで主が言われた「あなた方が進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、来るべきエリヤなのです」(14節)の意味が分かって来る。
当時ユダヤ人たちがイエスをメシアとしてして受け入れていたのならその時点でメシア王国が完成していたのであり、2回目の再臨は必要でなくなり、ヨハネはエリアとしての役割を果たし得ることになるということです。

❸将来再び来られるエリヤ
将来の大艱難時代の中で2人の証人が力強い働きをすると黙示録に預言されています。
この2人のエルサレムでの働きにより主イエスの再臨が準備されます。
このうちの一人が「この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、」 (黙示録11:6)とあることから、エリアである可能性が強いです。
そして他の1人は、モーセである可能性が強い。

神様の啓示は、時代の進展とともに私たちにより多く与えられてきました。
ある時点では分からなかったとしても、神の預言は一寸も違うことなく全て成就します。
それは歴史を振り返ってから分かることです。
そして今まで矛盾することなく成就してきました。

マタイ福音書17章で主はさらにヨハネについて次のようにに言っておられます。
「そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」
11 イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。
12 しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
(マタイ17:10-13)
12節は過去形です。ヨハネがすでに登場して、そのエリヤとしての働きを終えています。
11節は未来形です。旧約聖書で天に引き揚げられたエリアが登場するのは、将来の再臨前に起こることだからです。
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受験競争からの教訓

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ホサナ教会・聖書広場(1月20日)からのメッセージ
http://hosannamin.org/jpn/page/home

マタイ福音書連続講解説教24  マタイ10章24~10章42節
「メシアによる12使徒の派遣―その③」

今回はマタイ10章から3回目の学びです。
この箇所を3つに分けて学ぶことができます。
Ⅰ 弟子としての心構え(10章24~33節)
Ⅱ 弟子としての道(10章34~39節)
Ⅲ 弟子としての報い(10章40~41節)

メッセージ・ノートのイントロで詳細してますが、ここでの主イエスからの教訓は、弟子たちに対するものであることを確認しなくてはなりません。
弟子と信者とは違います。
ガリラヤ伝道で多くの人が信者となりましたが、彼らの思惑に当てはまらないと分かると、彼らは主の元を離れていきました(ヨハネ6:67)。
その群集がやがて「十字架につけろ」と叫び出すのです(マタイ27:23)。
一方、弟子たちにはやがて天の御国での確かな報いが約束されています。
主の働き人のために、たとい水1杯でも与えるなら、決して漏れることのない報いとあります(マタイ10:42)。

話はここで変わりますが、大学センター入試が終わり、今日の朝刊にはその模範解答が掲載されています。
そして新聞一面を使った広告に、ある予備校のコピー文が掲載されていました。
  「自分の夢まで、自己採点しないでください」
うまいこと言うなぁ、と感心しました。
受験生たちは過去の勉強の積み上げの結果、現在の試験結果があります。
その結果の自己採点がたとい厳しいものであったとしても、夢を捨てずに将来に向かってほしい、というメッセージなのでしょう。

私たちは現在を生きているつもりでも、多くの場合、過去を引きずって生きています。
過去に上手くいかなかったことや失敗したことを忘れることができずに、今回もどうせ上手く行くはずない、と潜在意識が決めつけてしまうのです。
思考が行動の枠をはめ、成功への道筋にブレーキをかけてしまうです。
スポーツの世界で、その枠を取り去る試みがイメージトレーニングです。
うまくいったシュミレーションを頭の中で繰り返すことにより、成功行動の先取りをしようとするものです。

クリスチャンには強みがあります。
未来が、現在の私を引っ張るという強みです。
主イエスからの赦しをいただき、やがて復活して天の御国を受け継ぐという事を知っています。
約束されている将来の保証に今を生きるのが、私たち信仰者です。
そして貴方が主のためにしたどんな小さな事も記録されていて、やがてそれに対する正当な報いを受けるのです。
主のために行った信仰の業は投資であり、どんな上場企業も及ばないリターンを受けることになっています。
私たちは将来のこの希望に向かって、今の信仰生活を生きるのです。
主の御心に従う、弟子としての道を。

ちなみに主ご自身も、将来に約束されている報いのゆえに、厳しい信仰の道を全うされました。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 (ヘブル12:2 )」
父なる神様のところで受ける栄誉がある。その喜びゆえに、十字架をも忍ぶことができたというのです。
将来の報いが主を支えたのです。その点でも主は信仰の完成者です。
#救済

ワオ!と言っているユーザー

名刺にある肩書きでは人の内部までわかりません

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マタイ福音書連続講解説教19  マタイ9章1~13節
「メシアの5つの力ある業―その①」

{ホサナキリスト教会・聖書広場メッセージからの抜粋}

マタイ福音書9章には、イエス様がなされた5つの論争が書かれています。本日は1番目のパリサイ派との論争、そして本福音書の著者であるマタイの召命について学びます。

ところで人間にとって最も恐ろしいこととは何でしょうか?
あなたの人生で最大の危機と言えるものがあるとすれば、それは一体なんでしょうか?

明日から私は聖地旅行に出発します。
イスラエル軍がガザ地区を攻撃しており、ガザからのロケットがイスラエル国内に着弾していることから、危険視される方がいます。
昨日、1人の方がそのことでキャンセルをされました。直前にキャンセルをされても、現地旅行料金が返金されないのです。
楽しみにしていた旅行も、数十万円の費用も捨ててしまうのは、命の危険を感じるからだと思います。

人間にとって死が最大の危機であり、忌むべきものであり、敵であります。死を前にすると、私たちは恐怖を感じざるをえないです。
その理由は、死の向こうにある何かを本能的に知っているからではないでしょうか?死が全ての終わりでなく、死後に神の裁きを受けなくてはならないと聖書は教えるのです。
罪を持っている人間は、その裁きの座に立ちないことを感じ取って恐れるのです。

パリサイ人との論争から、主イエスは私たちの罪を赦す権威を持っていらっしゃることが明らかとなりました。
中風で歩けない人を癒された主は、罪を赦すことができることをその場で示されました。その場に居合わせた人にとってより大きな奇跡(中風を瞬時に癒す)を示された今、より小さな事(罪の赦し)は言うまでもないことが明らかとなりました。これがラビしてのイエス様がなされた論法です。大きなことを克服できるなら、それよりも小さなことは言うまでもない、という論理です。

この論法に従って次のことが言えます。
主イエスにあって最大の敵である死を乗り越えた私たちは、今やその他の問題は楽勝であるというものです。
私たちには経済問題や家庭問題、社会での人間問題など、生きている限り不可避な問題が襲ってきます。
その時、死とその後の裁きについて主が勝利を与えて下さっいるのを覚えようではないですか。
これらはそれ以下の問題なのですから、これらのことについても助けをいただきながら乗り越えることができます。

次にマタイが弟子としてイエス様に呼ばれたことから、主が私たちの心を全てご存じであられることを学びます。
当時、取税人とは独特の響きを人々に与える職業人でした。
売国奴であり、汚れた者であり、村八分にされてその人間性までも疑われていました。
そのようなマタイに、主は声をかけられました。
主のお言葉に即座に応答していることから、彼がその時まで彼自身の人生について葛藤をしていた事が分かります。

それまでのマタイの価値観は、
❶聖書の神よりもローマ帝国の権威を優先し
❷同胞ユダヤ人との絆よりも一人ぼっちの経済的利益を優先し
❸来る千年王国よりも現世の生活を重視する刹那的なものでした。

そのような生き方に限界を感じていた彼に、主は弟子としての召しの声をかけられたのです。

主はあなたにも同様に声をかけて下さるお方であられます。
主はあなたの職業的肩書やレッテルで判断されずに、あなたの心の迷いや葛藤、あなたの本当の願いをご存知の上であなたに声をかけ、招いておられるからです。
#救済

ワオ!と言っているユーザー

主イエスから力を引き出すものは何でしょうか?

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ホサナキリスト教会・聖書広場
マタイ福音書連続講解説教20  マタイ9章18~26節
「メシアの5つの力ある業―その②」

{メッセージからの抜粋}

先日聖地旅行から戻ってきました。

イエスが十字架にかけられたゴルゴダの丘に、現在では聖墳墓教会が建っています。その十字架がしばらく保存されていたことをガイドさんから伺いました。やがて人々はその十字架を有り難み、細かく切り刻んでエルサレム中のキリスト教会に配ったのだそうです。各教会でばその小さな木片が神のように扱われ、偶像化していきました。

かつてモーセが荒野で上げた青銅の蛇もまた大切に保管され、これが人々の注目を集め、これが祈りや礼拝の対象と偶像化して行ったのでした。

今日もしイエス様の十字架が残っていたら、もしモーセの青銅の蛇が残っていたら、もし契約の箱が残っていたら、そこには大勢の観光客が群がり、それらを神のように有り難く扱ったことでしょう。

ところがそれ自体には、何の効力もご利益もありません。
ただの木片と鋼、工作物に過ぎません。

本日の聖書には、12年間も婦人病で苦しんでいる女性が出てきます。
「お着物に触ることができればきっと直る」(21)
そう考えた彼女がそっとイエス様の背後から着物の裾に手を触れました。
ルカの福音書の平行記事には、「するとたちどころに出血が止まった」とあります(ルカ8:44)。
そしてその瞬間イエス様ご自身も「力が出ていくのを感じた」とおっしゃっておられます(ルカ8:46)。

イエスのお着物自体に、特別な病を癒す効力があったわけではのです。
大勢の人々がイエス様の体をひしめき合って押していましたが、彼らには何の変化もありませんでした(8:45)。

それでは何が彼女にだけイエス様の癒しの力を働かしめたのか。
その理由を、主ご自身が明らかにされておられます。
「あなたの信仰があなたを直したのです(マタイ9:22)。」

彼女は主イエスを旧約聖書の預言するメシアであると信じました。
メシアであるならどんな不治の病も、死でさえも克服することのできるできる方である、というのがユダヤ人の共通理解です。

その彼女の主イエスに対する信仰が、病を直したのです。
ここで「直す」というギリシャ原語は、ローマ書の中で「救う」という言葉として使われているものと同じです。

すなわち私たちが主から救いをいただくのも、同じ原理です。
著名な説教者の感動する話や、洗礼という儀式が人を救うのではありません。
あなたの主イエスに対するメシア信仰が、あなたを罪から救うのです。
メシアとして主イエスは、
❶十字架により死に追いやられ
❷よみにまで下り
❸三日目に復活された方です。
#救済

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悪霊が閉じ込められる場所には2種類あります

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ホサナキリスト教会「聖書広場」からの抜粋です。
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マタイ福音書連続講解説教18  マタイ8章18~34節
「メシアの5つの力ある業―その②」
{メッセージからの抜粋}

 これまで8章で3つの力あるメシアの業を見てきました。
その結果、主イエスの弟子になりたいと志願する人が二人現れたのです。
結論から言うと、その二人に主は不合格の認定をされています。
「どこにでもついていきます」という律法学者に対して、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言われて、献身には犠牲が伴うこと、その覚悟ができていないことを告げたのです。
パフォーマンスに魅せられて追従するだけの者に、神の国での働きは不向きです。

 ここで主がご自身を「人の子」と自称されているのに注目しましょう。
これは主が多くの場合で使われてた呼称ですが、ダニエル7章13節から、メシア称号であることがわかります。ただ旧約聖書知識が充分でなかった一般民衆(彼らに印刷された聖書はないのですから、安息日に会堂で朗読されるのを聴くだけでした)にはそれが隠されていたことでしょう。政治的でローマ帝国から解放する王として祭り上げられるのを防ぐ意図があったものと言えます。

 弟子たちのイエス理解も乏しいものでした。
それはガリラヤ湖で起こった嵐の際に露(あらわ)となります。
主が嵐に命じられると大なぎとなったので、彼らは「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と畏怖します。
自然界を造られた創造主がその一端をコントロールするのはたやすいことですが、通常の人と変わらない2本足で歩き、疲労のため船の中で眠りこけている青年がその神ご自身であられると言うメシア理解に至るには、まだまだ訓練が必要でした。

 その弟子たちによりも、悪霊のほうがより正確なメシア理解をイエスに対して持っていました。
ガリラヤ湖対岸のガダラ人の地に上陸した一行に、二人の人に乗移った悪霊どもが出会います。
悪霊どもは主イエスのことを、神的権威を持たれた神ご自身であると認識していることが分かります。

① 彼らは主を「神の子よ」と呼んでいます。聖書では御使いや信者にもそのことばが使われている場合がありますが、その場合、常に集合名詞として複数形で使われています。ここで悪霊が使った呼び方は、イエスが神ご自身であられること、つまり第二位格の子なる神・メシアであることを知っているものです。弟子たちに勝るメシア理解です。

② 「その時ではないのに、もう私たちを苦しめにこられたのですか」と言っています。彼らはやがて神の白い御座の前に引き出され、宣告を受け、苦しむ時が来る事(黙示20:10)を知っているのです。それまでにはまだ猶予期間があるではないか、との主張です。

③ 「底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った」(ルカ8:31)。「底知れぬ所」とはアビス(ギリシア語ではアブソス)という固有名詞が使われている悪霊どものために設けられた特定の幽閉場所です。そこはサタンとともに千年間縛られるところ(黙示20:2~3)でもあります。この千年期が過ぎた後に、火と硫黄の燃えるゲヘナで永遠の刑罰を受けることになっています。

「彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所(アビス)に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」 (黙示録20:2-3)

④ついでながら現在暗躍している悪霊どもよりもさらに凶悪な悪霊どもは、タータラスに閉じ込められています。このタータラスも固有名詞ですのでそのままギリシア語表記した方がよいのですが、ユダ6では「暗闇の下」と訳されています。また同じタータラスがⅡペテロ2:4にも使われており、それとの関連からそこに永遠の束縛を持って幽閉されているこれらの堕天使は、創世記6章の「神の子たち」であることが分かります。人間の女性と婚姻関係を結んでネフェリムというけったいな悪霊と人間との混血を生んだ悪霊たちです。彼らは「女の子孫」(創世記3章15節)の誕生を阻止するためにそのような越えてはならない一線を越えた凶悪犯罪者です。それゆえ神様は大洪水と言う非常手段に訴える事になります。「女の子孫」=メシアの誕生を確保するためです。タータラスの悪霊たちはすでにさばきが決定されていて、千年王国の後にゲヘナに直送されます。

「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下(タータラス)に閉じ込められました。」 (ユダ1:6)

「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中(タータラス)に閉じ込めてしまわれました。また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」 (2ペテロ 2:4-5)

結論:私たちはどれくらい主イエスの権威を認め信頼を置いているでしょうか。

1. あなたの優先順位において
 たとい犠牲を伴うことがあったとしても、主の弟子となる覚悟はあるでしょうか。それとも自分の都合を優先してしまうものでしょうか。
救いは恵みによって与えられるもので、自己犠牲が条件ではありません。ただ無代価で救われた者は、主の召しがあるときにこれに応えたいと願うものです。

2. あなたの専門(プロフェッショナル)分野において
 ここだけは私がよく知っているので私のしたいとおりにさせてくれ、という分野がおありでしょうか。イエス様よりも自分の判断で決め込んでしまっている領域です。そうであるとしたら、あなたは主の権威をないがしろにしている事になります。
船や海のことなら大工であった主イエスより、漁師の自分たちの方が詳しいと自負していた弟子たちでした。しかしあの嵐の中、主の自然界に対する権威に驚くことになったのです。

3. 主は「神の子」として人と堕天使とを最後に審判される方であられます。
 人の死後における最後の審判です。そこで天国か、火の池に行くのかが決められる厳かな瞬間がやってきます。
「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方」(マタイ10:28)を畏れようではありませんか。

#救済

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ヘブル書聖書研究:4:1-11 「安息に進みなさい」

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ホサナキリスト教会HPから
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ヘブル 4:1 こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
3 信じた私たちは安息に入るのです。 「わたしは、怒りをもって誓ったように、 決して彼らをわたしの安息に入らせない。」 と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。
5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。
6 こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、
7 神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、 「きょう、もし御声を聞くならば、 あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」 と語られたのです。
8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
10 神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
11 ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。


「安息」…これは何とも得難い財産ではないでしょうか。
「平安」と言い換えた方がより一般的で分かりやすいかもしれません。
それはどんなにお金を出しても買うことができず、どれだけ高い地位についたからといっても得られるものでもありません。
今回の聖書箇所は、神様が私たちに安息を約束してくださっていることを教えています。

3章と4章に多くの安息ということばが出てきますが、このギリシャ語には二つの異なる言葉が使われています。
❶katapausinー行動の停止を意味する言葉です。
本書に9回使われていますが(3:11,18; 4:1,3(2回),5,8,10,11)、それ以外は新約聖書に1回出てくるだけのことば(使徒14:18)です。
なお、新改訳聖書では、3:19,4:6も「安息」と訳していますが原語にはなくて代名詞(it)が使われているに過ぎません。

❷sabbatismos(4:9)ー安息日の祭り、祝福を意味していて聖書全巻でここだけに使われていることばです。
日常の活動を停止することよりもむしろ、人生を支えている主なる神を誉め歌い、妨げられないもとでの祝いの機会を意味します。

これら「安息」が10回(代名詞を含めると12回)使用されている聖句を注意深く見てみると面白いことに気づきます。
その安息が何を意味するかで、動詞の時制が変わってくるのです。
3つの異なる時制が、それぞれ異なる安息を意味しています。

❶過去時制(アオリスト)の時には、個人的で霊的な救いを意味しています。
❷未来時制の時には、天の(メシア)王国を意味しています。
❸現在時制の時には、霊的な成熟を意味しています。

4:1
カデシュバルネアの先祖達のように、この手紙の読者たちには「神の安息に入るための約束はまだ残っているのです。」
この安息は救いではありません。読者達はすでに信者となった人たちです(3:1)。また将来の天にある王国でもありません。危急の迫害下にあって将来を論じても無益ですし、カデシュのイスラエル人の目前に横たわる約束の国のひな形は将来のメシア王国ではないのです。
これは現在所有できる信仰(生活)の安息を意味します。主を信じて従うものに楽しむようにと約束されている祝福です。

4:3
「わたしの安息」、つまり神様の安息ですからこれは天地創造のときの安息です。神様が創造の6日間働かれて、次の日に休息を楽しまれました。
「信じた私たちは」…これは過去時制であり著者と読者を言及。そして「安息に入るのです」と現在時制に変更してます。彼らは霊的な安息に入りつつあるのです。すでに信じたのですから、この創造の安息に入るのを始めたのです。進行形です。だからユダヤ人信者はこの安息が提供する楽しみを味わい尽くすために、信仰を発揮し続けなくてはならないのです。

4:4
創世記2:2から引用して創造の安息について教えているこのところは、仕事が完成した、という点を表しています。これはメシアの働きによって贖いの安息が完成したひな形となります。また信者にとってもやがての将来、地上での働きを終えて天の御国に帰ったら、この「創造の安息」を体験するのです。

4:5
ここでの安息は地理的な救いの意味です。ヨシュアによって導き入れられる約束の国のことです。そこではこれまでのような奴隷生活でも放浪生活でもなく、安定した自由の民としての定住生活があり、それを「安息」と呼んでいます。

4:6-7
ここでは適応しているのを見ます。
出エジプトの世代は安息に入ることになっていたにもかかわらず、失敗しました。でも神様は御自分の目的を放棄されないのです。そこでもう一つの招きを始めたのがダビデによる詩篇95篇で、それが「きょう」という日に備えられている安息に入るよう進めたものです。そこへは信仰によって入るものです。イスラエルは不信仰と不従順により入れなかった。にもかかわらずに神は再び招いている、それはあなた方を招いている、というのです。
信仰により霊的な成熟の安息へ入るようにとの招きです。

「きょう」が幾度も強調されているのには理由があります。
この招きに直ちに応じなくてはならないのです。かつてカデシュバルネアが先祖達の限られた応答期限でした。読者にとり応答期限はAD70年です。もしかするとその当時、AD66年のユダヤ戦争がすでに始まっていたかも知れません。エルサレムがローマ軍によって包囲されつつあったかもしれません。本書がしばしば一度だけの、然も確固とした決断をして信仰の成熟段階に進むように読者を励ましているのは、そのような背景があります。撤回できない段階、回帰不能点に到達する前に前進しなくてはならないのです。

4:8
ここでは、現在神から提供されている安息は有効であるということです。なぜならヨシュアがイスラエルの子らに与えたのは成熟の安息でなかったからです。ヨシュアは敵からの安息を彼らに与えました(ヨシュア21:44,22:4,23:1)が、信仰により与えられる成熟の安息ではありません。
それはメシアによってのみ与えられる安息です。

4:9
先述してあるようにこの「安息」は、新約聖書でここだけに出現しているsabbatismosという語句です。祝祭的な意味を持ち、創造の7日目に起源を持ったものです。理想的な安息であり、神により備えられていて、きょう、信仰により所有できるものです。それは神の目的を十分に満たした後に獲得できるある特定のステージに達したことを意味します。
「ホーリネス」とか、「きよめ」とか言う神学的な言葉で表現されるものです。
神様は6日間で働きを終えられ、安息に入られました。その安息は霊的な成熟のタイプなのです。原始的にイスラエルのために定められたものです(出エジプト20:8-11)が、そのシンボルとしての意味は、イスラエル人でも異邦人でも、信仰者のために残されています。すべての信仰者にとって可能な安息なのです。もし信者が信仰を貫き通して、霊的な成熟に達するなら、基本的な教えの事柄の中でジタバタ・あたふたすることのない段階です。

4:10-11
これもまた信仰によって入った者の安息について教えています。
その者は神が御自分の業を終えて休まれたように、休止する(この節にあるkatapausinの意味)はずだと言うのです。自分の努力や働きに頼るのでなく、神が安息段階に導いてくださることを全面的に信頼する姿勢。
11節にある「この安息に入るよう力を尽くして努め」という語句の強調点は安息の将来的な側面にあります。それはイスラエル民族にとっては王国であり、個々の信者にとっては天国です。しかし同時に、信者がたった今ここで経験できることでもあります。
10節の「入った者ならば」ーアオリスト時制(完了した過去形)ですので、すでにある人々が霊的な安息に入り豊かな信仰生活を享受していることを表しています。その霊的な安息は、神様が備えられた安息を信仰により受け取ることから始まります。信者は現在の安息に入るのも、将来の安息に入るのにも、共通して神により頼まなくてはならないのです。
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