「メシアの昇天」 マタイ28章11~15節 ~マタイ福音書連続講解説教 106~ ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。 メッセージ・ノートはこちらから: http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/8110105 メシアの復活とそれに続く昇天は、 私たち信者にどう関わりを持ち、その運命にどのような変革を与えたのでしょうか。 ① OT聖徒らの魂を「よみ」から天に引き上げました。 「高い所に上られたとき、 彼は多くの捕虜を引き連れ、 人々に賜物を分け与えられた。」 エペソ4:8~10 戦争で勝利した凱旋将軍が自国に帰国して栄誉を受け、 その時、敵国から貢物を受けるというモチーフが土台となっています。 詩篇68:18 ここでは、よみに下られたメシアなるイエスが 悪霊らに対して勝利の宣言をされた(Ⅰペテロ3:19)後に、 天に引き上げられた(昇天)場面に適用されています。 「捕虜」とはOT聖徒の魂であり、 よみの義人のセクションにいた人々です。 イエスの十字架により、彼らのための贖いが完成したので、 天に入る資格をこの時に得たのです。 OT時代の贖いでは罪の贖いは不十分で、 一時的に覆うだけのことでした。へブル10:4~11 さらにNT聖徒に「賜物」を与えられました。 それにより、キリスト教会の誕生に至ります。11節。 ② パラダイスが「よみ」から天に移動しました。 OT聖徒らの居住区であった「よみ」のセクションは別名、「パラダイス」です。 それが地の底から、イエスの昇天に合わせて天に移動しました。 パウロは教会時代になってから、パラダイスが第3の天にあることを告げています。Ⅱコリント12:1~4。 そのパラダイスの中に「新しいエルサレム」が存在しています。 やがて「新しいエルサレム」は新しい地に降りて来ます。黙示21:2 つまり信者の死後の世界であるパラダイスは、 時代の変遷に伴い、3回移動しています。 OT時代はよみ、NT時代は第3の天、 そして将来の新天新地の永遠の秩序においては新しい地となります。 ③ 信仰が実質のあるものとなりました。 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、 あなたがたは今もなお自分の罪の中にいるのです。 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。」 Ⅰコリント15:17~18 ある人々は天国や地獄を見てきたかのように語り、 また死後の世界は存在せず、人は死んだら消滅するだけだと語る人もいます。 生前の善悪の行為によって異なる動物に生まれ変わる輪廻を説く人もあります。 聖書が約束している復活の教えも、 これらと同レベルの作り話(フィクション)に過ぎないのでしょうか。 合理的な近代的手段をもって確かめられないことは 「信仰」の範疇に閉じ込める他ないものでしょうか? 結局のところは他の宗教と変わりなく、キリスト教も 科学的に証明できないことを信じるのは洗脳されていると判断せざるを得ないのでしょうか? Ⅰコリント15章はこれらの問いに答えています。 もし私たちがキリストに単なる希望を置いているだけなら、 その信仰に実質はなく、 クリスチャンとは全ての人の中で一番哀れなものであると言います。 イエスの復活を否定する人たちには、 私は次のように提案します。 新約聖書の福音書をお読みください。 そこに記されているイエスの教えと行い、 そのご人格を各人で直接に体験してください。 そのとき、主イエスがどういう方であられるか、 各人でオリジナルの答えを見つける瀬戸際に立たされることでしょう。 イエスは神のひとり子であられるか、ペテン師であられるか、 チョイスは、二つに一つです。 もし神の子であられると判断するなら、 そのイエスの残された言葉の信ぴょう性に目が開かれるようになります。 さらにもう1つの復活を説明している 揺るぎない歴史的事件があります。 主イエスの復活を体験した弟子たちは、 その前と比べて別人のように変えられた点です。 イエスが捕えられた際には皆逃げ出してしまった彼らでした。 復活の主にお会いするまではユダヤ人を恐れて戸をロックしていたのです。 その同じ彼らがやがて死を恐れない殉教者として 使命を全うしていくようになります。 それこそ、主の復活を否定できない合理的な理由となりました。 人は、11人が11人ともこぞってフィクションのためには死ぬことはできないからです。