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「ベタニア村での憩」

スレッド
地中海に沈む夕日。 地中海に沈む夕日。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージノートは次のリンクから:

http://hosannamin.org/whatsnew/view/611695

「ベタニア村での憩」
マタイ25章1~16節
~マタイ福音書連続講解説教95~

現在の西側民主主義国家では、
様々なことなる価値観や宗教が共存する多元化された社会です。

平和で自由が享受できる社会では、
信教や思想、表現の自由が尊重されてしかるべきです。

ところが時代が沸騰してきたとき、
そのような多元社会は他者を強要する余裕を失い、

YESかNOを迫る2分化された社会へと変貌せざるを得なくなります。

明治維新の時、開国か攘夷かで国論が二分されました。

太平洋戦争時には、戦争協力するか非国民となるか
二つに一つの道しか選択の余地がなかったのです。

世界の終末時代は究極の沸騰時期です。

このとき、世界が統一されその王であり神格化された反キリストに付き従うか、
キリストに従うかの二つの生き方しか人には与えられないと聖書は預言します。

転機的な「神の時」を迎えたとき、
人類は二分されていくことをマタイ25章から見てきました。

1.携挙の時、二分される全人類~たとえ話・25:1以下から
2.再臨の時、二分される異邦人たち~たとえ話・25:31以下から

主イエスが十字架に至る過程でも
同様に人々は二分されて行きます。


① サンヘドリンとベタニア村の対比

サンヘドリン(3~5)とはユダヤ人の最高権力機関、
つまり国会のようなところでありました。

その議長であるカヤパ(大祭司)の家の中庭にて
イエス殺害の陰謀が密かに進行しています。

一方、ベタニア村のとある家ではイエスを歓待するパーティが開かれ、
質素ながらも愛と平和に満ちたものでした。

ベタニア村はオリーブ山東麓の田舎にあり、
そこにはイエスを愛する3兄弟姉妹がいたのです。

マリヤとマルタ、
それにかつて蘇させられた(ヨハネ11章)兄弟のラザロでした。

彼らは主イエスとの最後の時を
寸秒も無駄にすることの出来ない緊張の中で

心行くばかりにフェローシップ(交友)を楽しんだのでした。
策謀渦巻くサンヘドリンとは真逆に位置していました。


②マリヤと12弟子との比較

マリヤ(ヨハネ12:3)は
結婚式の初夜に使うという高価なナルド油をイエスにそそぎかけます。

誰もがその行為の真意を理解できない中にあって、
「わたしの葬りの日のためにそうしたのです」(ヨハネ12:7)

と主は言われ、彼女の心中にあった動機をご存じであったことを告げられます。
マリヤはイエスの使命が贖いの死にあることを理解していました

それは他の12弟子らの理解できなかった領域です。

彼女は、
献身的な傾聴の姿勢から(ルカ10:39,42)洞察力を得ていました。

3年間ほど主との共同生活による実地訓練を受けてきたにも拘らず、
12弟子には主の死というゴールが受け入れがたいものでした。

これは4回目となる受難の告知の直後の出来事です。

受難のメッセージを彼らが理解できなかったのは、
自己願望や自己計画、いわゆる自我が心中に風船のように膨れ上がっていて、

神の声を聞こえなくさせているからです。
貴方は、イライラと憤慨することがありますか?

その時、あなたの心には神のことを考えるスペースはなく、
自分の都合や願いでいっぱいとなっていて、

それが満たされないので怒りがあふれ出すのではないでしょうか。


③イスカリオテのユダとイエスの比較

イスカリオテのユダは、弟子集団の会計係りであったことから
信頼も厚く、かつ計算能力のある人物であったと推定できます。

彼が最も激しく、マリヤの愛の行為を咎めています(ヨハネ12:4~6)。

過越祭はチャリティー期間でもあるので、もっともらしい理由を並べたが、
真の彼の狙いは会計の不正利用にありました。

彼の自我(願望やら計画)がとん挫した時、
険しさと怒りとにあふれてマリヤを非難しています。

主イエスが彼女を擁護したこの出来事を境にして
ユダは裏切りを決意するに至っています。

主イエスのたどる使命を知ったゆえに
~死なれるなら、自分は王国設立時の重要ポストを得られない。

主イエスの価値観を知った
~主は金銭ではなく、純心の愛をより偉大なものとし見積もっておられる。

一方、イエスの使命と献身(2)を考えてみましょう

①誕生時から背負っていた父なる神からの使命があった
~それが贖罪の死

②使命が成就されるためには二つの条件があった
「二日たつと」:OTから過越しの祭りのゴールとして死ななくてはならない。
「十字架」 :神に呪われたものとして「木にかけられなくては」ならなかった。

主イエスにとり自己の願望や計画に走るよりも、
使命に従順であることが最大の関心事でした。

そのためには、神ご自身の特権から離れることから始まり、
地上に下り、死後の世界にまで降ることを選ばれたのでした。

イスカリオテのユダと主イエスの位置関係も対極にあることが変わります。
その生涯の総決算も、対極にあるものとなりました。

ユダは自殺して、その腸が全て飛び出るというう悲惨なものとなりました。
主イエスは復活して、ご自身が神の子であることを証明されました。

さて、貴方の立ち位置はどこにあるでしょうか。
中間はあり得ま せん。

「己」を優先させるか、
主イエスに従う道を選ぶか、

二つに一つの道しか人には与えられていないのです。
#救済

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「最も小さいものたちのひとりに」

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テルアビブの夕焼け。 地中海に... テルアビブの夕焼け。
地中海に沈む夕陽は、聖書時代から変わらない景色。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージノートはこちらから:

http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/1314694

「最も小さいものたちのひとりに」
マタイ25章31~46節
~マタイ福音書連続講解説教94~

「まことに、あなた方に告げます。
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、
しかも最も小さい者たちの一人にしたのは、わたしにしたのです。」(25:40)

今回の聖書個所も多くの場合、誤解されて解釈されてきました。

「最も小さな者たち」である、
貧者や病人、旅人や牢獄にある人たちに対する援助をするのは

神に対する奉仕であり、
その善行いかんによって救いが決定されてしまうと誤解されやすいのです。

最後の46節に
「この人たちは永遠の刑罰に入り、
正しい人たちは永遠のいのちに入るのです」

とあることからしても、一見するとそのような善行が
神の裁きの判断材料となると受け止められやすいのです。

私がこの個所を高校時代に初めて読んだ時もそのように受け止めていました。
トルストイの書いた「靴屋のマルチン」にあるように、

知らずに困っていた少年や老婆を助けたマルチンが、
実は神ご自身に奉仕していたという物語と重なって読めました。

しかし、正しい聖書理解は文脈を捉えなくはならないという大原則を
ここでも強調しないわけにはいきません。

1)マタイ25章は3つのたとえ話から、
終末時代の教えを授かった者たちへの適用を教えているところです。
  1.十人の娘のたとえ
  2.タラントのたとえ
  3.羊と山羊とを選り分けるたとえ

2)それぞれのたとえ話での中心となるポイントは、
  1.聖霊を宿しているか?
  2.タラントを活用しているか?
  3.迫害に耐えたか?

これらのたとえ話は、
主イエスの携挙から始まる再臨を舞台にした神の裁きであり、

その時二つの結果を生む選り分けが行われると教えるものです。
よって、現在の教会時代にそのまま当てはめて、

貧者や病人たちの困窮者たちを助けることが
天国への条件のように解釈してはならないのです。

31節にある本たとえ話の導入部をご覧ください。

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、
人の子はその栄光の位に着きます。

そして、すべての国々の民が、その御前に集められます」

ここを読んだだけでも主イエスが地上再臨された後に
行われる裁きが教えられているのが分かります。

1)地上再臨の時に行われる裁き
  ①大艱難時代においては「戸口まで近づいていた人の子」(24:33)
  ②ついに地上に立たれる(黙示19:11~15)
  ③裁きは再臨から千年王国樹立までの
     75日間のインターバル時に行われる(ダニエル12:12~13)

2)栄光の位に着く
  ①エルサレム神殿において世界の王として着座する
  ②その時にダビデ契約が成就する・
     永遠の王座、王朝、王国が一人のメシアによって確立

裁きの内容を見てみましょう
1)全ての異邦人に対する裁き
  ①大艱難時代を生き残った異邦人が全世界に存在している
  ②彼らはエルサレムに集められ、メシアの前に立つ

2)裁きにおいて二分される全世界の民
①ご自分の右に置いた羊-
   千年王国を受け継ぐ。つまりそのまま地上での生存が許されます。
②ご自分の左に置いた山羊―永遠の刑罰に入る。
   正確にはハデス(シェオール)という苦しみの場所に死んで移される。

3)裁きの基準点はどこにあるのか
  ①「最も小さなものたち」=「わたし・イエス様」をどう扱ったか?
  ②「わたし」が置かれた状況ゆえに「最も小さなもの」であった
      空腹、渇き、旅人、裸、病気、獄中にある人たち

大患難時代の特殊環境を黙示録から理解せねばなりません。

その時には、反キリストの世界統一政府による組織的なキリスト信者や
ユダヤ人への迫害・撲滅運動が激しく展開されているのです。

その時に彼らをかくまい、助ける人たちが起こされます。
それは反キリストを神と認めない信仰ゆえに、

迫害のリスクを冒しながらその「最も小さな人たち」を助けるのです。
一方、彼らの窮状を目撃しながらも助けなかった人たちは、

親切心がなかったのではなく
主イエスへの信仰がなかったゆえにしなかったのです。

彼ら不信者たちは、
  ①反キリストの世界統一政権側の立場についた人たちである
  ②666の刻印を受けた人々である

大患難時代においては、
主イエスへの信者・不信者に全人間が二分されていく特殊な時代となります。

その結果は、主イエスの再臨時に明らかとなります。
#救済

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「タラントのたとえ」

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「タラントのたとえ」
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージ・ノートはこちらから:

http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/1143093

「タラントのたとえ」
マタイ 25 章 14~30 節
~マタイ福音書連続講解説教 93~

マタイ 24章は、終末時代に関する主イエスの教説 であり、
世界の終り、携挙、再臨、千年王国についての預言が満載されていました。

続く25章では、3つのたとえ話が主によって語られていますが、
それを理解するためには、

24章との関連の中で
終末時代に限定されている時代設定であることを抑えねばなりません。

聖書文脈を無視してある特定箇所取り上げ、
私的に解釈してはなりません。

本日の箇所では、「忠実なしもべ」とは誰かを教えています。
それは、

①主人の帰りを待っているものである
②与えられた仕事に励んでいるものである
③主人の心を知っていたものである

文脈から旅に出た主人とは、地上から天へと帰っていかれる主イエスであり、
その主人が帰って来る時とは、主が地上に再臨される時であるのがわかります。

3人のしもべたちにそれぞれ異なるタラント授け、
帰還した主人はどれだけ商売で儲けたかの報告を受けます。

最大の5タラントを儲けたしもべを最大評価し、
何も儲けなかったしもべからは元金の1タラントをも取り上げています。

一見すると、どれだけ収益を上げているかが
主人の評価基準のように見受けられるのです。

伝道や宣教の成果でやがて評価され、改心者を一人も得なかった者は
「外の暗闇に追い出しなさい」(30節)と捨てられてしまう……恐ろしい話です。

それが本当であるなら私など天国へ入れる希望はありません!

しかし、嬉しいことに天国への入国審査は
どれだけの働きをしたかによらないで、

信仰の有る無しというのが聖書の一貫したメッセージです。
そう、唯一の救いのための条件は、信仰です。

それならここのたとえ話はどの様に解釈するのでしょう?
主が結論として言われた29節に注目です。

「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、
持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」

神の国の原則(29)

「持っているものは、さらに与えられて豊かになる 」というのは、
神の国の原則です。

現在経済界で流行っている
「資本主義が進むと貧者と富者の二分化が進み、格差が広がって行く」
というのと似ているかもしれません。

それならそんな原則を保つ神は不公平ではないか、
何ていう声も聞こえて来そうです。

そこで注意深く学んでみましょう。

①「持っている者」とは、忠実なしもべたちのことです。
②「さらに与えられるもの」とは、将来受け継ぐ千年王国です。
③さらに現在においては、聖霊が結ばせてくださる実であると言えます。
(ガラテヤ 5:22~23)

ここで「持っている者」とは
果たして何を持っているのかを解明せねばなりません。それは、

①主の言葉に対する信頼です。
主人が帰って来るという言葉を信じ、
たといその時期が分からずとも、帰還を期待して待ちました。

②主との愛の関係 です。
主人不在の間、どうして忠実に働いて
期待されていた成果を上げることが出来たのでしょうか。

主人が恐かったのですか?
3人目の働きもしなかったしもべの言葉はこうです。

「ご主人様。あなたは、蒔かないところから刈り取り、
散らさない所から集めるひどい方だと分かっていました」(24節)。

この人には正しい主人理解がないばかりか、
信頼関係がないことが分かります。

働いて成果を上げた1番目、2番目との対照的な相違です。
つまり「持っていた」とは、信仰を持っていたと言えます。

③一方、持たない者は、
「持っているものまでも取り上げられる」 とありましたが、
これは

@現世での天与の賜物 がやがての審判で取り上げられる。
@千年王国での相続地はなく、火の池に投げ込まれる(30)
@つまり「持たないもの」とは、不信者のことです。
主の言葉を聞いてもそれを受け入れようとはしないで、
己が道を突き進もうとする人たちの厳粛な最期の姿が描かれています。

結論 として「信仰」と「行為」の関係について 考察しましょう。

救いについて=千年王国を相続するための条件は何か
それは、忠実な働きぶりであるとたとえ話から教えられることがありますが、見事な誤解 です。

主人の心を知り、これに応えたいとする愛の動機が
しもべをして5タラント、2タラントを稼ぐ働きにつながったのです。
=そこは、信仰が先にあったゆえの働きであったのを見落としてはなりません。

「主人の喜びをともに喜んでくれ」(21,23)。
主人はリターンを喜んでいるのではなく、
信頼と愛とを失わなかったしもべたちを喜んでいると言えます。

それなら救いを一旦得たのなら、
良い行為はなおざりにしても構わないのか?

清算時に行為に応じた報酬があることを教えています。

救い自体は失われないが、
与えられている賜物をどのように生かしてきたかは、

メシアの審判の前で問われる時が来ることも教えています。
#救済

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「永遠の秩序」~人類の行き着く最終運命

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「永遠の秩序」~人類の行き着く...
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージ・ノートはこちらから:

http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/192792

「永遠の秩序」
黙示録21章1~27節
~マタイ福音書連続講解説教92~

新しい天と新しい地の創造: 黙示録21:1~8
メシアの地上再臨後、千年続いた王国にも終焉を迎える時がやってきます。

その時、
私たちが現在住んでいる地と天とは消滅して、新しく創造された世界が出現します。

現在の天地とは、
サタンの堕落による地上が荒廃された闇に覆われた世界(創世記1:2)を
神が七日間かけて再創造されたものと考えられます。

歴史の最終章に出現する究極的な永遠の世界は、
新天新地であり、創世記1:1にて神が創造された原初の世界に対応する(近似した)ものであると類推できます。

すると、聖書の最初にある創世記記述から最後の黙示録世界が
一つの輪のように繋がっているのが解ります。

神は、罪と悪の力ゆえに汚され堕落した世界を再び原初に存在していた
完璧な神の栄光あふれる世界へと回復される、
そこに聖書の一貫した救済プログラムを見出せるのです。

その新天新地の特徴について

①海がない~海とは、裁きの結果生じたもので(創世記1:2)、
原初の世界にも存在していいなかったものです。

②「新しいエルサレム」
 第3の天に、現在すでに存在している
 花嫁の装いをして将来、天から降りてくる
 「自由の街」と呼ばれる(ガラテヤ4:26)
 「アブラハムが望んだ故郷」とも呼ばれている(へブル11:9~10)
 「全て購われた者たちの永遠の住まい」(へブル12:22~24)であり、
 そこに存在するものとは、
    *三位の神
    *全ての天使
    *教会時代の聖徒・「長子たちの教会」
    *旧約時代の聖徒・「全うされた義人たちの霊」
                  spirits of justmen made perfect
    *ここに言及のない大艱難時代聖徒らと千年王国時代の聖徒らが含まれる

③「神の住まいが人とともにある」
  dwell = to tabernade(ギリシア原語において同じ語幹)
  かつて荒野に宿ったシャカイナ・グローリーが永久に存在することを意味する

④創世記3:16~19の全ての呪いが除去されている
  古い地の消滅は、その地に連なっていた呪いも消滅したことを示す
  ゆえに涙、死、嘆き、苦しみ、痛みは消え去る

⑤天の御座からの宣言(5~8)
 永遠の秩序は確かなものである:約束されたお方が真実である故
 いのちの水の泉の流れ
 信者の群れの存在
 不信者の永遠の住まいは、火と硫黄との池である

「新しいエルサレム」にあっては、
太陽も月もないと書かれています。
にもかかわらず、「夜がない」(黙示22:5)

この黙示録22:5は、ヨハネに啓示されたメッセージの最終節であり、
それ以後の節はヨハネ自身と御使いとの会話となります。

「神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。
彼らは永遠に王である」(黙示録22:5)

新しいエルサレムを常時照らすものは、神からの栄光の光、
それは専門的にシャカイナグローリーと言われるものです。

これは新しい概念ではなく、旧約聖書の昔から限定された時と場所、
機会においてイスラエルの歴史の中で現われてきたものでした。

  •アブラハム契約の締結時に(創世記15:17)
  •イスラエルの幕屋と神殿の至聖所に(出エジプト40:34)
  •主イエスの誕生の時に(ルカ2:9)
  •新天新地において完成される(黙示録22:5)

世界で最初に輝いたシャカイナグローリーは、
アブラハムよりはるか以前のことで、
天地の7日間での創造の最初の日の時のものです。

神が「光よ。あれ」と仰せられた。すると光ができた。
(創世記1:3)
#救済

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千年王国の後に来る世界

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千年王国の後に来る世界
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージ・ノートはこちらから:

http://hosannamin.org/whatsnew/view/071591

「千年王国後の世界」
黙示録20章7~15節
~マタイ福音書連続講解説教91~

キリスト教の教える「勝利」について
〜「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
…神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。…いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(Ⅰコリント15:55~58)


⑴それは、虚しさや無意味さからの勝利です。

仏教は、私たちが生きている限り逃れられない四苦を解きます。
その中でも最大の悲劇が死であるとします。

現実的な観察であり、説得力があります。
どれだけ成功してお金を貯めても、名声を博しても死が貴方に訪れた時、
それまでに蓄えた一切を残して裸で去らねばならないのです。

しかしここに、もう一つの現実があります。
「イエス・キリストによって」得られる死に対する勝利です。

本日の学びから将来の千年王国で相続地が与えられた後、
それまでの天と地とが消滅すると、
次に来る時代は「永遠の秩序」と言われるものです。

私たちは復活した体をもって、その世界も受け継ぐようになります。
死はもはや勝利に飲まれてしまったのです。

究極的で、永遠の勝利が与えられました。
死が全ての終わりではなかったのです。


⑵それは、道徳的で人格的な勝利です。

成功・繁栄主義者にとって信仰は手段に過ぎず、
最後の目的は祝福されることにあります。

成功するために神を信じる、
より豊かになるために信仰生活に励む人もいます。

ところが聖書の教える勝利とは、
イエスにどれほど似た者へと変貌されて行くかという点にあり、
言い換えるなら人格の完成にあると言えます。

「死のトゲは罪である」とありますが、
過去の私どもの全ての罪がイエスの贖いによって赦されているのです。

さらに現在についてはきよめの恵みによって日々、主と同じ姿に変えられて行きます。さらに将来には完全な体に甦る復活を待ち望んでいるのです。

私たちにとって成功が勝利を意味していません。
信仰ゆえにより大きな困難や迫害に遭うこともあるのです。

勝利とは、主の御心のうちを歩むことにあります。


⑶それは、今を生きる勝利です。

世間を騒がせているイスラム原理主義者のテロ行為は、
彼らの神学に基づく、ジハート(聖戦)であるだけに厄介なものです。

どれだけの殺戮や破壊行為も、
彼らの目的遂行のためには正当化されてしまいます。

聖書の教える宣教活動とは相入れるものではない。
主がどのような忍耐と自己犠牲により使命を果たされたか。

主の足跡に従うクリスチャンは、主を模範として「主のわざ」に励むのです。そこには華々しい成果でなく、
いやむしろ目立たず評価されないものであるかもしれません。

でも心配は要りません。
主は十字架という最大級の敗北であると人間的には見える最期を遂げられましたが、復活によって勝利のドンデン返しを示してくださったからです。

成果がどれほど小さく見えたとしても、それが「主のわざ」であるのなら、
「無駄ではなかった」と言える日がやがて来ると聖書的終末論は確約しています。

それゆえ見えるところによらずに堂々と今を生き抜くことができます。
#救済

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キリスト教世界は挿入された「奥義」

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キリスト教世界は挿入された「奥...


FB読書会で交わした神学的な意見交換を紹介しています。

現在の私たちの生きている時代は聖書が教えている救済史的な視点からすると
「キリスト教界時代」と言われるものです。

それについて旧約聖書が一言も触れられておらず、
新約聖書で始めて明らかとされた概念であることから

「奥義」と呼ばれています。

聖書が意味する「奥義」とは一般世界の意味とは異なり
「今まで隠されていたものが明らかとされた真理」
を指している専門用語です。

「万物を創造された神の中に世よ隠されていた奥義」(エペソ3:9)

神学議論の公開は今回で最後となります。
これまでのものは「救済」タグをクリックするとまとめて読むことが出来ます。



(T様が投稿されました)

高橋京太様
  ディスペン神学の分類の議論については、僕の知識ではほとんどついて行くことはできませんでした。
  でも、分類の仕方にその人の神学的枠組みが明確に現れるということだけはわかりました。
  ですから、他の人の分類を受け入れることに注意深くある必要があるのですね。
 僕も患難期前けいきょ、中けいきょ、後けいきょとかいう分類、千年王国前、後、再臨、無千年などという枠組みには悩まされ続けました。今は、そんな分類自体がひとつの神学傾向の枠組みの反映だとわかって、なるべくそのような枠組みを無視するようにしています。
  僕にとって、どうしても納得できないディスペン神学の基本とは、高橋様が書いてくださっている以下のポイントです。

・・・・・・・・
旧約聖書にはなかった奥義としての「教会時代」が始まります。
主イエスがエルサレムにて王として全世界を統治されるのは将来に「延期」されて、教会と言うものが歴史に「挿入」してきたのです。
・・・・ 

  28年前に現在の教派に入り、このような神学の枠組みがあることを知り、違和感を感じ続け、その中でライトさんに出会いました。
 違和感を感じた結果ライトさんに出会ったので、そう簡単に高橋さんの神学には同意できないでしょうが、いろいろお教えくださったことは心より感謝します。




(私からの投稿です)

T様

ご感想をありがとうございました。
オシメ洗いに躍起となっている私がいる一方で、赤子の可愛さを常に忘れないように諭して下さいました。
ライトの終末論には先述したように同意出来ない点がありますが、聖書をナレーティブとして捉えている点には教えられること多く、今後も学んで行きたいと存じています。
書籍からの学びを今後もアップして下さいませ。

蛇足ですが、教会時代が「奥義」としての王国であるとの根拠はマタイ13章11節に見出せます。
ヨハネもイエスも、宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」というものでした。その御国が何であるのか説明がないのは、聴衆がその言葉を聞いた途端理解できたからであると考えられます。つまり、彼らが待望していたメシア王国(千年王国)です。
ところがメシア拒否によって、その実現が将来に延期されたため、代わって挿入してきたのが奥義である教会であるとしています。
その奥義の王国、つまりキリスト教界"Christendom”時代はどんな特徴があるかを例え話で解説しているのがマタイ13章であるとの枠組みには大きな説得力があると思います。

http://wdx.hosannamin.org/page/seishohiroba-11

教会が挿入してきただなんていう概念は誤解を生みやすく、
「教会を軽視している」と教団内のある教師からだいぶ批判されました。
ディスペンセイションについての知識がある人ほど、批判が強いものとなりました。
余計なことを書いたようです。

今後ともよろしくお願いします。
#救済

ワオ!と言っているユーザー

ディスペンセイションとは何であるのか

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ディスペンセイションとは何であ...


引き続いてある読書会で交わした神学のお話です。
連載は「救済」タグから読めます。

(K様の投稿)

山崎先生の記事
http://1co1312.wordpress.com/2014/11/30/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E3%81%A9%E3%81%86%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%8B%EF%BC%8810%EF%BC%89/

この記事でよりディスペンに関わるな、と思うところは

使徒行伝20章で、・・・、彼は人々に「神のご計画の全体」をあますところなく伝えたと言いました(25節、新改訳)。

「神のご計画の全体」とは何でしょうか?前後の文脈からすると、その内容は福音(24節)と同義であり、罪の悔い改めとイエスに対する信仰(21節)を含んでいますが、それにとどまらず、より広い神の国のメッセージ(25節)を意味していると思われます。

パウロが神のご計画の全体を伝えたという時、3年もの間来る日も来る日も「主イエスを信ずれば罪が赦されて永遠のいのちが与えられる」というメッセージを繰り返していたわけではないと思います。そうではなく、彼は聖書の全体から、人類の歴史における神のご計画の展開について教え、エペソのクリスチャンたちがその中で今どのような段階に生きており、やがて来る終末への希望を持ちつつどのように生きていくべきかを詳しく語り聞かせていたに違いないのです。

「神のご計画の全体」は「聖書をより包括的に読み解くパラダイム」を考える上で、新約聖書自体にあるコンセプトとしても大事なキーワードになると思いますがいかがでしょう。

しかも山崎先生が「福音」と関連付けられて追跡しているように、新約聖書という文書が成立する前に既に定型化・体系化されていた(後に)「信仰の規範」と呼ばれるようになる「使徒伝承」の枠組みでその内容が追跡されるのが相応しいと思います。

(これは多少マクナイトの「福音の再発見」のステマです。まだご購入頂いていない方がおりましたら、このようなラインの思索を助ける一助と思いますので推薦させて頂きます。)



(高橋の投稿)

K様

「使徒たちは〜」のブログのご紹介とアドバイス、ありがとうございました。
6つほどのエントリーを拝読い、大変参考になることがわかりました。今後もシリーズ最後まで注視して行きたいです。

そうなんです。私がフルク氏に感動したのは「神のご計画の全体」像を創世記から掘り起こし、黙示録に至るまで一つのナレーティブとしてパラダイム化している点にあります。その統合された世界観の元に、時代の進展と共に神の契約が漸進的に更新して行く点に注目した概念がディスペンセイションと呼ばれているもののようです。

学者によっては、ディスペンセイション移行期に非連続性をイメージしている方がおられるようですが、私には一つの物語の中で、スムーズに次なる時代区分にステップアップしているように捉えられています。

サタンの誘惑で失ったエデンの園の祝福が人間に回復する約束が実現するのが千年王国。

天地創造(創世記1:1)後に、サタンの堕落によって茫漠として空虚な世界となった世界(創世記1:2)に、新天新地を回復する約束で黙示録は閉じられています。
#救済

ワオ!と言っているユーザー

Merry Christmas!!

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Merry Christmas!!
クリスマスおめでとうございます。

2000年程前にイエスがユダヤのベツレヘムでお生まれになられました。

それゆえ、

数千年来の旧約の預言が成就しました…
罪の赦しへの道が開かれました…
神に顔と顔とを合わせて出会う将来の保証が与えられました…
神が地上にやがて建設される千年間の王国を相続する約束が得られました…
永遠の命の保証が与えられました…

20年ほど前、宣教師として来日した今の妻と出会う道が開かれました…
私が米国に宣教師として移住することになりました…
そして今日、
娘たちのコーラスが可能となったのです。

…これらはすべて主イエスの誕生があったゆえの出来事です。

クリスマス、おめでとうございます!

これを読んで下さった一人ひとりに
主イエスからの賜物が届きますように!


http://youtu.be/tSD7QiJIsc4
学校教育のために寄付をしてくださった皆様のために生徒らが歌うコーラスです。
娘は前列中央からやや左側にいます。
#救済

ワオ!と言っているユーザー

ディスペンセイションを3区分する必要性はあるのか?

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ディスペンセイションを3区分す...



(高橋から再びある読書会への投稿です)


《これまでの神学的な議論は、救済タグをクリックしていただけるとまとめて読むことが出来ます》

デイスペンセイションに関心をお持ちの方がいらっしゃるようですので、再び出現?させてください。
私の属している教団でも話題となりました。というより、5〜6年前ほどからこの教えが長く封印されていた後に息を吹き返し、特に関西あたりの牧師や教会に少なからぬ混乱を与えている側面があるとのことで、ある教師が関心を寄せてくださいました。
その方は、M氏から論文を取り寄せて、そのCD,RD,PDに分類したこと等を報告してくださいました。今より数年前のことです。その際に私が応答した文書を皆様にもみていただいて毒はないだろうと考えました。

M氏の論文に答える形となっていて、しかもその論文に反論している手前、M氏の関知していないところでこのようなFBで公表するのにだいぶ迷いました。
その私の教団の教師はかなり古くからデイスペの知識があり、それに対する警告が発端となって私との議論が始まりました。
私の立場のものとは、かなり異なるものであるのを説明するのに多くの努力が必要でした。M氏の3分類にも私の立場は納まりません。

M氏はフルク氏がRDに属していて古い、とされておられたのですが、そうではない反論を私がしています。
躊躇しながらも紹介するのは、理解する前にラベル貼りをして決めつけてしまうという過ちにご注意していただきたいためです。
なお、フルク氏とは、フクルテンバウム氏のことで、私がそのデイスペンセイション神学に関しては諸手を上げて評価している方のことです。
この読書会のメンバーは真摯な方ばかりであると信じていますので、他者の文書の一部引用の目的がその他者の見解の否定にあるのではなく、ただ学究目的のためであることをご理解いただけるものと考えました。その点、よろしくお願いします。
それでは、以下がその引用です。



「**先生。

M師の論考をお送りくださりありがとうございました。
ディスペンセイションについてより幅広く概観でき、理解を深めることができて感謝します。
これまで私はフルク氏からしかその手ほどきを受けていなかったのですが、他の専門家、しかも日本人の学者によるディスペンセイション考察を知ることは複眼的な視点を得ることができました。
以下、浅はかではありますが私の現段階でのディスペンセイション理解、フルク氏のディスペンセイションを簡潔に記しました。
M師の論文の主な論点と比較・対象していただいて、さらにアドバイスを仰ぐものです。
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(M氏)これは、PDのなした修正の根幹部分といえる。神の人頬救済の目的に基づいての一貫した歴史的介入を各デイスペンセーション¢中に認めていく聖書理解こそPDの最大の貢献といえる。PDはデイスペンセーションの数に関しては基本的に四つを設定している:
「族長」、「モーセ」、「教会」、「シオン」(「シオン」を「千年期」と「永遠」に細分する)(123頁)
PDのもう一つの大きな特徴は、「新約教会」の理解である。 RDでは、その奥義理解の故に、新約教会は基本的には旧約啓示の対象外と理解され、そういう意味では教会は挿入されており(これを「教会挿入説」という)、旧約聖書預言の預言対象であった王国とは一切無関係であり、旧約の可視的、地上的王国」は教会時代後に実現するとする。この意味では、旧約が預言している王国は延期された(これを「王国延期説」という)と理解している。 このRDの理解である「教会挿入説」と「王国延期説」がPDでは否定されている。言い換えると、旧約聖書に出てくる数々」の神の約束、たとえば、アブラハムの約束、モーセ契約、ダビデ契約、預言書での新契約等は全て、新約の教会において部分成就しているとPDは理解している。従来のRDの神学的枠組みが持っていた旧約のデイスペンセーションと新約教会との非連続の関係は修正され連続性が部分成就の故に確立されたことになる。


(高橋)RDの理解とされているこれら二つの説は、確かにフルク師のもので私も開眼される思いでその教えに触れました。つい最近も当教会の連続説教がマタイ福音書13章を終えたばかりの段階でして、それらの説をわたしも採用しています。


(M氏)ここに見られるウオルバードの見解は、ライリーのものと全く同じと言ってよい。 旧約聖書に啓示されていないという意味で概念化されている「奥義」観、今の教会時代は奥義としての御国の時代であり、旧約聖書に啓示されている御国の観点からは、挿入されたものであるということ、そして旧約聖書で約束されている御国は延期されたけれども千年王国時代に実現するということが両者によって主張されている。 これらは、「奥義」、「教会挿入説」、「王国延期説」の教理と一般に言われている。 これらは、RDの特徴であるが、これら三点に関してPDは修正を加えたのである。
また、「教会挿入説」と「王国延期説」はRDの「奥義」観の故に、奥義としての時代をその始まりと終わりを旧約聖書の啓示の流れから分離(非連続)するところから生じて来た。PDは教会時代の始まりの非連続性は聖書の教えではない、と修正した。言い換えれば、教会時代は旧約に約束されていたもので、それがキリストの初臨によって部分成就したものだと理解されるようになった。

ここで、注目したいことは、11節の「御国の奥義」は、「旧約の預言者や義人たちが切に理解したいと願っていたもの」とキリストによって解説されている点である。キリストは「奥義を理解できるグループAと理解できないグル-プBを神の摂理的な計画として提示しているが、グル-プAを更に細かく区別していることも事実である。このグループAの中に見られるキリストの弟子と旧約聖書の聖徒違の間の相違は、悟りが有るか無いかといった区別ではなく、両者とも真理の理解は許されているものの神の定めた時代性の故に旧約の聖徒達には理解の制限があったという意味合いの区別である。この区別は、旧約の聖徒違には全く啓示されていなかったというのではなく、啓示されていたけれどもその全面的な理解にはキリス卜の初臨を待たねばならなかったという意味合いでの区別である。 このことから、キリストがここで述べている「奥義」とは、旧約聖書に啓示されていなかったことではなく、17節にあるように啓示事実ではあってもその意味を充分理解できていなかったものがキリストの初臨によって十分に理解できるようになった真理と考えることが出来る。


(高橋)
二つの説が「奥義」観によって抽出される概念である、という指摘にも頷けます。
PDはRDを修正したものとして、啓示事実を認め、理解が十分で無かったとしている点には啓蒙されました。

確かにⅠペテロ1:10-12において、
預言者たちは啓示を受けていること、熱心に調べ尋ねているが、メシアの苦難や栄光の全てを理解していないことが分かります。

ただフルク氏をこの点でRDの範疇に収め、修正されなくてはならないと断じるのは早計でしょう。
彼の著作には、この、「啓示はあるが理解が不鮮明であった」神学が垣間見られます。

以下は彼のAriel's Bible Commentary. 1peter, p328-330のものです。

「恵みについて預言した預言者」には例えばダニエルがいる(7:15-16,9:1-3,12:8-9)。
これは予言全般に渡って言えることである。預言者は救いについて預言し、参加し、語っている。11節ではその予言の内容がある。ただしその二つの矛盾してると思われる点は最後まで調和できないままであった。一つがキリストの苦難。メシアの初臨のことである。
「苦難」が複数形になっているのは十字架を含めた地上生涯のすべての困難を意味している。
「栄光」は引き続きメシアに与えられるもので、それが複数形であるのは、メシアの復活、昇天、右の座への着座、再臨、千年王国の樹立などの多数を含む概念だからである。
ここでペテロが言っている点は、聖霊が彼らに内在して預言を与えていても、彼らの理解は十分でなかったということである。この節の完了形用法は、聖霊が預言者たちに継続して啓示を与え続けたのを示唆している。この矛盾と見えるメシア理解は、ユダヤ文学で「二人のメシア」観を作り上げて行った。ラビたちも、預言者同様にこの苦難と栄光の反する概念が一人のメシアに調和体現されるとは考えていなかった。
NTが教えているところは、二人のメシアではなく、一人のメシアが2回に渡りこられることである。
12節では、預言者への啓示に焦点をあてている。その時代の読者になって始めてこれら二つの矛盾点が理解できるようになった。「啓示を受けた」と複数形で書かれているのは、彼らに働いた聖霊を強調するため。しかしながら、その意味について当時の預言者たちは理解できていなかった。預言者達は彼らの世代のためでなく、NTの読者世代のための働きをしたのである。そういった例はローマ15:4,Ⅰコリント10:11にも見出される。
聖霊が使徒たちに働いて福音を説かれ、初めて預言者達の預言が理解できるようになったのである。」


このようにフルク師は奥義観についてはPDと同様であることは確かです。

また、RDは奥義時代の最初と最後を非連続のものとしている、との指摘も私には理解できません。私には非連続には見えず、統合された流れと認識できます。M師の列挙されたRD著書を読んだら理解が深まるやもしれませんね。

(M氏)教会時代は旧約に約束されていたもので、それがキリストの初臨によって部分成就したものだと理解されるようになった。
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(高橋)
この点も、その通りであると私は理解しているし、フルク氏も同様です。
OTに約束された教会時代の一例としてイザヤ書49章をフルク師は取り上げています。

メシアはイスラエルに来られる。3節
イスラエルはメシアを拒否する。4節
メシアは世界に伝えられて異邦人の光となる。6節
やがてイスラエルはメシアに立ち返り、回復される。8ー9節。

これらのイザヤ書預言を下敷きにしてパウロが
「イスラエルのメシア拒否は最終的なものでなく、やがて立ち返り、回復される」と論述しているのがローマ11:11-24です。

その他にも、メシアの初臨により異邦人に救いが及んだのは、アブラハム契約の内の新約条項の成就であるし、イスラエル国家の再建とイスラエル人の約束の国への帰還は、同アブラハム契約の土地に関する成就であると見なすことができます。
つまり、こういうことです。
「奥義の時代」の到来は、ユダヤ人による正式なメシア拒否によって始まるのですが、それは神様によってすでに想定済みでした。イザヤ書49章や53章に預言されている通りです。

ただその預言者時代にこれを啓示されていても理解できる人はいなかった。人の視点からみれば、千年王国時代が延期され、奥義としての教会時代が挿入されたかに見える、想定外の出来事となりました。
しかし神の視点から見たらすでに計画済みのことで、預言書にその奥義・教会時代の様子が預言されているのです。

この、神的視点と人的視点の相克は、バプテスマのヨハネをメシアの来臨直前のエリヤとどのように関連づけるか、ということと関連して理解できると私は考えます。
メシア到来の前にエリヤがくる預言がある。メシア地上再臨直前の「大いなる恐ろしい日」(大艱難時代)の前に、預言者エリヤをあなた方に遣わす。マラキ4:5-6
この預言は将来の大艱難時代にエリヤ到来により文字通り成就すると私は信じます。
将来のその時に延期されたのは、ユダヤ人がイエスを拒否した結果千年王国が成就しなかったゆえです。もしユダヤ人がイエスを受け入れていたら、B.ヨハネがエリヤであることになってしまう。

が、この二人は同一人物でない。
ヨハネはエリヤの様な働きをするし(マラキ4:6、ルカ1:17)、その雛形となるのは、神様がユダヤ人のメシア拒否をすでに想定し、お見通しであったからであるといえます。
マラキ3:1の「わたしの使者」とは、主の道を整えたヨハネであると言えます。
その際名前が伏せられているのは、ユダヤ人に選択の自由が与えられていた、神が彼らの拒否を決定したことでないことと、つながっていないでしょうか?
3章の2節以降は再臨の主イエスに関する預言です。ということは、1節の使者はエリヤでも良かったはずです。いわば、拒否、受容次第で、その使者はヨハネになったり、エリヤにもなりえた………神的な視点と結果から眺めた人側の視点の相克と言えないでしょうか。
http://hosannamin.org/page/seishohiroba-22
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(M氏)
キリストの宣教意図の一貫性
RDの主張するように、キリストはマタイの福音書の中で13章に至るまで「地上王国の提示の宣教」をしており、教会時代の宣教とは全く無関係であったと本当に言えるのだろうか。1章から調べてみると、驚くばかりのそれに反する啓示事実があることに気付く。 以下、主なものだけを紹介する:
1:21 「罪から救う」というヨセフに啓示されたキリストの働きは、教会時代を明確に意識しているのでは。
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(高橋)
すでに論述したように、神様は教会時代を想定し、予定されていた。それが聖書の至る所に見受けられます。以下の聖書引用についても同様です。
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(M氏)2:2 「悔い改めなさい。」というバブテスマのヨハネの宣教は罪の許しを前提とする教会の宣教を同じではないのか。
3;11 「聖霊と火とのバプテスマをお授けにばります」とは、明きらかに使徒1:4-5の復活後のキリストの言葉にあるように教会時代の状況を現している。バブテスマのヨハネはペンテコステを視野に入れた働きを展開していたことになる。 これは、RDの考えと全く矛盾する。
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(高橋)
私はここでの「聖霊のバプテスマ」は信者がやがて受ける祝福もであり、「火のバプテスマ」は不信者がゲヘナの火に落とされる将来のことを預言した聖句であると解釈しています。
その方が文脈からして、み怒りを受けるまむしの末たちの言及(7節)、千年王国とゲヘナの火にふるい分けるメシアの裁き(12節)と一致しているからです。


………………………略………………………………

(M氏)
マタイ5:20 「律法学者、パリサイ人の義にまさる義」とは、信仰による義と理解されるが、それならば教会時代のメッセージと何処が違っているのか。
9:13 「罪人を招くために来た」とキリストが自分自身について言うとき、それは今の教会時代のメッセ-ジと同じではないのか。

21:31~32 キリストはここでバブテスマのヨハネの宣教を振り返って、「取税人 や遊女たちは彼を信じた」ので神国にはいっていると語った。 このことは、13章以後の宣教もそれ以前の宣教も基本的には同じであることを示唆している。

他の福音書においては、上で指摘したことは更に真実であると思われる。 これ以上の証明聖句は必要ない。 使徒の働きにおいても、キリストが宣教意図を変更したことを示唆している所はどこにもない。 公生涯の初めからキリストはペンテコステからの聖霊の時代を視野に入れて働きを展開して行ったので、一つの宣教意図を終始持っていたといえる。

結論
以上の議論で明らかなように、RD神学の行き過ぎに対しては、PDは修正の手を加えて来ている。 福音聖書神学校もPDの立場で神学敦育を行っているが、RDの見解である「旧掛こ啓示されてないという意味での奥義」、「教会挿入説」、「王国延期説」は修正されたものが教えられている。
新約の教会は、決して旧約聖書の預言から切り離して考えられてはいけなくて、アブラハム葵釣、ダビデ契約、預言者の新しい契約の成就として考えられねばならないことをPDは強調している。
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(高橋)
現在の奥義時代に、異邦人の祝福を約束している新約の成就、それと共に土地の契約の部分成就が見られるとのご指摘には同調できます。ただ、ダビデ契約の成就は現段階でなく、千年王国の成就を見なければならないと聖書は教えているはずです。
この点、真鍋氏の見解であるPDには賛同できないものがあります。
フルク氏もおそらく賛同できないはずです。


先の先生からのメールで、ダビデ契約の成就が千年王国期であるとする立場においてはRDにふるい分けられるとするM氏の見解がありました。
ダビデ契約がどのようにして現在の教会時代に成就していると断定できるのか、PDのM氏のご見解を是非とも伺いたいものでございます。

そのダビデ契約の中心的な条項である、とこしえの王朝、御座、王国などはどれも、メシアが地上再臨されてはじめて成就を見ることができるものです。
主は現在の父なる神の右の座において、祭司としての執り成しが主なミニストリーであって、王としての地上統治ではありません。
ダビデ契約とはメシアが実際に見える形で地上を統治することに他ならず、それはメシアが再臨されて確立される千年王国で初めて実現することであると理解します。

すると、M氏による私の神学的立場は、RDでも PDでもないことになりますので、新たなラベルを作っていただかなくてはならなくなりますね。

(高橋・結論として)
わたしとしては、デイスペをそのような3分類する手法に賛成できません。
相手の神学理解を知らないままにラベルを付けて、そのラベルを見て評価・採点しているかのようなものではないでしょうか。
神は人と契約を結ばれたのですが、それは時代とともに変遷し、その契約内容も当然かわってきたのは否めない事実といえるのではないでしょうか。
モーセ律法時代に教えられているものと、新約時代の現在とはかなり異なります。
その視点を据えた神の人に対する扱い方なり、歴史認識などがデイスペンセイションであると私は理解しています。
**先生と意見交換できて感謝でした。

高橋京太 」




#救済

ワオ!と言っているユーザー

終末論を巡っての神学議論

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終末論を巡っての神学議論


〜あるインターネット上での読書会で交わした
終末論を巡っての意見交換を引き続き紹介します〜


(T様から私への応答)

高橋京太様
 七つの例祭のご説明 とっても興味深かったです。
ディスペン批判者が多いサイトでこのように生の熱いお話しを読ませていただけること本当に感謝です。
 このような建徳的な対話がずっとなされると良いと思いますので、今後もよろしくお願いします。
 先に書きましたように、僕の関心は何よりも、「新しい天と新しい地」の実現を今から、生き生きとイメージしながら生きるということにあります。それに至るプロセスに関して見解の相違があっても、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」という告白をともにできることが何よりも大切かなと思います。

 Mさんが書いてくださったパウロがテサロニケの手紙を書いた当時の時代背景を参考に、そこから「空中で主と出会う」ということの意味を考える大切さを思わされます。
 テサロニケ第二の手紙2章では、第一の手紙のその個所から誤解が生まれたことを正すような意味で記されています。
 長くなって恐縮ですが、以下はライトさんの一般向け注解を参考にしながら書いたメッセージです。

  2章初めからは、「その日」の理解に対するテサロニケの信徒たちの誤解を正す勧めが、「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります」と記されます。

 「再び来られる」は、原語でパルーシアと記され、「王としての現れ」を意味します。これは何よりも、第一の手紙4章15-17節の追加説明です。そこでは、主の現れ(パルーシア)のときに、死者が復活するとともに、生き残っている者たちも栄光のからだに変えられ、「空中で主と出会う」ということが記されていました。

  それは同時に、イエスご自身が言っておられたようにエルサレム神殿の崩壊を初め(マルコ13:2)として、目に見える世界の秩序が過ぎ去る、世界の終わり時と思われていました。

 彼らは自分たちが気づかないうちに、「主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて・・落ち着きを失ったり、心を騒がせたり」していました(2節)。現在も、「大地震や放射能汚染で世界の終わりが来るかもしれない、こんなことをしていて良いのだろうか・・」と思う人がいるかもしれません。
  それに対し3節の原文では、「主の日」ということばが省かれながら、「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい・・・それは起こりえないからです。まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ」と記されます。

  そして続けて、「滅びの子」に関する説明が、「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します」(4節)と説明されます。

  つまり、私たちが注意を向けるべきことは、主の再臨がいつになるかということよりも、今ここで、私たちの信仰を揺るがそうとする悪の力に目を開くことなのです。

  この「背教」とか「滅びの子の現れ」は、既にダニエル11章32-37節に記されており、第一義的には紀元前168年にエルサレム神殿にゼウス像を建てたシリヤの王アンティオコス・エピファネスを当時は思い起こさせました。ユダ・マカベオスは武力闘争を展開しましたが、アンティオコスは戦いによってではなく、突然の病で倒れました。

  そしてまた、パウロがこの手紙を書く約10年前、ローマ皇帝カリグラは自分を神格化し、ついには紀元40年にエルサレム神殿に自分の像を置くようにと命じました。幸いユダヤの王ヘロデ・アグリッパがそれはユダヤ人の激しい独立運動を起こすと必死に助言し、実現はしませんでしたが、間もなく、カリグラは部下によって暗殺されるというようなことが起きていました。
  そればかりか、この手紙の十数年後には皇帝ネロが現れます。紀元64年にローマに大きな火災が起きますが、ネロはそれを起こしたのが自分であるとのうわさを消すために、その責任をクリスチャンに負わせます。
  そして、その迫害の中で、間もなく、ペテロが捕らえられて逆さ十字架で殉教し、またパウロ自身も捕らえられて首をはねられた記録されています。その後、ネロの狂気はますます進み、各地で内乱が続き、ユダヤでも反乱が広がります。その後、ネロは68年に自殺に追い込まれます。

  その後、一年の間に四人が皇帝を名乗るようになります。そして、最終的に勝利を収めたヴェスパシアヌスは紀元70年にエルサレム神殿を滅ぼします。それは、当時の人々にとっては、まさに旧約が繰り返し語ってきた「主の日」が実現したことを意味します。

  パウロはそのような大迫害が起きることを御霊によって示されながら、迫害への心備えをさせたのだと思われます。
  6-8節で彼はまず、個人的に、「私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいた」と彼らの記憶を呼び起こしつつ、「不法の人」の現れを、「いま引き止めているものがある」と言いながら、同時に、「その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます」と、「不法の人」のあっけない滅亡を予告します。

  それは上に記したすべての横暴な独裁者たちに当てはまります。ダニエル書でも黙示録でも、信仰者への厳しい迫害の時期は、驚くほど短期間のうちに過ぎ去ると描かれています(しばしばその期間は「三年半」に相当)。
  たとえば、第二次大戦下の日本でもホーリネス教会に対する激しい弾圧が起きましたが、その三年数か月後には終戦になり、反対に、キリスト教ブームに変わりました。

  ですからここに記されていることの中心は、「不法の人の現れ」から、「主の日」がいつになるかを予測できるなどという未来予測の話しではなく、信仰者への迫害や惑わしは、いつも繰り返し起きることの覚悟を求めることにあると言えましょう。

  キリスト者がこの世に誘惑や迫害に会うことは決して想定外ではありません。そのことが、9-12節に記されています。そして、その趣旨は、それを通して私たちの信仰が練りなおされ、神への愛が成長させられ、信仰の完成へと導かれることにあります。どの家族においても、どの共同体においても、苦難を共有することによって愛の交わりが成長するものです。

「空中で主と出会う」の意味は以下の通りかと思います。
 「空中で主と出会う」とは、空中に住まいを得るためではなく、主とともに天から下ってくるためです。
 「空中」は、「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:2)というサタンの権力の現れる場ですが、その空中にキリストの支配か貫徹されるのです。
 そして、最大の慰めは「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」という保障です。
  現在は、キリストが天におられ、私たちがこの混乱に満ちた地にあり、空中がサタンの領域という分裂状態がありますが、主の栄光の現れの時には、天と地が一つにされるというのです。
  
  そして、パウロは、「こういうわけですから、このことば(複数)をもって互いに慰め合いなさい」と述べました。私たちは天国に引き上げられて主をたたえながらハープ演奏を聞いてくつろいでいるような天国観を抱いてはいないでしょうか。

  私たちはキリストとともに「新しい天と新しい地」を「治める」のです。そこではエデンの園にあったように労働が喜びになります。また、互いの弱さを隠すことなく、そのままの存在を喜び合うことができます。
  それは愛の交わりが完成する場所です。そこで夫婦関係が見られないのは、愛を学ぶ地上の学校を卒業したからです。


(私からの応答)

T様

「新しい天と新しい地」の実現をイメージしながら、今よりその約束を待ち望んでともにその希望に生きれることこそが重要であるとのご指摘に同感です。

そこに至るプロセスの見解に相違があったとしても、瑣末のことに過ぎず、「それが何だっていうの」ほどのことではなかろうか、と感じています。

オシメを川で洗うのに一生懸命のあまり、大切な赤子を流してしまう愚かさは警戒したいです。

それゆえこれからのわたしの反論はお気軽に受け流してくださいませ。
本日は感謝祭休日ですので、私もお遊びのつもりで投稿させていただいています。

主イエスにあって同じ希望を共有出来ることに連帯性を覚えながらの投稿です。

ライトが確かマタイ24章の終末預言はAD70年のエルサレム崩壊ですべて成就していると何処かで言明していたように記憶しますが、そこは賛同出来ない点です。

①7節「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」との表現はユダヤ的なイディオムであり、世界大戦を意味しているとのメシアニックジューの解説からです。前節の「戦争、戦争のうわさ」が地域戦争であるのに対して、「世の終わり」(6節)のしるしが世界大戦であるとの預言。それが「産みの苦しみ」として勃発して以降、世界大の飢饉や地震などの天変地異が増して行くとの預言。その世界大の、多くの民族を巻き込んだ戦争が1914年の第一次世界大戦。つまり、オリーブ山教説での「終末」は、1914年に始まっていると言えます。

②14節「福音は全世界に宣べ伝えられて、全ての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます」
この1世紀の段階で福音は新大陸にも日本にも届いておりません。それは。AD70から2千年以上経過していないとあり得なかった段階です。

③21節「世の初めから今に至るまで未だかつてなかったような、またこれからもないようなひどい苦難がある」との預言は、将来の大艱難時代に適用されるものといえます。ヨセフォスが70年のエルサレム崩壊では約100万人ほどの市民が虐殺されたとの記録を残していますが、ホロコーストでは600万人のユダヤ人が犠牲となりました。21節の苦難がエルサレム崩壊時のことを言っていないのは明らかです。

そもそもこのオリーブ山教説は弟子らが3節で掲げた質問に応えているものであり、70年の事件の範疇に押し込めるのは無理があります。
「世の終わりとその前兆」については、24:4-8で主はお応えになられています。
「あなたのこられる時とその前兆」については、大艱難時代の到来を告げています。

9-14が前半の3年半
15-30が後半の3年半です。

その両者の境は「荒らす憎むべきもの」像をエルサレム神殿に反キリストが設置した時となっています。15節。

T様は、この反キリストを、アンティオコス、カリグラ、ネロ、ヴェシパヌスであるとされておられます。その独裁者のユダヤ人やキリスト者への迫害が約3年半ほどの短期間しか続かなかった歴史的な経緯を当てはめて、「未来予測の話ではなく、迫害がいつも繰り返されること」であるとされておられます。

が、、、、
果たしてそうでしょうか?

ここで言われている反キリストはⅡテサロニケ2章の「不法の人」「滅びの子」のことであることには全く同意できます。

彼らは自殺や病で死んだと教えてくださいましたが、誰一人として「主が御口の息吹をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまう」(8)最期を遂げていません。

マタイ24:とテサロニケ2:が言及している滅びの子とは、大艱難時代の中間期に出現する反キリストであると私が結論している根拠です。
大艱難時代の最後に彼は直接、再臨のメシアによって滅ぼされます。 黙示録19:20

反キリストの霊をもった、そのような悪魔の化身ともいうべき人物は高橋様の言われたような人物たちが当てはまるし、使徒ヨハネもそれを指摘しています(1ヨハネ4:1-5)

しかし、このマタイ、Ⅱテサロニケ、ダニエル9章、そして黙示録が預言している反キリストとは、固有名詞の一人をさしていると考える他ないというのが現在のわたしの立場です。彼の名は666のユダヤ名であり、創世記3:15にて頭を踏み砕かれるサタンの子孫です。

私どもの解釈の相違を生み出す元は先述のとおり、
「聖書を字義通りに解釈するか、比喩的に拡大解釈するか」によって決定せられていると言えないでしょうか。

マタイ24:16によれば、反キリストが神殿に偶像を据えて激しいユダヤ人迫害を始めたら、「山」へ逃げろと言われました。
オリーブ山から眺めて山が見えるのはヨルダンの山地です。
そこのペトラ(ヘブル語ではボツラ)という地区に彼らは逃れるようになります。

ミカ2:12 でその逃れの場所を、「おりの中の羊」と訳出してしまっていますが、ここは音読みのまま「ボツラの羊」と訳すべきものです。ASVがそのように訳出しています。

ダニエル11:41にある大艱難時代のユダヤ人の逃れの場所としてのヨルダン川東岸と一致しています。

3分の1のユダヤ人らがそこで生き延びますが、彼らも銀を練るような試みを通った後に回心します。(ゼカ13:8-9)

その場所は、1260日(3年半)、彼女(ユダヤ人であって置換神学者の言う教会ではありません)を養うために神によって備えられたところです。(黙示録12:6)

アー、流石に疲れてきました。

私が千年王国前にラプチャーが起こるとしている理由を述べようと思いましたが、
過去にまとめたものを紹介するだけにさせてください。

III 携挙の時期: 艱難時代前である

1) 聖書の構成から
艱難時代の言及箇所に「教会」は一度も出現していない
艱難時代に聖徒が存在することが教会がそこに存在している証拠にならない 黙示録 6~18 章は艱難時代を扱っているが、そこに教会という語は一つもない 教会の重要性、黙示録の構成からしてそれには大きな意味がある

2) ルカ 21:31~34
地上に住む全ての人に艱難が襲うとのユダヤ表記である 「人のこの前に立つ」とは天においてなされること(35)

3) Iテサロニケ 1:9~10
一般的な意味の「御怒り」:ローマ 1:18
艱難時代の「御怒り」:黙示録 6:17、14:10,19、15:1
文脈では将来に関することなので、艱難時代のことである
教会を艱難から救い出すという特定の目的のために来られるのである

4)Iテサロニケ 5:1~10
神の御怒りに教会は予定されていない(4) 携挙(4:14~18)直後に論じられている
「しかし」:peri de (1) : コントラストを強調する接続詞 携挙の慰めに対して、主の日とは神の御怒りの日である
マタイ 24:36「ただし」も peri de、本来は「ところで」と訳出されるべき Iテサロニケ 5:8 節、9 節の「救い」は未来形であり、それは終末的なもので ありからだの購われるとき、つまり携挙のときを指している

5)黙示 3:10
「試み」とは文脈から艱難時代である 教会はその艱難時代から保護される


http://wdx.hosannamin.org/uploads/2014/06/06/教会の携挙%E3%80%80V.75%E3%80%80マタイ24章9~14節.pdf

ラプチャーによって教会は天に引き上げられ、その後7年間の大艱難時代が地上を襲い、主の地上再臨とともに新約時代の聖徒らが地上に帰ってくるとの論拠です。
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/4364275



(M様からの応答)

高橋京太さま とても詳細なコメントありがとございます、本当に勉強になりました。また、こちらの読書会で色々な意見を出しあえるのも感謝なことですね。また、「聖書を字義通りに解釈するか、比喩的に拡大解釈するか」とのご意見もその通りと思います。私もバーナード・ラムの「聖書解釈学概論」などでこの辺りは大変勉強させていただきました(分からない・覚えていないことの方が多いですがww)。なので、共感します。また、最近ことば社が出た聖書解釈の本も良さ気ですよ~(本の宣伝になってしまいました笑)。












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