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聖書の教える死後の世界~中間状態・その1

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この春、イスラエルでは過越しの... この春、イスラエルでは過越しの祭りが祝われた

人はやがて死を迎える。
肉体から霊魂が離れる瞬間である。

やがてその霊魂は再び肉体を得るときが来る。
それが復活のときである。

すでにその再臨の時に死んでいる信者なら
彼の復活はイエスの再臨の瞬間に起こる。

まだ生きているままでイエスの再臨に与った信者は
死を経ずに復活の体に変貌される。


「14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。
それならば、神はまたそのように、
イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。

15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、
主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、
死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、
ご自身天から下って来られます。
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

17 次に、生き残っている私たちが、
たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、
空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 」
(1テサロニケ4:14-17 )


では、死から復活までの間、
霊魂はどのような状態で置かれるのか?


{キリスト信者の中間状態についての考察}


①それは生前時よりも、より良い状態である

「23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。
私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。
実はそのほうが、はるかにまさっています。

24 しかし、この肉体にとどまることが、
あなたがたのためには、もっと必要です。 」
(ピリピ 1:23-24 )


②休息の状態であるといえる

「 9 小羊が第五の封印を解いたとき、
私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために
殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

10 彼らは大声で叫んで言った。
「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、
地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

11 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。
そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、
あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、
もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。」
(黙示録 6:9-11 )


③意識のある状態である

「16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、
太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。

17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、
彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。
また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」
(黙示録 7:16-17) 

*飢える事がない
*渇く事がない
*太陽が打つこともない
*炎熱が打つこともない
*涙がすっかりと拭い取られるときである

#救済

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「子羊の反撃③~罪の目盛りの不足分」

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駐米イスラエル大使公邸でのペサ... 駐米イスラエル大使公邸でのペサハ(過越しの祭り)には
オバマさんも招かれたようです。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/32539-69


「子羊の反撃③~罪の目盛りの不足分」
マタイ23章25~39節
~マタイ福音書連続講解説教69~


主がパリサイ人らに対して直接、
7つの「忌まわしいもの」を糾弾している箇所が続く。

天地創造以来、偽りと反逆、流血の蓄積された罪の報いが
神から下ることを将来に見越して嘆かれた。

「神の都」であるエルサレム、「わたしの家」とかつて呼んでいた神殿が
もはや神による裁きの対象であり

「あなたがたの家」と呼ばざるを得ない段階に達したのである。

当時の人々にはいまだ建設途中の荘厳なエルサレム神殿が
崩壊して市内が火で焼かれるとは信じがたいことであったであろう。

現在の私たちにとっても、
ユダヤの民のイエスへの不信が未曾有の破滅と民族の世界離散を招いたことを、
原因・結果の因果関係から客観的に理解できる。

ところが、
人知の及ばないところでこれら歴史の進展が
神のシナリオとしてあらかじめ計画されていた
と聖書は告げる。


1) イエス時代までのエルサレム(37)

ユダヤ人は古来から遣わされた神の預言者たちを迫害し殺害してきた。
主イエスは雌鳥のように翼を広げ、その下で彼らを保護をしようとした。

記録されているだけでも、
仮庵や過越しの祭りの度にエルサレムに上って神の道を伝え、
救いへの招きを続けられた。

幾たびも「子らを集めようとした」とあるのはそのことである。
その度に頑なな拒否の姿勢をパリサイ人、指導者たちは貫いた。

わずかな少数がその翼の下に集まったが、
それがイエスを信じるメシアニック・ジューと呼ばれる人々である。


2) 異邦人時代のエルサレム(38)

近未来にエルサレム神殿が「荒れ果てたままに残される」と告げられた。
AD70 年のローマ軍による徹底した破壊と殺戮でこの預言が成就された。

陥落以来今日まで、神殿域は異邦人に支配されたままである。

それは「異邦人の時代」と呼ばれる期間であり、
今後主が再臨される時まで続く。

現在はその期間に入る。


3) イエス再臨時のエルサレム(39)

将来、「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」(詩篇118:26)
預言が成就するときがくる。

強烈に主を拒絶したあのユダヤ人の全てが回心して
その主イエスを待望する瞬間がやってくると言うのである。

聖霊が「恵みと哀願の霊」として注がれることによる
ユダヤの民族的な回心(ゼカリヤ12:10)である。

その時、民の哀願に応えて主がオリーブ山に地上再臨される(ゼカリヤ14:4)

その後、エルサレムにて千年王国が樹立され
ダビデの座から世界を統治されるのである。
#救済

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聖書の教える死後の世界~「不滅」に反対する議論・その2

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イスラエルもすっかりと春の装い... イスラエルもすっかりと春の装いです
不信者が死後、永遠に苦しみに遭うとはあまりに酷い・残酷な教えなので
しばらくの苦しみの後で霊魂が消滅すると教える団体もある。

その根拠としている聖句を以下にあげて
それに対する反論を記す。

結論として、聖書は一貫して霊魂の不滅を教えている。

人は神よりも賢くなってはならない。



① 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。
そんなものより、たましいもからだも、
ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」 (マタイ10:28)

「殺す」とあるのが存在の抹消だと出張するが、
ギリシャ語のアポルミ(ἀποκτεννόντων )は抹殺を意味しない。

以下の例は「失われた状態」を意味するものとして使用される。
「イスラエルの家の失われた(アポルミ)羊のところに行きなさい。」
(マタイ10:6)


② 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ7:13 )

「滅び」は原語でアプレイヤ(ἀπώλειαν )であるが、
これも抹殺ではなく、「無駄な状態」「役立たずの状態」を意味する。

例として、
「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。
「何のために、こんなむだなこと(アプレイヤ)をするのか。」 (マタイ26:8)


③ 「 ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、
理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。
それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。」
(2ペテロ 2:12)

ここでの「滅ぼされる」は「フソーラ」というギリシャ語であるが、
それは腐敗や堕落を意味している言葉で、抹消と言う概念はない。


④ 「人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、
突如として滅びが彼らに襲いかかります。
ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、
それをのがれることは決してできません。」
(1テサロニケ5:3 )

「滅び」は「ホレフロス」であるが、
大艱難時代の物質世界の滅びのことである。


⑤ 「その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、
来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。」
(2テサロニケ 2:8 )

この「滅ぼす」は「カタルゲオウ」であり、
反キリストが地上世界で働けなくなることを意味している。

やがてそれはゲヘナへ投げ込まれるが、そこでも生きている。
「彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける」(黙示20:10)

地上からの存在はなくなるが、その存在自体が抹消されるわけではない。

⑥  「見よ。すべてのいのちはわたしのもの。
父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」
(エゼキエル18:4 )

死とは分離を意味していて、抹殺でない。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、
空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、
歩んでいました。」
(エペソ 2:1-2 )


⑦ 「霊が出て行くと、人はおのれの土に帰り、
その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。」
(詩篇146:4 )

ここで滅びるのは、人ではなくその計画に過ぎない。


⑧  「生きている者は自分が死ぬことを知っているが、
死んだ者は何も知らない。
彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。」
(伝道の書9:5 )

伝道者の書は神なき人生の哲学をソロモンが求めて記したもので
聖書的な価値観が書かれているものではない。

聖書的な教えは結論部分の12章になって見出される。


⑨  「神である主は土地のちりで人を形造り、
その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで人は生きものとなった。」
(創世記 2:7 )

「あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。
あなたはそこから取られたのだから。
あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。」
(創世記 3:19-20)

ここでは人が土に返り、無に帰すると教えているのではない。

土に返るのは肉体だけであり、霊魂は生き続けると聖書は明言する。
ルカ16:19~31


⑩ 「ハデスやシェオール」は「忘却と死」とを意味していると主張する。

それは本来の原語の意味にはない。

ルカ16:19~31を見ればそこでは意識のある霊魂が覚醒し続けている。


⑪ 「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、
御子のために和解させてくださったからです。
地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」
(コロサイ1:20)

「地にあるもの」すなわちハデスやシェオールにいる霊魂は
すべて和解状態にあり、もはや苦しみの場所は存在しないと主張する。

しかし、ここでは例外なしに全てのものが和解させられたと教えていない。

「どんなものでも」、「さまざまのものが」という意味である。


⑫ 「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって
明らかにされたのです。
キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
(2テモテ1:10)

ここでの「死」とは肉体の死(第一の死)のことであり、
最後の審判の後のゲヘナでの第二の死のことではない。

⑬ 「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、
と定められているからです。 最後の敵である死も滅ぼされます。」
(1コリント 15:25-27)

ここでの「死」とは肉体の死(第一の死)のことであり、
最後の審判の後のゲヘナでの第二の死のことではない。



#救済

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聖書の教える死後の世界~「不滅」に反対する議論

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死海にもまれに植物がこのように... 死海にもまれに植物がこのように息づいています

「不滅」の教えに対する誤りの教え

①人は死んだら肉体も霊魂も共に存在を終えるとする説
 ・死後の霊魂の存在を否定している
・無神論の説

②霊魂は輪廻する
  ・死後の霊魂は天国にも地獄にも行かずに、他の人間や動物に入る
・日本の土着宗教に見られる未信者の説であり、聖書の教えではない
・ヘブル9:27
   「そして、人間には、一度死ぬことと
    死後にさばきを受けることが定まっている」

③霊魂の抹消
・未信者は死後に裁きを受けるが、その後霊魂は抹消される
・エホバの証人やセブンスディアドバンティストの説である
・この説を掲げる根拠として16ほどの聖句を掲げるが、
 それは原語の正確な釈義に基ずくものではない。

  それらの聖句を今後検証していきます。

  (聖書関係は「救済」タグをクリック)
#救済

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ハッピー・イースター

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イースターのこの日、先ず私たち... イースターのこの日、先ず私たちはケアハウスに暮らす父を訪問 父と娘 父と娘 ケアハウスの外庭には格好の散歩... ケアハウスの外庭には格好の散歩コースがありました 恒例のエッグハントは、義弟の家... 恒例のエッグハントは、義弟の家にて 一人卵は30個までだよ~ 一人卵は30個までだよ~ 戦果を見せ合った後は集合 戦果を見せ合った後は集合 戦い終わって、みんな仲良し 戦い終わって、みんな仲良し その後は、イースターのディナー... その後は、イースターのディナーと続く

イースター(復活祭)おめでとうございます!!

2千年前のイエスの復活は大きな意味を持っています。

世界の歴史が紀元後と紀元前とに2分されるほどに
私たちにとって重要な出来事となりました。

私個人にとっても
最大の歴史的事象と言っていいでしょう。

もしイエスがよみがえられなければ、

①私はクリスチャンであることを続けられないでしょう。

②復活のないキリスト信者は
世界で最も哀れなものたちだと聖書は語ります。

③19歳から神学校へ入学して献身してきた私の生涯はすべて茶番劇となります。

④今の家内と結婚はしていなかったでしょう。
よって今の子供は存在していないことになります。

⑤米国に住むこともなかったのです。

⑥罪の中にとどまり、死んだらその先に何ら保証のないまま、
むなしく当てのない人生となっていたことでしょう。

⑦喜びや平安を知らないまま、恐れと不安に駆られる毎日となっていることでしょう。


ところが、実に主は死からよみがえってくださったのです!!

それにより、私たちにも永遠のいのちの希望を与えてくださいました。

罪を赦し、神の子としてその家族に迎えてくださいました。

今や死という「最後の敵」に勝利されて主は、
私たちも同様によみがえらせて、とこしえの神の国に招き入れてくださると言う
保障を与えてくださっています。

ハレルヤ。

イースターおめでとうございます。
#救済

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Good Friday

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サンフランシスコ・ワシントンス... サンフランシスコ・ワシントンスクエアにある、ペテロ教会 ペテロ教会内部 ペテロ教会内部
イエスが十字架にかけられた日。


「君も
そこにいたのか

主が
十字架に
付くとき
  ああ・・ 
  何だか心が
  震(ふる)える
  震える  震える

君も
そこに居たのか」


この歌詞が私のハートと脳の中を行き巡っていた一日。

勿論、それは娘がこの日の教会の礼拝でその曲をソロしたことと関係している。

祈りと聖書朗読、黙想が終わり会場内の明かりが全て消された後
一人、また一人と退席する暗闇の中、
彼女のソウルフルな歌声が会堂内に響き渡る。

ホサナ教会が間借りしているNewport Covenant 教会での
Good Friday Serviceでの一シーン。

私はそこには出席出来ず、
サンフランシスコのワシントン・スクエアにあるペテロ・カトリック教会
で礼拝のときを過ごした。

この日は民族や教派を超え、世界中のクリスチャンがイエスの死を偲ぶ日である。

それは決して他人事ではない。


あざけり、ののしりの声が充溢する雑踏の中を
十字架を負って進み行かれたイエス。

主が手足を杭で串刺しにされるそのハンマーの音。

その一撃の度に主の口から漏れるうめき声。


イエスの十字架を前に
人の罪がさらけ出された。

ローマ兵士は日頃のユダヤ人統治の困難の鬱憤晴らしとばかりに
茨の冠をイエスに被せ、それを棒でたたき、あざけりの限りを尽くした。

ユダヤ最高議会がイエスを死刑と定めてローマ総督に引き渡したのは、
ローマによって支えられている特権を失いたくない保身から。

弟子たちが皆、イエスを捨てて逃げてしまったのも自己保身に他ならない。

群集がイエスを「十字架につけろ」と要求したのもまた
指導者と大勢側に迎合して不利な立場に自分を置きたくない自己保身であった。

それは私の罪そのものである。

もし私が2千年前のその場にいたのなら、
ローマ人であっても、
群衆の一人であっても、
またはたとい弟子の一人であったとしても

彼らと同じ行動をとっていたに違いない。

その私の罪ゆえに
その罪を背負って
十字架の道を歩まれた主。

その重たい罪を背負い
その罪を赦し
その罪の結果である
死と
神の裁きから
私を開放するために。


Good Friday Service での娘のソロ動画:
https://www.youtube.com/watch?v=k7Llm8tZy9I&feature=youtu.be


Were you there?

1 Were you there when they crucified my Lord?
Were you there when they crucified my Lord?
Oh, sometimes it causes me to tremble, tremble, tremble.
Were you there when they crucified my Lord?

2 Were you there when they nailed him to the tree?
Were you there when they nailed him to the tree?
Oh, sometimes it causes me to tremble, tremble, tremble.
Were you there when they nailed him to the tree?

3 Were you there when they laid him in the tomb?
Were you there when they laid him in the tomb?
Oh, sometimes it causes me to tremble, tremble, tremble.
Were you there when they laid him in the tomb?


聖歌 400 君もそこにいたのか 

①君もそこに居たのか  主が十字架に付くとき
  ああ・・ 何だか心が震(ふる)える  震える  震える
  君もそこに居たのか

②君も聞いていたのか  釘(くぎ)を打ち込む音を
  ああ・・ 何だか心が震(ふる)える  震える  震える
  君も聞いていたのか

③君も眺(なが)めてたのか  血潮(ちしお)が流れるのを
  ああ・・ 何だか心が震(ふる)える  震える  震える
  君も眺(なが)めてたのか
#救済

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人は死んだらどこへ行くのか

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ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。
聖書本文とメッセージノートとはこちらから:
http://www.hosannamin.org/whatsnew/view/31324-68


「子羊の反撃②~偽善のパリサイ人たちへ」
マタイ23章13~24節
~マタイ福音書連続講解説教68~


マタイ23章は子羊によるパリサイ人への反撃の書でした。

今回の箇所から主はパリサイ人たちへ直球の弾劾を始められます。

7回の「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」と語られる。

なぜなら、彼らは

① 偽りの教えで人々を天国への救いから遠ざけている(13~15節)
② 本末転倒した宗教の実践をしている(16~24節)

そんな彼らは「人一倍ひどい罰」(14節)を神から受ける運命にあり、
「ゲヘナ」に落とされるのは避けられない(15節)と言われる。

愛と赦しのイエスが、
いわゆる地獄での苦しみや裁きを明言した上に

「お前たちはそこへ行くことになる」と直接人に対して語られただなんて
私たちの理解を超えるものであるかもしれない。

ここで、ゲヘナとは「火の池」とも言わている最終的に罪人が落とされる
いわゆる地獄であるが、
それに関して聖書が何と教えているか整理してみよう。

先ず、そこは「よみ」とは別の世界である。


Ⅰ 「よみ」について

死後に人間の行く世界であり、
   信仰者(義人)も不信仰者(罪人)も共に行く場所である

OTの義人:創世記37:35、42:38

OTの罪人:民数16:30,33

原語でそれは、「ハデス」(ギ)、「シェオール」(へ)
   と固有名詞として使われている

ハデスとシェオールとは同じ場所である。
   それは詩篇16:10が使徒2:27で引用された際のギリシャ語訳から
   そのように結論付けられる

イエスも死後にハデス・シェオールに行かれた:使徒2:27、31

ハデス・シェオールには2つの区分された領域があることが分かる

信者と不信者との間には越えられてない断絶された谷が存在していた

ルカ16:19~31の実話からそう結論される(これはたとえ話ではない)

信者の行く場所は「アブラハムのふところ」(比ゆ的な表現)と呼ばれている

そこはまた「パラダイス」とも呼ばれる(ルカ23:43、Ⅱコリント12:4)

不信者の行く場所は狭い意味でのハデス・シェオールである

その場所は地球の地底深部にある:創世記37:35、Ⅰサム2:6、ヨブ7:9

そこにある霊魂には意識がある:イザヤ14:9~10、ヨナ2:2

広義のシェオールとして、OTでは広義に信者も含めた
   全ての死者が行く下界であると教える

NTでは、主イエスの十字架・復活・昇天により、
   信者住居部分の狭義のハデス・シェオールが第3の天
   (=「パラダイス」、「アブラハムの懐」)に引き上げられた:エペソ4:8~9

イエスの昇天以降のNT信者は、
   死後すぐに天(=「パラダイス」、「アブラハムの懐」)へ行く:Ⅱコリント12:4

千年王国後の将来、第3の天にあるパラダイスは、  
   「新しいエルサレム」に存在するようになる:黙示2:7、22:2


Ⅱ 「ゲヘナ」について

ベン・ヒノム(ヘブル語)のことで、エルサレム南端にあったゴミ焼却場

そこでは人身供養が偶像の神々にささげられた:Ⅱ列王23:10、イザヤ30:33

そこは常にウジとくすぶる火が燃え続けていたところ

聖書には12回出現するが、そのうちの11回が主イエスによって使われている

マタイ5:22
マタイ5:29
マタイ5:30
マタイ10:28
マタイ18:9
マタイ23:15
  マタイ23:33
マルコ9:45
マルコ9:47
ルカ12:5

イエス以外の使用例はヤコブ3:6のみである

それらの引用例から霊魂と肉体の両方が永遠に苦しむ場所であるのが分かる

ゲヘナとハデス・シェオールとは異なる

ハデスとシェオールは

一時的に死者を閉じ込めておく下界である

それは千年王国まで続く:黙示20:14

霊魂のみが存在して苦しむ場所である

「火の池」(比ゆ表現)とゲヘナとは同じである

黙示19:20、20:10、20:14、21:8

そこは失われた者たちすべて(罪人も悪霊も)の永遠の住まいである

千年王国の後にサタンは解き放たれ、不信者も復活する

「白い御座の裁き」の場が開かれる(黙示録21章)

それは刑罰の段階を判定するもので、救われているかどうかではない

彼らはゲヘナに送り込まれる

肉体と霊魂の双方が裁かれる場所である

   「それから死とハデスとは、火の池に投げ込まれた」(黙示20:14)
「死」とは肉体に関すること
「ハデス」とは肉体と霊魂に関すること

そこでは火とウジの苦しみ・不快が永遠に続くところである

肉体と魂を持っていながらの存在であるので、
   ゲヘナでの苦しみの度合いはさらに大きい




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聖書の教える死後の世界~不滅の教えの与える果実

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霊魂が不滅であるという聖書の教えを確認することには
どんな意味があるのか?

それは大いにある。
少なくとも以下の3つの利益があると言える。

① 将来さらに優れたところがあるとの保障は
    現在に喜びをもたらす。

「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。
私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。
実はそのほうが、はるかにまさってい ます。」(ピリピ 1:23 )


② 地上生涯が一時的であり、永遠の世界がある希望を与える

「けれども、私たちの国籍は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、
私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、
私たちの卑しいからだを、
ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
(ピリピ 3:20-21)


③ 義なる生活を送る動機を与える

「もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。
もし、死者の復活がないのなら、
「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」
ということになるのです。
思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。
目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。
神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。 」
(1コリント 15:32-34)
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聖書の教える死後の世界~「不滅の証拠」その1

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ゴラン高原の桜も満開 ゴラン高原の桜も満開

先回、序論のところで
聖書が教えている「不滅」という概念を紹介した。

復習してみるとこうなる。

人は死んだらそれっきりでは無い。
「不滅」であると明確に聖書は教えてくれている。

死とは、霊魂(非物質的な部分)と肉体との分離のことでその霊魂自体は消滅しない。

不滅を定義すればこうなる。

「霊魂が肉体から分離した後、
永遠に、
継続して、
意識を持って
存在することである。」

今回から本論に入る。

「不滅の証拠」その1

聖書記述の中から
不滅を聖書は教えている論拠を紹介しよう。

17通りの記述例がある。


①「自分の民に加えられた」
この表現はその先祖の霊魂が存在している場所に引越しをした、という意味である。

「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、
自分の民に加えられた。」(創世記 25:8)

アブラハム以外にも同様の表現に

イシュマエル・創世記25:17
イサク・創世記35:29
ヤコブ・創世記49:29、49:33


②「先祖のもとに行く」
「あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、
長寿を全うして葬られよう。」 (創世記15:15)

神からアブラハムへの預言の中に彼の霊魂の不滅が教えられている。

創世記47:30もまた、ヤコブのヨセフへの遺言で同様の表現がある。


③エノクはいつまでも存在している
アダム以降の先祖たちは死を経ているが、
エノクは死を経ずに「移された」とある。
異なる次元世界への引越しが示唆されている。

「エノクは神とともに歩んだ。
神が彼を取られたので、彼はいなくなった。 (創世記5:24)

ヘブル11:5


④ヨブの肉体の復活の保証

「 私は知っている。 私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。
私の皮が、このようにはぎとられて後、
私は、私の肉から神を見る。 (ヨブ19:25-26)


⑤復活の教理
肉体が復活するためには霊魂が不滅せずに継続していなくてはならない。

旧約聖書:イザヤ26:19、ダニエル12:2-3
他に、
「わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、 彼らを死から贖おう。
死よ。おまえのとげはどこにあるのか。 よみよ。おまえの針はどこにあるのか。」
(ホセア13:14)

新約聖書:ヨハネ5:25-29
他に、
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。
そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに
首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、
その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。
彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。
これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。
この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。
彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
(黙示録20:4-6)


⑥死後の霊魂には意識がある
「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、
目ざめるとき、あなたの御 姿 に満ち足りるでしょう。」 (詩篇17:15)
(ダビデの信仰)

「しかし私は絶えずあなたとともにいました。
あなたは私の右の手を しっかりつかまえられました。
あなたは、私をさとして導き、 後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
天では、あなたのほかに、 だれを持つことができましょう。
地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
この身とこの心とは尽き果てましょう。
しかし神はとこしえに私の心の岩、 私の分の土地です。」(詩篇73:23-26)
(アサフの信仰)

伝道12:7
Ⅱコリント5:1-8
ピリピ1:22-24


⑦死者のところへ行く
「しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。
あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。
私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」
(Ⅱサムエル12:23)
:ダビデの言葉


⑧よみ(シオール)にいる霊魂には意識がある
「下界のよみは、 あなたの来るのを迎えようとざわめき、
死者の霊たち、 地のすべての指導者たちを 揺り起こし、
国々のすべての王を、 その王座から立ち上がらせる。
彼らはみな、あなたに告げて言う。
『あなたもまた、私たちのように弱くされ、 私たちに似た者になってしまった。』
あなたの誇り、あなたの琴の音はよみ(シオール)に落とされ、
あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。」
(イザヤ14:9-11)
:バビロンの王はシオールの地獄の部分に行っている

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。
犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 (ルカ16:19-22)
(金持ちとラザロに見る実話)



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偽物と本物との違い

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偽物と本物との違い


ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:

http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/312-67


「子羊の反撃①~弟子と群衆への教え」
マタイ23章1~12節
~マタイ福音書連続講解説教67~


マタイ21~22章はユダヤ各派が子羊を吟味している場面であり、
4つのユダヤ人派閥からの尋問・論争を受けてきました。

彼らは主イエスに論駁された結果、
もはや質問の勇気すらなくなったようです。

「 それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。
また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。」
(マタイ 22:46)

パリサイ人は、常に論争相手として主の前に立ちはだかりました。

彼らの説く口伝律法の教えは、
ユダヤの民衆に会堂を通じて深く入り込んでいたイデオロギー
とも言うことができます。

彼らはなぜ事あるごとに主と対立せねばならなかったのでしょうか。

両者ともに旧約聖書の権威を認めているのに。

それゆえ外部からは「ユダヤ教」と括られて、
その違いは見えにくいのです。

彼らのパリサイ主義と
真の聖書的な信仰(主イエスの教え)とは、
何がどう違うのでしょうか。


  1. 自力本願か他力本願か

律法遵守に厳格になるほど救いから遠ざかることになります。

自らに厳格になればなるほど
欠陥や欠点だらけの自分自身に敏感ともなるからです。

律法を守ることによる、
つまり自己努力によっては完全(義)へ至らなかったとパウロが告白しています。

「 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、
私たちもキリスト・イエスを信じたのです。

これは、律法の行いによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、
ひとりもいないからです。」
(ガラテヤ 2:16)

クリスチャンとは、自己に破産した者たちのことです。

義なるものなんて自らの内にはないことをつぶさに知り、
罪の塊でしかなかったと悟ったものが、

その罪をかぶって十字架に死に、
よみがえったお方にのみ
望みを託した者のことです。

イエスという一人だけの絶対他者にすがるほか
救いはないことを経験した者たちのことです。

  2. 他者(自己)を意識するか、神のみを見上げるか

パリサイ人たちの世界には常に序列があり、
より高い位に上ることが人生の全てであったようです。

そこに他者との比較の世界となりました。

他者が自分よりも宗教的に優れていると判断されるなら劣等感、
その逆なら優越感を抱くかのどちらかでした。

他者をそのように意識することは、
すなわち自己を必要以上に意識すること、
自意識過剰に陥ります。

それゆえパリサイ人らは祈るときは人目のある大通りに出て行きました。

献金のときは多額のコインをささげるのが衆目にわかるように音を立てて
(ラッパを鳴らして)献金箱に投げ入れました。

人からの評価が全てである彼らは

「先生」
「わが父」
「師匠」

などというタイトルで呼ばれることを求めていたのです。

かつて神はアブラハムに
「わたしの前を歩んで、全き者であれ」
(創世記17章1節)
と言われました。

真の信仰は、
あなたを命を捨ててまで愛したお方を
罪とその結果からあなたを救い出す神のみを見上げて歩むものです。

誰の評価よりも、
「隠れたところで見ておられるあなた方の父」(マタイ6:4、6、18)
からの評価と報いとを期待するものです。

  3.不安と恐れからの宗教実践か、満ち足りている所からの感謝行為か

パリサイ人らの律法主義には常に恐れが伴っています。

厳しい神の掟にどこまで届いているのだろうかという不安感。

他者は私をどう見ているのだろうかという猜疑心。

これは強迫観念の信仰と言えます。

奉仕するのも、献金も集会主席もそうしないと怖いと感じるのです。

神の裁きや評価にもれてはしないかと、
恐れるところからの宗教の行いと成り下がります。

ところが一方で
主イエスの無代価の救いをいただいた者には喜びがあります。

彼らは信仰による有難い思いを抱いています。

そこから自主的な奉仕やささげ物という実践が伴うのです。

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、
また何一つ持って出ることもできません。」
(Ⅰテモテ6:6-7)


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