Good Friday
4月
18日
「君も
そこにいたのか
主が
十字架に
付くとき
ああ・・
何だか心が
震(ふる)える
震える 震える
君も
そこに居たのか」
この歌詞が私のハートと脳の中を行き巡っていた一日。
勿論、それは娘がこの日の教会の礼拝でその曲をソロしたことと関係している。
祈りと聖書朗読、黙想が終わり会場内の明かりが全て消された後
一人、また一人と退席する暗闇の中、
彼女のソウルフルな歌声が会堂内に響き渡る。
ホサナ教会が間借りしているNewport Covenant 教会での
Good Friday Serviceでの一シーン。
私はそこには出席出来ず、
サンフランシスコのワシントン・スクエアにあるペテロ・カトリック教会
で礼拝のときを過ごした。
この日は民族や教派を超え、世界中のクリスチャンがイエスの死を偲ぶ日である。
それは決して他人事ではない。
あざけり、ののしりの声が充溢する雑踏の中を
十字架を負って進み行かれたイエス。
主が手足を杭で串刺しにされるそのハンマーの音。
その一撃の度に主の口から漏れるうめき声。
イエスの十字架を前に
人の罪がさらけ出された。
ローマ兵士は日頃のユダヤ人統治の困難の鬱憤晴らしとばかりに
茨の冠をイエスに被せ、それを棒でたたき、あざけりの限りを尽くした。
ユダヤ最高議会がイエスを死刑と定めてローマ総督に引き渡したのは、
ローマによって支えられている特権を失いたくない保身から。
弟子たちが皆、イエスを捨てて逃げてしまったのも自己保身に他ならない。
群集がイエスを「十字架につけろ」と要求したのもまた
指導者と大勢側に迎合して不利な立場に自分を置きたくない自己保身であった。
それは私の罪そのものである。
もし私が2千年前のその場にいたのなら、
ローマ人であっても、
群衆の一人であっても、
またはたとい弟子の一人であったとしても
彼らと同じ行動をとっていたに違いない。
その私の罪ゆえに
その罪を背負って
十字架の道を歩まれた主。
その重たい罪を背負い
その罪を赦し
その罪の結果である
死と
神の裁きから
私を開放するために。
Good Friday Service での娘のソロ動画:
https://www.youtube.com/watch?v=k7Llm8tZy9I&feature=youtu.be
Were you there?
1 Were you there when they crucified my Lord?
Were you there when they crucified my Lord?
Oh, sometimes it causes me to tremble, tremble, tremble.
Were you there when they crucified my Lord?
2 Were you there when they nailed him to the tree?
Were you there when they nailed him to the tree?
Oh, sometimes it causes me to tremble, tremble, tremble.
Were you there when they nailed him to the tree?
3 Were you there when they laid him in the tomb?
Were you there when they laid him in the tomb?
Oh, sometimes it causes me to tremble, tremble, tremble.
Were you there when they laid him in the tomb?
聖歌 400 君もそこにいたのか
①君もそこに居たのか 主が十字架に付くとき
ああ・・ 何だか心が震(ふる)える 震える 震える
君もそこに居たのか
②君も聞いていたのか 釘(くぎ)を打ち込む音を
ああ・・ 何だか心が震(ふる)える 震える 震える
君も聞いていたのか
③君も眺(なが)めてたのか 血潮(ちしお)が流れるのを
ああ・・ 何だか心が震(ふる)える 震える 震える
君も眺(なが)めてたのか