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「延期された神の国」

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夕暮れのエルサレム 夕暮れのエルサレム
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。

聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/14246-62

「延期された神の国」

マタイ21章42~ 46節
~マタイ福音書連続講解説教62~


❶パリサイ人サドカイ人

サンヘドリンの主な構成員であり、
当時のユダヤ人の二大派閥であったこの両者について整理してみよう 

1.パリサイ人
  •紀元前2世紀頃からハスモン王朝(BC166~63)期に誕生
  •モーセ律法と同程度の霊感と権威を口伝律法に認めた
  •OT39巻全巻を正典であると認めた
  •天使や悪霊の存在とその序列を認めた
  •死後の世界を信じた
  •霊魂の不滅と死後の報酬、裁きとを信じた
  •民族的な特異性と優越意識を抱いていた
  •現在まで続く正統派と呼ばれているユダヤ人たちの源流

2.サドカイ人
  •ハスモン期に生まれて、AD70エルサレム崩壊とともに消滅している
  •口伝律法の権威を認めていない
  •トーラー(モーセ5書)のみが霊感を受けた正典であるとした
  •レビ人、祭司の清めの儀式を厳重に重んじ実践した
  •神殿を基盤とする祭司たちが主な構成員
  •死者の復活も死後の命も信じていない現世主義者
  •天使や悪霊の存在と認めない
  •霊的な世界を認めない

❷彼らユダヤ人はイエスを拒絶した

この日、主イエスはパリサイ人達やサドカイ人達との論争のただ中にある。

彼ら指導者達の神に対する真の信仰のない姿勢や、
その結果として神の裁きを刈り取らねばならないことを

二つのたとえ話を使って明らかとされた。
それは先回学んだ。

第一のたとえ話:ユダヤ指導者たちはB.ヨハネやメシアを信じなかった
第二の たとえ話:ゆえにさばきを受ける。罪の刈り取りをしなくてはならない。

このように、
主がたとえ話でお語りになられた指導者たちとその運命に対しての論述は、
実は詩篇118:22ですでに預言されていたのである。

『家を建てる者たちの見捨てた石。 それが礎の石になった。
これは主のなさったことだ。 私たちの目には、 不思議なことである。』

「礎の石」:コーナーストーンが、
建物の位置と規模とを決定する最重要アイテムであることや、
それがメシアである主イエスを指していることは先回確認した。

今回はこの詩篇の預言を主がどのように理解され、
そしてユダヤ歴史に適用されているのかを学ぼう。

❸イエスによるこの詩篇預言の適用(43~44)

•「神の国はあなたがたから取り去られた」
~当時のユダヤ人世代から、メシア王国は取り去られた、という意味である

•「神の国の実を結ぶ国民に与えられる」
多くの人はこの「国民」を「異邦人」や「教会」と考えている。
そのように教える聖書の解説書、注解書がほとんどである。

西洋の契約神学と呼ばれる大きな潮流から
置換神学が不動の位置を占めるものとなった。

イエスを拒否したユダヤ人に代わり、
いまや異邦人で構成されるキリスト教会が「神の国」を
相続するものとなったのである、とする神学体系である。

ここで、「国民」のギリシア原語ἔθνει (Mat 21:43 BGT) について考察しよう。

•このギリシャ語は3つの訳が可能である。
①「国民・民族」
nation, people Mt 24:14; Lk 12:30; Ac 8:9(単数); 10:22(単数); 13:19

②「異邦人」Mt 6:32; 10:18; Ac 11:1, 18; 14:5; Ro 3:29.

③パウロ書簡による「異邦人クリスチャン」 Ro 16:4; Gal 2:12; Eph 3:1.

•「異邦人」と訳されるときは必ず複数形である。 ②と③
単数の時には決まって「ひとつの民族、国民、人々」を意味する。 ①

•ここでは単数形が使われている。 ἔθνει (Mat 21:43) = a people, a nation

•聖書では、「教会」や「異邦人」が単数であるとする概念はあり得ない。

地上の全ての民族や国民からやがての教会が構成されるようになる
と黙示録は預言する。

「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。
あなたは、ほふられて、その血により、
あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、
神のために人々を贖い、 」
(黙示録 5:9)

天で召集された教会が地上のすべての「部族、国語、民族、国民」
から成っていると黙示録は繰り返し教えている。
黙示7:9、11:9、13:7、14:6.

•ゆえにここの「一つの国民」とは
教会でも、異邦人でもなく、
ユダヤ民族であると理解しなくてはならない。

それは、大艱難時代を通過する後の日のユダヤ民族のことである。

彼らは宣教師となって世界で神のために活躍する(実を結ぶ)


•当時の石打刑のモチーフ(44)

「石の上に落ちるもの」
~罪人を高所から突き落とす。
そこには石が敷き詰められてあり、
罪人は足や全身を強打されて身動きができない状態となる。

「石が人の上に落ちる」
~それで死なない場合は心臓めがけて二人が持ち上げた巨石が投げ落とされる。

「その人を粉みじんに飛ばす」
~罪人の血肉は周囲に飛散する。

これらは、エルサレムの破壊とユダヤ人の世界離散を預言した言葉となっている。

確かにメシア拒否の裁きをその世代のユダヤ人は刈り取った。

だが、それで神のユダヤ人に対する計画はご破算になったわけではない。

将来の世代のユダヤ人が
やがてイエスをメシアとして崇めるときが来るのである。




#救済

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Reaching Japanese for Christ 第一日目

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Reaching Japanese for Christ のカンファレンスに終日参加してきました。

日本人伝道に重荷を持つ方々の研鑽とネットワーク作りを主眼とした集いで、
毎年この時期に開かれています。


今年のメイン講師は、松岡和広牧師。

以下は松岡先生のメッセージ備忘録となります。




趣味はボディビルです。
そう言われてみればそうかな?と思われるかもしれませんが、
ここで服を脱ぐわけにもいかないのです。

かつての私は176センチで67キロしかなかった。
痩せていたので、貧血や声が出なくなってしまうことが多かったのです。

そこでボディビルジムに通うようになると
2年間で20キロ体重が増えて、以後疲れることはなくなったのでした。

イエス様によって私の内側も変えられました。

実家の町内には90のお寺があるが、お寺の次男坊として生まれた。

高校時代、生きる意味や目的を考えるようになり、
哲学書を読んでみるがそこに答えはなかった。

そこでお坊さんの道にはいることになった。

父親の宗派に属する仏教大学に入り、頭を丸め、勉強と修行とが始まった。

天台宗に属するが、その特徴は総合であり、
どんな宗派の教えでも取り入れるところ。

山にも登って厳しい修行を始める。

3000回の礼拝をする苦行、
それは「5体投地」というもので

一日に1000回身を投げ出すような拝礼を
3日間連続して行うものが最もきつかった。

しかもそれを他の修行僧にペースを合わせて行わねばならない。

やがて首席で大学を卒業。
だが、仏教には何ら見出すものはなかった。

勉強すればするほど、納得できない問題が沸き起こってきた。

日本に伝わったお経や教えはお釈迦さんのものとは大きくかけ離れていることが分かってきた。

それはヒンズー教の影響を大きく取り入れているもの。

仏教を勉強するには日本が世界一である。
そこで韓国からの留学生もいて友人となり、韓国に興味を持つようになった。

ソウルオリンピック後の1989年に単独で私の韓国留学生生活が始まった。

そこで知らされたことは、人間はいくらお金があっても、
自由時間があっても、
好きな韓国語に関わっていても
それだけでは幸せとはなれないこと。

1カ月後には「どうして生きているのだろうか。」
と同様の悩みを持つようになっていた。

クリスマスに人生で初めて教会に行って見た。
同じ語学学校に通っていた日本人に誘われてのことだった。

韓国にいるしクリスマスだからと、
日本にいたら絶対行くことのなかったキリスト教会へ行ったのだった。

「次の日曜日も教会に来てください」と韓国人の若い女性の誘いに断りきれずに
翌日曜に生まれて初めて礼拝にも出席した。

宗教としてのキリスト教を勉強しても良いかな?と思うようになり、
聖書研究会にも出席するようになった。

そこで創世記1:31 の教えに出会う。

「神はお造りになったすべてのものを見られた。
見よ。それは非常に良かった。
夕があり、朝があった。第六日。」
(Gen 1:31)

神はご自分で感動するほどにこの世界の全てを創られた後に
「すばらしい」と書いてあった。

仏教とは大いに違う。
あらゆることが虚しくて、無に帰するというのが仏教の教え。

それでもこれまで善人であろうと努力していた私に、
「罪人」であると語られてもすぐには分からなかった。

イエスという2千年前の人物がどうして私に関係があるのか?

そこで聖書研究会をやめようと考えていた矢先、
その研究会の感想を発表する自分の順番が回って来た。

心からではないが、頭に浮かんだ言葉を原稿に書き続けていった。
「神様お赦しください。私は罪人でした、、、、
私はあなたの顔にツバキを吐きかけたようなものです」
というような悔い改めの言葉で原稿用紙を埋めていった。

集会でその文章を読み始めた途端、突然感動に打たれ、
涙が込み上げてきて、床につき伏せてしまった。


帰宅してその晩は眠れなかったので起き上がり
「私の全てはあなたの栄光のためです」
と初めて祈って見たのです。

すると、天からの声が聞こえて来た。

「あなたの名前は天国に書き記されている」

その瞬間、否定できない確信が与えられた。
それは現在も続く確信であった。

神は存在するという確信である。

その後、仏教の大学でもその授業中でも、
内から湧き上がる喜びを抑えることができなくなり、

イエス様を信じたこと、
神が存在することを友人や先生たちにも言い始めた。


母がソウルに飛んで来て、大学の名のある教授たちと私を説得にかかり出した。

ですが、救われたのは私の体験です。
叱られても、説得されても、思い込みやいっときの感情ではないので、
私はびくともしませんでした。

神はお坊さんを辞めた人を救われたのではない。
神は現役のお坊さんを救われたのです。

どんなところにいる人でも神は救うことができるのです。

「私は仏教徒だから」と言って壁を作ることが日本人には多い。

「それでいいですよ。問題ないですよ。」
と言って聖書の話を説き続ければ良いのです。

神はどんな壁であっても崩し去ることのできるお方です。

#救済

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RJC第一日

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RJC第一日 RJC第一日


Reaching Japanese for Christ のカンファレンスに終日参加してきました。

日本人伝道に重荷を持つ方々の研鑽とネットワーク作りを主眼とした集いで、
毎年この時期に開かれています。


今年のメイン講師は、松岡和広牧師。

以下は松岡先生のメッセージ備忘録となります。

趣味はボディビルです。
そう言われてみればそうかな?と思われるかもしれませんが、
ここで服を脱ぐわけにもいかないのです。

かつての私は176センチで67キロしかなかった。
痩せていたので、貧血や声が出なくなってしまうことが多かったのです。

そこでボディビルジムに通うようになると
2年間で20キロ体重が増えて、以後疲れることはなくなったのでした。

イエス様によって私の内側も変えられました。

実家の町内には90のお寺があるが、お寺の次男坊として生まれた。

高校時代、生きる意味や目的を考えるようになり、
哲学書を読んでみるがそこに答えはなかった。

そこでお坊さんの道にはいることになった。

父親の宗派に属する仏教大学に入り、頭を丸め、勉強と修行とが始まった。
天台宗に属するが、その特徴は総合であり、どんな宗派の教えでも取り入れるところ。
山にも登って厳しい修行を始める。
3000回の礼拝をする苦行、それは「5体投地」というもので一日に1000回身を投げ出すような拝礼を3日間連続して行うものが最もきつかった。

しかもそれを他の修行僧にペースを合わせて行わねばならない。

やがて首席で大学を卒業。
だが、仏教には何ら見出すものはなかった。
勉強すればするほど、納得できない問題が沸き起こってきた。

日本に伝わったお経や教えはお釈迦さんのものとは大きくかけ離れていることが分かってきた。
それはヒンズー教の影響を大きく取り入れているもの。

仏教を勉強するには日本が世界一である。
そこで韓国からの留学生もいて友人となり、韓国に興味を持つようになった。

ソウルオリンピック後の1989年に単独で私の韓国留学生生活が始まった。

そこで知らされたことは、人間はいくらお金があっても、自由時間があっても、好きな韓国語に関わっていてもそれだけでは幸せとはなれないこと。

1カ月後には「どうして生きているのだろうか。」と同様の悩みを持つようになっていた。

クリスマスに人生で初めて教会に行って見た。
同じ語学学校に通っていた日本人に誘われてのことだった。

韓国にいるしクリスマスだからと、日本にいたら絶対行くことのなかったキリスト教会へ行ったのだった。

「次の日曜日も教会に来てください」と韓国人の若い女性の誘いに断りきれずに翌日曜に生まれて初めて礼拝にも出席した。

宗教としてのキリスト教を勉強しても良いかな?と思うようになり、
聖書研究会にも出席するようになった。

そこで創世記1:31 の教えに出会う。

神はご自分で感動するほどにこの世界の全てを創られた後に「すばらしい」と書いてあった。

仏教とは大いに違う。
あらゆることが虚しくて、無に帰するというのが仏教の教え。

それでもこれまで善人であろうと努力していた私に、
「罪人」であると語られてもすぐには分からなかった。

イエスという2千年前の人物がどうして私に関係があるのか?

そこで聖書研究会をやめようと考えていた矢先、その研究会の感想を発表する自分の順番が回って来た。

心からではないが、頭に浮かんだ言葉を原稿に書き続けていった。
「神様お赦しください。私は罪人でした、、、、私はあなたの顔にツバキを吐きかけたようなものです」というような悔い改めの言葉で原稿用紙を埋めていった。

集会でその文章を読み始めた途端、突然感動に打たれ、涙が込み上げてきて、床につき伏せてしまった。


帰宅してその晩は眠れなかったので起き上がり
「私の全てはあなたの栄光のためです」
と初めて祈って見たのです。

すると、天からの声が聞こえて来た。

「あなたの名前は天国に書き記されている」

その瞬間、否定できない確信が与えられた。
それは現在も続く確信であった。

神は存在するという確信である。

その後、仏教の大学でもその授業中でも、内から湧き上がる喜びを抑えることができなくなり、イエス様を信じたこと、神が存在することを友人や先生たちにも言い始めた。


母がソウルに飛んで来て、大学の名のある教授たちと私を説得にかかり出した。

ですが、救われたのは私の体験です。
叱られても、説得されても、思い込みやいっときの感情ではないので、私はびくともしませんでした。

神はお坊さんを辞めた人を救われたのではない。
神は現役のお坊さんを救われたのです。

どんなところにいる人でも神は救うことができるのです。

「私は仏教徒だから」と言って壁を作ることが日本人には多い。

「それでいいですよ。問題ないですよ。」と言って聖書の話を説き続ければ良いのです。
神はどんな壁であっても崩し去ることのできるお方です。
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RJCに参加して来ました

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RJCに参加して来ました RJCに参加して来ました
Reaching Japanese for Christという日本人伝道に関わる人々のためのカンファレンスに終日参加してきました。

今年のメイン講師は、松岡和広牧師。

以下が全体集会でのメッセージ備忘録です。


趣味はボディビルです。
そう言われてみればそうかな?と思われるかもしれませんが、
ここで服を脱ぐわけにもいかないのです。

かつての私は176センチで67キロしかなかった。
痩せていたので、貧血や声が出なくなってしまうことが多かったのです。

そこでボディビルジムに通うようになると
2年間で20キロ体重が増えて、以後疲れることはなくなったのでした。

イエス様によって私の内側も変えられました。

実家の町内には90のお寺があるが、お寺の次男坊として生まれた。

高校時代、生きる意味や目的を考えるようになり、
哲学書を読んでみるがそこに答えはなかった。

そこでお坊さんの道にはいることになった。

父親の宗派に属する仏教大学に入り、頭を丸め、勉強と修行とが始まった。

天台宗に属するが、その特徴は総合であり、どんな宗派の教えでも取り入れるところ。
山にも登って厳しい修行を始める。
3000回の礼拝をする苦行、それは「5体投地」というもので一日に1000回身を投げ出すような拝礼を3日間連続して行うものが最もきつかった。

しかもそれを他の修行僧にペースを合わせて行わねばならない。

やがて首席で大学を卒業。
だが、仏教には何ら見出すものはなかった。
勉強すればするほど、納得できない問題が沸き起こってきた。

日本に伝わったお経や教えはお釈迦さんのものとは大きくかけ離れていることが分かってきた。
それはヒンズー教の影響を大きく取り入れているもの。

仏教を勉強するには日本が世界一である。
そこで韓国からの留学生もいて友人となり、韓国に興味を持つようになった。

ソウルオリンピック後の1989年に単独で私の韓国留学生生活が始まった。

そこで知らされたことは、人間はいくらお金があっても、自由時間があっても、好きな韓国語に関わっていてもそれだけでは幸せとはなれないこと。

1カ月後には「どうして生きているのだろうか。」と同様の悩みを持つようになっていた。

クリスマスに人生で初めて教会に行って見た。
同じ語学学校に通っていた日本人に誘われてのことだった。

韓国にいるしクリスマスだからと、日本にいたら絶対行くことのなかったキリスト教会へ行ったのだった。

「次の日曜日も教会に来てください」と韓国人の若い女性の誘いに断りきれずに翌日曜に生まれて初めて礼拝にも出席した。

宗教としてのキリスト教を勉強しても良いかな?と思うようになり、
聖書研究会にも出席するようになった。

そこで創世記1:31 の教えに出会う。

神はご自分で感動するほどにこの世界の全てを創られた後に「すばらしい」と書いてあった。

仏教とは大いに違う。
あらゆることが虚しくて、無に帰するというのが仏教の教え。

それでもこれまで善人であろうと努力していた私に、
「罪人」であると語られてもすぐには分からなかった。

イエスという2千年前の人物がどうして私に関係があるのか?

そこで聖書研究会をやめようと考えていた矢先、その研究会の感想を発表する自分の順番が回って来た。

心からではないが、頭に浮かんだ言葉を原稿に書き続けていった。

「神様お赦しください。私は罪人でした、、、、私はあなたの顔にツバキを吐きかけたようなものです」というような悔い改めの言葉で原稿用紙を埋めていった。

集会でその文章を読み始めた途端、突然感動に打たれ、涙が込み上げてきて、床につき伏せてしまった。


帰宅してその晩は眠れなかったので起き上がり
「私の全てはあなたの栄光のためです」
と初めて祈って見たのです。

すると、天からの声が聞こえて来た。

「あなたの名前は天国に書き記されている」

その瞬間、否定できない確信が与えられた。
それは現在も続く確信であった。

神は存在するという確信である。

その後、仏教の大学でもその授業中でも、内から湧き上がる喜びを抑えることができなくなり、イエス様を信じたこと、神が存在することを友人や先生たちにも言い始めた。


母がソウルに飛んで来て、大学の名のある教授たちと私を説得にかかり出した。

ですが、救われたのは私の体験です。
叱られても、説得されても、思い込みやいっときの感情ではないので、私はびくともしませんでした。

神はお坊さんを辞めた人を救われたのではない。
神は現役のお坊さんを救われたのです。

どんなところにいる人でも神は救うことができるのです。

「私は仏教徒だから」と言って壁を作ることが日本人には多い。

「それでいいですよ。問題ないですよ。」
と言って聖書の話を説き続ければ良いのです。

神はどんな壁であっても崩し去ることのできるお方です。
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RJC最終日

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RJCにこの日も終日参加。

この日も講師として活躍したタイ人のSteveの話は凄い。

仏教に造詣の深い彼が、アジア人に福音を語る時に陥りやすい、盲点となっている点を実に整理して語ってくれた。

ユダヤ人にとって律法が人々をキリストに導く養育係であったように、
アジア人にとってはそれが仏教であったのだ、という視点。

その数千年の文化的蓄積を無視して突然、新約聖書の救いという「回答」を指し示しても人々は確かに戸惑うばかりであろう。

早速、彼が持ち込んだ書籍と講演DVDを購入。
出席できなかった彼の講演もRJCのウエブで視聴しようと思う。
#救済

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Reaching Japanese for Christ 第一日目

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Reaching Japane... Reaching Japane...
Reaching Japanese for Christ のカンファレンスに終日参加してきました。

日本人伝道に重荷を持つ方々の研鑽とネットワーク作りを主眼とした集いで、
毎年この時期に開かれています。


今年のメイン講師は、松岡和広牧師。

以下は松岡先生のメッセージ備忘録となります。

趣味はボディビルです。

そう言われてみればそうかな?と思われるかもしれませんが、
ここで服を脱ぐわけにもいかないのです。

かつての私は176センチで67キロしかなかった。
痩せていたので、貧血や声が出なくなってしまうことが多かったのです。

そこでボディビルジムに通うようになると
2年間で20キロ体重が増えて、以後疲れることはなくなったのでした。

イエス様によって私の内側も変えられました。

実家の町内には90のお寺があるが、お寺の次男坊として生まれた。

高校時代、生きる意味や目的を考えるようになり、
哲学書を読んでみるがそこに答えはなかった。

そこでお坊さんの道にはいることになった。

父親の宗派に属する仏教大学に入り、頭を丸め、勉強と修行とが始まった。

天台宗に属するが、
その特徴は総合であり、どんな宗派の教えでも取り入れるところ。

山にも登って厳しい修行を始める。

3000回の礼拝をする苦行、
それは「5体投地」というもので

一日に1000回身を投げ出すような拝礼を
3日間連続して行うものが最もきつかった。

しかもそれを他の修行僧にペースを合わせて行わねばならない。

やがて首席で大学を卒業。

だが、仏教には何ら見出すものはなかった。
勉強すればするほど、納得できない問題が沸き起こってきた。

日本に伝わったお経や教えは
お釈迦さんのものとは大きくかけ離れていることが分かってきた。

それはヒンズー教の影響を大きく取り入れているもの。

仏教を勉強するには日本が世界一である。

そこで韓国からの留学生もいて友人となり、韓国に興味を持つようになった。

ソウルオリンピック後の1989年に単独で私の韓国留学生生活が始まった。

そこで知らされたことは、人間はいくらお金があっても、
自由時間があっても、好きな韓国語に関わっていても
それだけでは幸せとはなれないこと。

1カ月後には「どうして生きているのだろうか。」
と同様の悩みを持つようになっていた。

クリスマスに人生で初めて教会に行って見た。
同じ語学学校に通っていた日本人に誘われてのことだった。

韓国にいるしクリスマスだからと、
日本にいたら絶対行くことのなかったキリスト教会へ行ったのだった。

「次の日曜日も教会に来てください」と韓国人の若い女性の誘いに断りきれずに
翌日曜に生まれて初めて礼拝にも出席した。

宗教としてのキリスト教を勉強しても良いかな?と思うようになり、
聖書研究会にも出席するようになった。

そこで創世記1:31 の教えに出会う。

「神はお造りになったすべてのものを見られた。
見よ。それは非常に良かった。
夕があり、朝があった。第六日。」
(Gen 1:31 )


神はご自分で感動するほど
この世界の全てを創られた後で
「すばらしい」と言われたと書いてあった。

仏教とは大いに違う。
あらゆることが虚しくて、無に帰するというのが仏教の教え。

それでもこれまで善人であろうと努力していた私に、
「罪人」であると語られてもすぐには分からなかった。

イエスという2千年前の人物がどうして私に関係があるのか?

そこで聖書研究会をやめようと考えていた矢先、
その研究会の感想を発表する自分の順番が回って来た。

心からではないが、頭に浮かんだ言葉を原稿に書き続けていった。

「神様お赦しください。私は罪人でした、、、、
私はあなたの顔にツバキを吐きかけたようなものです」

というような悔い改めの言葉で原稿用紙を埋めていった。

集会でその文章を読み始めた途端、
突然感動に打たれ、涙が込み上げてきて、床につき伏せてしまった。


帰宅してその晩は眠れなかったので起き上がり
「私の全てはあなたの栄光のためです」
と初めて祈って見たのです。

すると、天からの声が聞こえて来た。

「あなたの名前は天国に書き記されている」

その瞬間、否定できない確信が与えられた。
それは現在も続く確信であった。

神は存在するという確信である。

その後、仏教の大学でもその授業中でも、
内から湧き上がる喜びを抑えることができなくなり、

イエス様を信じたこと、
神が存在することを友人や先生たちにも言い始めた。


母がソウルに飛んで来て、大学の名のある教授たちと私を説得にかかり出した。

ですが、救われたのは私の体験です。

叱られても、説得されても、思い込みやいっときの感情ではないので、
私はびくともしませんでした。

神はお坊さんを辞めた人を救われたのではない。
神は現役のお坊さんを救われたのです。

どんなところにいる人でも神は救うことができるのです。

「私は仏教徒だから」と言って壁を作ることが日本人には多い。

「それでいいですよ。問題ないですよ。」
と言って聖書の話を説き続ければ良いのです。

神はどんな壁であっても崩し去ることのできるお方です。

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「建設家達が見捨てた石」

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テルアビブ テルアビブ
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「建設家達が見捨てた石」
マタイ21章28~ 42節
~マタイ福音書連続講解説教61~

受難週の第3日目・火曜日の出来事である。

当時の過越の祭りではニサンの月の10日に捧げ物の羊を1頭選り分けると、
それに疾患や外傷がないかを14日まで吟味されることになっていた。

「贖いのための神の子羊」として主イエスは
同10日にエルサレムへの勝利の入城をされた後、
4つのグループから質問を受け、論争に巻き込まれていく。

火曜日の出来事とは、その論争に明け暮れた一日であった。

先ずサンヘドリンというユダヤ最高議会の構成員達(祭司長や長老たち)
から論争を挑まれる。

主イエスはこれについては直接答えるのを拒否されるが、
3つのたとえ話を用いて彼らの罪状を言い当て、
その結果である裁きを免れる事なしと断罪し、
将来の世界情勢がどう変遷していくかを預言された。


❶ぶどう園としてのイスラエル

最初の二つのたとえ話で主はイスラエルをぶどう園として描写している。
それは旧約聖書からの長い伝統でもあった。

話は変わるが、
カリフォルニア州はナパバレーを筆頭に多くの世界的なワイン産地となっている。
そのワイン造りは、カトリックの神父さんたちから始まったものであった。

ミッションストリートを巡りながら
各地に宣教の拠点となるカセドロを建てて行ったカトリックは、
ミサのためにぶどう酒がどうしても必要だった。

教会の敷地内から始められたぶどう造りが、
今日のカリフォルニアワインの元祖である。

ワイン造りには壮絶ともいうべき忍耐が強いられる。

長い年月と費用、労力を投じてようやく収穫を得るのである。

神はイスラエルをワインを作るような細かな配慮をもって、
いわば手塩にかけて育てて来たのである。

彼らと契約を交わし、律法を与え、ご自身を啓示して、様々な特権を与えてきた。

預言者を度々送ったが、イスラエルは彼らを辱め、殺してきた。

そしてぶどう園の所有者(神)は、最後に一人息子(イエス)を送った。

ぶどう園を預っていた農夫達(ユダヤ人リーダーたち:サンヘドリン)は、
その息子をも殺して財産を横取りしようと相談する。

神が良い収穫を期待して育てたユダヤ人の実情は
そのような期待はずれのものとなった。

そのユダヤ人リーダー達は、
「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、
季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません」
と答えているが、それは自分たち自身への死刑判決を結審したことになる。

事態はその通りに推移して行くのである。

それではユダヤ人が神の期待に応えて来なかったとしたら、
彼らに与えられた契約はどうなるのであろうか?

彼らが契約不履行ゆえに、
契約そのものも反故とされるのであろうか?


❷家を建てる者たちの見捨てた石

『22 家を建てる者たちの捨てた石。 それが礎の石になった。
23 これは主のなさったことだ。 私たちの目には不思議なことである。

これは詩篇118:22からの引用である。

ここで礎の石(コーナーストーン)について説明をしなくてはならない。

それは建設工程で最も重要な作業である。
礎としてどんな石を、どの場所に、
どの方角を向けて据えるかで建物の全体像が決定されるのである。

コーナーに据えられたその石の直角に交わる2辺が、
土台の縦と横のラインを決定する。

最も熟練した建設家がそのコーナーストーンを選び、
所定の位置に据えるのであるが、
一度据えて見たもののどうも収まりが悪いので、
横に跳ね除けて別の石をコーナーに据え直すということも時に起こった。

「家を建てる者たちの見捨てた石」とは、
そのようなコーナーストーンになり損ねた石のことである。

ここで「石」とは旧約聖書の用例から神やメシアを指す言葉である。

つまりユダヤ人たちからメシアが拒絶されることを預言した聖句なのである。
農夫達がオーナーの跡取り息子を殺してしまおうと陰謀しているたとえと共通している。



❸それが礎の石になった

一度捨てられた石が、
再び見直されコーナーストーンとして採用されるというモチーフ。

ユダヤ人による後日のメシアの受容が預言された聖句である。

それは詩篇が書かれた時点では将来に属することである。

イエス時代においてももちろん実現されていない。
イエスは拒否され十字架で死なれ、
民族としてのユダヤ人多数に理解されないまま天にお帰りになられた。

現在においても未だイエスはユダヤ人に受け入れられることなく、
その預言成就を目にしていないのである。

ところが、「礎の石になった」。
これは完了形で書かれていることに注目したい。

たとい人の目から見て将来に属することであっても、
神からすればその契約履行の確かさゆえに、
すでに過去に成就したものであると見なしているのである。

このような語法は預言的完了形と呼ばれるものである。

ユダヤ人によって拒否されたイエスが、
将来のある時点(それは艱難時代を通り抜けた世代のユダヤ人であるが)、
イエスをメシアとして受け入れるときが来るとは、
何とも信じ難いことである。

教会歴史においても、
教会はユダヤ人をイエス殺しの犯人であるとして目の敵にして来たのである。

今日の多くの教会もユダヤ人に対する約束や契約は終わってしまい、
キリスト教会がそれを引き継いだのだとする神学が流行している。

イスラエルへの祝福や契約はキリスト教会に置き換えられたとする考えが、
置換神学である。

今日までもその論争が続けられている。


まさに「主のなさったこと」は、実に「私たちの目には不思議なこと」である。




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イスラエルと教会11~その②

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今年1月のガリラヤ湖 今年1月のガリラヤ湖
③ローマ 2:28-29

「28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(Rom 2:28-29)

この聖句を真に理解するためには、
ローマ2:17-3:9 という大きな文脈の中で論じなくてはならないことを先回指摘した。

この箇所を5つに区分して見て行きたい。


⑴ユダヤ人としての特権について 2:17-20

「17 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、
律法を持つことに安んじ、神を誇り、

18 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、

19 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため
、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、
幼子の教師だと自任しているのなら、

20&21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。
盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。」
(Rom 2:17-21)

17-18にはユダヤ人が持っている5つの特権が列挙される

・ユダヤ人という名前そのもの。栄誉という意味であり、
神を褒め称える民という特権。

・律法を授けられた特権。
それは神の最大の啓示を内蔵するものであり、
ユダヤ人とは啓示を受けて来た特別の民族である。

・神を誇る(栄光を帰す)民。
異邦人は神々や偶像を拝んでいるが、
ユダヤ人だけが民族全体としてまことの神を礼拝し、栄光をお返ししてきた。

・神の御心を知っている民。
言語では「御心」に定冠詞があり、
ユダヤ人だけが神のお考えを知りわきまえる事が可能であったのを示している。

・律法によって何が優れた事であるかをわきまえている民である。
律法はユダヤ人に事の善悪を明瞭に語ってきた。


確かにこれらはユダヤ人に与えられてきた特権に違いないが、
それら特権が彼らを神の義に至らせたものではないのである。

特権には責任が伴うのである。

ところが彼らにとっては、その特権が民族的な優越感となって現れてしまった。

律法という特別な特権の基盤を与えられた彼らは、
異邦人世界の中で神を宣教する役割を担うはずであったが、
出て行って証するよりも優越的な立場を主張して終わってしまったのであった。

その彼らの優越感溢れる主張点もまた5つある。

・盲人の導き手

・闇の中にいるものたち(それは旧約聖書から異邦人を意味する)にとっての光

・愚かな者たちを教導する。
旧約聖書によれば、「愚か者」とは神を認めない者たちのことを言う。

・幼子の教師。ユダヤ教に転向した異邦人を教える立場にある。

・知識と真理の具体的な形としての律法を手にしている。
律法が真理を啓示したものであるとの主張はその通りである。
問題は、パリサイ的なユダヤ教が律法を曲解してしまい
もはや本来意図された教えがそこから抽出されないことにある。


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イスラエルと教会11~その①

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安息日のエルサレム 安息日のエルサレム
③ローマ 2:28-29

「28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(Rom 2:28-29)

これは、「異邦人クリスチャンが霊的なユダヤ人となった」
とする神学が最終的で最大の拠り所とする聖句である。

本当のユダヤ人とは内的のことであるなら
信仰のある異邦人もその基準を満たしているし、
結局異邦人も内的ユダヤ人と見なされるのだ
とここの聖句が教えているとする論理である。

そのように主張する人たちは、
ローマ書簡の構造的な文脈を弁えていないのである。

ローマ書3章までの基本的な構造は次のようになっている。

あいさつ 1:1-7
序論 1:8-15
主題 1:16-17
有罪の下に置かれた全世界    1:18-3:30
有罪の下に置かれた異邦人        1:18-2:16
有罪の下に置かれたユダヤ人         2:17-3:20
結論 3:21-30



冒頭の2:28-29の聖句はユダヤ人に関わる文脈に位置している。
そこには異邦人に関わるものは何もなく、それに関しては2:16で終わっている。

この聖句をより良く理解するには、
信仰あるユダヤ人(パウロ)が信仰のないユダヤ人に語っているところであるという文脈
に注目せねばならない。

そうするならパウロがここで言葉遊びをしていることにも理解出来るであろう。

Judaism(ユダヤ性) やJew(ユダヤ人) とは、
同じ「栄誉」という語源から派生している。

ここで教えているのは、外的なユダヤ人であることが神の義を受けるに十分でなく、
それには神のユダヤ性(つまり霊的なユダヤ性)が必要となるというものである。

29節は、「ユダヤ性とは、人からではなく、神から来るものです。」
とも言い換えられるのである。

この箇所を学ぶにあたり、ローマ2:17-3:9 という大きな文脈から整理するなら
さらに納得していただけるものと思う。

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夕餐会と聖書のメッセージ

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美味しかった! 美味しかった!


ホサナ教会での聖書広場ではこの日、
「夕餐会と聖書のメッセージ」と銘打って、
普段とは志向を変えた集いとなった。

普段はマタイ福音書の連続講義をかなり精密にこなしていることから
新しくお出でになる方々にはだいぶ敷居が高いと思われる。

そこでポトラックを共に楽しみながら、
その後は簡単な聖書からのお話をさせていただこう、というもの。

残念ながら新しい方はお見えにはなられなかったが、
それぞれが持ち寄った心尽くしのお料理を堪能した宵でとなった。
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