新会堂建設を終えたばかりの川崎教会
日本滞在の最終日をみなとみらいで締めることに。
娘にとってお気に入りの場所で毎年、そこに立ち寄る事にしている。
彼女にとっての関心はもちろんショッピング(^ ^)
外歩きは暑さのため耐えられず、クイーンズスクエアのようなモール内を散策。
彼女の嗜好に付き合わされた後は
戸塚の両親宅に。
そして川崎教会へ。
先月新会堂を建てあげたばかりの真新しい教会。
そこには古津波先生ご夫妻が
いつもと変わらずににこやかにお迎えくださった。
関東教区での来月のキャンプ準備のために
青年達が会議をされていた。
午前12時半に羽田発のフライトのため
夜の10時まで教会で親交を深めることが出来る。
昨年、家内がお渡ししたワシントン州からの種から
こんな立派に成長
(序論)
人が気付いているかいないかにかかわらず、聖書は次の3つを教えている。
①人は誰でも神からの借金を抱えている
②その借金とは抱えきれないほどの膨大な額である
③よってその借金全額を肩代わりして下さった方がおられる
この事実を知ると知らないとでは、生き方に大きな違いを生む
(本論)
❶パリサイ人と罪深い女との差〜行動の違い
当時ユダヤ社会にあってホストは客人をもてなす3つの通例があった。
⑴足洗い、⑵頭上に香油を垂らす、⑶口づけ
ホストでありながらこれらをあえて省いたパリサイ人シモンに対して、
感動の涙で主の足を濡らした上髪の毛で拭った名のない不道徳の女性。
❷両者の行動の違いを生んだもの〜感謝の違い
50デナリの借金を棒引きしてもらえた者と、500デナリの借金を棒引きされたものとの間には感謝の度合いが異なることをたとえで明白にされた主。
地位、名誉、財産のあるシモンには赦される必要も救いへの渇きもなかったが、
社会的制裁を受け罪が身に染みて自覚できる女性にとって
赦されることの意味は大きかった。
❸主イエスへの信仰体験〜赦しの差
女性はシモンの家に招かれざる客として来る以前に
主のガリラヤ伝道の文脈の中でメシアとしての癒しや奇跡の業、
力あるみことば宣教に接していたと考えられる。
主への信仰が彼女に赦しの体験をすでに与えていたのであった。
「この女の多くの罪は赦されて(原語では完了形)います。
というのは、彼女はよけい愛したから(過去形)からです。」(47節)
(結論)
①神のみが人の負債を帳消しにできる
人が己の功績で救いを勝ち取ろうとするのは思い上がりであろう。
たましいはあまりに高価なゆえ人的手段の贖いは不可能で
人は永久に諦めねばならない(詩篇49:8)
②負債が帳消しとされた根拠
罪のないお方が罪そのものとなって十字架で死を遂げてくださったゆえに
その罪(借金)は肩代わりされたのである。
「私たちを責め立てている債務証書を無効にされた。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘付けにされた」(コロサイ2:14)
③この神の側で終了している御業を認め受け入れるのが信仰
主はすでにその赦しをあの女性に差し出され彼女は受け取ったのである。
貴方は如何に?
イスラエル内務相は、テルアビブのスーパーなどの安息日(土曜日)の営業を禁じることを決定した。「安息日には休むべきというイスラエル国家の方向性に準じたもので、特別なものではない」と同相は述べているが、この決定は大きな波紋を呼んでいる。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/4455177
「主人から全財産を任される僕」
マタイ24章45~51節
~マタイ福音書連続講解説教77~
大艱難時代前に教会は携挙されることを先週確認しました。
1.そのとき信者は復活の体を与えられ
2.空中に引き上げられて主イエスと会い、天に凱旋する
① 二人の僕のたとえ話
ここから携挙に対する信者としての心構えを学ぼう。
1) 「忠実な思慮深いしもべ」(45~47)
1.主人に仕事を依頼され、きちんとそれをこなしている
2.主人が帰ってきたとき(携挙)もその忠実さを維持
3.主人は全財産を彼に任せる
4.主人の帰りとその言葉とを信じた僕=信者
2) 「悪いしもべ」(48~51)
1.仕事を放り出して遊んでいる
2.主人は思いがけないときに帰ってくる
3.厳しい断罪と報いとが待っている
4.主人の帰りもその言葉も信ぜず、主人への愛もなし=不信者
ここで大切なことは、「忠実な思慮深いしもべ」とは誰で、
「悪いしもべ」とは誰を意味しているのか、という点でありましょう。
それはしばしば
「まじめに教会の働きに参与・貢献している信者」
VS
「信じてはいても、伝道や教会への協力の少ない人」
というように区別・理解されてきたように思われる。
本当にそのわけ方で良いのであろうか?
聖書を理解するときには、
その用語が聖書の他の箇所でどのように通常用いられているかに
留意せねばならない。
「悪い」という形容詞は常に神に逆らう不信者に付けられているもので、
信者に形容された例はない。
これらは、不信者と信者との対比である。
② メシアの裁きの御座
「人の子の前に立つ」(ルカ21:36)とは、
携挙の後に天に引き上げられた信者が
イエス様の前に立って裁きを受けることを教えたものである。
その裁きのその特徴とは、
1.目に見えない教会=信者が裁きの対象
2.信仰の働きに応じた裁きが下される
3罪に定める裁きではなく、報酬を決定する評価である
4.信者が罪に定められることはない~ローマ8:1
その裁きの基準については、
1コリント3:10~15に詳しく教えられている。
1)「土台(イエス様)の上にどのような建物を建てたか」で計られる
A.土台とは主イエスである
B.信者となった後の、救いをいただいた上での信仰の働きが問われる
2)裁きで問われること
A.金、銀、宝石で家を建てたのか?
B.木、草、わらで家を建てたのか?
建設の大きさ(量)ではなく、建材(質)が問われている
3) 裁きの手段:火
A建材なら、さらに清められ精錬させられる
B建材なら、燃えてなくなり灰となる
4) 裁きの結果
A建築家はその働きに応じた報酬を受ける
B建築家には報酬はない
ただし、救いが取り消されることではない
Will be saved (v.15)
結論 さばき合わないことついて
私たち信者を罪に定める裁きはすでに終了・完了した。
それは主イエスの十字架の上ですでに終わっている。
信仰生活をどのように忠実に全うしたかの裁きについては将来に属することである。
また、どれだけの良い働きを現在しているかの評価については、
「量」を査定基準とした人間的な評価は
必ずしも永遠的なものではないことを教えられる。
教会成長論の中で
「礼拝出席人数」
「年間受洗者数」
などを目標に掲げて数的増量が注目されるが、
メシアの裁きの御座においては、
その働きの質が問われることを銘記したい。
イスラエルの若者3名が誘拐される事件が発生。
エルサレムの西の壁では、
彼らが無事に戻ってくるよう、数千人が祈り続けている。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
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「教会の携挙」②
マタイ24章36~42節、Ⅰテサロニケ5:1~10
~マタイ福音書連続講解説教76~
Ⅰ 聖書の教える「教会」
先回、教会はペンテコステの日に歴史上誕生したことを確認した。
また私たちは「聖霊のバプテスマ」により
教会に属する者とされ(Ⅰコリント12:13)、
主イエスにつながる者となったことを学んだ。
「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、
奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、
一つの御霊によってバプテスマを受け、
そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
(1コリント12:13)
さらにその点を確証する聖句を学んで補強してみよう。
メシアが教会の頭であり信者がその肢体であるという、
そのポジションにメシアが就任するのには
条件・方法・時があるという。
メシアの十字架に続く復活と昇天である。
「 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、
キリストを死者の中からよみがえらせ、
天上においてご自分の右の座に着かせて、
すべての支配、権威、権力、主権の上に、
また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、
すべての名の上に高く置かれました。
また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、
いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、
教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、、」
(エペソ 1:20-23)
さらに、教会が世界に広がりその活動をするには
賜物を持った人達が起こされなくてはならない。
その賜物を人々に与えるのが天におられるメシアであるが、
これを可能とするのもまた
メシアが復活と昇天を経なくてはならないと聖書は教える。
「しかし、私たちはひとりひとり、
キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
そこで、こう言われています。
「高い所に上られたとき、 彼は多くの捕虜を引き連れ、
人々に賜物を分け与えられた。」
--この「上られた」ということばは、
彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、
もろもろの天よりも高く上られた方なのです--
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、
ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、
キリストのからだを建て上げるためであり、
(エペソ 4:7-13)
Ⅲ 携挙の時期:艱難時代前である
1) 黙示録の構成から
*黙示録6~18章は艱難時代を扱っていて
そこに「聖徒」が存在するが、教会の存在証拠にはならない
*その艱難時代にそこに教会という語は一つもない
*教会の重要性、黙示録の構成からしてそれには大きな意味がある
*つまり、艱難時代に地上に教会は存在しないということである
2) ルカ21:31~34
*地上に住む全ての人に艱難が襲うとのユダヤ表記である
*それから免れるためには地上以外のところに居なくてはならない
*「人のこの前に立つ」とは天においてなされることである(35)
*つまり、その時代に教会は天に存在し続ける
3) Ⅰテサロニケ1:10にある「御怒り」
*一般的な意味の「御怒り」:ローマ1:18
*艱難時代の「御怒り」:黙示録6:17、14:10,19、15:1
*この文脈では将来に関することなので、艱難時代のことである
*メシアは教会を艱難から救い出すという特定の目的のために来られるのである
4) Ⅰテサロニケ5:1~10
*神の御怒りに教会は予定されていない(4)
*携挙(4:14~18)直後に論じられている文脈である
*5章の冒頭・「しかし」:peri de (1)
: コントラストを強調する接続詞があるはずであるが、
新改訳聖書は訳出していない
携挙の慰めに対して、主の日とは神の御怒りの日である
*マタイ24:36「ただし」もperi de、
本来は「ところが一方で」と訳出されるべきものである。
前後の対照を示す接続詞だから
*Ⅰテサロニケ5:8節、9節の「救い」は未来形であり、
それは終末的なものでありからだの購われるとき、
つまり携挙のときを指している
5) 黙示3:10
*「試み」とは文脈から艱難時代である
*教会はその艱難時代から保護される
結論として
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)
と言われた主イエスの言葉に注視しよう。
聖書のこのような精緻な学びは私たちをして主イエスに結びつけるものとなる。
そうでないならその学びは異質なものだ。
神に至る道、絶対的な真理、とこしえのいのちを見出すのは聖書の学びから。
なぜなら、学ぶほど主イエスを鮮明に見出すからである。
「わたしを見た者は、父を見たのです」と、
納得できない弟子たちに語られた主。
当時の弟子たちには
私たちがここで学んだような神学知識(携挙、奥義としての教会など)
は持ち合わせていなかった。
彼らは3年半の間、主イエスと生活し、共同の体験を重ねていた。
主イエスを経験することが即ち神に至る道であり、
それは我らとも変わらない原則である。
私たちは直接この目で主を見ることはなくとも、
主のお言葉によって主とお会いし、経験を重ねることができる。
聖書研究の意義はここにある。
アビス
・ギリシア語の「アブソス」で、「底なし」「地下の世界」といった意味がある。
・堕天使の留まっている場所
・例外的に反キリストのみが人間ではそこにとどまる
・シオールの中の堕天使のための場所
それらはある期間を経て解放される。
サタンも千年王国の間はそこに幽閉されているが、その後解放せられる。
・聖書箇所
ルカ8:31
ローマ10:7
黙示録9:1,9:2,9:11,11:7,17:8,20:1,20:3
アバドン
・これは「破壊」を意味しているヘブル語である。
・この言葉は、否定的な意味にしか用いられない。
・シオール(ハデス)の中にある、不信者の行くところである
・新改訳聖書では「よみの穴」と人間の死者が行くところとして出てくる。
それはアバドンの描写的表現であると言える
・聖書箇所「アバドン」
ヨブ26:6
ヨブ28:22
ヨブ31:12
詩篇88:11
箴言15:11
箴言27:20
黙示録9:11
2014年のミス・イスラエルに選ばれたモール・ママンさん。
18歳になった彼女は昨日、兵役義務のため入隊しました。
イスラエルの女性はたくましい!
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/4364275
「教会の携挙」
マタイ24章36~42節、Ⅰテサロニケ4:13~5:10
~マタイ福音書連続講解説教75~
主イエスが地上に再び帰ってこられる(再臨)前に
信者を迎えに空中まで降りてこられる(携挙)。
それでは、一体その携挙に与るのは誰なのだろうか。
聖書は「教会」が携挙の対象であると教えている。
Ⅰ 教会とは何か
教会について、聖書には二つの概念がある。
1.見えない教会・普遍的教会・
霊的に新生した信者が構成員:マタイ16:18
2.見える教会・地方教会・
洗礼を受けて教会員名簿に記載されている人
(新生していない人も含まれる):マタイ18:17
携挙されるのは「見えない教会」であり、
これを他の聖書用語では
「新しく生まれた人」
「心の割礼を受けた人」
「神の子供とされた人」
等表現されている。
つまりはイエスをメシアとして信じ受け入れた人たちのことである。
その「見えない教会」の頭はメシアであり、
私たちは体を構成している肢体である(コロサイ1:18)。
その教会に加えれたとき、
頭なるメシアにつながった手段は
「聖霊によるバプテスマ」を
受けたときであると教えられている。
「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、
奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、
一つの御霊によってバプテスマを受け、
そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
(1コリント 12:13)
このことはAD30年のペンテコステの日に
教会が誕生した際の歴史的経緯とも共通している。
*福音書時代は「教会」とは
将来に存在する組織体概念であった:マタイ16:18
*復活したイエスは
将来の「聖霊によるバプテスマ」を約束された:使徒1:5
*その聖霊のバプテスマを
弟子たちが受けて歴史上の教会が誕生した(使徒2章)
*その歴史第1号のエルサレム教会は、
見えない教会であるとともに見える教会でもあると言える。
*ところが、使徒2章にある教会誕生の記事には
「バプテスマ」が見出されない。
*しかし、使徒11:15~16で
その「バプテスマ」が言明されている。
*よって、当時の弟子たちも聖霊のバプテスマによって
メシアの体なる教会に加えられたことが分かる。
*以後の信者たちも、
’In Christ’「キリストにある」立場、
キリストの体なる教会にバプタイズされる(INTO)のは、
聖霊の働きによるものである。
*信者となったものがその経験的事実を象徴として
可視的に行う儀式が水によるバプテスマ(洗礼)である。
*携挙に与るのは教会であり、
旧約時代の聖徒や艱難時代の聖徒は含まれない。
*聖書の教える「教会」はペンテコステ以前には存在していないのだから。
Ⅱ 教会は携挙される
1) その目的:ヨハネ14:1~3
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。
神を信じ、またわたしを信じなさい。
2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。
もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、
また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
(ヨハネ14:1-3)
*信者を主イエスが迎えるために来られる
*それは主イエスが帰られるところ(第3の天)に
我らを連れて行くためである
*ここは葬式のたびに引用される聖句であるが、
本来は死者を天に迎えることではなく携挙を教えている聖句である。
2) その携挙プログラム:Ⅰテサロニケ4:13~18
①イエスが天から降られて来る
父なる神の許しを得て主が天の御座を離れ、地球の上空に来られる。
②号令の声
最高司令官(メシア)が作戦(携挙)遂行のための命令を発する
③御使いの声
御使いのかしら、
すなわちミカエルがメシアの発した号令の言葉を復唱する
④神のトランペット
これは大艱難時代の7番目のトランペットではない。
当時のパウロの思考にあったのは
ラッパの祭りの際に最後に長く吹き鳴らされるラッパのことである。
tekiah gedolahと言われるもので、
Ⅰテサロニケ4:16と同じラッパである。
これが引き金となって、以後の携挙プログラムが執行される。
⑤キリストにある死者のよみがえり
“In Christ”、
見えない教会の肢体を構成している死去した信者が
先ず最初によみがえる
⑥生きている者たちが栄光のからだに変貌される
続いて存命中の信者が栄光の体に瞬時に変貌される。
その瞬時を表しているギリシア原語は”Atom”であり、
原子級の細微な瞬間で体のすべてが変貌されることを意味している。
⑦空中にいるイエスのところまで⑤と⑥とが引き上げられて主とお会いする
そして主とともに第3の天まで凱旋するのである。
信者となっても携挙に与る優良クリスチャンと
携挙に漏れてしまう落第クリスチャンとの二通りがある
と読み込む人もいるようであるが、それは聖書の教えではない。
キリストの体に聖霊によってバプタイズされた信者は教会の一員であり
すでに有機的にキリストに結びついているのである。
そのキリスト後自身がご自身の体である教会を天に迎え入れるために
来て下さるのである。
ハデス
新約聖書において使われている死後の世界を描写する言葉。
①新約聖書のハデスと旧約聖書のシェオールとは
同じ場所である。
詩篇16:10と使徒2:23とを比較
②義人も罪人も行く場所
イエスもハデスに行かれた
使徒2:31
③二つの区分のある場所
ルカ16:19ー31
不信者は狭義のハデス、信者は「アブラハムのふところ」へ行くことになり
双方合わせて広義のハデスである。
④不信者には特に辛い場所である
マタイ11:23、ルカ10:5
⑤ハデスの方向性は常に下向き
マタイ11:23、ルカ10:5
⑥霊魂は意識を持って存在している
ルカ16:19ー31
⑦一時的な場所でありやがて消滅する
黙示録20:11〜15
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