「主人から全財産を任される僕」
6月
22日
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
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「主人から全財産を任される僕」
マタイ24章45~51節
~マタイ福音書連続講解説教77~
大艱難時代前に教会は携挙されることを先週確認しました。
1.そのとき信者は復活の体を与えられ
2.空中に引き上げられて主イエスと会い、天に凱旋する
① 二人の僕のたとえ話
ここから携挙に対する信者としての心構えを学ぼう。
1) 「忠実な思慮深いしもべ」(45~47)
1.主人に仕事を依頼され、きちんとそれをこなしている
2.主人が帰ってきたとき(携挙)もその忠実さを維持
3.主人は全財産を彼に任せる
4.主人の帰りとその言葉とを信じた僕=信者
2) 「悪いしもべ」(48~51)
1.仕事を放り出して遊んでいる
2.主人は思いがけないときに帰ってくる
3.厳しい断罪と報いとが待っている
4.主人の帰りもその言葉も信ぜず、主人への愛もなし=不信者
ここで大切なことは、「忠実な思慮深いしもべ」とは誰で、
「悪いしもべ」とは誰を意味しているのか、という点でありましょう。
それはしばしば
「まじめに教会の働きに参与・貢献している信者」
VS
「信じてはいても、伝道や教会への協力の少ない人」
というように区別・理解されてきたように思われる。
本当にそのわけ方で良いのであろうか?
聖書を理解するときには、
その用語が聖書の他の箇所でどのように通常用いられているかに
留意せねばならない。
「悪い」という形容詞は常に神に逆らう不信者に付けられているもので、
信者に形容された例はない。
これらは、不信者と信者との対比である。
② メシアの裁きの御座
「人の子の前に立つ」(ルカ21:36)とは、
携挙の後に天に引き上げられた信者が
イエス様の前に立って裁きを受けることを教えたものである。
その裁きのその特徴とは、
1.目に見えない教会=信者が裁きの対象
2.信仰の働きに応じた裁きが下される
3罪に定める裁きではなく、報酬を決定する評価である
4.信者が罪に定められることはない~ローマ8:1
その裁きの基準については、
1コリント3:10~15に詳しく教えられている。
1)「土台(イエス様)の上にどのような建物を建てたか」で計られる
A.土台とは主イエスである
B.信者となった後の、救いをいただいた上での信仰の働きが問われる
2)裁きで問われること
A.金、銀、宝石で家を建てたのか?
B.木、草、わらで家を建てたのか?
建設の大きさ(量)ではなく、建材(質)が問われている
3) 裁きの手段:火
A建材なら、さらに清められ精錬させられる
B建材なら、燃えてなくなり灰となる
4) 裁きの結果
A建築家はその働きに応じた報酬を受ける
B建築家には報酬はない
ただし、救いが取り消されることではない
Will be saved (v.15)
結論 さばき合わないことついて
私たち信者を罪に定める裁きはすでに終了・完了した。
それは主イエスの十字架の上ですでに終わっている。
信仰生活をどのように忠実に全うしたかの裁きについては将来に属することである。
また、どれだけの良い働きを現在しているかの評価については、
「量」を査定基準とした人間的な評価は
必ずしも永遠的なものではないことを教えられる。
教会成長論の中で
「礼拝出席人数」
「年間受洗者数」
などを目標に掲げて数的増量が注目されるが、
メシアの裁きの御座においては、
その働きの質が問われることを銘記したい。