イスラエルの若者3名が誘拐される事件が発生。
エルサレムの西の壁では、
彼らが無事に戻ってくるよう、数千人が祈り続けている。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/4364275-1
「教会の携挙」②
マタイ24章36~42節、Ⅰテサロニケ5:1~10
~マタイ福音書連続講解説教76~
Ⅰ 聖書の教える「教会」
先回、教会はペンテコステの日に歴史上誕生したことを確認した。
また私たちは「聖霊のバプテスマ」により
教会に属する者とされ(Ⅰコリント12:13)、
主イエスにつながる者となったことを学んだ。
「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、
奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、
一つの御霊によってバプテスマを受け、
そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
(1コリント12:13)
さらにその点を確証する聖句を学んで補強してみよう。
メシアが教会の頭であり信者がその肢体であるという、
そのポジションにメシアが就任するのには
条件・方法・時があるという。
メシアの十字架に続く復活と昇天である。
「 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、
キリストを死者の中からよみがえらせ、
天上においてご自分の右の座に着かせて、
すべての支配、権威、権力、主権の上に、
また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、
すべての名の上に高く置かれました。
また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、
いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、
教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、、」
(エペソ 1:20-23)
さらに、教会が世界に広がりその活動をするには
賜物を持った人達が起こされなくてはならない。
その賜物を人々に与えるのが天におられるメシアであるが、
これを可能とするのもまた
メシアが復活と昇天を経なくてはならないと聖書は教える。
「しかし、私たちはひとりひとり、
キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
そこで、こう言われています。
「高い所に上られたとき、 彼は多くの捕虜を引き連れ、
人々に賜物を分け与えられた。」
--この「上られた」ということばは、
彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、
もろもろの天よりも高く上られた方なのです--
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、
ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、
キリストのからだを建て上げるためであり、
(エペソ 4:7-13)
Ⅲ 携挙の時期:艱難時代前である
1) 黙示録の構成から
*黙示録6~18章は艱難時代を扱っていて
そこに「聖徒」が存在するが、教会の存在証拠にはならない
*その艱難時代にそこに教会という語は一つもない
*教会の重要性、黙示録の構成からしてそれには大きな意味がある
*つまり、艱難時代に地上に教会は存在しないということである
2) ルカ21:31~34
*地上に住む全ての人に艱難が襲うとのユダヤ表記である
*それから免れるためには地上以外のところに居なくてはならない
*「人のこの前に立つ」とは天においてなされることである(35)
*つまり、その時代に教会は天に存在し続ける
3) Ⅰテサロニケ1:10にある「御怒り」
*一般的な意味の「御怒り」:ローマ1:18
*艱難時代の「御怒り」:黙示録6:17、14:10,19、15:1
*この文脈では将来に関することなので、艱難時代のことである
*メシアは教会を艱難から救い出すという特定の目的のために来られるのである
4) Ⅰテサロニケ5:1~10
*神の御怒りに教会は予定されていない(4)
*携挙(4:14~18)直後に論じられている文脈である
*5章の冒頭・「しかし」:peri de (1)
: コントラストを強調する接続詞があるはずであるが、
新改訳聖書は訳出していない
携挙の慰めに対して、主の日とは神の御怒りの日である
*マタイ24:36「ただし」もperi de、
本来は「ところが一方で」と訳出されるべきものである。
前後の対照を示す接続詞だから
*Ⅰテサロニケ5:8節、9節の「救い」は未来形であり、
それは終末的なものでありからだの購われるとき、
つまり携挙のときを指している
5) 黙示3:10
*「試み」とは文脈から艱難時代である
*教会はその艱難時代から保護される
結論として
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)
と言われた主イエスの言葉に注視しよう。
聖書のこのような精緻な学びは私たちをして主イエスに結びつけるものとなる。
そうでないならその学びは異質なものだ。
神に至る道、絶対的な真理、とこしえのいのちを見出すのは聖書の学びから。
なぜなら、学ぶほど主イエスを鮮明に見出すからである。
「わたしを見た者は、父を見たのです」と、
納得できない弟子たちに語られた主。
当時の弟子たちには
私たちがここで学んだような神学知識(携挙、奥義としての教会など)
は持ち合わせていなかった。
彼らは3年半の間、主イエスと生活し、共同の体験を重ねていた。
主イエスを経験することが即ち神に至る道であり、
それは我らとも変わらない原則である。
私たちは直接この目で主を見ることはなくとも、
主のお言葉によって主とお会いし、経験を重ねることができる。
聖書研究の意義はここにある。
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