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献辞と寄せ書き

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日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

その第44回目は、付録としてドロシー先生による献辞の言葉。そしてフィンキーさんとシェルホン先生によるお勧めの言葉です。

これで最後の投稿となりました。
もし主が許されるなら、これらの文章が全て製本されて記念誌として出版される予定です。




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献辞

近くに遠くにおられる全ての年配諸氏にこの本を捧げます。
私自身が高齢者メンバーの一人ですが、自分自身を必要なしとか役立たずとか、決して考えてはなりません。
これまでの人生で積み上げて来た知識や貴重な経験の数々は、若い人たちがまだ気付くことも経験もしていないもので、よってさらなる可能性が私たちにはあるはずなのです。
以前私たちの時間やエネルギーを吸い取っていた多くの責任から解き放たれている今、高齢者として活躍できる多くの機会を生かしていかねばなりません。
私たちは最期まで役に立ち、実り大きな、満足出来る人生を送ることが出来るはずです。

人生の様々な試練の場面で満点を得るということは 、どれだけ人に賞賛され得る偉大な結果を出したかにはよりません。
最後まで忠実に耐え忍ぶことの方が、はるかに優って重要なことです。
高齢者とは、人生で最も貴重な段階にある者たちであると言えるでしょう。
例えて言うならそれはパンプキンパイの上に乗せられたホイップクリームの様なものです。

ドロシー・ラバツウ





寄書き

「もしも宣教師としての召しを受けたのなら、人々にちやほやされる王様の様になれると夢想だにしてはなりません」

この格言の真実さをドロシー・ラバツウの生涯以上に見いだすことは出来ません。

人生の中間地点まで来た時、多くの人々は落ち着き先やおしゃれすることや貴婦人として花開く道を探すものですが、彼女は挑戦することを選びました。
彼女は若い日に神様の仕事のために召されていると感じていたのでしたが、レイモンド・シェルホンと愛しい妻の美智子に合うその日までその召への道は開かれなかったのでした。

その召しがあまりにも鮮明だったため、彼女は文字通り全ての所有物を置いたまま彼女の知らない言語と習慣を持つ外国の土地に旅立って行ったのでした。
神様は彼女を祝福されて人々の好意を勝ち取らせてくれました。
かなり進んでいた年齢にも関わらず、日本語を習得し話すまでに至ったのでした。

英語を学びたいという日本人の強い願いは、
熱心な生徒に英語を教えるという彼女の働きの中心を占めることになりました。

英語のテキスト本は何だったと思われますか?
彼女は何と聖書そのものを使ったのです。
始まりはこんな小さなところから始まって、彼女は魂を主イエスに導くようになりました。
教会形成のために労し、今日87歳になった今でも壮健で、自宅で生活しながら日本人に聖書を教えておられます。
彼女の努力する全てに神様が祝福を注がれているのは、主の奉仕のための召しに彼女が従おうと決意したからです。
この本は読者に感動を与え、祝福し、さらに深いイエス・キリストへの献身への挑戦を与えることでしょう。

ポール・フィンキー
宣教主事
チャーチオブゴッド、ベイデン教会
8375 N. Broadway
St. Louis MO 63147





序文

43年間のドロシーラバツウ先生の同労者としてこの彼女の新書「人生は80歳から始まる」の序文を書くようにとの依頼を受けた時、とても光栄に存じました。
彼女の最初の本である「The Missionary Barrel」は、彼女がいわば宣教師の駆け出しの時分に書いたものです。そこにドロシー先生は新米宣教師としての生活や経験から多くの楽しい洞察を書き記しています。その本でもまた序文執筆の依頼を受けた際、とても光栄に感じたものです。
この度の新書もそうなのですが、それは彼女の主と日本人に対する献身と愛から生まれたものです。
約40年後に書かれた本書についても同様のことが言えます。彼女はこれらの宣教年月をトゲのない薔薇の道ではなく、トゲある薔薇の道として描写しています。本に書くには勇気が必要とされる道を。

ドロシー先生は、主イエスと日本人への純粋な愛によって生きて来られ、その愛ゆえに43年前
日本にやって来られました。その彼女の愛は決して絶えることがありません。
その愛は、彼女の生涯を終えようとしている今なおこの国に彼女をして留まらせ、彼女が出来る精一杯の努力をさせています。主であり救い主である方からの永遠の褒賞をいただく直前の一走りです。

皆さんがこの本を手にされて読む時、主ご自身からの祝福が届きますように。
これは真の宣教師の物語です。

レイモンド・シェルホン







覚え書き

本書は人生の記録を残すようにと促してくれた姪のアニタ・ラバツウに寄るところが大きいのです。彼女が数年前に日本の私を訪ねてくれた時、これまでの宣教師生活の多くの事柄を聞いてもらいました。

すると彼女は、「これらを知っているのは貴方だけよ。それを本に遺すべきだわ」と言ってくれたのでした。
原稿を多くの時間をかけてタイプ清書した上、校正してくれたのも彼女でした。

また、オーストラリア人の英語教師の友人にも多くを負っています。彼もまた校正に協力し何度も読み直しては本書の完成のために惜しみなく貴著な時間を使ってくれたのでした。

国内・国外のチャーチオブゴッドにも深く感謝を捧げます。
日本にて私にキリストに仕える機会を提供して下さったのですから。
長い年月、忠実に私のために祈りサポートし続けて下さいました。

私の心からの感謝をレイモンド・シェルホン先生、妻の美智子先生、COG理事会の皆様に捧げます。彼らは若くない私を受け入れるリスクを取ってくださいました。

異文化の生活や最も難しいとされる言語に慣れない中、私のことを忍耐してくださった全ての方々のお名前を上げることは不可能です。

また特別な感謝をCOGベイデン教会に捧げます。皆さまは実に誠意に祈りとサポートによって私の働きに参加してくださったのです。日本での長期間に渡る満たされた日々を私に与えてくださったのですから。

ドロシー・ラバツウ






#ドロシー師

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天での大祝宴を待ち望んで

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紀伊長島での小学生英語クラス 紀伊長島での小学生英語クラス 錦キリスト教会正面 錦キリスト教会正面 伊勢湾に沈む夕日と息子 伊勢湾に沈む夕日と息子 伊勢湾を照らす満月と娘 伊勢湾を照らす満月と娘



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

その第43回目は、ついに最終章となりました。米国の家族を次々と天に送られ、その血縁者ばかりでなく信仰につながる家族との再会を待ち望んで筆を置いていらっしゃいます


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1980年のファロー・聖地旅行



1980年の米国帰国報告ファロー時には、イスラエル旅行と言う奮発した特別待遇が待っていました。それは日本での20年間の宣教奉仕に対するギフトでした。
そのツアーにはエジプトとギリシャ、そしてアムステルダムでのストップオーバーも含まれています。エジプトで見た富やクフ王のピラミッドに優って、私にはイエス様が生活し、働かれ、そして苦しみを受けられたその場所に立てたことに、より大きな意義を感じました。

ツアーでは毎日予習をして、その翌日に訪問する場所に関連する聖句を勉強したものです。ホテルの窓からエルサレムを見た時、主イエスが嘆かれ、そして拒絶されたときのそのお気持ちの幾分かを感じ取ることができたようにも思いました。


キリストの声を聞いて



主イエスがお生まれになったり、働かれたりした正確な場所については、ここだ!とされて来た場所はありますが、本当なところは誰も確定できないのではないでしょうか。

ただ主がユダヤの地でお生まれになった事は確かです。
そこで主は生活され、働かれ、拒絶され、十字架にかけられ、死なれ、葬られ、そして三日目に復活をされ、今に至るまで、そして永遠の先まで生きておられます。

私は特にガリラヤ湖のボート巡りや、主がペテロに「羊を養いなさい」とチャレンジされた場所で強い主の御臨在に触れて、その御声を聞く経験をさせていただきました。


主は常にコントロールしておられる



ガリラヤ湖を巡るその船に乗り、主イエスがペテロに語られたその岸辺を眺めながら、私の心には再び主の声が通って来たのです。

「あなたはこのものたち以上に、わたしを愛しますか」
私は再度、委ねられている働きに完全に献身するようにとのチャレンジに直面したのです。

米国に帰国して直後の事でしたが、私の家族ではないある女性が確信を持って次のように要請して来ました。私が宣教師として日本の働きを止め、歳取った父親の世話をするべきである、と。それは父の望んでることでいることではないことを私は知っていましたが、それでも私は悩みました。

聖地旅行ツアーから帰宅したのが土曜日の夜でした。そして翌日の日曜礼拝での説教は“告別”のメッセージであり、フェローシップ(交わり)の夕食が続きました。月曜日には簡単な口内手術がありまして、それはさほど大きなものではなかったのですが、その日の夕食のお招きをお断りせざるを得なかったのです。

そういうわけで私の父が病院に運ばれたとの知らせを告げる電話を受けたとき、私はフィンキーご夫妻のご自宅にいました。「あなたは直ちに駆けつるべきだ」と誰も私に言う必要は毛頭ありません。

ミズリー州セントルイスからカルフォルニアのグランデイルまで、それは長く孤独な一人旅となり、ほとんどどこにも寄らずにドライブをし続けました。
主は私と共にいてくださり、そしてすべての状況をコントロールしていて下さると私に確信を与えてくださっていました。私の父親は重病でしたがまだ意識があり、そして主が彼を御国の家に召されるまでのたくさんの時間をともに過ごすことが許されたのです。

米国と日本の宣教団体理事会ではそれぞれ、私の日本帰国が遅れることを認めてくれました。
航空券の予約はキャンセルしました。
父はグランデイルにある病院で最良のケアをしていただいていましたが、彼が私に与えてくれた愛のいくばくかを彼にお返しできるのは、私の喜びとなりました。看護婦さんは私が規定時刻より早く来院し、そして遅く退院する事も、その間のほとんど一日中を彼とともに滞在し、食事の世話をすることも全て認めてくれていました。


開封されなかったクリスマスの贈り物


クリスマスが近づいてくると、私たちはその年だけは父の事を考えて少し早めにお祝いしよう、ということになりました。
「クリスマスには何が欲しいですか」と彼に聞くと、彼は答えて「ピンク色のパジャマ」ですって。
私は姪とともに買い物に出かけました。残念ながら男性用のピンクパジャマは見つからなかったので、私たちは代わりになるものを見つけてきました。

翌朝私は早めに病院へ行って、彼に朝食を食べてもらおうとしました。
もちろんその贈り物を持って、彼の部屋へ入って行ったのです。

父はその時、目を開けなかったのです。そこで私が彼の手を握り話しかけて見ると、彼は私の手をかすかな力で握り返したのでした。彼は私がそこに来たことを知っていたはずです。

このタイミングの計らいは誰もできることではありません。ただ主だけが、すべてのことを完璧なタイミングで成し遂げることがお出来になるのです。

繰り返し繰り返し、主は私に心配したり、恐れたりする必要はない、と思い起こし続けて来られました。私どもが主にお委ねするなら、主はその全てをケアして下さいます。

もちろん私の目の前で親が衰弱していく現実を見る事は簡単なことではありませんが、主が私の20年間の不在に対して特別な計画をされ、特権として与えてくださった父との最期の時間だったと感じました。その最期の時を見届けることができたのは、家族の中で私一人だったのですから。



「我に従え」とのキリストの呼びかけ
〜完遂される献身〜


"わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。"(マタイの福音書 10章37~39節)

これはキリストがある若い青年の問いに答えられたものであって、その時青年はまず父親を葬り、その後にキリストに従いたい、と願ったのでした。さらにイエス様は「死人たちに彼らの死人達を葬らせなさい」と答えておられます。

また別のところでイエス様の働きに加わりたい、と願った者に対しては次のように答えておられます。
"「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」"
(マタイの福音書 8章20節)

これらの文字を表面だけで理解しようとすれば、まるで主は私たちからすべてのことを要求するが、何も良い約束はしてくれない、と読めてしまうかもしれません。

しかしながら、全き献身を求められるお方は、すべての責任を引き受けてくださったお方であられました。主こそ私どもがお任せしたものを全て守り、保持してくださることのできるお方です。



絶やされることのない絆



私には両親が最も私を必要とした最期のときに側にで厚くケアする機会が与えられてきました。
母は私が外国宣教師となる前に召れて行きました。
母の地上での最期の夜となったときは、私の父、弟とその妻、そして牧師夫妻と私とが彼女の病室のベッドの側に侍ることが出来たのです。

母は誰かにキリストの言葉を読んでくれるように、とリクエストしました。
医者は、おそらく彼女はもう少し長く生きると思うので全ての人が共に夜を過ごす事はない、と告げました。そこで私一人が彼女の側に留まり、まだ彼女の意識がある時に詩篇23編とヨハネ福音書14章のある箇所を読み上げました。これらのお言葉を枕にするかのようにして、彼女はその夜、主の御許へと旅立って逝ったのです。

母は私どもから取り去られましたが、彼女が私たちに教えてくださった原則は私たちと共に永久に留まります。神様は全ての必要を満たして下さることのお出来になられる方だ、との彼女の熱い信仰は、今日までの私を導いて来たものに違いありません。しかし一方で、ときにはこれが批判や誤解を招いてしまうこともあったようでしたが。



主はお任せしたもの全てを保持される



私の父は若い時に死の間際に至る病を負ったのですが、89歳の円熟した歳になるまで生き延びたのです。私がファローのため帰国してる時、彼は召されて逝きました。主は私に彼のベッドサイドで約一ヵ月間ほど共に過ごすことを許してくださったのでした。

私は長年、「献身」ということが意味することを学んできました。
それは特別な行事、例えば卒業式とか結婚式とか記念日などに出席出来ないことを意味します。それはたとい緊急事態と思えることが起こったとしても、主が貴方に割り当ててくださったお仕事を横に置いて飛行機に飛び乗って帰ることではありません。

それによってたとい貴方が批判を受け、身内をケアしない者として攻撃されてもです。
新しく生まれた赤ちゃんや、また他の家族の人たちもあなたを知ることなく大きくなることになるかもしれません。

その上、貴方はほとんど家族の集いには行くことはできないでしょう。
そんな現実の中にあってファローのときに許されたある時の家族・親族の集いは、私にとって特別なものとなりました。

既にその時には、父も母も「永遠の家」に帰っていました。
私の二人の兄弟とその家族の全員がその集いを設けてくれたのです。
幾人かの出席者は早速、そこにあるご馳走を食べ始めました。それを見ながら、私にとりきっとこのような集まりは、これが最後の機会となるだろう、と感じていました。

そこで全ての家族がご馳走を盛られたテーブルに集まったとき、その私の気持ちを直接申し上げました。「多分これが私にとって最後の機会となるでしょう」と。

私のリクエストにより大きなサークルを作った私たちは互いに手を取り合い、「全ての祝福を来らす者たちよ、神を讃えよ」という讃美歌を歌いました。
そして私たちが天においても割かれることのない鎖で繋がれているように、と祈ったのでした。
やがて時は過ぎ去り、すでに私の二人の兄弟とその奥様達は天に帰っておられます。
最初に逝かれたのは、私の弟の奥様でした。

チャプレンが弟とその奥様を主への信仰に導かれたとき、彼女は肺がんのために入院中でした。
彼女は詩篇23篇のお言葉をいつも枕元に置いていました。

"たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。"
(詩篇 23篇4節)

その次の私のファローは彼女の召天後のこととなり、私と弟は共に礼拝に出席し、早朝祈祷会にも私の滞在中、共に出席してくれました。その時弟は、キリストにある平安と慰めとを見出したのですが、これは私にとっても言葉にならないほどの喜びの経験となりました。その後、彼の健康は少しずつ蝕まれて行き、やがて天へと帰って逝ったのです。

私の兄とその妻は結婚60周年記念を計画していました。
私は彼らの50周年記念には駆けつけられませんでしたので、この時ばかりは楽しみにしていたのです。

親族全員がそこに集まるとの事でしたので、あちこちへと会いに行く必要もなく、一度に全ての親族にお会い出来るのが楽しみでした。長期間のファローや長距離移動は、私にとっては既に過去のものとなっていたのです。私は教会に対して約一ヵ月間の休暇を申請していました。

それは日本時間で礼拝式を終えた直後の米国の日曜日の事でした。
そしてその翌日、まだ朝早い時でしたが、弟の召天を知らせる電話を日本で受け取りました。
私はその前週に弟に電話をしていたのですが、それが最後のさよならとなるとは思いもしなかったのです。

ただ、彼はそのことを知っていたのでしょうか。
「そこでもう少し頑張っていてよ。私は間も無く来るからね。すぐにお会いしましょう」と私は彼に言ったのです。彼は答えて言ったのでした。
「そう出来るものかどうか、よくわからないんだ」



大家族の再会を待ち望んで



こうして私の帰国は弟の結婚記念日の祝い会ではなく、葬式に出席することとなりました。
しかもその葬式は、彼の妻のバイパス手術のために後日に延期されることにもなりました。
空港に着くなり、私はその足で彼女の入院している病院へと直行しました。
彼女の手術はその翌日の早朝に予定されています。

彼女の唇から、弟のこの世での最期の様子を聞くことが出来ました。
寡黙でほとんど何も話そうとしない弟でしたが、平安のうちに、そして確信を持って召されていったとの事です。

私どもはその後家族での集いを持ったのですが、弟が死去してしまい思い描いた通りには行かなかったのです。この悲しみの際に私が家族たちに与えた慰めについて、多くの親族たちが感謝を表してくれました。そんなことがあって翌月、兄の妻が旅立って逝きました。

彼女は七人兄姉の家庭の中で育てられて、彼女自身のお孫さんやまた曾孫さん達を長くベビーシッターして来ました。今やようやく安息に入ったのです。

主イエス様は、私の祈りに答えてくださいました。
私の直近の家族たちは、永遠の家においても切れることのない鎖に繋がれたままです。

"私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。"
(テモテへの手紙 第二 1章12節)

私が私の家族をお委ねした主イエス様は、私ができることよりもさらに優れたことを彼らのためにしてくださいました。私の直近の家族たちが皆、去って逝ってしまった後、少々私は孤独を感じていたのです。そんな時、錦教会のある若いご夫妻は「私たちが先生の家族です」と言ってくださって寂しさが吹っ切れた気持ちになりました。

事実、主は私に偉大な家族を日本に残していて下さっています。その日本の家族だけでなく、この世界にはラバツゥー家を歓迎してくれる方々も多く残されていて、彼らは手紙や訪問を通じて温かな親交を保っていてくださいます。

やがて主イエス様を中心にしてこれら日本の、そして世界中の大家族が集まって再会をともに喜び合い、祝宴のテーブルにはべる日を待ち望んでいます。





#ドロシー師

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引退への階段を降りて

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引退への階段を降りて 引退への階段を降りて 引退への階段を降りて




日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

その第42回目は、ドロシー先生の健康管理をしてくださるドクターたちとの出会いです。そうは言っても誰も老いから逃れることはできません。病や怪我で倒れるに従い、引退へのステップを踏んで行かれます。


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治療しながらも継続していく働き

〜引退の第一段階〜


私の最初の骨折経験とは、手首に関わるものでした。
病院のテレビモニターで私は全ての手術過程を見ることができました。
四本の指にそれぞれワイヤーの繋げられたドリルで穴を開けていきます。
それからそのワイヤをグイと引っ張りながら、専門医は私の手首を元の位置に繋げ、それからギブスをはめてくれました。

アメリカの習慣に従うかのようにして、私の多くの友人たちはそのギブスの上に励ましのメッセージを書いてくれました。さらに日曜学校の生徒さんたちは、彼らの好きな漫画キャラクターを描いて楽しんでくれました。これらの特別な治療にもかかわらず、今日まで私の手首は元のようには完全に戻っていないのですが。



〜引退の第二段階〜



次にやってきたのは、左足の膝の皿のすぐ下の骨折でした。
錦教会に出席している“錦人”が働いている施設に入院できるとは、大変光栄なことでした。
「キングスガーデン」と言うところで病院では無いのですが、そこに私はしばらく住むことになり、それはそれはこれまでにない最良の環境でした。

そこに一週間も入居すればそれで退院出来るものと考えていました。
退院前にシェルホン先生夫妻がお出でくださり、美智子先生は親切にも私の荷造りまで手伝ってくださいました。松井ご夫妻が彼らのバンに乗せてくださることになり、お別れの挨拶を施設の方々にしてから私どもはピクニックに出かけ、それから接骨の専門医を尋ねました。

その後、私の家である錦教会にも立ち寄らないままキングスガーデンへ直行して、それから一週間をそこで過ごすこととなったのです。

私の引退後の歳月はここで過ごしても良いかな、と入居当初抱いていた微かな期待は徐々に、その後全て消え去っていきました。
ケアは素晴らしく充実しているし、食事もよく考えて作られています。そこの雰囲気のことなのです。もし周囲の事がわからないほどに認知症が進んだ方には、素晴らしい場所であるには違いありません。

ただ横になるだけで動くことのないこの環境にあっては、ほとんど食欲も出てきません。
それでもあのおいしくて、栄養バランスよく考えて準備された食事は無駄になる事はありませんでした。私の忠実な同労者である高橋京太牧師が夕食や昼食のときになると、いつも訪ねに来てくれました。彼は自分の弁当を持って来た上に、私の食べきれなかった分を全てきれいに召し上がってくれるのでした。

こうしてキリストの教えである「残り物を全て集めて、何も無駄にならないようにしなさいと」の教えが守られて行ったのでした。


〜引退の第三段階〜


次に起こった事は顎の骨折でしたが、それは夏の戸別トラクト配布の多忙な時に起こったことでした。コンクリート地面の傾斜のある場所で私は転倒し、激しく顎を地面に打ち付けてしまったのでした。大学病院にまで急送され、医学的見地の診断からすると私はその時、即死するか良くても障害者となっていたはずとのことでした。

しかし専門医は器用にも、私の粉砕された顎骨をワイヤーでつなげ固定してくれました。
一ヵ月ほど私は話ができなくなり、周囲の人々はその静けさを楽しめました。それでも私の唇では歌えない歌が、私の心の底から湧き上がって来るのです。

口の中に繋がれているワイヤーを通じてのハミングは、なんだかハープが奏でる音のようにも聞こえました。ほんとにハープの音であったかどうか、他者に聞いた事はなかったのでしたが。

ただ転んだだけなのにこんな重症を負うだなんてどうしたことか、と皆さんは不思議に思われるでしょうが、私もそうだったのです。私はあの時、木から落ちたわけではないし、階段を転げ落ちたわけでも、屋根から落ちたわけでもなかったのです。

小さな障害物につまずいたため私の身体は前に投げ出されたのでしたが、これは霊的に全く同様で、人は小さなことにつまずき倒れて時に重傷となる事もあるのを認めないわけには行きません。


〜引退の第四段階〜


次の事故は、自らの責任と認めざるを得ないたった一つのことです。
それは教会の玄関で起こりました。両手にスーパーの買物袋を下げたまま私は靴をキックしながらその靴を手に取ろうとした時にバランスを崩して転倒、右足を完全に骨折する結果となってしまったのでした。

専門医はその骨折は“良い方”であると診断してくれました。それでも手術が必要となり、セラミック製の人工関節が元の骨と交換されてなくてはならない、とのことです。
専門医は深くお辞儀をしながら、私に施術するのは光栄であると告げてくれました。

彼はまたノコギリとハンマーの使い方についての専門家のようにお見受けしました。
痛みは感じないものの、骨を切り裂くノコギリの音が聞こえて来ます。心電図や脈拍、血圧等の数値がコンピューター画面に見えて、私の体がそのノコギリの動きと否応なく反応しているのが分かりました。それでも私は生きています!素晴らしい手術でした!

ある若い看護婦は以前の私の英語クラスの生徒さんであり、彼女はクリスチャンとなってからその外科部署で働いていらっしゃいました。彼女が手術の前の晩、その仕事を終えてから私の病室までやってこられ、共に祈りを捧げてくれました。キリストが送ってくださった慰めと愛の天使となってくれたのです。

他の看護師さんは、私がよくなるもそうならないのも、全て私次第であるとお話ししてくれました。心がけ次第であると。
多くの見舞い客のさまざまな花で私の病室は飾られて明るくなり、それが私の回復にとって大きく貢献したことは間違いありません。

そんな中でもある看護婦は常に私に小言を言って来ます。
「しっかりと食べていただかないと良くなりませんよ」

私は彼女に、ここにいる人々は寝ること以外に何もすることがないのに、一日に九杯ものご飯を本当に皆さんは食べているのですか、と聞いて見ました。彼女は、もちろんそうです、と言い張るのです。

後に私が歩けるようになった時、廊下にあった配膳カートの上には、たくさんの食物が残されたままになっているのを発見したのでしたが。
どうしたことか私の場合、決められている日数のセラピーよりも少なく済んだようです。
セラピー最初の日、私はウォーカーに体重を乗せながら自分だけで歩き回るようにと言われました。
長い廊下をゆっくりと歩いたのですが、終えてみるとすべてのエネルギーを使い果たした気分です。

ある日のこと担当の外科医は私を連れて杖や松葉杖、手押し車で一杯となっている部屋を見せてくれました。多くのお年寄りの女性は手押し車を使っているから私も使ったらどうだ、と勧めてくれたのです。

そこで私は答えて、「もしそこにお座りくださるなら、私は貴方をお乗せしたまま廊下を走ってみせますが?」と言って差し上げました。

それから遂には、私は彼に仕事を求めるようになりました。
「ここで私がお手伝いできる何かがあるでしょうか」
そんなこともあってか、彼は今や私を退院させる時期であると考えたようです。
そうでないなら、すべてのシステムを私が混乱させてしまうと恐れたのでしょう。
彼は「あのような強い決意ある年寄りにはこれまでお目にかかったことがない」と誰かにこぼしていたのを後日耳にしました。



日本の国民健康保険



私は実に幸運な外国人です。
今や国民健康保険は日本国籍を持たない者にも適用していただけるのです。
来日して初期の頃はそのようではなかったのです。

医療費をこうして援助していただくことについて、私は誰にお礼をしたら良いのか、今もって分かりません。すべて事故による怪我のための医療費は、病室代などを除いてこの国民健康保険でカバーされて来ました。

もちろん毎月の保険料支払いはありますが、それとて法外なほど高価なものではありません。この保険によって私は優れた医療の恩恵を与えられてきました。



〜引退の第五段階〜



近くには知り合いの眼科医は誰もいなかったのですが、確かに神様は私を角膜移植のできる最良の眼科医へと導いて下さいました。すべてが順調に進みました。
はっきりと見えるようになったのです!
高齢のため自分の顔がこんなにもしわくちゃになっているのをはっきりと見たときは、さすがにショックでなりませんでしたが。

またその医者は、私に素敵な大家族がいるのを見て驚いていました。
手術後の経緯チェックのため立ち会ってくださるとき、私の病室には多くのいとおしい家族で溢れているのをご覧になっていたのです。

数ヵ月後、その眼球は内出血を始めるようになり問題は深刻なものとなりました。
お医者さんはこの問題をどう扱って良いのか確信の持てないままだったのですが、とにかく私には信頼するように、と励ましてくださいました。

「私達は何も心配する事はないのですよ。神様は最期に至るまで貴方を支えてくだるのですから」と言ってくれました。
確かに今日に至るまで神様は私を支えて下さっています。

私どもの教会の家族の中には、点滴や注射を祈りとともに施術してくださるクリスチャン・ドクターがおられます。さらに不調を起こさせるどんな小さな歯の問題も見つけ出しては治してくださる歯科医もいらしゃって心強いばかりです。

こうした医療の専門家でも手に余るような場合は、「偉大な医者」であられる主イエス様がいらっしゃるのですから、心の問題も含めた適切なケアが完備されているのです。

#ドロシー師

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骨折と入院経験

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骨折と入院経験 骨折と入院経験 骨折と入院経験





日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

その第41回目は、ドロシー先生の入院経験を記しました。


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第四部

さまざまな事がら


伊勢神宮のあおりを受けて


20年に一度、伊勢神宮からの特別な大木が、地元の神社へすげ替えのためにやってくる行事があります。その神木である大木をお迎えするのですが、錦では連日イベントの目白押しで
となりました。ダンスやパレードなどです。さらにそのための組織作りが町内会で始められました。

教会が置かれている町内会でも参集の知らせが届けられ、私もその集いに参加せざるを得なかったのです。
そこで私は、
「分担金があるならば喜んでお支払いしますし、祭りのための助けが必要ならば時と場合に応じて喜んで協力しますが、いまや教会の働きが大変忙しく私のほとんどの時間を費やさねばならない」ことをお話ししました。

その町内会長さんの娘さんは、かつて聖書クラスに出席されていました。
そこでそのお父様は、私がこの宗教のお祭りには何の義務も負わなくて良いことにしよう、とグループの皆さんにお話ししてくださったのでした。



水に浸かった花飾り



そんなことがあった直後にもかかわらず、祭りのための花飾りを作るようにと依頼されたことには全く驚くばかりです。係りの方がやって来られ、私にあてがわれた材料と隣に住んでいらっしゃる若いクリスチャンの女性を残して帰って行かれました。言いつけられたであろうその女性は、何度も私にお詫びしながらも、私にその材料と作り方とを伝えてくれました。

私たち二人とも、こんなことには全く関わりたくはないのです。もし私がきっぱりその作業を断ったとしたら、クリスチャンの彼女が私の分まで受け持たねばならない、と言われるのです。
「互いの重荷を負い合いなさい」との聖書のお言葉を実践するのが、こんなにも困難なことであったとは!

私はほとんど一晩中かけて、しかも泣きながら、祈りつつ、そのあてがわれた紙製の花飾りを作り上げて翌朝早く届けに行きました。

その花が飾られたロープは町全体に渡りつながれてありましたが、主は祭りの始まる直前に豪雨を降らせてその全てを台無しにされてしまわれたのでした。


礼拝に人々が溢れたこと


その祭りは、日曜から月曜にかけて行われました。
ある方がその日は誰も教会に来はしないので、日曜礼拝をキャンセルしたらどうでしょうか、と提案してくれました。「いいえ、私たちは決してキャンセルはしません」と私はお答えしました。

かつて私は一人で礼拝を守ったことがあります。再びそうすれば良いだけのことです。
その頃川崎教会のある若い男性は大阪出張中でして、時に長い週末を利用して錦の働きを手伝いにお出でになることがありました。

彼が連絡をして来て、その日においで下さるとの事ですから、私たち二人だけで礼拝をすることになるでしょう。しかし驚いたことに、近くからも遠くからも思いがけないゲストの方々がおいでになられました。彼らはこの町の祭りのためにやってこられた方々でしたが、教会にもお出でになられ、とにかく会堂が収容できる限界まで新来会者で溢れたのでした。

確かに主の道は私たちのそれよりも高く、そしてときには私たちを驚かせることを喜んでいらっしゃるかのようです。

町内会に住む一人の住民として、私はかつて葬式の行列に加わるようにと求められたこともありました。その時、主は私に真に逃れの道を備えてくださいました。
その時はちょうど日曜日でして、すでに子供さん達が日曜学校に多く集まっていたのです。
当時私は日曜学校とそれに続く日曜礼拝の全面的な責任を負っていたものですから、それが格好の理由となって、以後求められる事も無くなりました。

このことはクリスチャンが、私どもの周囲の方々のために悲しんだり、その苦しみを無視したりして良いと言うことでは決してありません。死者のために香を焚いたり、その霊に祈ったりする方法以外に、愛ある関心を示す方法があるはずです。



骨折と入院経験



すべての女性は、長期間入院したことを得意になって話すのが好きなのを皆さんは知っていらっしゃることでしょう。ただし、これは女性だけに限ったことでありせんよ。

有名なナザレンの伝道者であるブッド・ロビンソンと言う人が「私の入院体験」と言う本を上梓しています。私はそこまでをここでしようとは思っていません。

40年以上前に私が初めて日本に到着して直後、私の到着を待っていたあるご婦人に会うため、ある病院を訪れました。彼女自身は慰められたようなのですが、実は私の心はだいぶ掻き乱されたのです。その病院の様子を見てのことです。そして日本では決して入院だけはしたくない、と心底思いました。
しかしその後、私が数カ所を同時に骨折してひどいことになった頃までには、この国の入院環境はだいぶ改善されて来た様です。
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“養子”としての遺産を受け継いで

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“養子”としての遺産を受け継い... “養子”としての遺産を受け継い...


日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

その第40回目は、追憶場面の第二回目です。教会に与えられたハンドベルは米国の関係者からの捧げ物によるものでした。



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Gladys Bates さん


彼女の遺骨は錦教会の納骨堂には納められていません。
しかしながら彼女の半分ほどの遺産は教会の新会堂建設のために投資されました。いわば教会堂が彼女の活きた記念碑と言えるでしょう。

Gladysさんは、私の母とその姉のムーディさんの親友でした。彼女ら三人は主にあって消して違うことのできない生涯をかけた親友でした。
Gladyさんの最初の、そして雄一となった赤子は死産となりました。
後日彼女は養子にある女子を迎えますが、私自身もまた彼女の二番目の養子のような女子だったのです。

米国にファローとして帰国するときには、必ずと言って良いほど彼女のところへ立ち寄りました。やがて彼女の病は、彼女が家を維持することや自ら調理する事を困難にはさせましたが、彼女の明るく幸いな精神と専門のピアノを弾くことについては、影響を与える事は決してありませんでした。

彼女の震えが止まらなくなった指がピアノでこの曲を弾いた時、文字通りに鍵盤の上を飛び回っていたのを忘れる事ができません。

「エルサレム、エルサレム、声を上げて歌えよ
ホサナ いと高き方に
ホサナ 我らの王に 」
(聖なる都)

まだ彼女がわずかの旅なら出来る時に、私たちは私の家族が以前暮らしていた古い家のある場所へ懐かしい旅行を行いました。私の両親が改心した所であり、Gladyさんと初めて会った教会も訪れました。それから彼女のもう一人の養子である女性のところへも行きました。

私が最後に彼女を訪れたときには、彼女はすでに養老ホームに入っていました。私が部屋に到着する前に、すでに彼女は私の声を聞き分けていたのです。彼女は呆けるどころか、明るく強健であると言って良いほどしっかりしていました。

高齢になっても、サタンは彼女の精神をくじく事はできなかったのです。
ランチの時間が近づくと、彼女は私から離れ去るなり言いました。
「私はダイニングルームではいつもドレスアップすることにしてるの」
彼女の遺書と契約により、その遺産は彼女の残された二人の養子の”女の子たち”に等分されることになりました。


ハンドベル寄贈者


Doecker, Otto and Dora
WOmack, A. E.,Mary, Jim
Shelhorn, Raymond and Laura
Conways, Larry and Neat
Monroe, James and Emma
Darr, Eugene and Maude
Finke, William Sr., and wife
Finke, William Jr., Elat, Danny
King, O. L. and Gladys
Rohrer, Donald and brother
Potter, W. L. and Cora
Henshaw, George
Heyer, Dewey and Lydia
Haines, Herbert
Holwick ( Pearl’s deceased husband)
Labertew, Leslie A. and Bessie O.
Miller, Mr. and Mrs.Alfred
Zalaha, Irma L.’s (deceased husband)
Willard, Harry Mr. and Mrs.
Pipes, L.B. and Nina


ここにあるリストの一部の方々は、その献金の宛先が明示されていませんでした。
それでこのハンドベルのリストに載せることにしました。
またこのリストからたとい漏れてしまった方がいたとしても、私たちの主イエス様が主の忠実な家族の一人ひとりを覚えていてくださることに何ら変わりはありません。

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追憶

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追憶 追憶 追憶 追憶


しばらく中断していましたが、日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

その第39回目は、回想録の最終章に入り、思い出深い方々を追憶している場面です。



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第五部


追憶


牧野克己さん


日本は幾世紀もの間、偶像のお寺や神社と長く深いつながりがあり、またそれらは強力な領有権を有する地主としての勢力を人々の間に伸ばしてきたので、多くのキリスト教会はそれらの宗教組織とは別個の地所に墓地を設ける必要がありました。その点、幸いなことに錦では町立の墓地区域が整備されていました。

その区域の中に私たちの教会用墓地を購入することができました。その購入時には既に私どものメンバーの一人がこの世を去っておられて、彼の遺骨は今やそのふさわしく整えられた墓地に安置されています。

最初に彼が私たちに紹介されたのは、彼の息子さんによってのことです。
当時その息子さんは結婚問題の只中にあり、フィアンセさんとともに教会においでになられていました。

日本において結婚とは、愛し合っている二人だけの決心で済むことでは無いのです。
彼らの家族や多くの親族縁者が絡み合っていて、ときには痛ましいく思うほどです。

そのフィアンセの若い女性のお姉さんは、すでに錦教会に導かれてクリスチャンとなっておられ、彼女の人生は主の前に正されていました。その若い女性は徐々にですが、祈りが問題を解決することを理解し始めたのでした。

約6カ月間、毎日の早天祈祷会に彼らは参加して、その熱心な祈りは彼らを変えただけではなく、教会全体にも大きな祝福をもたらしてくれました。

信仰に至った息子さんは、病と戦っている実のお父さんを訪れるように頼んで来ました。
約20年間も肝臓疾患のために入退院を何度も繰り返されていたお父様です。私はこれまで、そのような望みのない病状の人を前にしたことがありません。

聖書の神様のお言葉と祈りによって、彼は一筋の希望の光をつかんだかのようでした。やがてそのお父様は信仰を持ち、日曜礼拝に忠実に出席するようにもなられたのでした。

私たちは彼が完璧に癒されるように願いました。なぜなら、神様にとって不可能な事は何もないのですから。

時に彼の健康は回復したかと思うと、またひどい状態に陥っていきました。
ある日、彼の息子さんが電話をしてきました。お父さんの病状がおもわしくなく、手術が必要ではないか、と医師からの提案があったとのことです。

手術をするにしても手術をしないにしても、彼の命が危険にさらされていることには変わりありません。そこで私にアドバイスを求めて来られました。私にとっても決断は難しいものですが、主にとっては難しいものはありません。私はヤコブ書に書かれてある教えを思い出しました。

"あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、
その人は祈りなさい。
喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。
あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、
主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
信仰による祈りは、病んでいる人を救います。
主はその人を立ち上がらせてくださいます。
もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。"
(ヤコブの手紙 5章13~15節)

私は息子さんに、お父様にこれらの御言葉を読んで聞かせ、このことを信じるかを尋ねるようにと言いました。やがて連絡があり、彼は信じる、と答えたとのことです。

そこで私が病院にお見舞いに行く時点で、お父さんは彼自身が癒されることを確信出来ていました。お父様は泣いている妻に向かって、「もう家に帰っていいよ」と言ったのです。
その後、彼自身はバスを使って一人で帰宅出来たとのことです。

さらに彼は次の日曜日の朝、礼拝のため教会においでになられました。
主は彼をさらに強めてくださり、家業である電気機器関連の商売をしている息子さんの仕事を手伝う程に回復したのです。

時に体調が悪くなると、礼拝をお休みされる時もありました。
そんな時は必ず前日の土曜の夜に電話をかけてこられ、「どうも体があかんな。お祈りしてください」と言われ、電話口にて二人だけで祈った事は何度もあります。

私が米国にファローしていた期間、ついに主は彼を永遠の家にお召しになられました。
やがて全く癒された健康体の彼と再会できるのを楽しみにしています。


東有子(ありこ)さん


彼女が私たちから取り去られた時は、まだまだ彼女はキリストにある“赤子”でした。
私たち皆も同様に間も無く取り去られようとしていることには違いはないのですが。

ある日、彼女とは錦教会の熱心なメンバーである上野和子姉の知り合い、と言うことでお会いしました。既にその時にはドクター上野と奥様の和子姉は真実なクリスチャンとなっていらっしゃいました。

「どうか私を教会に連れてってください」と彼女は真摯に願い、尋ねて来られました。
彼女は忠実に教会に通うようになり、キリストのメッセージに関して質問や疑問はなかったようです。

彼女は私が英語クラスをしている上野邸のすぐ近くにお住まいだったこともあり、しばしば聖書と歌の本を携えてはそこまでやって来られました。私たちは多くの楽しい交流と学びの時を持ちました。彼女はクリスチャンとして成長し始めたのです。

彼女の生活がかなり変えられたものですから、夫とお子さん方もまた教会に来られるようになりました。彼女は暖かく、そしておおらかな心をお持ちの女性です。彼女はとても控えめながらも特別なご飯料理を作られた時、私と上野ご夫妻とがしばしば招かれては、彼女の家族とともに御相伴に預かりました。

しかし彼女の健康はすぐれなかったのです。彼女の実の姉は、現在の彼女が負っている健康上の問題ゆえに亡くなられたのでした。東姉はJR事務所で引退まで清掃のお仕事をなされました。
その引退以降、彼女の健康は崩壊して行きました。検査入院を前にした時、彼女は信仰を公に証しするために洗礼を申請して来られました。

私は元旦に、彼女の家族と共に過ごすように、とのお招きをいただきました。
楽しい交友と賛美の機会としてそれが最期となるとは、私たちは少しも気がつかなかったのです。その直後に彼女は入院されて行きました。

私たちは彼女を訪問し、希望を共有し、また共に祈りました。彼女にある溢れるほどの喜びまた生きた証しは、教会の中に必要とされていましたし、それは彼女の家庭にも地域にもそして親戚一同にもとっても貴重なもののはずです。

病院の医師も看護婦も、そしてすべてのスタッフは彼らのベストを尽くして彼女の命を支える努力を惜しみませんでした。彼女が取り去られるのを見るのは大変辛いものです。しかしながら、私たちは彼女が今やすべての痛みと苦しみとから解放されて、主イエス様の御腕の中で憩いを得ていることを知っています。

彼女が地上に残していった位牌は、今や錦教会のお墓の中に管理されていて、やがてのよみがえりの朝を待望しています。それに彼女は、常に私たちの心の中に生きているのです。


谷口お婆ちゃま


彼女のふっくらとした小さなお孫さんは、私どもの日曜学校生徒の中で最年少のお嬢さんでした。彼女とそのお兄さんは、日曜学校に必ず来るようになりました。

お嬢さんがイエス様のことを聞いたとき、彼女は主を受け入れて、しかも偶像崇拝に対して確固たる立場を取るようになりました。彼女のお母様は、子供たちを仏壇や神棚の前に座らせて拝せることを常としていたのですが、お嬢さんの亜希子ちゃんはその時、「イエス様だけが唯一で本当の神様なのよ」とお母様に告げたのでした。亜希子ちゃんは以来、仏壇の前で拝むのを拒んだのでした。

またそのお母様は、時に多くの重荷と問題を抱えたまま相談においでになられていました。
やがて彼女と二人のお子さんとは、赦しと平安、また喜びを信仰によって見出したのです。
祖父と祖母もまた、特別集会にはお見えになられていました。

お年を召された方にはとっては、神学的な教えを噛み砕いて伝えようとしても、なおも理解には困難さを感じられることが多いのです。しかし、もし彼らがイエスの御名を呼ぶことを学んだとき、そのお名前自体に力があることを発見するのです。そして彼ら二人にも確信と平安とがやってくる時が来ました。

"「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」"
(使徒の働き 16章31節)

祖父は最期の日々を、神様の尊いお約束のお言葉を読みながら平安を見出していらっしゃいました。
祖母はこの地上生涯を終えようとしている時、信者の友人に、「私は毎朝イエス様にお話ししてるのよ」と告げていたそうです。

このように全家族が大きな祝福を受け、さらに彼らを通じてその先祖からの相続地が錦教会新会堂のために用いられたのでした。こうして錦において福音が継続して宣教出来ることとなったのです。
祖父と祖母とが他界したときには、まだ教会の納骨堂は完成していなかったのですが、お母様の遺骨はその納骨堂に納められています。
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紀伊長島での新しい展開

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紀伊長島での新しい展開




日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大紀町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


その第38回目は、新たな可能性を求めて紀伊長島に生活と伝道の拠点を移すに至った経緯についてです。




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物置から始まった新生活



実は私は夢見るものでありませんが、ある夜、紀伊長島駅の近くにある大きな古い家にいる夢を見たのです。

それから可能性が次々と連想されて行くと、とても興奮して眠れなくなったのです。
古い家を探したわけでは無いしそこにあることすらも知らなかったのですけれども、実際に私のところにある物件が持ち込まれました。

その所有者の娘さんはここ数年間、英語クラスの熱心な生徒さんでした。私たちは聖書を読み、祈りを共にして来ました。彼女の家族はとても良い友人とご近所さんとに囲まれていました。

とにかくその物件はとても古いものです。その上それは物置として使われてきたものでした。
そこにはキッチンがなく、二つの部屋の天井板は垂れ下がり、床にはヒビが入っている上に、照明器具からの灯りは年代ゆえに黄色い光を放っていました。

なんとも大きなチャレンジです!
この物件の立地と広さには申し分ありません。

所有者の方は「どうぞ修理した上で好きなようにお使いください。家賃は要りません」と言ってくださいました。

その家の修繕工事は見事なものでした。新しいキッチン、頑健な床材、新しい天井板、敷き詰められたカーペット、それに照度調整できる照明器具。工事に直接携わって下さった方々さえもその見事な出来栄えを賛辞したほどです。

私は神様ご自身が何らかのあり方でご臨在されて、その物件を美しく仕上げてくださったように感じました。どんなに修繕したとしてもかつては物置であったのには違いないわけでして、それは外国人差別ではないか、と考える人もいたようですが、私には何ら問題を感じませんでした。


フレンドシップ・ハウス


バーゲンセール、寛大な値下げ、温かい心で熱心に働く大工さん達、電気技師、配管工らの皆さんの協力によって私たちの「フレンドシップ・ハウス」は生み出されました。

経済的な必要が心配される向きもあったのですが、結果として、主は有り余る祝福を持って経済も満たしてくださいました。

これは秘密事業ではなかったことを皆さんはおそらく知っておくべきでしょう。
シェルホン先生には機会のある度に連絡していましたし、日本に来られたポール・フィンキーにももちろんお伝えして来ました。皆さんからの支持や理解とを得られるまでには、かなりの時間が必要であった事は言うまでもないのですが。



私の頼りになるカウンセラー



さて、こうして子供や大人も含めての新しい英語クラスの生徒さんも与えられて、制限なしの機会を得た私の働きは無限大に広がっていくかのように思えました。

高齢者に対する主のお約束に私は深く感謝します。私がまだ日本に来る前、主が私にお約束してくださったことは真実だったのです。

"主は彼らをその望む港に導かれた。"
(詩篇 107篇30節)

"見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。"
(出エジプト記 23章20節)

私は慌てたり心配したり必要はないのです。
主は私にイザヤ書を通じてこのように語ってくださっていますから。

"あなたがたは慌てて出なくてもよい。逃げるように去らなくてもよい。
主があなたがたの前を進み、イスラエルの神がしんがりとなられるからだ。"
(イザヤ書 52章12節)



名誉牧師

どうやら私には何やらタイトルがつけられねばならないようなのです。
「名誉牧師」が提案されました。

私には、そのようにして高められねばならない必要なんて何も感じませんでしたので、その提案を受け入れることはなかったのです。

「ただ私を、私のままにさせておいてください。私ができることだけをさせてください」とお答えしました。コンピューターが台頭しているこの世代にあって、私はそのシステムに付いていくことができないのです。

私はまるでサウルの鎧を着たダビデのようでした。
彼は大きなチャレンジを前にした時、その鎧を着たままでは何もする事もできず、歩くことすら出来無いままでした。ダビデがそうしたように、私も普段使い慣れている道具を使いたいのです。

私はチャンピオンにはなれないかもしれませんが、最後まで私のできるベストをさせていただきたいと願っています。



親善大使となって



もし私がキリストとその御国のための忠実な親善大使となることが出来るなら、私の心は満たされるのです。親善大使は、その人自身の個人的な野心には仕えていません。彼はその出身国の便益を代表するものです。彼には働きが任されていますが、その出身国の原理原則に忠実でなくてはならないはずです。

政府はその大使に対してサポートと福利厚生、また安全を保障するための完全な責任を負っています。大使にとっての究極的な願望は、彼の国にとっての最善でしかありせん。

私たちの主イエスキリストの永遠の御国のための親善大使となること以上に偉大なる召しがこの世界に存在し得るでしょうか。



主イエス・キリストの囚人



パウロとシラスはかつて公に鞭打たれて牢獄に投げ込まれた時、彼らの足には足かせがはめられていました。彼らは眠ることができなかったので賛美をしたり祈ったりして、静かにはしていなかったのです。

そんなことがあって後、神様は地震を起こされました。
看守とその家族は改心へと導かれました。これらの試練を通じてどんなことがパウロに起きようとも、彼はただ御国の前進のためにだけに生きるものとされていると言う確信に至ったのです。
彼は時にローマ帝国の囚人として引き渡されることになりましたが、彼自身は常に主イエス・キリストの囚人であるとの認識を持っていました。

看守たちの間に鎖で繋がれながらもパウロは証をして、その魂を御国のために勝ち取り、そしてついには諸教会への励ましと教えの書簡を送り続けて、クリスチャン生活の指針を伝えたのでした。

大変多忙な囚人として、彼は全てのことをキリストとその御国の栄光のために捧げたのでした。
彼はキリストのために被る苦しみと同化されることに喜びを見出していました。

人々がパウロを困難な道から思い留まらせようとしたときに、彼はこのように答えています。

"けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。"
(使徒の働き 20章24節)
これが私の願いでもあります。

次の詩がこの私の想いをよく表しています。

“主よあなたのための働きを終了するまで私を死なせないで下さい。
私の地上での働きがどんなものであったとしてもです。
その使命を成し遂げないうちに 私を召し上げないでください。
私の土地に耕していない部分があるなら それをそのままにしないでください。
この真理を私に刻みつけてください。
私が手付かずに残しておいた領域は 私以外誰も成し遂げる事は出来ないという事を”

ある方はまた言っています。

“私たちは仕事を終えるまで不死身です”

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なおも試練を受けて

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オリンピック半島・ハリケンリッ... オリンピック半島・ハリケンリッジからの眺め なおも試練を受けて






日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大紀町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


その第37回目は、なおも試練の中を通られて現実の厳しさに直面される場面です。




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神の御国への投資



新しく日本人牧師が任命されて多くの変化が伴いました。
私には何ら相談は無いままに、私は錦教会の様々な責任から退くこととなりました。

実はこれらのことをお話しする際には多くの涙が流され、また私自身が大変傷ついてしまうことにもなります。ただし、誰かを傷つけたりつまずかせようと願ってのことではありません。

「先生は錦教会に大きな貢献をされ、それはいわば投資であって、先生が買ったものではありません。それは先生のものではないのです」と言われました。

私自身よりも他の方々の方がより多くの投資をしてくださったのに、どうして私が所有権を感じることがあり得るでしょうか。確かにポール・フィンキーと彼の奥さんのエタの方が投資家として記録されるに相応しいはずです。彼らはアパートの建物を売って錦教会に投資してくださいました。

二人の錦教会員は、聖地旅行のために蓄えていた資金を捧げられました。
他のご家庭は彼らの「ドリーム・ハウス」を捧げられました。
他の方はとても必要であったはずの新車を買うのを延期されました。

ただキリストのみが私どもの宝の側に立ち、私どもの捧げ物をご覧になられて、そして私どもの投資を正しく評価することがお出来になるはずです。

「柔軟な考えを持ったものは幸いです。彼らは体型を崩すほど凝り固まることがないからです」




適切でない日本語メッセージ



新しい牧師が到着するとまもなく、非難の声が上がり始めました。

私が流暢な日本語を話せないと、誰も私に教えてくれる必要は無いはずです。
日本各地で働いたものですから、私の言葉は標準語と山形方言のズーズー弁、さらに錦弁とが加わって、それらがミックスされたものを話していました。
外国語を話す困難さについてなら、私は誰よりもよく知っています。

私は常に聖霊様が御言葉を通して私たちすべてに語りかけてくださることを、どうしても必要な祈りとして固く保ち続けてきました。そして聖霊様は実際に語って来られたのでした。

多くの改心者が与えられて、教会は祝福されて来ました。
教育者や専門家たち、そしてビジネスマンたちが誰からも強要されることなく自主的に、定期的に教会に出席されてきたのです。



ふさわしくないオルガン奏者



私のオルガン演奏もふさわしくないとされました。
私の音楽教育は母親から直に授けられたものでして、彼女はいわば仔馬に乗った若い女性が田舎を巡るように、自由気ままに子供たちに教えてくれました。

彼女は私に初歩的なものを教え、またいくつもの練習教本を与えてくれました。
その中には古典的なものがあります。ベートーベンやバッチ、モーツァルトやハイデンなどの肖像画がその表紙を飾っていました。

常に彼女はこう言っていました。
「すべてはあなたがどれぐらい練習に打ち込むかと言うことなんです。これらの有名な音楽家たちは、毎日ピアノに八時間も向かっていたのですよ」

私はそんなに長い時間は座っていられない者でして、決して有名にはなりませんでした。
私は完成された音楽家とは決して言えませんが、これまでバイオリンやチェロ、アコーディオンなどの楽器を用いて様々な教会のオーケストラで演奏してきました。

私は川崎での路傍伝道や大江町でもマーチングバンドの一画を担いました。
錦教会で停電となったときには、アコーディオンで礼拝を導いたこともあります。



本田クルセードでのピアニスト



「私にはできる」「私にはできない」と決める際、その場の雰囲気が大きく影響していることを発見しました。

かつて川崎市で全市をあげての本田クルセード大会があった時、私はピアノ演奏を依頼されたのです。会場となる教会にはピアノがありませんでしたが、私の生徒の一人が家族で使っていたピアノを捧げてくださると言うのです。

私は既にそのご家族とは友人のように親しくしていて、歓迎してくれていました。そのご家族は本田先生と司会者たちの為に、快適なお部屋まで提供されました。

任じられたのなら、もちろん最善を尽くします。けれども洗練されたマリンバ奏者や全ての重厚なプログラムについていくには到底届かず、私はまるで無能な演奏者のように感じていました。
それでも皆さんの祈りと励ましがあり、また一致した祈りと働きによって私はなんとかやり遂げたのでした。

吹奏楽器は私に任せて良いものではありません。それは常に私がおしゃべりをしてなくてはならなかったからでしょう。一方で私の二人の兄弟は吹奏楽器に大変長けていて、ある時私に教えてくれたことがありました。しかしほとんどのレッスンは、大きな笑い声を吹き出すことで終わりました。笑いながら同時に吹奏楽器を演奏する事は出来ません。彼らはついに教えることを諦め、私もそれを認めざるを得ませんでした。

やがて天国においては全てが完全とされるのですから、私はみ使いの歌うコーラスに合わせてハープを手に取って演奏することが許されるのではないか、と今から期待しています。でもそんな事はどちらでも良いのです。私がたった一つ私の主からお聞きしたいことは、「良くやった良い忠実な僕だ」とおっしゃっていただくことです。

牧師は多くのことを変えていくことができるでしょうが、神様が与えてくださっている約束だけは変えることはできません。残念なことですが、批判や苦情等の声が広がっていくに従い、錦教会に関わる私の役割や確信は萎んで行かざるを得なかったのでした。



高齢者たちへの特別な祝福



ある牧師はこんな風にも言ってくれました。
「私たち日本人が紫陽花を好きになれないのは、お年寄りのように枯れた後でも長く居座っているからです」

確かに人々は私たちの外側の現れを見ますが、神様は心をご覧になられます。
神様の高齢者に対しての尊い約束を思い出して、私は喜びさえ感じます。

"正しい者はなつめ椰子の木のように萌え出でレバノンの杉のように育ちます。
彼らは主の家に植えられ私たちの神の大庭で花を咲かせます。
彼らは年老いてもなお実を実らせ青々と生い茂ります。"
詩篇 92篇12~14節

さらに次の詩篇の御言葉では、私たちの人生の全ての時間において良いものに満たされること、私たちの若さが新しくされることが約束されています。

"あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。"
詩篇 103篇5節



シャーマン



「シャーマンについてご存知ですか?」

ある牧師からはシャーマンの称号を授けていただきましたが、私には彼の意味するところが分かりませんでした。
Merriam Webster’s Collegiate Dictionary によれば、次のように解説されていました。
「シャーマニズムとは、目に見えない世界の神々や悪霊、先祖の祖霊などに対する信仰によって
特長付けられる宗教の一つであり、これらの霊に応答できるものがシャーマンとされている」

イエス様ご自身が、ベルゼブブの力によって悪霊を追い出していたと非難されていました。
こういった非難は宗教指導者らから寄せられていました。マタイ9:34、12:24。

イエス様に従う私たちも、そのような同様の非難を受けることがあります。
パウロはキリストの苦しみに預かる事はこの上ない喜びであり、キリストご自身と同一化される事であると感じていました。






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米国への英語研修旅行

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米国への英語研修旅行 米国への英語研修旅行 米国への英語研修旅行





日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大紀町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


その第36回目は、紀伊長島での英語クラスの生徒さんら十数名を引率されて米国へ英語研修旅行に来られた思い出です。




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第四部



紀伊長島の開かれたドア〜牧師転任という変化の中で



私は変化を覚悟していました。そしてそのための心の準備もしていました。
「先生がもし明日亡くなったとしても、錦教会は牧師なしでもやって行けます」
それであっても、こんなことを聞かされたのには少々驚くばかりでした。

「私たちの中で一体、明日のことが分かる人がいるのですか」
私はそうお答えしたい。私どもの明日は全て主の御手の中にあります。
主は私たちそれぞれに計画をお持ちであり、その計画が何であるかを少しずつ明らかにしてくださいます。

より充実して、より自由で、そしてより広く開かれている働きへのドアが紀伊長島で開かれているように感じるのです。
日本人牧師が錦教会に任命されるよりも以前に、主は私に黙示録3章8節から素晴らしいお約束を与えてくださっていました。既にその時に道は開かれていたのです。

"わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。"
ヨハネの黙示録 3章8節

何年間もの長い間、上野ご夫妻からのお招きによって私は紀伊長島にて英語を教えてきました。彼らの歯科診療室に接続している小さなコテージを使わせていただいていました。
そしてその働きは錦教会にとっても祝福となって来たのです。



すでに天の御国にて



紀伊長島は、錦教会にある忠実なクリスチャンを代表しているだけではなく、天においてもそうなのです。確かに私は彼らと天でお会いするの楽しみにしているし、そこでは聖歌隊にともに参列して、白い衣を着て棕櫚の枝を手に振りながら主を賛美するのを待ち切れません。

「祝福と栄光と誉と権威と力とは、永久から永久まで私たちの神にあるように」



英語クラスの海外旅行



紀伊長島での公民館教育で二年間をひと区切りとして、「英語での海外研修旅行」という名のクラスを夜に開いて教えてくれないか、と頼まれました。

参加者たちはとても熱心な方々で、さらにそこから英語の輪が広がって行き、公民館で毎週のクラスが開かれるようになりました。

そして私たちはシアトル、ロサンゼルス、そしてハワイへと海外旅行することになったのです。
特にシアトルへ行ったこと、そこにある小さな日本語教会に出席できたのは忘れられない経験となりました。私は英語クラスの皆さんに教会出席を要求した事はありません。

日本からシアトルまでのフライトは、夜をまたいでとても長時間のものでした。私は彼らにホテルで休んでいても良いし、買い物に行くのも、どこかで見物するのも良いです、とお話ししていたのです。それは彼ら自身のスケジュールに任されていたのです。

私自身は日曜礼拝へ行くことにしていました。もし彼らが私と同行したいのであれば大歓迎です。私はこれまでに多くの方々を教会にお誘いしましたが、あれほど心からの積極的な応答をいただいたことはありませんでした。

前日からひどく体調崩していた一人の女性を除いて全員が教会に来られたのです。
錦教会で共に七年間奉仕をされた私たちの群れの高橋京太先生が、綿密な計画と協力とを尽くしてくれていました。

地元米国のバプテスト教会が全員の乗れるバスを貸して下さり、全ての移動が全員同時に可能となりました。日本人教会の栄光キリスト教会は、未だかつて教会に行ったこともない人たちを含んだ私たち16人を快くホストしてくださいました。

礼拝後は大変楽しい交流の食事会となり、そこではそれぞれ自己紹介やテーブルスピーチが行われました。キリスト教に対しての印象を私の英語クラスの生徒さんがそれぞれコメントしてくださるのを聞くのは大変興味深かったです。

キリストの教えには生きる希望と喜びがあるのを、彼らは驚きながらも異口同音に話されたのでした。



嵐の中での神様の備え



紀伊長島での英語クラスが夜に開かれると言うのは台風シーズンの間、困難が伴うものでした。
錦に至る紀伊長島道路はしばしば土砂崩れがあり、数ヶ月間遮断されることもあります。

そうなると大変な長距離を迂回した山道を通らねばならず、とても時間がかかるのです。
決して忘れることのできない嵐の夜がありました。

その日、先ず錦を出発する前に紀伊長島の関係者に電話をして、天候の様子を訪ねました。
雨は降っておらず、すべては通常とのことで、私は出かけることにしました。

しかしクラスが終わる頃には嵐は激しくなっていました。
それにもかかわらず主は私を先導する特別なエスコート役を備えてくださいました。

私がちょうど紀伊長島道路に乗り入れたとき、巨大な電飾トラックとトレーラーが私のすぐ運転する直前を走っていたのです。そこでいわばエスコートされるような形となり、錦に至るまでの山道を安心して通り抜けることができました。それも、錦に到着する頃には雨は止んでいました。ですから、その時にはエスコートも必要なくなっていたという訳です。





#ドロシー師

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クジラの展示物を見て

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クジラの展示物を見て クジラの展示物を見て クジラの展示物を見て クジラの展示物を見て






日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大紀町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


その第35回目は、米国のご家族が来日され日本の各地を観光して廻ったことなどです。




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喜ばしい旅行




もし宣教師が休暇を取って観光やリクレーションをする時間を持たないと考えているなら、その誤りを私はここでお伝えしなくてはなりません。

外国から親族や特別なゲストがおいでになった時、私たちは共に旅行に出かけました。
その彼らが私たちのレクレーションの喜びを他者にお分かちするなら、さらに大きな恵みとなって伝えられて行きます。

私の弟とその妻が約一ヵ月間、私と共に滞在する機会が与えられたのは、主からの特別なギフトとなりました。弟とは同じ屋根の下で育てられたのは間違いありませんが、彼は信仰の告白を明確にはしていません。錦教会は彼らのために真摯に祈り、彼らを愛し、そして大切にしてくださいました。その影響には計り知れないものがありました。

彼らは、私にとって日本が世界中で最もふさわしいところであると納得し、満足してくれました。私一人が米国の家族からどれだけ離れて暮らしていようとも、私のために心配することはないことでしょう。

彼らが滞在している間、私たちは大抵の日本人が見るよりもはるかに多くの各地の日本を見物したに違いありません。私たちは、北は北海道から南は宮島と姫路まで旅をし、またその間にある多くの場所を訪れました。そこには京都、奈良、神戸、それに日光がなどがあり、その日光では年に一度か二度しかないとされる百物揃千人武者行列とか言われているサムライ行列を見物しました。三重県にある観光名所もまたそのリストに含めねばなりません。
その期間、一つの日曜日を川崎教会で、別の日曜日には大江町教会で礼拝を守ることができました。その滞在期間の終わる頃になって、私たちが紀伊長島道路をドライブしていたら、弟は突然こんなことを言い出しました。

「紀伊長島から錦までのこの道路にこんなにも美しい景色が続いているなら、どうして私たちは日本中を旅して来なければならなかったのだろうね」
私も同じような感想を持ちました。この辺の美しさには、決して飽きることはありません。



ミルドレッドおばさん



シェルホン先生の叔母にあたるミルドレッドおばさんが日本を訪れた時、私たちと共に滞在してくださった事は大きな喜びでした。川崎には多くのイベントや集会があるにもかかわらず、彼らは数日間を私たちとの滞在に割いてくれたのです。

美智子先生の案内で近場の観光名所を巡った後、私たちは私の未だ知らないさらに遠くにある観光名所に出かけて行きました。ミルドレッドおばさんが一緒なら、たとい長距離ドライブでも誰も退屈しないのです。

米国の有名なシーワールドでありませんが、鯨や海の巨獣を飼いならしてショウまでしている所は大変興味深かったです。博物館にあった巨大な再現された鯨と、その体内にあったボートの展示物には特別にスッカリと惹きつけられてしまいました。

その鯨が、あのボードを飲み込んだのでないことは承知しています。
その海の巨獣の計り知れない巨大さを表すためにボートが置かれていたのです。
それは、逃げ出した説教者であるヨナが滞在するには充分な広さでした。
従うことの方がよっぽどマシであるとヨナに悟らせるには、三日間の時間で十分であったことでしょう。

その鯨は、おそらく一口で飲み込んだ後に、消化しきれない食べ物に飽きてしまったがために、乾いた陸地に彼を吐き出したのです。博物館にある再現された鯨に使われている骨が、いつどこで発見されたのかは知りません。しかし主がヨナのために備えられた鯨は、充分に巨大なものであったことをそれで理解出来ました。
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