日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大紀町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
その第34回目は、新会堂が完成したものの19年間の思い出の詰まった旧会堂からなかなか心までは引っ越しできなかった様子です。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
開拓期の小さな教会堂の思い出は常に
「神にとっては不可能なことは、一つもありません」
新しい教会堂への引っ越しは、私自身に関して言えば、すぐにしっくりとはいかなかったのです。
私のすべての持ち物や、私自身は新しい会堂への引っ越しを終えました。
しかし私の心は簡単には引っ越せなかったのです。すでに電源が切られてはいたのですが、しばしば私は聖書を持って古い教会堂へ出かけて行き、そこで何時間も過ごしたのでした。
がらんとした建物の中には何も残っているものはありませんでしたが、私にはそうでは無いのです。誰も私から取り去ることのできない喜びの記憶が、そこには満ちていたのでした。
古い教会堂がついに重機で撤去せられる前日、私たちはそこに集まって感謝の礼拝を捧げました。19年間、主が私たちにしてくださった事柄の一つひとつを思い出しながら。
新しい会堂を皆様にホームと感じてもらうために、私たちは少々アメリカの習慣を取り入れて「ハウス・ウオーミング」を開きました。
二階の牧師館に約30名ほどのゲストが集まってくださり、それは楽しい時間となりました。
その場所は今後長い期間に渡り、その楽しい思い出で温められたのです。
さて、ついに大きなスペースと宿泊のできる部屋が備わった私たちには、特別なイベントも増えて行ったのです。先ずは、チャーチオブゴッド婦人教役者会を二泊三日で開催しました。
その交わりは実に麗しいもので、時間はあっという間に飛び去って行ったのです。
「ファミリー・ナイト」と銘打って全ての教会員の方にお泊まりいただいて、ホーリネスについてじっくりと学んだ機会は、これまでの集会の中でも最も有益なものでした。
京太先生はホーリネスについてそれぞれ一時間のセッションを二回、神学的な側面から教えられました。私も同様にそれぞれ一時間ずつ、ホーリネスの実際的な側面を、生活にどう適用するのかという点からお話ししました。
その準備の段階から、私の心は探られて行きました。
私たちの教会は実に家族同様でして、よって私たちの心は照らされ、正直に告白がなされ、そして祈りの心で溢れた時となりました。
それは実に貴重な時間でした。
ある方は、「こんなに良い集会が出来るなら、どうしてもっと早くしなかったんだろう」と言われ、別の方は「このような集会を、年に二回は待つべきだ」と言ってくれました。
私も全く同意見です。
まことの霊的なハウス・クリーニングが完備された私たち今、将来に向けての正し方向性を見出すことができたのでした。
米国からのクリスチャン大工たち
錦教会は米国から大工さん達が来られるようになって、本当に爆発的な成長を経験することになります。
彼らは四名の独身男性とご夫妻からなるチームでした。
奥様は彼ら全員の料理や家事の世話をする役割を担います。
大阪のあるキリスト教会が、錦峠の向こう側にキングスガーデンと言う特別養護老人ホームを建設する計画とともに進出して来られました。その養護老人ホームは、地元の建設業者によって建てられました。その地での教会堂建設のためにはアメリカからクリスチャン大工さん達が来られたのです。観光ビザで許されている滞在三カ月間以内に建て上げるのが目標でした。
その大工さんたちは毎週日曜、峠を越えて錦教会まで来られて礼拝を共にされました。
彼らとの交わりはとても素晴らしいものでした。その期間はバイリンガルでメッセージと礼拝を行いました。日本人伝道師が説教するときには私がそれを通訳し、私が英語で説教するときには逆に彼が日本語通訳したのでした。私たちは毎週土曜日にそのための祈りと準備の時間を持ちました。彼は上手な通訳者となってくれました。時に彼は私の話した後ではなく、その前に通訳をしてしまうこともあったりしましたが。
香港での“休暇”を終えると大工さん達には、新たな三カ月間のビザが与えられました。
今度は管理スタッフ達の住まいとなる集合住宅を建てるための働きが始まります。
節税のために、彼らへの賃金は米国の銀行に直接振り込まれることとなり、彼らにはお小遣い程度のものが支給されるというシステムのようです。
彼らのうちの幾人かはその変則的な方法を知らなかったのです。そしてある人は、それに気づくと早めに帰国されて行きました。
彼らのすべての働きが終わり、お別れとなったとき、日本に再び来るようにとお招きしました。
「ぜひ再び日本に来てみたいです。でもこのような方法では決して来ません」とある人は答えていました。
彼らが建築した教会堂、グレイスチャペルが完成しました。
実を言えば気が進まなかったのですが、この地域の牧師として、私はその献堂式でのスピーチを依頼されたとき、その招きを断るわけにはいかなかったのです。
主は私のすぐ側にお立ち下さり、私がミキサーの例え話をするのに力付けて下さいました。
「大きなメロンと小さなストロベリーを一緒に入れてブレンドします。すると出てくるものはメロンでもストロベリーでもないのです。もし私たちが聖霊様によって共にブレンドされるなら、私たちはこの地域の渇いた魂にとって必要な栄養ドリンクとなることができるでしょう」
そのグループのリーダーは、ご自分のプロジェクト完成のために地域教会に属するタレントや経済的なサポートを食ってしまうかのようなビジネスシステムをお持ちのようです。
そのようなアプローチが何度か私たちにも及んで、ついにある住民の方が私に、「あそこは福祉事業団体なのですか、それとも宗教団体なんですか」と聞いてきた程でした。
その最後の、そして大きなアプローチというのが、私どもの新しい教会堂の献堂式にやってきました。
ちょうど同じ頃、本部の大阪の教会からかなり大きなコワイヤ・グループが来られていてグレイスチャペルでコンサートをしていたのです。私どもの特別な式典にもそのコワイヤ・グループが喜んで歌う、とのお知らせが寄せられて来ました。これにどう対応するかは、何も難しいことではありませんでした。
すでに私たちには、プログラムいっぱいの計画があって、準備が進められていました。
私どもの町長さんからの祝辞や、私どもの教会クワイアとハンドベル演奏、さらにはシェルホン先生による式辞があります。
コワイヤメンバーを始め、グレイスチャペルの皆さんの出席は大歓迎されて、私どものホームメイドのディナーを召し上がって頂きました。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大紀町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
その第33回目は、ようやく着工した新会堂建設が完成までに紆余曲折を経てようやく献堂式にまでたどり着いたところです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
延期は敗北を意味しない
こうして新会堂建設事業が始まりましたが、実際の工事の進展具合は、当初計画とはまた別の話です。予定された期日よりもずっと遅くに、工事は着工されました。
工事の完成もまた約束よりもだいぶ遅れることになりました。
私たちは献堂式の時に合わせて、いくつかの特別な祝会を計画していたのです。
献堂記念にある著名な巡回伝道師をお招きして、数回に渡る特別伝道集会を計画していました。
やむを得ずに建設工事は続行中のまま、その特別伝道集会が行われました。
ただ献堂式だけは延期されました。
さすがに会堂が完成しないまま、献堂式を行うわけにはいきませんから。
講師のスケジュールや、すでにポスターや配布されたチラシのことを考えると、特別集会だけは延期できずに、槌や電動ノコギリの音が鳴り響いている中、特別集会を開きました。
講師が錦に到着された時は、大雨でした。
新会堂に玄関の扉はなく、そこのセメントやタイル工事も未完成のままでして、それでも大工さん達は一生懸命にできる限りの働きをしてくださっていました。
そこにあったものと言えば、わずか上下水道と電気位だったのです。
その伝道集会には大勢の方がお見えになられました。
その週末の数日間は、新会堂は人でいっぱいになるほどでした。
私たちの新しい会堂には賛美の歌声と勝利の証しとが、まるでこだましていたかのようです。
ただ、将来の完成が確かな日まで、献堂式自体は延期となりました。
これまでの教訓から、かなり余裕を持って延期の日時を確保したはずですが、その献堂式の当日の日においても、まだ大工さん達は仕上げのための工事をしていらっしゃいました。
献堂式のお客様方は、それを見て驚かれたのですが、いやこれこそ錦時間の方法だとして、むしろ楽しんでくださったようです。
これはこの国の中にあっても、錦だけに起こり得ることであり、お互いを疑いや文句なしに受け入れる寛容な文化なのだと、今更ながら私自身が学んだのでした。
すぐにと言うわけではなく、かなりの期間がかかったのは確かですが、母の信仰からの教訓が私を支え続けて、私たちは新会堂を借金なしで捧げることができたのです。
ダニエルさんの訪問と働き
待ちに待ったダニエルさんが米国から訪れてくださいました。
建設工事はまだ完成しておらず、雑多で混乱した片付け仕事などを助けていただくためには十分な
早い段階に来てくださいました。
彼女は常に陽気さと賛美のスピリットを持ちながら長い時間、裁縫仕事に励んでくださいました。ミシンを自由自在に扱いながら、カーテンやベンチのクッション、そしてコワイヤテーブルにかける真紅のフェルト製カバーなどを見事に作り上げてくださいました。
彼女のアイディアは上品でとても素晴らしいものでありながら、同時に無駄がなく予算を節約するものでした。
彼女の働きには、物心両面で実に助けられました。
献堂式のお祝いの食事には、全て手作りの料理が並べられました。
いわば私どもの心と手で用意された、真の愛が表された祝宴だと言うことができます。
婦人会の皆様方は、いくつかのチームに分かれて様々な仕事を分担しました。
あるチームはご飯ものとサラダ、他のチームは揚げ物のチキンやエビ、そして私の持ち場は赤いリボンで結ばれた可愛らしいサンドイッチとデザート、フルーツサラダを作ることでした。
私たちすべてはまるでミツバチのように忙しく働いて、そこではノロノロしていたら誰も生き延びれないと感じた程です。喜びの準備仕事には、おいで下さっているお客様まで巻き込んだのでした。
お客様は近くからも、遠くからも数多くお出でくださいました。
シェルホン先生は、川崎からバンにいっぱいのお客様を引き連れて来てくださいました。
ハレルヤコーラス
献堂式のプログラムは、私たちが期待できる最高のものをさらに凌ぐものとなりました。
コワイヤはヘンデルの「ハレルヤコーラス」と「聖なる都エルサレム」を満堂の会衆に歌い、ハンドベルでは、「ハレルヤ」を演奏しました。
多くの方々から祝辞のお言葉をいただきました。
お出でくださった町長さんは、キリスト教式に慣れてないためか戸惑ったご様子。
もちろん、シェルホン先生が式辞をしてくださいました。
私はこの建築事業を助けて下さった関係者諸氏に、お礼の品とお言葉とをお届けしました。
ダニエルさんと私はその献堂式翌日、教区の牧師会に出席し、それが終わるとチャーチオブゴッド婦人教役者会に出席のため川崎まで出かけました。80歳となる特別講師のダニエルさんは、錦教会に滞在されたその経験をお話しされました。何と言うチャレンジでしょうか。
主の軍隊から放免されると言う事はあり得ません。
「引退」ですって?!
一体それは何のことですか?
そんな時、川崎にいる私の元に京太先生からの突然の電話があり、建築業者からの最終的な請求書が届いた事を知らせてくれたのでした。原初の契約にはなかったいくつかの請求があると言うのです。
その最後の請求を満たすためには、まだ数百万円のキャッシュが必要であると言うものでした。
錦の隣には孫太郎と言うリゾート村があり、よくピクニックに出かけました
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
その第31回目は、降水量日本一と言われている尾鷲に近いだけに、川からの洪水と言う危険と隣り合わせであったこと。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三重県錦は台風銀座
台風ーそれは想定することのできない生き物のようなものです。
衛星写真は真ん中に黒い穴のある、嵐の渦となっている雲の写真は提供してはくれます。
その穴は台風の目であり、そこには完璧な静けさがあります。しかしその台風の通過地点にあっては、どんなひどい災害が起こるかは誰も予測し得る事は出来ません。
高い巨木でさえなぎ倒すことがあります。ある大木は会堂の屋根に倒れ、そのまま会堂前の道を塞いだことや、他のときには会堂のタワーを直撃したこともありました。他のときには、主のいないままの空の犬小屋が吹き飛ばされて、教会の庭まで運ばれて来たこともあります。
それが日中にやって来た時なら、ただできる事と言えば、空中を飛ばされている多くの物体を見ながら安全を祈るほかないし、夜にやってくるときには、停電の中キャンドルを灯して自らを静め、コーヒーでもすすりながら風のうなり声やそこいら中の衝撃音を聞くことしか出来ないのです。
地元の消防団の方々は重大な責任感を持ちながら、昼でも夜でも嵐の間は、実によく働いてくださいます。しかしながら私たちはその消防団が本来の火災の時よりも洪水なったときの方がより偉大な活躍を私たちにしてくださったことを認めないわけにはいきません。
教会堂の前を通る路地の向こうは川となっていて、大雨の嵐の日に、ついに氾濫して路地に水が溢れて床上浸水直前となった時がありました。
会堂にあるオルガンや図書等全てをベンチの上に載せた後、私たちはいつでも裏山の崖を這いずり登って逃げる準備をしなくてはならなくなりました。時に深夜でしたが、消防団の方々がやって来られて小学校の体育館が緊急避難場所になっていること、避難の手伝いが必要なときにはいつでも連絡するようにとも知らせに来てくれました。
重大な事はコネクション
ある夜、私の部屋の窓から見える大きな倉庫が炎に包まれているのに気が付きました。
消防団の方々は忙しく立ち回っているのですが、炎の勢いは一向に収まりません。
消防士の抱えているホースからは、水が出て来ないのも見て取れます。それはただホースが消火栓に繋がれていなかったのが原因でした。彼らの働きは台風の時の方がずっと優れています。なぜなら火事よりも台風の件数の方がずっと多いからです。それにしても、コネクションが最も大切な事柄であるのには間違いありません。
錦町の消防団
それは日曜日の事でした。
山形からの友人が訪ねて来てくださっていた時のことです。
そして私はいつも訪問してくださる方にお手伝いを依頼しています。
その日も朝早くから激しく雨が降り続いていて、シーツがそのまま空から垂れ下がっているかのように雨で外が一面白く見えました。
隣からは若い青年が裸足のまま教会まで歩いてやって来ていました。
それで四名となりましたので、いつもの日曜礼拝を始めたのです。
激しい雨のためどこにも出かけることができず、ランチを終えてから私たちは日曜学校の教材作りに励むことにしました。その間、絶えず私たちは教会堂の前を流れている川に警戒の目を向けていたのです。
やがて数名の消防団の方々の突然の訪問に、私たちは驚かされました。
「皆さんは今すぐここから脱出しなくてはなりません。川の水は既に縁まで上がって来ています。裏山へ逃げること以外に避難する道はありません」と言われました。
私どもは急いで本棚の半分下にある本を空にしたり、オルガンをテーブルの上に載せたり、貴重品を床から高いところに乗せた後、主がこの教会堂を守ってくださるようにと祈りました。
裏手の山を両手を使いながらよじ登って行かなくてはならないですから、身軽でなくてはなりません。聖書と現金を持ち、そしてレインコートだけをかぶっての避難開始です。
川の水はすでに土手を乗り越え始めています。それで私たちがまさに避難を始めたとき、目の前で奇跡のようなことが起こりました。川の水位が少しずつ下がり始めていったのでした。
さらには、こんなエクサイトメントな出来事もありました。
その日は夏季子どもキャンプの初日のことでした。
お母様方たちが子供さん達とその荷物を教会に送り届けていた頃には、雨はもう既に降り出していました。午前中のプログラムは聖書の話、ゲーム、そして工作等でして、順調に進んで行きました。ランチとその片付けがちょうど終わった頃の事でした。
消防団の方々がお見えになられて、そこから脱出せねばならない、と言われるのです。教会前の川を見ると、すでに川岸から水が溢れて、大きな湖を作っていました。
消防団の方々は見えなくなっている川岸にロープで非常線を張り、目印としました。
彼らが小さな子供さんを抱えて、また大きな子供さんたちはお互いに手をつなぎ、先生や大人スタッフたちともとも手をつないだまま、私たちは小学校近くまで歩いて退避したのです。
そこには消防車や救急車、トラックや非常用の車両が用意されていて、私たちは分散して町役場まで送られることとなりました。そして多くのスピーカーから町内放送がなされて、すべての子供たちは無事に町役場に退避している、とアナウンスされたのです。
やがてお母様方がやってこられて、大きな毛布に包まれながらも濡れてびしょびしょになっている子供たちをそれぞれ引き取って行かれました。私たち教師やスタッフメンバーは何度もお詫びを繰り返したのでしたが、その横で子供さん達はとっても楽しんでいる様子。
彼らにとって消防自動車や救急車に乗るのは初めてのことだったのです。
紀伊長島から来られた子供さん達は、引き続き私たちとともに留まりました。その頃は紀伊長島道路の土砂崩れのため、緊急車両以外は通行止めとなっていたからです。
ようやく全ての子供さん達が親に引き取られ帰って行った後、私たちもそれぞれ自宅に帰りました。その夜、私は寝付くことができませんでした。
子供たちの完成していないままの工作品が、テーブルの上にそのまま乗せられているし、彼らの荷物は教会堂のあちこちに散らかったままです。私はすすり泣きながらつぶやいていました。
「主よ、どうしてですか」
次の朝早く、電話が鳴りました。
「私たち、もう一度キャンプ出来ますか?」
「もちろんですとも!」
私は叫ぶように答えたのでした。
錦の公園での子供集会
新会堂前にて
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
その第30回目は、音楽コンサートを繰り広げながら開拓伝道を推進していかれた様子です。
村の小さき教会
タワーを除いて、十日以内で建物自体は立て上げられました。
子供さんや青年たちはそれを見て、とっても喜んでくれました。
まさに私どもの教会堂とは、内も外も「村の小さき教会」です。
その献堂式礼拝では20人もの中学生男子が賛美歌の「村の小さき教会」を英語で歌ってくれました。その学校の中学教師は、バッハの曲からフルート演奏してくれました。
多くのお祝いの言葉や特別賛美があり、シェルホン先生はご自分の説教時間が残されているだろうか、と危ぶんだほどです。
資金が有り余ったことについては驚かないでください。
郵便物を整理する時間がなかったですので、後日になって机の引き出しの中に一枚の小切手が残されていたのに気付きました。
この建築に大反対していたあの理事は、後になってお出でくださり、この小さな村の教会のためにベンチを作ってくださいました。さらに現在の白い教会堂の為にも、またベンチを作るためにおいでくださいました。
空調設備については何ら費用は発生していません。
それはたいそうひどいものでした。
通常の空調とは真逆に働いて、夏には蒸し風呂ように暑く、冬には氷のように冷え切ってしまいます。早天祈祷会の前には凍てついた水道管から水を抜き取る作業をしなくてはなりません。
そこで私たちが主の前に出てくる時には、既に目もバッチリと開いて覚醒の状態となった次第です。
建築作業が進む間、柏崎近くにある製材会社の所有者と知り合う機会がありました。
その所有者の奥様は、「どうせなら錦と柏崎の間にある錦峠を越えたあたりに教会堂をお建てになったらどうでしょうか」と聞いて来られました。
そんなこともあって、やがて英語と聖書クラスを柏崎にある彼らのコテージで開くことになるのです。
柏崎伝道
錦だけでも私には充分で広い町ですが、そのさらなるチャレンジを受け入れました。
そこで大人のためのバイブルクラスを開くこととなったのです。
そのような準備がなされているときでした。その家のご主人が悲劇の事故に遭われたのです。
山中で木を伐採してるときにピンと張られたケーブルロープが突然緩んで弾け、彼の腹部を直撃したのでした。私はただ主に「どうしてです」かと聞く他ありませんでした。
私は本部に対して働きのための助手を求めたことはありませんが、充てがわれて拒んだこともありません。
錦に来られて、また去って行かれる伝道師の方々が幾人か続きました。
一方で、主は錦教会に新しく生まれるクリスチャンを起こして下さっていました。
そのような私たちの中からは、熱い心を持った賜物ある助け手たちが大家族のようになって共に働いたのです。
私たちは共に祈り、共に物事を決めて行き、そして共に働きました。
キリストが選び出された教会スタッフ
ある時、特別集会のポスター作りに五組ののクリスチャン家族が励んでくれた時がありました。彼らはそのデザインを描く作業にあまりに夢中となっていたため、ちびっこちゃんたちが畳の上に落書きをしているのに気がつかなかったのです。ちびっこちゃんたちもまた、彼らなりにデザインのお手伝いをしてくれていたのに違いはないのでしたが。
ドクター上野は優れたデザイナーでして、原案を発案してはポスターやチラシに素敵なデザインを描いてくれました。
印刷も自分たちでやりくりしますが、私もそのポスター作りには奮闘しました。
彼の奥様は熟達された音楽家でいらして、結成されたばかりの小さなコーラス隊を指導してくれました。私がオルガンを演奏し、だんだんとコーラス隊に人数が集まってくるとヘンデルのハレルヤコーラスを歌う練習をするまでになりました。
あるアメリカの教会からの厚意で、愛する方が天に召された記念として捧げられ贈られたハンドベル・セットは、私どもの音楽活動に弾みをつけてくれました。
伝道師が教会においでにならないときには、教会員が協力して週報作りに励みました 。
水曜日夜の祈祷会の時間までに、私がすべての原稿を用意しておきます。
すると、当番となった教会員は謄写版印刷のためのガリ切りに励んでくれるのです。
彼らは週ごとの当番制で順番に役割を担ってくれました。
協力を惜しまないクリスチャン家庭
ある年のクリスマスと新年の特別集会のためには、膨大な印刷物を必要としました。
私はある部分の印刷をプロの業者に依頼してはどうか、と聞いてみたのです。
しかし誰もがその意見に賛成せず、自分たちで作った方が良いものができる、と異口同音に言うのです。そこで私たちは皆、そのことに賛成し、ただひたすら働いて、また祈りました。
その集会直前となると、ほとんど徹夜で働いたこともあります。
そんな時、私どもの心までもがその印刷物と一緒に溶かされて行くような疲れを感じたこともありました。
その頃と比べると、現在私たちのすることと言ったら、コピー機の電源をオンにし、印刷枚数をセットし、後はスタートボタンを押すだけですよね。
協力について言えば、私は教会員に対して、決して依頼をした事はありません。
彼らが自主的に計画を立ててくれたのです。
私たちは皆でポスターを作り、それを町中に貼り出しに行き、そしてトラクトもまた共に配りました。今の時代は、私たちは何をするにもアピールから始めます。
協力作業のために、祈祷会出席のために、また礼拝出席のためのアピールをしなくてはなりません。
「もし毎週来ることができないのなら、少なくとも月に一度はおいで下さい」という感じですね。
私たちは自分から出て行くよりも、人を教会にかき集めることにより大きな意義を見出しているのではないでしょうか。
もし教会が霊的なお祭り(喜びと活発さ)の状態であれば、霊的に空腹な人達が祝福を求めて自らやってくるに違いない私は確信しています。
こんなことをある牧師に言ってみたところ、彼はこんなふうに答えてくれました。
「先生の好きなようにしても良いですが、成功はおぼつかないと思います」と。
時が良くても時が悪くても、引き続き植え続けて
もう一人の牧師は、特別集会のトラクト配布のために人員要請する段になって、こんな風にも言っておられました。結果については多くを期待あいてはならない、と。
「多分、新しい人が来ても二名か三名程のことでしょう」ですって。
"風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。"
(伝道者の書 11章4節)
"朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。"
(伝道者の書 11章6節)
皆さんは、アメリカンインディアンがコーンの種を蒔く時、常に三種類の種を蒔いているという話を聞いたことがあるのではないでしょうか。
一つは、カラスのために。
もう一つは、野ネズミのために。
そして今一つが、えインディアン自身のために。
大コンサート
私どもが企画した最も大きなイベントの一つは、有名ミュージシャングループによるコンサートでした。20名ほどにもなるそのグループの中には、テレビに出演している有名人やラジオでのスターなどもいらっしゃいました。
監督の一人が私に電話をかけてきて下さり、私たちが彼らを招く興味があるのか聞いてこられました。もしそうなら、ステージのギャラ料金表を送るとのことでした。これは彼らが通常、コンサート・チケットの販売を開始する手法でした。
錦教会では、このような方法で物事を運ぼうとはしません。
私たちは神様の驚くべき恵みを値なしで頂戴したのですから、神様の恵みを他の全ての人々にも値なしでお届けしなくてはならない、と感じるからです。
もしそのミュージックグループが無料コンサートに同意をされるなら、私どもは喜んで全ての事をお世話する約束をしました。すなわち、あらゆる準備、宣伝広告、そして宿泊食事費用などを教会が責任を持って提供するというものです。
私たちは町にある最大収容人数の施設である老人福祉センターのホールをお借りしました。
当時の錦町にはおよそ三千人強の人口があるとされていましたが、その内の約800名の入場者が与えられ、500名ほどがゲストブックに記帳して下さいました。
夕食には全てのスタッフメンバーを教会堂にお招きして、ホームメイドの料理を振る舞いました。宿泊は幾人もの教会員のご自宅に分散して、それぞれ泊まってもらいました。
それぞれのご家庭へと分散して出掛ける直前まで、全てのメンバーは、教会堂に会して交友とデザートなどを心行くまで楽しんでいました。
彼らはそれぞれ異口同音に、こんな小さな田舎の教会が、これだけのコンサートイベントを運営できることに驚いた事を口にされていました。
それは私たちがしたことではなく、主ご自身が私たちを祝福されて、主の忠実な僕たちに豊かな報いをお与えてくださったがゆえに可能となった事なのですが。
延長されたプログラムと激怒の管理人
錦教会は、音楽の賜物のある方々で祝福をいただいていました。
クリスマスの喜びを、錦の町全体にお届けしようと、私どもは決意していました。
日本のチャーチオブゴッドから伊藤文枝先生をソリストとしてお招きして、クリスマスの特別音楽集会を計画しました。
そこで、最も収容人数の大きい老人福祉センターを再び使用する許可もいただきました。
私どものプログラムは予定時間よりもかなり超過してしまったところ、管理人はひどく怒りをあらわにするのです。
そこで全てのプログラムを終えないまま、とにかくその会場を追い出されるようにして退出せねばならなくなりました。それは実に、終了セレモニーを踏まないままの、打ち切りでした。
さらに、どんなに私どもがお詫びを重ねても、その管理人の怒りは静まりません。
怒号が飛び交う中、どうしたことか私は自分の車の鍵を見つけることができなかったのです。
そこで自分の車をそのセンターの駐車場に置き去りにしたまま、とにかく飛び出して帰宅しました。
翌日、私は大きな深呼吸をしなながら平和を祈りつつ、再びあの管理人とお会いしました。
彼の怒りはすでに収まっていて、私への気遣いを感じさせる程でしたので、落ち着いた会話ができました。その中で、かつて彼はキリスト教との接触を持ったことも知りました。
私は彼に、昨日の混乱にもめげずに将来もこの会場を使用したいこと、そして会場使用のルールについては事前に私どもに知らせて下さるようにとお願いしました。
どんな反対を受けようとも、私どもの喜び、生きる希望と確信ある生き方について、ぜひとも町の全ての人々にお伝えしたいと願っています。
増築された牧師館
チャーチオブゴッド本部としては、牧師とその家族とを新たに錦教会に送ろうと計画しました。
そこで私どもはこの小さな教会堂に接続する牧師館を建てることにしました。建築献金がすぐに始められました。ところがその後、その牧師は来ないことになったのです。
それでも建設資金はかなりの額が達成していましたので、計画通りに増築工事を始めることとなりました。まもなくフィンキーさんらが来られるし、子供夏季キャンプがありますが、果たしてその時まで工事は完成するでしょうか。時間は短く、予算は限られています。
私は地元の建築業者に急いで依頼せねばならない、と感じたのです。
私どもが自宅で食事をする時、私の座る席からその建築会社を見ることができます。その時いつも、性急に対処するように促されていると感じました。
共にいた日本人伝道師には何も告げないまま、私はその促しに従って建築業者のところに行きました。外国人としての私は、新たな事態に向き合う時、常に事前にスピーチを準備しておきます。
今でも私はその内容を、一字一句の全てを思い出すことができます。
私どもの予算は計画の半分ほどしかないし、時間は限られています、と彼に正直にお伝えしました。彼の話によると、彼には兄弟がいて現在関わっている建築作業がその日の夕刻までには終わるのだそうです。さらに彼らの会社には、他の建築プロジェクトからの余った資材があって、窓や扉等は廃墟となった建物から確保できるとのことでした。
そんなことで、私どもの予算内で建築を請け負って下さると言って下さいました。
その新しい牧師館の献堂式には、シェルホン先生と美智子先生、またフィンキー(ベイデン教会宣教主事)ご夫妻の臨席も賜わりました。
夏季子供キャンプの最中、愛しい子供さんたちで教会堂はいっぱいになりましたが、新築の牧師館はフィンキーご夫妻のプライベートの部屋となり、その騒がしさから逃れてもらえたのでした。
ウイリアム・フィンキーと奥様のご訪問
ウィリアム・フィンキーさんと奥様のウィルマさんとは、二回にわたり私どもを訪問されました。
神様の時は完全であると、私たちは知りました。
神様の時は常に完全であり、神の供給もまた充分なものです。
二回目のフィンキーさんの訪問までに、主は意欲に溢れた若い青年たちのグループを私たちに与えて祝福してださっていました。
彼らは熱心に英語聖書を勉強し、クリスチャンコーラスを学び、また暗唱聖句にも励んだ人たちでした。
その時には美智子先生のお手伝いもあって、夕食はバラエティのある国際色豊かな夕食となりました。イングリッシュマフィン、アメリカンクリームチキン、メキシカンチリビーンズ、イタリアンピザ、そして日本の海苔巻きやフレンチアップルパイなどです。
夕食の後、その青年たちがそれぞれ歌や英語暗唱聖句を発表してくれました。
ビーンズは余ったのでフィンキーさんは翌日の朝食にも食べる事が出来ました。
彼らの家では許されていないビーンズだったのですが。
山形の田園風景
大江町の町並み
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
その第27回目は、小野寺先生とともに、山形での宣教に悪戦苦闘しながらも喜びの日々を過ごされていた様子です。
ライトバンのゴスペルワゴン車
神様は恵み深くも、私たちに田舎伝道のためにとライトバンを備えてくださいました。
この車は私たちの時間やエネルギー、それと出費まで節約してくれました。
村々はそれぞれが遠く離れていて、田舎の家々はあちこちに広がっています。
五月から冬の季節の始まる前まで、私たちにとり大変良い移動手段となりました。
冬季には、より安全な移動手段を選ばねばなりません。
あれは忘れられないある夜のこと、大変な積雪がありました。
山間部での夕方の集会の間にかなりの積雪となったのです。
その宮宿からの帰り道にある長い上り坂は、小野寺先生の熱心な祈りをもってしても登りきることはできませんでした。
やむなく私たちはふもとまで戻って、チェーンをタイヤに履かせたこともあります。
バスを利用した方が安全なのでは、とお考えになるなら、それは間違いです。
左沢に戻るある早朝の事でした。私は周囲の全てが白銀となった世界の美しさに見とれていたのですが、突然バスが道路を外れたのです。
止まったときにはバスのタイヤは側溝に落ち、車の他の箇所は田んぼのぬかるみに完全にはまっていました。私は傾いた側に座っていましたので大変な恐怖だったのですが、バスは転覆からは何とか免れていた状態でした。
コンウエイ牧師の訪問
コンウエイ牧師とそのご婦人とが日本においでくださったのは1966年の八月と九月でした。
彼らは左沢にも来て下さり、私たち皆にとってその数日間は特別な時となりました。
彼は私どもの様々な集会でお話をしてくださり、私が通訳をしました。
それでも彼のメッセージを充分には伝えられていないのではないか、と感じたのです。
そこで日曜午前の礼拝メッセージは、もう少し易しいものにしてくれるようにとお願いしました。彼は会衆に肉を食べてもらいたいと望んでいたのですが、私にできることはミルク程度のものを与えるだけだったのです。
しかしながら、それは忘れられないメッセージとなりました。
主はご自身の子供たちに十分な備えがあることを彼を通して語り、彼を証人として用いられたのです。その日曜朝の集会は、涙と喜びとで溢れました。
彼らの滞在は短かいものでしたが、私たちにとって大きな祝福と励ましになりました。
ところで、私はただ奇跡によって生かされている人間です。
コンウエイさんたちが私たちとともに滞在している間、急に寒くなったため、私の部屋を使っている彼らのためにガスストーブを急いで設置したのです。
11月までにそのストーブは元の場所から動かされていたのですが、少しも気づかれることなくコネクションが緩んで外れてしまっていたのです。
私は普段、ぐっすりと眠れる方なのですが、その日だけは何故か眠れずに起きていました。
その部屋はやがてガスが充満して行ったのです。
電灯をつけることなく、私はすべての窓を開け放ち、ガスの元栓を閉めました。
それでようやく眠りに落ちたのです。
起床してから、ホースがストーブから抜け落ちていたのを見つけました。
確かにその前の晩、私を起こしていたのは主ご自身だったのです。
主はまどろむことも眠ることもありません。
「私たちは自分たちの働きを終えるまで死ぬ事は無い」
と言う言葉の確かさを私に再度確信させてくれた事件でした。
詩編91篇の御言葉は、私にとってもはや現実です。
それは、主がご自身の御使いに命じて、私たちを守って下さっているという御言葉です。
小野寺先生は休暇を取って北海道にいるご家族を訪問しに行かれました。
彼女が帰って来ると、北国のあまりの美しい自然の様子を興奮しながらお話ししてくださるものですから、私たちは共にそこを見学しに行こうと決めました。これから二年後ぐらいになるでしょうねー、なんて話していました。
それから数年が過ぎて、私の弟とその奥さんが日本に来られた時、その私たちの北海道を観光する夢が、一緒になって実現しました。
クリスマス節季
"「主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、
主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」"
(サムエル記 第一 14章6節」
主はヨナタンと彼の盾持ちを通して偉大なる勝利をもたらされました。
主はクリスマス節季の特別集会を目前にしている私たちにどんなことをしてくださるでしょうか。
私たちは、人としての働きの全てを否定するべきでしょうか。
全てを主にお任せして?
神様だけにご栄光を独り占めさせるような、怠惰な人間の働きに主は反対されるに違いありません。
クリスマスの当日、目が覚めるとそこは「ホワイトクリスマス」となっていました。
神様は私たちをがっかりさせなさいませんでした。私たちの小さな家は、礼拝のための人々で溢れ、午後のフェローシップも人でいっぱいとなりました。
午後2時30分から午後9時30分ごろまで証しと賛美とが続いて、私たちの家は喜びの若い人々の声が響き続けたのです。
この日の事は決して忘れられません。
その年は素晴らしい年となりました。
淵深い水や熱い炉のような試練があったことは確かです。
しかしその水が深すぎたり、炉が熱すぎたりではなかったのです。
重荷は祝福へと変えられました。キリストを通して私たちは勝利者以上の勝利者とされました。
寒河江市の公民館では、私は一年間ほど毎週月曜日の朝7時から9時まで英語を教えて来ました。それは私たちの生活の必要を満たすために祈った答えでもあったのです。
また主を証する機会でもあり、そこから導かれて信仰に至った方々もおられます。
「主のために労した働きは、無駄とはならない」
確かに私たちの人生には、自分たちが説明できないような暗くて悲しい出来事が起こるものです。
私の生徒の中の一人に、将来を嘱望された賜物豊かな若い男性がいました。
ある時、彼はとても確固とした信仰の告白をしました。彼のその証しには真実の響きがありました。
大学卒業間近となったとき、私を左沢まで訪ねに来てくれました。
外資系の貿易会社で働く内定も、その時既に得ていたのです。
流暢な英語力ゆえに、外人の要人をもてなすこともしばしば任されていました。
しかしながら、以前バイブルクラスに出席していた生徒の一人が、彼と同じ会社勤めの内定を得たと知った時、だいぶがっかりしたようなのです。
彼が行方不明になったとの電報を受けたときは、大変なショックでした。
それから二週間以上も経って、彼は私たちが以前、共にハイキングをした山の中で死体となって発見されました。それは6月5日、側には彼の遺書と空の睡眠薬のビンとが、ともに置かれていました。
旧会堂での元旦礼拝
着物までこうして見事に似合ってしまうんですから、やはり日本への宣教師として生まれついたのでしょう
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
第26回目は、日本に帰ったならば55歳頃には車椅子生活になるとの宣告を受けながらも帰国を決意し、宣教師としての召しを全うしようとの決意に至った箇所です。まさに宣教師の鏡ですね。
不滅の働き
予定されていた私の12月の集会はキャンセルとなり、カルフォルニアに住む私の家族のもとに帰宅する準備をしました。
カリフォルニアまでの道すがら、私にはいくつか立ち寄るところがありました。
オクラホマにいる友人達とコロラドに住む親戚たちに日本での様子をお分かちしなくてはならないと考えました。
五年間の不在後、家族とともにクリスマスを過ごした今回は特別なものでした。
クリスマス休暇が終わってから、私はホロウェルさんのところへ訪ねに行きました。
彼女の信仰はしっかりしたものでして、最も困難と思える状況にあっても彼女は忠実な働きを何年間も続けていたのです。私は医師の診断を彼女に打ち明け 、それでも私が日本に帰国する決意は変わらないこと、またたといその期間は短くなったとしても最後の歳月は宣教地で過ごすことにしている事などを伝えました。
彼女はしっかりとした確信に満ちた姿勢で私に言ってくれました。
「主は病気の宣教師を必要とはなさいません。明日この件についてご一緒に主の御旨を訪ねてみることにしましょうよ」
そして忘れることのない月曜日の朝がやってきました。
「働きが終了するまでは私たちは不滅です」
朝日の光線が私の部屋に押し寄せてきたとき、この有名な言葉が私の心の中に入ってきました。
"ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。
神のさばきはなんと知り尽くしがたく、
神の道はなんと極めがたいことでしょう。"
(ローマ人への手紙 11章33節)
ホロウェルさんには熱心な祈りと神様の癒しに対する確信があり、ついには彼女は手を叩きながら、主への賛美と喜びを表してくれました。
私はその時、なんらセンセーショナルなものを感ることは無かったのでしたが、まもなく日に日に私の健康は回復していったのに気付くようになるのでした。
40年間の良い働き
私の不在の間、日本においては全てのことがかなり早く進んでいるように見えました。
石川県津幡には教会堂が建ち上りました。山形県酒田の四住居あるアパートメント建物は改築されてチャペルに、それだけではなく分級室そして牧師館にも生まれ変わり、その他にもいろいろな部屋がありました。
私が神様の私に対する御旨がどこにあるのかと考える機会の与えられる前に、すでに私の全ての荷物を酒田に送ろう、との話がなされていたのです。
ちょっと待ってください。
ただ部屋数が多いからと言うだけで、神様が私に備えた場所とは限らないでしょう。
確かに空気が綺麗な場所を、私の働き場として選ぶ必要はありました。
私は忙しくしていてほとんど休む間もなかったのですが、私の健康状態は回復しつつあり、驚い
たことに、ついにマーテンセン医師は私の体が完全であると宣言してくれたのでした。
これで日本に帰国後も、40年間は働くことが出来そうです。
完璧な健康診断書と神様への賛美に溢れながら、私にはたったひとつの願いがありました。
日本においては神様のためにだけ時間を過ごし、すべての時間を神様に使っていただきたい、との願いです。
日本に帰国して田舎伝道
しばしば苦い盃から甘い経験が出て来ること
小出先生は元気を失い、大江町での働きを続けられなくなりました。
代わって小野寺先生が、その働きを続けるために遣わされました。
この転任を私に知らせるお手紙をいただいてから、それにお答えする十分な時間はありませんでした。私は心の中では神様の御心が何であるかを確信しており、それはその地域で彼女と共に働くというものでした。
シェルホン先生は彼女のところまで行き、彼女のその気持ちを確かめられました。
彼女はこれに賛同してくれていると知った時、私の心は躍り上がるばかりでした。
その時、私はこの御言葉の意味を知ることが出来たのです。
"イエスは彼に答えられた。
「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」"
(ヨハネの福音書 13章7節)
日本に帰国する以前から、私の心の願いは、誰も顧みないような場所、そんな田舎で働きたいというものだったのです。
後に小出先生は脳卒中で倒れられて、彼の献身的な奥様と子供たちによるケアが常時必要な障害を負ってしまうのでした。
ずっと後日となって現在の大江町教会が新会堂を完成させた時、彼は特別仕様の障害者用バンに乗って大江町にまで再び来ることとなりました。
それは2000年11月11日、麗しく完成された新しい教会堂の献堂式の時であり、大江町教会の開拓者として喜びを分かち合ってくださいました。小出先生はお体に障害をもたれたかもしれませんが、そのスピリットおいてはそうではありません。燃える心を持って福音を語ることに情熱を燃やされているのは、当時も今も変わりはありません。
同時にその日は奇しくも、私の85歳の誕生日と重なりました。
大江町教会は私のために特大のバースデーケーキを用意され、ハッピー・バースデイを皆で合唱してくれたサプライズなりました。
このような小さな者が大江町教会の開拓時に関わらせていただいた事だけで光栄ですのに、そのことを教会の皆さんが覚えていて下さったとは、なんと喜ばしいことでしょう。
かつて私どもの関係者である一女性によって思い起こされた事ですが、私たち皆で小さなアパートに住んでいた時、小野寺先生が私と共に働くことの可能性について話されたことがありました。
それは多分、本気で考えてのことではなかったでしょうが、まさに実現を見たのですから予言的なものであったと言えます。
大江町左沢に引っ越して後に、小野寺先生と私が立て続けに刈り取った実は、神様が小出先生のためにと備えられたものであったはずなのだ、としばしば感じました。
彼が据えた働きの場所を全て維持することは、生優しいものではありませんでした。
宮宿、谷地、そして寒河江市での家庭集会など多岐に渡っていたのです。
困難な働きの現実を前に、何人かの牧師たちは、神様は山形を忘れられたのだ、なんて言う人もいましたが、決してそんな事があるはずはありません。
神に選ばれし山形県人
谷地からは幾人も、その生涯を神様に捧げる働き人らが起こされました。
メキシコ宣教師となられた阿部和子先生、酒田キリスト教会牧師の高橋富三先生です。
そして宮宿からは、横浜港南キリスト教会牧師夫人の石川紀和子先生、そして左沢から松阪キリスト教会を開拓し、牧師の渡辺貞雄先生などです。(牧師任命の教会名は2000年当時のものです)
1965年10月に私は左沢に引っ越して来ました。
一週間はいっぱいいっぱいのスケジュールで、ときには日曜日だけでも五回もの集会があったものです。
一日中人々は出入りしていました。さらに定期集会を宮宿、谷地、寒河江市に設けていました。生徒さんたちのグループは人数も成長していました。日曜学校が特に伸びていたのですが、そこには双子のグループが二組も三組もいたりしました。
小野寺先生のご性格は私とはまるで違うものでした。
それはまるで昼と夜の違いです。私は早起きが得意な一方で彼女は夜型です。
彼女はどこかに出かける直前まで準備もしないままダラダラしているのですが、私は全て準備を終えてからゆっくりとしたいタイプなのです。
都会にあっては、バスでも電車でも数分後に次の便がありますが、左沢線の終着駅の町ではそのようにはいきません。
しかしながら主の働きにあたっては、私たちの心はまるで一つにされていました。
私たち二人にとって、生きるための目的はたった一つのものだからです。
私たち互いの性格の違いが、その働きの妨げとなるようなことはなかったのです。
ときに私たちは忙しい余り霊的な調子を崩してしまって、お互いにギスギスとすることもありました。そんな時こそ主が私たちを互いに向き合わせて、互いの心を溶かし繋げて下さったのでした。
異動に伴う私の立場は変わったものの、いくつかの私の義務には変更はありません。
ミッショナリーチャレンジャーの原稿や宣教師レポート、また会計報告の仕事などのため私はかなりの時間を川崎で過ごさねばなりませんでした。
米国から来られたパイプさんと言う方は、優れた説教者で、チャーチオブゴッド教会の間ではよく知られた伝道者でした。そればかりでなく、彼は自ら建設会社を所有する成功したビジネスマンでもありました。
彼は大変広い心をお持ちの人です。
彼は私どもの働きを経済的に支援したり、自らの手を使って直接会堂建設に携わってくれたりもしました。
その建設仕事のために1966年一月に川崎に到着されてから六カ月間も滞在されたのです。
会堂のあちこちが新しくなり、こちらの牧師たちも、建築修繕作業についての多くを実践作業から学び取ることとなりました。
当所一階建てだった川崎教会が二階建ての会堂に変身を遂げたのも、彼によるものです。
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ